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scene6 遠征

遠征・1


 時はさかのぼる。

 楚の都、彭城が項羽により奪還されたころのこと。

 項羽は劉邦軍を追い払い、意気揚々と凱旋した。そのとき、女を連れていた。人は、あれは誰だろう、と噂しあった。

 紫の衣をまとい、目の覚めるような美しい娘であったが。腰には、剣。その剣であの乱戦の中、うたを詠いながら剣を舞わせていたことは、幾人もの兵たちも目にしている。そんな娘を、項羽は連れて城に凱旋したのだ。

(どこの馬の骨ともつかぬ娘を、気がお触れ遊ばされたか)

 と心配するものもいる。だが当の項羽は意に介せず、まるで新婚旅行から帰ってきたかのように、娘と笑みをかわしていた。

 だが、城の惨状にはひどく心を痛め。それとともに、劉邦への復讐心はますます燃え上がった。

 軍議をし、兵をまとめ、来るべき劉邦との戦いに備えてその夜はやすませ。自身は奥の間に控えさせていた香澄に、酒をつがせながら、物語りに興じていた。城の惨状に心も痛むが、香澄への興味は尽きず溢れる一方で。知らずに、虞よ、虞よ、とつぶやいていた自分にさえ気付かなかった。

 香澄は侍女や召使いの整えたささやかな酒肴のよそおいとともに、項羽を待っていた。さすがに、今は七星剣は佩いておらず。侍女に預け、奥に仕舞っている。

 項羽はそれを見て、小躍りしたくなるような思いに駆られるとともに、成り行きでつれてきたこの娘の名さえまだ知らぬことに、今になって気付いた。

「そなた、名は何という」 

「あなたさまは、最初わたくしを、何と呼ばれました」

「虞、と呼んだ。昔の、初恋のひとに似ていたから」

「それならば、わたくしは、虞でございます」

 項羽は、杯を持つ手を動かそうとして、止めた。燭台の灯火が、夜闇から、ぽっと香澄の白面をすくい出し。そのあたたかな笑みを、じっと見つめる。 

「俺をからかわないでくれ、気恥ずかしくなる。本当の名があろう。それを名乗るがよい」

 顔を赤らめ、それを夜闇に隠し。項羽は照れ隠しに香澄の注いだ酒を一気に飲み干し。またつがせる。

 酒をつぎ終え、香澄はくすりと笑った。まるで気の小さい弟をからかう姉のように。だが、その眼差しは母親のようにあたたかであった。

「いいえ」

 と、首を横に振る。なぜ、と項羽が問おうとしたが。

「その恋心の前に、本当の名など何になりましょう。あなたさまがわたくしを虞と呼ばれるのならば、わたくしは虞でございます。どうか、ご遠慮なく虞とお呼びくださいまし」

 この言葉に項羽はいたく感激し、いまにも泣き出さんがばかりに、

「そうか……」

 と、ぐっと言葉を飲み込み。酒をあおいだ。それから、はっとするように。

「そういえば、そなたあの乱戦の中で剣を舞わせながらうたを詠っていたであろう。それを、もう一度ここでしてくれまいか」

 と言った。

「ここで、でございますか」

「そうだ。あの剣で、剣舞も見せてほしい。虞よ、このとおりだ」

 と頭まで下げる。

「でも、よろしいのでしょうか」

 虞こと、香澄はやや戸惑いを見せた様子だった。仮にも、項羽は楚の王である。それが成り行きで項羽とこのひとときをともにして、あまつさえ真剣でもって剣舞をするなど。もし香澄が何らかの危害をくわえようとすれば、造作もなさそうなのに。

「心配せずとも、今宵は鴻門こうもんの会ではない」

 戸惑う香澄をなだめるように、項羽は優しく笑った。鴻門とは、かつて酒宴での余興の剣舞をもって劉邦暗殺を謀った、後の世にその逸話語り継がれる鴻門の会に由来する。要するに、はかりごとなど度外視している、ということだった。そこまで、項羽は会って間もない香澄を信用しきっていた。

