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scene8 江湖にくだる 

江湖にくだる・1


 このころ、楚漢の戦いは大きな局面を迎えていた。

 韓信は戦功大にして。その勢力も、楚漢と肩を並べるものとなっていた。

 項羽側もこれを黙っているわけはなく、韓信を味方に引き入れようとするも。昔冷遇されたことを理由に、にべもなく断られてしまった。

 また蒯通かいとうと言うものは、韓信に劉邦より独立することを薦めた。斉を制して、一大勢力を築いた韓信はその気になれば独立して、この大陸に三つ目の国を打ち立てることも出来た。

 しかし、韓信は劉邦への恩義を忘れずあくまでその臣下でいようとした。蒯通は後難をおそれ、発狂したふりをして韓信のもとから離れた。後に劉邦に捕らえられながらも、その弁舌をもって、命をながらえた。が、自分に出来たことは、せいぜい自分の命を助けることだけであった、と歎いたという。

 ともあれ、韓信が北方の戦線を駆け巡っている間にも、項羽と劉邦の戦いは繰り広げられ。

 両雄、広武山こうぶざんという山にて陣を敷き、長い間にらみ合いを続けていた。

 その時のことである。

 軍師張良のもとに、思わぬ人物かかえってきた。

 智之である。

 智之は華山で屍魔たちに襲われるも命を助けられ、ほうほうの体でかえってきた。が、その旅路も散々たるもので、すっかり臆病者と成り果てた智之は、乞食となって、身を縮めて草葉の陰に隠れるようにして、長い月日をかけてようやくにして張良のもとに帰り着いたのであった。

 変わり果てた部下を目にして気の毒に思う以上に、がたがたと震えて歯を鳴らしながら物語る華山での出来事に、張良はただ唖然とするしかなかった。

 智之までが、貴志のように血迷ったことを言う。果たして屍魔など、ほんとうにあるのだろうか。任務をしくじり、そんなうそをでっち上げて弁明しているわけではあるまいか。

 それとも、まさかほんとうに血迷ってしまったのだろうか。

 張良は眉根をしかめて考えた。

 それから、智之は姿を消した。どこか静かに暮らせるところを求めて、旅立ったのであろう。

 ともあれ、華山に何かがあるのは間違いない。

 項羽のこともまだ片付いていないのに、軍を裂いて崋山に向けるのもどうかと思われ。かと言って捨て置けず。さてどうしたものか、と思ったとき。

 はっと思い当たることがあった。

 最近、剣士をひとり持て余してるが、どうしたらよかろうか、という書簡を韓信から受け取った。その剣士は腕は確かなのだが、軍隊において戦場働きをするにはいささか向いていない。かと言って、捨てるのももったいないし……。

 とういことであった。

「そうだ、そうしよう」

 何か思いついたらしく、張良はいそいそと何かを竹簡に書き(当時はまだ紙は発明されておらず、竹に字を書いていた)。使者にそれを持たせ韓信のもとに向かわせた。

 その竹簡を受け取った韓信は、源龍をただちに張良のもとに向かわせた。

 羅彩女も、貴志も、水朝優と麻離夷もついてゆく。

 源龍は、軍師張良が何かの極秘指令があって源龍たちを使いたがっている、と韓信に言われて張良のもとに向かったが、内心はなはだ面白くなかった。

 龍且を討ち取って韓信は喜ぶには喜んでくれたが、それ以降どうもよそよそしく、何か源龍を持て余しているようだ、と源龍も薄々は気付いていた。

 韓信は龍且を矢で射殺そうとしたが、源龍が先走って単騎龍且に戦いを挑んでいった。幸い討ち取ったからよかったものの、集団線である戦争においてひとり抜け駆けするものは、やがて何かで足を引っ張ってしまうこともありえる。韓信は極秘指令にかこつけて、そんな源龍を態よく手放したのかもしれない。が、源龍も今さらつべこべ言わず、わだかまりををかかえながらも韓信のもとを離れていった。