「されば」

 と香澄が言うと、項羽は侍女に命じてかの七星剣を持ってこさせた。剣身に紫の珠が北斗七星の配列でうめこまれている。項羽は目を瞠って剣を見た。

 剣のつくりもさることながら、剣身にうめこまれた北斗七星。灯火ほのかな奥の間で見れば、北斗七星がまさに煌いて(きらめいて)見え。知らず知らずのうちに、宇宙に吸い込まれるような錯覚さえ覚え。

「素晴らしい」

 と剣をたたえた。

「もったいないお言葉でございます」

 七星剣を手に、香澄は一礼し。ゆるりと身をまわせば、袖はそよ風に乗ったかのようにひらめいて。北斗七星は輝き、夜闇の中、踊りだす。


 四方在喊声廻響

 剣飄舞

 北斗血風閃亮

 這是七星剣

 但是七星不眺望我

 七星求君

 七星求君

 

 ……


 灯火ほのかなほの暗い奥の間で、香澄の歌声がかろやかに、優しく響いて流れ。その流れに乗るように、北斗も舞った。

 項羽は恍惚とそれを眺めていた。その顔は、虞に恋した十五の少年に戻っていた。

 それを見つめる瞳。

 いつの間にか、蛾が一匹奥の間に紛れ込み。香澄と項羽のそばでぱたぱたと羽ばたいている。

 気付いた侍女は追い払いたかったが、今虞が項羽に剣舞を披露している最中に下手に動くことは出来ず、どうかどこぞへ飛び去ってほしいと祈るより他なかった。

 やがて剣舞が終わり、

「お粗末さまでした」

 と香澄がうやうやしく一礼をするときに、侍女の祈り通じたか、どこぞへと飛び去って。蛾は、外に出ると大空を、満月を目指し懸命に羽をはばたかせる。

 その満月を背に、蛾を待つ大鳥が一羽。いやそれは大鳥ではなく、翼を持った人だった。これなん華山三傑のひとり、ヤクシャであった。

 ヤクシャは蛾を見ると急降下し、その羽をつまむと触覚を額に押し付ける。すると、脳裏に蛾が見てきた景色が浮かび上がった。

「……」

 じっと目を閉じ脳裏に浮かぶものを眺めていたが。

「首尾は上々」

 というと蛾を解き放して、自身は西の空目指して飛んでゆく。飛んでゆきながら、夜空の北斗七星をじっと眺め、北斗とともに輝く輔星も目を凝らして眺めた。

「死んでいるのに、見える。ふん、良く出来たものだ」


遠征・2


 ヤクシャが夜空を羽ばたいて華山を目指しているころ。趙高はかの洞窟にこもり、満面に汗をしたたらせて、あえいでいた。

 洞窟の中には、広大な空洞があり、その中央に拳大の水晶球がまるで皇帝のように台座に鎮座して、飾られていた。これこそが、反魂玉であった。反魂玉は壁際の燭台の灯火すら飲み込むほどの光りを妖しく放ち、周囲を照らす。空洞は人の手によって床は平らにされ、空洞に並び立つ石柱もまた研磨されて反魂玉の光をうけ鈍い光を放って。洞窟の中にありながら、さながら宮殿の様相を呈していた。

 中央の反魂玉にひざまずくようにかがんで、汗を床に落としながら、息をあえがせている。

(しくじった)

 ふと顔を上げると、首のない屍魔が仁王立ちしていたのが、力なくどさりと崩れ落ち。ぴくりとも動かない。 

 すると、配下の者が息も絶え絶えに、

「大変でございます、屍魔どもが……」

 奥から不気味な叫び声がする。この洞窟にはここのほかに数箇所の広大な空洞がある、その別の空洞にかくまっている屍魔たちの叫び声であった。あのアスラの咆哮も聞こえる。

「屍魔どもが暴れておりまする」

 趙高は忌々しそうに舌打ちし、

「邪魔をするな」

 と一喝して配下の者を追い出し、汗をぬぐい、反魂玉に向かってなにやらつぶやきはじめた。それは『活死自在経』に書かれた経典を読経しているのであった。

 最初大月氏の言葉で書かれたものを、艱難辛苦の末に漢語に訳し、研鑽を重ねようやく死人をよみがえらせる術を体得したはずであったが。あにはからんや、所詮は人の身の趙高、三傑をつくり上げそれにまた一傑をくわえて四天王にしようとした矢先、焦りから不完全な屍魔をつくり上げてしまった。

 刑天とは、中国の神話上の帝王、黄帝こうていと争うも敗れて、頭を切り落とされて埋葬されたのが甦って、乳首を目に、へそを口にし、盾と大きい斧を振り回し、黄帝に復讐をしたという神話上の鬼神である。

 経によってその刑天をつくったつもりが、どこでどうしくじったのか、完成にいたらず、屍にかえってしまった。

 また奥から叫び声が聞こえた。アスラのものだ。叫び声ののちに、何かが潰れる鈍い音も聞こえると、アスラが屍魔たちを食い殺している、狂気の叫びが轟いた。

 趙高は読経をやめ、目を硬く閉じて、満身をひどく震わせた。

「我、誤てり。ああ、夢よ再びの思いにとらわれ、いかんともしがたい駄物をつくってしまった」

 そればかりか、反魂玉は不気味な共鳴音を響かせて屍魔たちを狂わせて、統制を乱し、共食いをさせている。

 刑天が出来上がれば、華山をくだり、屍魔の軍勢をもって地上を支配するはずであった。趙高は己の愚をさとった。そして学んだ。覇業に焦りは禁物であることを。迅速と焦ることは、似て非なるものであるということを。

「龍が淵に潜むは何のため」

 ぽそっと、つぶやいた。

「我よ龍となれ、宦官となって人ならぬ身となりしも、龍と生まれ変わって、天下に覇を唱えるのだ」

 去勢され子孫を残せない宦官は、人として扱われなかった。その屈辱感を、趙高はいやというほど味わってきた。その屈辱感を糧にして、己の中に想像を絶する魔物を育て上げた。だがあろうことか、己の中の魔物にもてあそばれてしまったのだ。

 屈辱のうえにまた屈辱が上塗りされて、趙高は身を引き裂かれそうな思いに駆られたが。

「会稽の恥、臥薪嘗胆」

 恥を忍び、再起をかけて耐える。と、いにしえの呉越の戦いから起こった言葉を何度も繰り返し、反魂玉に向かって吐き出していた。

 反魂玉は妖しい光をはなち、じっと趙高を見下していた。

 それからまた数日。趙高は今度こそ完全な刑天をつくりあげようと、必死の思いで反魂玉に向かい読経しはじめる。

円覆えんぷに昇りし魂、方載ほうざいに舞い降りてその身に入る。これ屍魔となりて、再び生ぜん。これ即ち活ける死人ならん。この法活ける死人また死せる死人に還さんことも可なりて。活死ともに自在になさん、即ちこれ活死自在なり。……」

 円覆とは天を指し、方載は大地を指す言葉で。古代中国の世界観では、大地は四角の平面、それを球面の天が覆うと考えられていた。

 趙高は丹田に気を溜めて、小さいながらも声は太くよどみなくしぼり出され。読経の声が空洞に響き、それに共鳴して周囲が音もなく震えているようであった。それは一度天に昇った魂が、再び地上に舞い降りているかのようであった。いや事実魂を天より呼び戻し、その独創的な肉体に埋め込もうとしているのだ。

 別の空洞にかくまっている屍魔どもは、今は経典の法力が効いてか静かにたたずんでいた。あのアスラでさえ、主に忠実な犬のように。

 刑天となる首なしの屍は、反魂玉の光を受けて、静かに眠っているようだった。

 それを完全な刑天となすため、まさに趙高は血を吐く思いであった。それを反魂玉に反射させて、首なしの屍にぶつける。

 また空洞の入り口には屈強の兵士がひかえ、趙高の儀式がおごそかにおこなわれるよう護衛につとめていた。彼らは秦が滅んでのちも趙高につき従う者たちであった。彼らもまた、再び秦の天下を蘇らせようと趙高とともに魔道に陥ってしまった者だった。

 そんなときに、ヤクシャは経に導かれるようにして戻って来て。兵士に、香澄の項羽に近づくことを述べた。もっとも、経典の法力が衰えたときは、ヤクシャも支離滅裂になって、いたるところでただの屍魔として殺生をするわ腹がはち切れんばかりにたらふく食うわと、それは大変な目に遭ってきた。