 後味の悪い離れ方ではあるが、龍且を討って恩返しはしたのだ。未練がましく居残ろうとすれば、かえって見苦しいだけだ。

 源龍は、韓信との最後の別れを思い浮かべる。

 出立の前夜、一同を呼び寄せささやかな酒宴をもよおし。そこで、張良のもとへゆくことを聞かされた。

「張良どのが、お前さんの剣の腕を必要としている。ひとつ、頼まれてくれないか?」

「あ、ああ。韓信さんが言うなら……」

 我が強く聞かん坊なところのある源龍だが、韓信には全然頭があがらない。しかしそれでも、よそへ行かされることに、驚きと戸惑いは隠せなかった。

「なんだ、しけた顔をして。本陣の大軍師さまじきじきの御命がくだるのだぞ。これほど栄誉なこともないだろう」

 酒を飲みながら、韓信はからからと笑っていたが。酒でも喉は潤わないのか、その笑いはどこかかわいた響きがあった。

 他の連中は、黙ってことのなりゆきを見守っている。

 ふと、視線を感じた。

 韓信の腹心、蒯通だった。じっと、源龍を見ている。別に蒯通のことは好きでも嫌いでもなく、なんとも思っていなかったが、その視線はどこか自分に対しよくない感情を含んでいそうだった。

(なんだ、こいつ)

 とすこしむっとしたが、無視して酒を飲み肉を口に放り込んで、むしゃむしゃと食って。また酒を飲み、それを干すと侍女が酒を注いだ。このとき、侍女と源龍に向かって、羅彩女から痛いほどの視線が飛んだが、源龍はとんと無頓着だ。侍女はひどく怖がっていたが。

「だけど、俺は……」

「わかっているさ。だが、漢はお前を必要としている。俺の剣で、またひとつ手柄を立ててくれよ」

 江湖にくだることは、韓信にそんな理由で、だめだと言われたが。今この場でもそういわれた。初めは嬉しかったが、しばらくして、どこか首に縄をかけられたような気持ちになったのは、どうしてだろう。

「……。うん」

 返事をして、酒を一気に飲み干した。

 俺の剣で、とまで言われれば、いよいよ自我を通すことが出来なかった。

「そうか、そうか、引き受けてくれて嬉しいぞ。これで俺の顔も立つというものだ。わはは」

 韓信は、また乾いた笑いを立てて。たわむれに、酒を注ぐ侍女の尻を触った。源龍はそれを見て、目ん玉が飛び出しそうなほどの驚きを覚えた。韓信はその軍才に合わぬ、気さくな性格をしているし、時として下品なことも言うが。

 酔っても女に触れることはせず、なんだかんだで自分を律していたのに。

 侍女は、「きゃっ」とか細くも鈴の音のような可愛らしい声を出し、まんざらでもなさそうな顔をして足早に逃げてゆき。韓信もにこにこと逃げる侍女に笑いかける。

「今夜、気に入った女でも抱いていけよ。なんなら、さっきの侍女でも……」

「韓信さま、あまりはしたない真似は……」

 蒯通が静かにいさめる。韓信は苦笑し、わかってるよ、でも今夜は硬いことは言いっこなしだ、と答えた。が、源龍はすこし愛想笑いをし、侍女に目もくれない。

「いや、いい。出立が遅れるとまずいだろう」

「そうだな。源龍、お前は相変わらず生真面目だなあ」

 と、ははは、と笑った。今度は乾いた笑い声ではないが、どこか湿っぽさが含まれている。どうにも、韓信の様子がおかしい。

(気のせいだろうか)

 とは思うものの、源龍に笑顔を向けつつも視線は定まらず変にきょろきょろとしている。かと思うと、

「うーむ、いかんな、今夜は調子が悪い。もう酒に酔ったようだ。悪いが俺は先にあがらせてもらうよ」

 と額に手を当てて、引っ込んでしまった。源龍は呆気にとられて、後姿を見送るしかなかった。

 翌朝、韓信は見送りには来てくれなかった。変わりに蒯通が来た。

「韓信さまは、急用のため貴殿のお見送りができなくなってしまった。源龍どのには、くれぐれもよろしくと、そして詫びてくれ、とのとこでござる」

「わかりました。韓信どのには、くれぐれもよろしくとお伝えくだされ。……では、いってきます」

 と、広武山へと旅立った。それを蒯通は、笑顔で見送っていた。

 急用はほんとだろうか。わからない。しかし、仕事師の韓信なら源龍らを見送るくらいの時間ならすぐに空けられそうなものだが。やはり、どこか持て余されているように思えてならなかった。

 そもそも、どうして韓信は源龍を持て余したのだろう。源龍は韓信のもとを去って、江湖にくだろうと思っていたのに。

 言うまでもない、龍且を討ち取るほどの剛の者を野に放ち、もしそれが何らかの形で漢に仇なすようなことがあれば、今までの労苦が無に帰していまいかねない。昨日の敵は今日の友になり、またその反対もあることなど、人の世では当たり前にあることで。それが何よりも一番恐れるのであった。

 ちなみに、韓信に源龍を手放さぬよう、また張良のもとにゆかせるよう進言したのは、蒯通であった。

「あれを、決してお放しになってはなりませぬ」

 かといって、戦働きをさせるには不向きなきらいもあるし、どうするのか、といえば。

「飼い殺しになされればよろしいかと」

 その言葉に韓信は眉をしかめる。いくらなんでも、それはむごいのではないか。

「天駆ける龍を、わざわざ池にひそませるのは、それはそれで勿体無い。なにより、あいつは俺を信じてくれている」

「左様。源龍は斉王をお信じになっております」

 蒯通は韓信を斉王と呼んだ。蒯通は、しきりに韓信に王となるよう進言していた。が、当の韓信は乗り気ではなかった。

「斉王か、それはやめてくれ」

「いいえ、あなたは王と名乗るに相応しいお方でおわします。なぜに王とおなり遊ばされぬ」

「いや、今はその話じゃない。源龍をどうするかだ」

 蒯通は密かに眉をしかめた。韓信も、なんだかんだで源龍を信じている。何せ、剣を譲り渡したのだから。そして源龍はその剣をもって、大功を立てたのだ。信をもって信に応える。これほど理想的な人間関係があろうか。

 悲しいのは、源龍は江湖の一剣客以上のものにはなれないことであった。どういう運命の巡り会わせなのであろうか、それがなまじ天下国家にかかわり、大功を立てたために、韓信は源龍をもてあますこととなった。源龍は身の置き場に不自由することとなった。

 蒯通も、その剣技を惜しみつつ、これからのことを思えば源龍を今のうちに何とかしなければならないと考えた。

 また、王になれという進言を韓信がわずらわしく思うあまり、源龍にそれを漏らし暗殺でも頼んでしまえば大変なことになる。これも蒯通の恐れることであった。

 前々から、蒯通は源龍と馬の合わぬことを感じていた。蒯通も源龍と同じく、韓信に惚れ込み、信じている。身一つで江湖をさすらい、韓信とめぐり合いその軍才を見出したとき。

(我が道を得たり)

 と歓喜が湧いた。韓信こそ、蒯通が弁士として道を切り開くための最適な材料であった。

 蒯通は剣こそ振るえないものの、弁士として己のもちうる能力を政治や外交において存分に発揮してきた。弁士とは、政治参謀のようなものだった。

 そのために犠牲もあった。だが、蒯通は立ち止まらずひたすら弁士としての己の生き様を貫こうとした。それは、あたかも源龍が己の生き様を剣に込めたのと同じように。

 ともに韓信を通じて己の生き様を歩んでいたのだが、いかんせん、得物が、求めるものが違うために同じ道を歩むことが許されなかった。

 その果てにあるのは、どちらかがどちらかを消し去ることであった。弁士蒯通は、韓信の心を独り占めにしようと思うようになっていた。もし韓信の心が他に隔たるようなことがあれば、弁士として己の才能を揮うことが難しくなってくる。