 それでもどうにか役目を果たし、己の方の首尾は上々ではあった。

 その役目は、香澄の監視であり、香澄が項羽に近づけることであった。水朝優と麻離夷は、香澄を項羽のもとにつれてゆくための、道具であった。ふたりはこのごろ秦復興のために屍魔を用いることを快く思っていないようであるし、密かに華山を逃げようとたくらんでいたのは、承知のことであった。

 また香澄がふたりを信用しているところに、つけ込んだのであった。もっとも、よもや香澄が項羽の初恋の少女と瓜二つであったというのは、想定外の出来事であったが……。そのおかげで首尾は上々なので、これはこれでもうけものであった。

 ちなみに趙高は、麻離夷の笛よりも、より強い効き目の笛をヤクシャに託し、この役目につかせ。ヤクシャもその期待に応えた

 が、しかし、刑天が失敗に終わりふたたびつくりなおしている、と聞いて、

「いまだ道は遠し」

 と嘆息する。

 華山は、霧と静寂につつまれて。じっと静かに、流れる霧と時間の中に身を置くのであった。

 さて、彭城にて手痛い敗北を喫した劉邦は自らは項羽に当たる一方で、韓信に軍勢をあずけ、鬼のいぬ間の洗濯とばかりに諸国を平定させ、勢力の拡大を図り、かつ項羽を挟み撃ちにする作戦に出た。無論、源龍らも韓信の軍勢の中にあった。

 広大な大地には、諸侯が割拠し、それぞれ国を建て王となっている。それを降すのが、大将軍韓信の任務であったが。韓信が将として最も輝いていたのは、まさにこの時であった。

 まず魏国を降し、次に代国を降して。続く趙国との戦いでは、世に名高い「背水の陣」をもってこれを降し、二十万と号した趙国の軍勢を小勢で打ち破った。燕という国は、韓信のその飛ぶ鳥を落とす勢いに恐れをなし、また謀略もあって戦わずして降ったほどだ。

 戦場を駆け巡るにともない、季節は流れてゆく。

 源龍は韓信の戦上手に舌を巻き、勝利を祝う一方で。誰かの家来として生きるより、剣士として、江湖を渡り歩く方が性に合っている。というか、また別に天命があるような気がしてきて。

 それは、兵卒として韓信のもとで働いたからわかったことだった。

「項羽は、香澄は、今どうしているだろう」

 夜空の北斗七星を眺めて、ぽそっとつぶやくときもあった。あの、謎の少女は、何を思ったか項羽と一緒になった。

 項羽は、彭城を奪還するとともに愛妾を得た。ということが、耳に入った。それが香澄であることは、すぐにわかった。

 一体項羽に近づいて、どうするつもりなのだろうか。あれは、水朝優と麻離夷の話によれば屍魔だというではないか。項羽は知らずに屍魔として蘇った少女を、愛妾にしたのか。

「くだらん」

 源龍は迷いを掻き消すように頭を振った。屍魔だのなんだの、わけがわからず。まともに取り合わなかった。だがあの時、確かに動く腐乱死体を見た。自分の理解を超えたことで、どう受け止めていいのかわからないし。源龍としても、やりたいことがあって。

 己の生き方を模索している最中であった。

「俺はどうすればいいんだ?」

 と悩む日々が続いた。志と屍魔が、ごっちゃになって頭の中で渦巻いているのは、如何ともしがたかった。思えば、韓信のもとで働いていたのは、それらを忘れるためでもあったような気がする。だが韓信の将としての才能著しく、源龍の出る幕などなく。結局源龍は韓信に仕える有能な配下のひとりにすぎなくて。

 確かに韓信には恩があるし、頭が上がらない。しかし、そこから飛び出したい己があるのもまた確かで。それは理屈を越えたことだった。

 戦のないとき、源龍は蒐弐十を走らせて、得体の知れない苛立ちを紛らわすのであった。その後を追う、赤鹿毛。那二零を駆る羅彩女であった。

 那二零はほんとうに優れた馬で、悲しいかな蒐弐十でどんなに飛ばしてもすぐに追いつかれてしまう。それはあたかも、ずっと後世の東夷の小島で生まれたMR2(SW20)とNSX(NA2)という汽油車(自動車)のようだった……。