 韓信に必要と思われてこそ、蒯通が蒯通でいられるのだ。そのために、源龍は邪魔な存在となっていた。

 そういうとき、人の舌は剣に勝るものであった。

「されば、軍師張良どののもとにお預けあれば、よきように取り計らってくれるのではないかと」

「張良どのか。そうだな、かのお方ならば悪いようにはしないだろう」

 韓信は進言にあっさり乗った。してやったり、と蒯通は心の中で喜び、源龍に舌を出した。

(あの武骨者、おそらく張良とは馬が合うまい)

 やがては、自滅へと追い込まれるだろう。源龍は韓信のもとで力を発揮できる人間だが、それ以外の人間のもとでは違和感を感じることだろう。

 というのが、蒯通の算段であった。

 こうして、源龍は張良のもとへゆくこととなったが。韓信が見送りに来なかったのも、蒯通の進言によるものだった。

「源龍どのを惜しむお気持ちは、よくわかります。しかし、ここで会えば未練が増して、足止めでもすればかえって龍を淵に潜ませるようなもの。惜しめばこそ、ここで未練を断ち切るのでございます。それが、お二人のためでございます」

 韓信はうなずいて、自室にこもった。

「源龍、すまぬ」

 と、ぽそっとつぶやいたのは、源龍も蒯通も知らない。


江湖にくだる・2


 しかし、極秘指令とはなんであろう。話は張良がするということだが。

 貴志は旅をしながら、今さらのように張良のもとに帰ることがためらわれた。屍魔や香澄のことを話して、それでおかしくなったと思われて、クビにされて。

 かと言っても、張良の極秘指令というものが気になって仕方がない。第六感か、どうも屍魔のことが頭をよぎっていた。

 羅彩女は源龍にべったりで、源龍の行くところ行くところについてゆく。が、べた惚れなのか何か含んでいるのか、よくわからなかった。

 水朝優と麻離夷は、源龍たちを頼りにしているから離れるわけにはいかなかった。それでも、こちらも第六感か、しきりと華山のことが頭をよぎった。

 まさか、張良は華山のこと調べ上げてたのであろうか。そこで、源龍を使おうと言うのであろうか。もしそうなら、またとない絶好の機会ではないか。と胸に、思わず淡いと苦笑いをする期待を抱いていたが。

 まさか、その通り華山に赴けと張良から言われるとは思いもせず。歓喜と驚きを同時に覚えたのであった。

 張良に会ったのは源龍ひとりであった。あとは供のものとして、別室に控えていた。貴志はというと、張良のみならず見知った顔に会うのもはばかり身を隠していた。

「……。華山へ?」

「左様。そなたの剣の腕を見込んで言う、是非華山に赴いてもらいたい」

 聞けば、華山にて不穏な勢力がこの天下を伺っているという。密偵として江湖にくだり、その真相を確かめて、討ち取って来てほしい。と源龍を手厚く迎えた張良は、礼儀正しく華山行きの指令を伝えた。

「不穏なもの、といいますと。楚でござるか」

「否とよ。笑ってくれるな。人外の化け物よ」

「人外の化け物?」

 張良は語るも馬鹿馬鹿しいとばかりに苦笑いをする。

「左様。趙高は生きて、屍魔を飼ってこの天下を伺っておるそうな。しかも、背に羽のあるものや腕が六本のものだの、仙女のような見目麗しき少女もあるそうな」 

 源龍の眉が、ぴくりと動いた。

 屍魔、少女、あのときの、香澄と初めて会ったときのことが脳裏をよぎる。

 水朝優の語っていたこととも一致する。だが、香澄は項羽と一緒になったのではないか。それを思えば華山にはいなさそうだが、背に羽だの腕が六本だの、水朝優から聞いたときには馬鹿馬鹿しくまともに取り合わなかったことが、華山にはほんとうにあるというのなら、行ってみる価値はあるのだろうか?

 しかし、香澄と関係のあることなら、行かねばなるまい。

 羽だの六本腕だのも、にわかには信じられないが、もしそれがほんとうにあるとすれば、股夫剣で叩き斬ってやるまでだ。

 張良は源龍の目が鋭くなった様を見、

「行ってくれるか。もしこれをこなせば、褒美は思いのままぞ」

 と満足したように言った。

 こうして、江湖にくだることとなった源龍は、項羽軍を前にして、広武山を出て華山に向かわねばならないことに、やはり一抹の未練を感じずにはいられなかった。

 思えば自分が楚を離れて戦乱の最中にもかかわらず、各地を彷徨いながら武者修行に明け暮れたのは、剣士として項羽と戦うためではなかったのか。

 なのに、己の志とは別な方向へと向かっている今の現実に、戸惑いを隠せなかった。韓信は源龍を江湖の一剣客と見たが、それもまんざらではなかったようだった。なぜ韓信が源龍を持て余したかと言うことも、薄々気付きながら、その理由までは気付けなかった。

 ようは、世間知らずであった。剣一本で、覇王と号するほどの男と戦おうなど、これほどな世間知らずもないであろう

 それに、香澄のこともあった。

 それについては、水朝優と麻離夷が、張良の従者からある話を聞き、たいそう胆を飛ばしたものであった。

 この広武山で項羽が劉邦に一騎打ちを申し出たという。

 いわく、

「天下乱れるは我らが罪なり。ここは我らで雌雄を決し、早々にこの争乱を終わらせようではないか」

 と、愛馬騅に打ち跨り大薙刀を携え、陣前に進み出た。

 それに対し劉邦は、

「否とよ。罪は汝にあり、我になし。漢王たるもの、なんで罪人と刃を交えるいわれやある」

 とこれをにべもなく一蹴したのであった。

 項羽の激怒推して知るべしであった。劉邦を臆病者と散々罵り、あくまでも対決を望んだ。そのかたわらに、いつの間にいたのかひとりの少女が剣をたずさえ少し後ろに控えていたかと思うと、そよ風のようにすうと前に進み出て、項羽に一礼すると。

「漢ごときにどうして項王のお手を煩わせることなどありましょう。ここは、虞にお任せを」

 と言う。

 これには、今度は漢側が怒りを覚え、腕に覚えのあるものが劉邦の許しを得て打って出た。

 虞と名乗った少女はひらりと風のように舞うや、剣光一閃とともに北斗七星も光りを放って、血煙も舞った。

 漢兵は敢えなくも、討たれてしまい、そのかばねは馬上より転がり落ち。楚からは喚声があがり、漢からは驚愕のどよめきが起こる。

「差し出がましいまねをし、この罪万死に値します。どうかお許しを」

 少女はこともなげに項羽に跪き。項羽はこれを責めず、誇らしげに頷き虞の武勇をたたえた。

 その虞という少女こそ、まさしく香澄であった。

 劉邦は少女がいとも簡単に屈強の漢兵を討ち取ったことに胆をつぶした。項羽に愛妾がいることは知っていたが、それもまた武勇に長けた女傑であろうとは。

 項羽の豪傑好きは知っていたが、まさかはべらす女までがそうとは。

(やつは、まさしく武神の化身じゃわい)

 これではまともにやりあって、勝てるわけがない。歯噛みしながらも、

「そこもとの武勇はよくわかった。ならば、我らは智でお相手しよう」

 といって一騎打ちの話を打ち切るしかなかった。

 香澄も項羽とともに、この広武山に来ているのだ。水朝優と麻離夷の驚きも、ひとかたならぬものがあった。

 一騎打ちの話は、これで終わり。以後少女は後陣に下がって姿を見せず。両軍膠着状態が続き今に至っているが、虞という少女のことは漢軍の間でもたいそうな評判となり、項羽には仙女がついているのか、など噂に上らぬ日はなかったという。

 それ以上に、香澄が自らを虞と名乗っていたことがさらにふたりを驚かせていた。項羽が望んだことなのか、名まで改めようなど。これは、屍魔のはずの香澄が、ふたりの想定したことよりはるかに外れた存在であることを物語っていた。

 死より蘇った屍魔、香澄の肉体には、いったいどのような魂が宿っているのであろう。それは、香澄にもわからないであろう。

 秀麗にしてどこか冷めたその白面の内側では、ままならぬ己の魂に苦しんでいるのであろうか。項羽が香澄を虞と呼んだときの、その叫び、苦しむ魂に響くものがあったのだろか。