遠征・3


 修武という地がある。任務を一通り終えた韓信はその地にとどまり、劉邦からの次の指令を待っていた。そうなると、剣のみを頼みとする源龍はどうしても手持ち無沙汰となってしまって、暇つぶしに馬を責めるより他はなかった。

 そこへ、

「あっはははは。遅い遅い」

 と愛馬の俊足を誇る羅彩女に並ばれて笑われる始末。

「……」

 源龍は口元を硬く引き締め、羅彩女の笑い声を聞き流していた。朝から駆け通しで、蒐弐十も息が上がっている。那二零は、まだ余裕がありそうだが、それでも速度の低下は否めない。

 夕陽が赤く染まって、遠くにかすむ山々に沈もうとしている。それを背にして自分の幕舎に帰ろうとする。

 陣中では、貴志と麻離夷がともに笛を吹き。それを韓信軍の兵たちが囲んで、じっと聞き入り、己の心を慰めていた。麻離夷は自分の目と髪の色のことを考えて、病で醜くなってしまったから、と外では常に頭巾を深くかぶり、人に顔を見せないようにしていた。

 貴志は韓信の遠征に付き従ったものの、積極的な戦いはせずに防戦一方、生きながらえることに専念していた。それは彭城でのことが心に強く焼きついているからか、それとも他に理由があってか。

 水朝優はというと、これも遠征に付き従ったが、軍馬の面倒を見る馬飼いとしてで。戦に出ることはなかった。

 音楽が、また奏でることが好きなのだろう、麻離夷は暇なときは、笛をよく吹いていた。その笛の音に惹かれるように、貴志は笛の音に聞き入っていたのが、やがて笛の吹き方を教わり。ともに笛を奏ではじめたのだった。またその笛の音に惹かれるように、兵らがあつまって聞くようになった。

 奏でる曲は昔から伝わるものから即興のものと幅広く、また音律も時に低くそよ風がささやくように、時に天高くまで駆け上るように力強く、それらが一体となって流れのように、聞く者の血の流れまでが音律に合わせて上下するかのようだったし。

 ふたつの音色は、まるで互いに手を取り合って踊っているようにも思えた。

(巧いもんだなあ)

 韓信も遠くから聞いて、腕を組み自分のあごをいじりながら、貴志と麻離夷の奏でる笛の音を聞き入ることがあった。丁度今もそうで、聞いているうちに、自分の血の流れまでが笛の音にあわせて踊りだしそうな気にさせられた。ともに手を取って踊ろう、と貴志と麻離夷が手を差し伸べているようで。笛の音の、根源となるものの、奥底にあるもの。

 それを思うと、韓信はやや顔を赤らめて、

「いやいや、俺には似合わないなあ」

 と、そっと笛の音からのがれてゆく。

 源龍と羅彩女が戻ってきたのは、そのときだった。

「またやってるな」

 笛の音を聞き、源龍はぽそっとつぶやいた。奏でられる調べを、上手だな、と認めながらもあまり関心なさそうに、蒐弐十を馬舎へ引いてゆく。それに並ぶ羅彩女は、那二零を引きながらも知らずに心を笛の音に乗せていて。ときおり指で太ももをとんとんと叩いて、調べに合わせていた。その顔は、かつて盗賊をしていたとは思われぬように、穏やかであったことに、源龍はいささか不思議な思いに駆られるのであった。

「よお」

 源龍と蒐弐十、羅彩女と那二零を迎えた馬飼いの水朝優は、ふたりから二頭をあずかり馬舎の中へ導いてゆく。

 その顔は無表情で、何を考えているのか察しがつかなかった。

 香澄が水朝優と麻離夷から離れて、項羽と一緒になって、どのくらいの季節が流れたか。源龍にくっついて、韓信軍の中に身を置きながら。ふたりはこの身をどうするべきかと悩んでいるようだ。

「楚の歌をたのむ」

 笛の音を聞いていた誰かが、そんなことを言った。

 笛の音を聞く兵から、あれをたのむこれをたのむ、とよく言われる。広大な大陸に様々な国が割拠しているとはいえ、戦火激しく渦巻く今の時代。人民は戦火を逃れ、いや戦火に追い立てられて、流民となって、濁流に飲まれたように大陸をさまよい、身を根付かせるべき土地を求めあるくもの数知れず。