 だけどほんとうは、香澄は死んでいなければならない。

(結局は、邪法をもって命をもてあそんでしまったのか)

 水朝優と麻離夷は言い知れぬ罪悪感に襲われ、頭を抱えた。

 手の届く距離に、香澄がいる。

 しかし水朝優は眉をしかめながらも、

「あいつは、屍に戻るべきだ」

 と源龍とともに華山に赴き、趙高とともにつくり上げた屍魔どもを、自らの手で葬る意を決した。

 源龍も香澄が楚軍にいることを聞き、すぐにでも楚軍に駆けつけたい衝動に駆られた。しかし、単騎楚軍に討ち入ったところで、何が出来るだろう。

(なんで、こんなことになる)

 見えない力にあやつられているような無気力感さえ覚え。望む対決を果たせず、鬱屈した思いを抱えながら、華山に向かうしかなかった。

 その前に、麻離夷は笛をふところより取り出し、楚軍にも聞こえるように笛を奏ではじめた。この笛には屍魔をあやつる効力はないが、香澄に届けとばかりに力の限り吹き奏で。それは漢軍を避け身を隠していた貴志にも聞こえた。

 貴志もまた笛の音に導かれるようにして、笛を吹き奏で始める。

 ふたつの笛の音は息もぴったりに交わりあい、楚漢両軍の将兵の耳朶に沁み込むように流れてゆく。それは柔にして剛、静にして動、涼やかなる調べでありながら心熱くもさせ。春夏秋冬、四季それぞれの風に優しく肌を撫でられるような風情があった。

 突然の笛の音に、楚漢の将兵は驚いたものの、心洗われるようなその調べに皆思わず聞き入る。

「ほう、これは風流な」

 丁度香澄とともにいた項羽は笛の音を耳にし、碗の注がれた酒を飲むのも忘れて笛の音に聞き入っていた。

 猛勇をもって鳴る項羽であったが、少年のように感受性高く、風流を解する心を持っていた。

 香澄もまた、項羽とともに笛の音に聞き入っていた。その調べが、麻離夷によるものだとはすぐに察しが着いた。が、もうひとつ、麻離夷の笛の音に交わる音律は誰の手によるものなのか、貴志が麻離夷に笛の手ほどきを受けたことを知らないので、さすがの香澄もわからない。

(華山へ)

 笛の音はまるでそう言っているようだった。

「項羽さま」

 笛の音の調べに乗って、香澄の声が項羽の耳を打った。その声音には、今まで聞いたことのないような、何かが感じられた。

 なんだろう、と思いながらも香澄、いや虞を振り返り。

「なんだ?」

 と問えば。

「申し訳ありませんが、しばらくの間お暇をいただけないでしょうか」

 香澄は跪き、項羽に暇を乞うた。これには項羽もいささか驚き、

「いかがしたのか。もう、わしが嫌いになったのか」

 と悲しそうな眼差しを虞に送る。

「いいえ、どうして虞が項羽さまを嫌うことがありましょう。ほんとうなら、片時とておそばを離れたくはないというのに」

「それは、わかっている。だからこそ、今もわしのそばにいてくれるのだな」

「はい。ですが……」

「ですが……、なんだ?」

「ふと、故郷が恋しくなり。しばしの間、故郷で昔を懐かしみたく存じます」

「故郷……」

 戦はいつ終わるとも知れず、項羽もふるさとの土をいつ踏めるのかわからない。楚漢の争い久しく、いまの広武山に陣取ってからも長い月日が経った。時折項羽とて、少年のように故郷が恋しくなることもあった。

 いわんや、それに付き従う将兵たちもまた、故郷を懐かしがっているのは想像に難くない。ことに女の身ならば、なおさらであろう。項羽自身、時折に、

(米が食いたい)

 と思うことさえあった。楚は大陸でも米をよく産し、主食にしていた。

 笛の音。それは聞くものの心に、何かを訴える。その何かとは、望郷の念なのかもしれない。と、項羽は思った。

 ちなみに、項羽と香澄の間に、肉体的なつながりはなかった。項羽の中の少年が、香澄に内在する儚さを敏感に感じ取り。守る、というよりも己の手でそれを壊してしまうことを恐れた。無論彼女が屍魔であることは知らず。