 また韓信軍の中にも、様々な国の出身者がいる。戦乱で流民となり、食を求めて身を投じたもののは多かった。

 この国の軍だからと、その国の人民でばかり構成されているわけではなかった。韓信軍、ひいては劉邦の漢軍は、もとは楚の軍隊だったから、楚人が多かった。いわば楚漢戦争は楚人が天下を二分する戦争でもあった。楚の秦への激しい憎悪、それに項羽の持つ激しさが、そんな事態を生み出したといってもよかった。

 それに諸国・諸民族の兵も加わって、大将となるものはよほどの人徳と滞りない食を兵たちに向けてやらなければ、すぐに見限られて、ともすれば裏切られてしまうのだ。それがいにしえの時代の軍隊だった。大将が心を砕くのはいかに兵を食わせるかであり、また兵、ひいては人民として、英雄とは自分たちを食わせてくれるもののことだった。

 そんな現実的で厳しい条件が、中華の人々の心に、異郷の者たちが想像もしえないような激越な部分をもたらせたようで。それだけに、士は己を知るもののために死す、という、恩に報いるに、己の命をもって報いんとする、必要とあらば自ら命を差し出すような、理屈を越えた心情を持つものの存在も珍しくなかった。またそこから、弱きを助け強きをくじく、という「侠」と呼ばれる思想を生み。またかつて羅彩女がしていたように、国に頼らず「幇」という組織をつくるなどして、江湖の人民が力を合わせて生きてゆく、という生き方をするものもたくさんあった。

 ともあれ、それでもやはり人の身である、郷愁の念を抱いて各々の故郷の歌を恋しく思い、貴志と麻離夷に故郷の歌を奏でさせるのは、人の人であるという故にであったろう。

 さすがにこれには、源龍までが、馬を預けて自分の幕舎へ向かう途中、笛の音が楚の歌を奏でるのを耳にし、立ち止まった。

 一度は離れた韓信であったが、また笛の音が気になったか、遠くから笛の音に耳を傾けていた。周囲の兵たちが、じっと聞いていたと思ったら、楚生まれのものは感極まったように、笛の音に合わせて楚の歌をうたった。歌は様々な差異を越えて、人の心を打つ。楚人の兵以外にも、その郷愁の念に響くものがあって、口をそろえて皆が楚の歌をうたった。

 それをを見て韓信は、

「ふうむ、やはり歌は人の心の中で生きているのだなあ」

 と、しみじみとつぶやいていた。


遠征・4


 韓信が別働隊を率いて諸国を平定する一方で、劉邦は項羽に苦戦を強いられ、散々に打ち負かされ追い立てられ、命の危ういことも一度や二度ではなく。劉邦の心には、項羽への恐れが粘り強く根付いてしまうほどで。

 敗戦に敗戦を重ねながら、ついには韓信のいる修武まで逃げ出す始末だった。そのときは深夜だったが、

「韓信、韓信」

 とどなりながら韓信の幕舎まで迫ろうとしていた。王がそうなのだから、配下の兵の気の荒れようも察して余りあって。

 劉邦軍の騒ぎに驚き、何事かと慌てて起き出す者も少なくなかった。源龍もそうで、すわっと股夫剣を押っ取り、韓信の幕舎まで駆けつければ。劉邦が配下を引き連れ幕舎に入ろうとしているのを目にした。

(こいつが、漢王の劉邦か)

 鼻が高く、立派な髭を生やして、威厳があり。なるほど王に相応しい風貌である。が、傍若無人ともいえる立ち居振る舞いは、江湖の侠客そのままでった。

 深夜に押しかけ、劉邦は、王が臣に命じるというよりも、親分が子分に言うことを聞かせるかのように、寝ていた韓信を叩き起こし、

「斉の国はどうした、斉は。のんびりしてないで、早く征かんか」

 とどやしつけるのであった。

 気になって後ろからそっと様子をうかがっていた源龍は、

(よく言うぜ。次の命を待てとか言っていたくせに)

 と呆れていた。もしこれを自分にされたら、まず股夫剣が答えるだろう。が、さすが韓信は慌てず。

「左様にいたします」

 と落ち着いたものだった。

 すると、劉邦はにこりと笑って、

「そうか、そうか、お前が行けば大丈夫だな」

 一転して、がはは、と大笑いしながら言うのであった。韓信も同じように笑っている。このやりとりに、源龍はきょとんとする一方で。さっきまで散々怒鳴った相手に、すぐに笑いかけられる劉邦の人となりに心を奪われそうな思いに駆られそうだった。