 虞こと、香澄の前では、項羽は十五の少年でしかなかった。

 今、目の前から、虞が立ち去ろうとしている。その恐れと哀しみを、香澄は機敏に察し、優しく微笑んだ。

 お互いの瞳に、それぞれの姿を映し出す。

「よかろう」

 項羽は、虞の帰郷をゆるした。

 きっと必ず、己のもとに帰ってきてくれると信じて。


江湖にくだる・3


 空は晴れている。

 雲は思い思いの姿かたちになって青空を泳ぐ。瞳にその雲を映し出す。

 久方ぶりの江湖行。一行はそよぐ風にすら追い越されながら、馬をぱかぱかと歩かせてゆく。一見乱世を避けて、のんびりしているようだった。

 が、心は楽しまず。

 源龍は那二零の馬上、うつろに空を、雲を見上げて、華山へ、ゆっくりと旅をしている。

(このまま、逃げてしまおうか)

 密命など、放っておいて、もとの江湖の一剣客にもどろうか。そう何度思ったことか。だが、それを思うたびに、股夫剣がずしりと重くなる。

 ここで逃げれば、韓信の顔をつぶしてしまう。他は知らず、韓信にだけは勝てない源龍であった。

 江湖にくだる、といっても密命を帯びての建前のもので。実際は漢の刺客としたものだ。

 香澄と事を構えた以上、華山の趙高らとも戦うことになるのだろうが。それを、漢の命令で遂行することになろうとは、夢にも思っていなかった。

 そんな華山への旅の途中で、水朝優が、

「しけた顔をしてやがる」

 と源龍に言う。むっとしたものの、黙って那二零を歩かせる。水朝優は舌打ちし、眉をひそめる。彼にすれば、我の強く聞かん坊な男がしょぼくれ狼になってしまっているのが無様に思えて、つい余計な一言でも言ってやりたくなるのかもしれない。

 ところで、本来は羅彩女の愛馬である那二零。龍且との戦いで羅彩女は愛馬を源龍に渡したのだが、それ以来ずっとこの組み合わせだ。羅彩女はかえせとも何も言わないどころか。

「ずっと乗ってな」

 と言う。これはどうしたことであろうか。

 龍且との戦いで見せたあの人馬一体ぶり。羅彩女は、自分よりも源龍の方が那二零の本領を発揮させられると踏んだわけだが。

(あいつ、韓信に剣をもらったから頭が上がらないのか。なら、あたしもそれにならって……)

 と羅彩女は考えていた、など源龍は知らない。源龍は剣以外何も知らない男であった。まさか、

(自分より強い男の女になる)

 と羅彩女が考えていたなど、この建前上の江湖行と同じように、夢にも思わないでいた。それに加え、羅彩女自身、自らの気持ちを相手に伝えることをしない、素直でない性質なのでなおさら気付かない。

 陽の光を受けながら、羅彩女は源龍のこの鈍感さにじらされてたまらない思いでいた。あのとき、抵抗をやめて身を任せたのは、それがあったからなのだが。当の源龍は知る由もなく、憎まれるのを承知で沸きすぎる血をおさめただけだった。

 愛憎半ばする眼差しをおくるのは、そういうわけだった。

「今宵は何の夕べぞ……」 

 羅彩女はおもむろに、うたをうたいはじめた。一同驚いて羅彩女を見る。源龍は特にぎょっとしているようだ。

(な、なんだどうしたってんだ? いきなり越女のうたなんて)

 羅彩女は周囲がおどろくのもかまわず、うたった。源龍は、呆気にとられる思いで、「越女のうた」を聴いている。

「今日は何の日か、王子と同舟を得る……」

 これは昔から楚で歌われているうたで、その昔、舟に乗った楚の王子に恋をしてしまった舟漕ぎの若い娘の切ない恋心をうたわれている。無論、源龍は楚生まれなのでこのうたを知っている。

 突然恋の歌をうたいだした羅彩女に、貴志と麻離夷は知らずに互いを意識し。水朝優は、眉をしかめてそっぽを向き聞こえていないふりをする。

「我が心君は知らず、我が心君は知らず」

 張りのある、よく通る声であった。聴いていて、知らず心のひだに入り込んできそうだった。源龍は呆気にとられたまま、羅彩女はうたいおえると、それをきっとにらみつける。

(羅彩女のやつ、まさか……)

 いくら鈍い源龍でも、さすがに少しは察した。

 が、今までそういう経験のないために、どう応えればよいのかわからなかった。

 那二零のことは感謝しているが、どうして? という思いもあって、よそよそしくせざるを得なかったわけだが。

(というか、それならそうと、なんで言わない?)

 乗り手の気持ちを察したか、那二零は一歩後ずさり。迫るように、羅彩女の乗る馬は一歩進んだ。

 その時、こほん、という咳払いの声が聞こえた。

「華山にはいつ着くんだろうな」

 わざとらしく大きな声で、貴志と麻離夷に言う水朝優。ちらりと、源龍と羅彩女を見やる。

(今はそれどころじゃない)

 乳繰り合いは、事が終わってからにしろ。という気持ちを含んで、鋭い視線を送る。水朝優とて伊達に秦に仕えて、大月の国まで旅をしていたわけではなく。いざとなれば、自ら刃を振るって、幾たびかの修羅場もくぐってきたのだ。

 刺すような視線は、百戦を経た源龍と羅彩女にも鋭いものと感じられた。

 やれやれと言いたげに源龍はため息をつき、

「羅彩女、お前には那二零を譲ってもらって感謝しているよ」

 と言うと、ぷっと頬を膨らませた羅彩女は、

「なら、その証しを見せなよ」

 と言う。

 証し、と言われて戸惑った源龍であったが、羅彩女は畳み掛けるように言う。

「あたしの股をくぐりな」

「な、なに」

「感謝しているってなら、その証しに股をくぐりなよ。でなきゃ、那二零を叩き殺すよ」

「お前、本気かっ!」

 源龍はたまげて、素っ頓狂な声を出し。聞いていた水朝優と貴志、麻離夷は呆気にとられ。羅彩女はおもむろに難鞭を手にして、ぶうん、とひと振り唸りを上げさせる。

「ふんっ。韓信から剣をもらってあんなにぺこぺこしているのが、あたしから馬を譲られてもむっつり済ませて、何様のつもりだい?」

 しばらく沈思していた源龍であったが、くっ、と歯を食いしばると。

「……。わかった、わかった。言うとおりにするから、癇癪を起こすなよ」

 と言って那二零から降りて、股夫剣を羅彩女に手渡す。

「俺はともかく、この剣は一度股をくぐっているからな」

 馬上で剣を受け取ると、こくりと頷いて羅彩女は下馬し。視線も鋭く、脚を開く。源龍はぶるぶる震えつつも、身をかがめる。股をくぐるということは、屈辱を意味する。例えそれが女の股であろうが、別に変な趣味もなく、剣士として生きる源龍にしてみれば、まさにこれほどの屈辱はない。しかも剣を預けている。もし羅彩女がその気になれば、股夫剣で源龍の尻を突くなど造作もない。

(ままよ)

 源龍は四つん這いになって、羅彩女の股をくぐった。これで、自分も韓信と同じ「股夫」となったわけである。が、それが女の股となれば、当時の女性観から見れば男の股をくぐる以上に屈辱的なことであった。

 周囲はぽかんとするあまり、言葉もない。

「ふん、まあ、よしとしてやるよ」

 羅彩女はつんつんと突くような言い草で、馬に乗り、股夫剣を源龍に投げてよこした。

 剣を受け取ると、無言で源龍は那二零に乗った。

 誰一人言葉を発せず、今が乱世であると思えぬほど周囲が静まり返った中を、一同は華山目指し黙々と旅を続けた。

 それよりも、源龍のこの様はどうであろう。

 先が思いやられるというものだった。


scene8 江湖にくだる 了

scene9 死闘 に続く



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