 劉邦は自然体だった。人間としての好き嫌いはあるが、それらをひっくるめてすべてを受け入れる度量を持っていた。それはいざというときに融通を利かせて、窮地という窮地を逃れる要因となっていた。要するに、今日何が起ころうとも、明日は明日の風が吹く、といういかにも侠客らしいものの考えの持ち主だった。

 そんな度量の劉邦のもとに、様々な人々が吸い込まれるようにして寄ってくるのも、頷ける話だった。

 韓信もそのひとりで、そのおかげで浪人から大将軍という立身出世を遂げることが出来。劉邦に強く恩を感じていた。

「起こして悪かったな。じゃ頼むぞ」

 がはは、と笑いながら機嫌よく幕舎を出てゆく。このあっけらかんとした様子は、韓信に対する信頼から来たものだった。あいつがいけば、もう大丈夫と。

 そこまで信頼されれば、なるほど己の力量を試したいと常に願っていた韓信は嬉しいだろうし。恩の返し甲斐もあるというものだ。とか考えていて、

(あっ)

 と思ったことがあった。韓信が源龍を望むのも、ひとえに劉邦の恩返しに役立てたいというのがあってのことだったということか。源龍は韓信に恩があり、韓信は劉邦に恩がある。己の生き方を模索していた源龍だが、いまここに、ひとつの生き方を見つけた。

 それは報恩の生き方だった。

 私心は捨てきれないが、すくなくとも恩はまっとうしよう。自分のことはそれからだ、と自分もで不思議に思うくらい、韓信への報恩の気持ちが今まで以上に芽生えた。どうも劉邦と韓信のやりとりをうかがううちに、知らずに触発されたようだった。

 翌朝、韓信軍は斉平定に向けて進軍を開始した。

 この斉を平定できれば、項羽包囲網は出来上がる。

 項羽は劉邦をひたすら追いかけ、その間に謀略により老軍師范増と仲違いし、ついに范増は項羽のもとを去ってしまった。

 范増は故郷へ帰る途中、病で亡くなった。亡くなる直前。天下は漢のものになるだろう、と予言した。

「ともに謀をなすには、項羽はあまりにも子供じみたやつだった」

 とも歎きながら……。

 これにより楚軍は軍師なしの状態となり、劉邦のとの戦いに勝っても、とどめをさせないという状況はついに覆ることはなかった。劉邦とてただ逃げ回っていたわけではなく、そこには彼を慕う配下のものたちの並々ならぬ尽力があった。それはこういう苦境のときにより光った。

 劉邦は以前と同じように項羽をひきつけ、その間隙を突き韓信が斉を平定する。楚の強さは、すなわち項羽の強さだった。項羽なきところでは、ただ韓信の将としての独壇場だった。

 だが項羽とてそれを指をくわえて眺めていたわけではない。信頼する猛将、龍且を大将として、打倒韓信の軍勢を進発させたのであった。

 その数、韓信軍の二倍の、二十万の大軍であった。

 斉は韓信軍遠征路の一番東方、終着点にあたり。征服されてしまえば、斉の南にある楚は包囲されて不利に陥る。

 斉こそ韓信と項羽にとっての天王山であり、ここでの勝敗が今後を大きく左右する。無論龍且が斉に入る前から、戦いは始まっている。斉は韓信軍を迎え撃ち、強く抵抗をしめした。ことに項羽の援護を受けているので、なおさら強気で阻んでくる。

 さすがにこれには、韓信も苦戦を強いられ前進の速度も鈍くなったようだが。源龍はなにくそと、蒐弐十とともに戦場を駆け巡り、股夫剣を振るった。羅彩女は、やはり向いているのか好きなのか、軟鞭を得物としてぶんぶん振り回す。那二零も一緒なのは言うまでもない。

 ここ斉での勝敗が重要であると、源龍、羅彩女ともにおのずと気合も入る。

 女の身の羅彩女だが、ただ飯食らいはよくないということと、源龍に負けまいとする負けん気から戦場にその身を投げ入れることに、躊躇はなかった。

 源龍も羅彩女に負けてられないと、彼女がひとつ手柄を立てれば、源龍はふたつ立て。となれば羅彩女は、追いつけ追い越せと、みっつ立て……。という風に、互いを意識しながら切磋琢磨しあって、韓信軍の前進に少なからず貢献していた。その奮戦振りは味方も斉軍の兵たちにも、強烈に刻み込まれ。敵味方から、愛馬の色にちなんで、赤黒鴛鴦せっこくえんおうというあだ名が、ふたりにいつの間にかつけられていた。鴛鴦とはおしどりのことだ。

「別に組んでいるわけでも、夫婦でもないのに」

 と、源龍と羅彩女はこのあだ名に密かに苦笑していた。しかし、源龍と蒐弐十あるところ、羅彩女と那二零もあり、といつもそんな具合なので、仕方のないことであった。

 さて貴志である。

 ふたりが活躍するその陰で、積極的な戦いを避けて、生き残ることだけに専念していたため、影は非常に薄かった。

 たまの平時には、笛を吹いて過ごし。女々しいやつと陰口まで叩かれていた。

「俺は、剣を振るうよりも、笛を吹いて過ごしたい」

 と最近口癖のようにつぶやくことがあった。

 修武の地にとどまる麻離夷を思い浮かべ、ひとりで笛を吹くとも、麻離夷とともに吹いている気持ちになって、ひとり寂しい気持ちを抑えて奏でていた。夜空の向こうに、麻離夷も同じような気持ちで、笛を吹き奏でていると思うと、胸が打たれるのであった。

 そう、貴志と麻離夷だが、知らないうちに、そうして互いを想う仲になっていた。彭城騒乱の折りに、手を握ったことが、きっかけになったようだ。貴志は誤って麻離夷を傷つけてしまったこともある。それから、剣を握ることを気持ちが嫌がっているのを、どうしても抑え切れなかった。


遠征・5


 水朝優は、出立の直前に馬飼いの仕事を辞し、修武の地であばら家をもとめてひっそりと暮らしている。麻離夷は、戦場から戦場を渡り歩く軍隊の中で生活することに、疲れを感じ。修武に定住して貴志の帰りを待っている。ほんとうなら韓信軍に紛れ込んで移動していた方がよさそうなのだが、緊張の続く日々は笛を奏でるくらいでは補いきれず。もう限界に達しようとしていた。

 そこで水朝優はやむなく、貴志が帰ってくるまでその麻離夷の面倒を見ているのだ。

 ふたりの仲を知らぬ水朝優ではない、間に入って麻離夷を掠め取ることはしなかった。その辺に関しては、貴志も信頼しているので、不安はなかった。

 だが、屍魔や香澄のことを忘れることはできなかった。もし屍魔がふたりに襲い掛かったら、どうするのだろう。

 自分も兵を辞めて修武の地にとどまりたかったが、兵力を求める韓信軍はそれを許さなかった。馬飼いは変わりはいくらでもいるが、武器を手に戦う兵は、天王山を臨む今はとても貴重なものだ。

 こっそり抜け出そうとも考えたが、監視の目も厳しく脱走もままならず。結局戦場を渡り歩くより他はなかった。

 一日が一年十年に感じるほど、貴志は寂しい思いを抱かされてしまった。が、自分にそういう感情があることに気付いて驚きもしていた。それは軍中にあって、麻離夷から離れたから、起こった事だった。

「会いたい」

 ぽそっとつぶやいた。

 戦場を前にして。

 で、振るう剣が赤く染まってゆくたびに、あの時、赤く染まった麻離夷の手を思い出してしまうのであった。

 斉攻めは騎乗して戦場を駆け巡る野戦もあったが、城攻めも多かった。この城攻めの時ばかりは、赤黒鴛鴦も騎馬を降り、徒歩立ちで城壁によりかかり、よじ登ったりもした。

 貴志も城壁によじ登ると、城壁から石を落としたり矢を射掛ける左右の敵兵を斬るよりも、やはり身の安全を第一にして、味方の陰に隠れたりしていた。それを源龍が目ざとく見つけた。

「おい!」

 怒鳴ると、敵を斬り伏せながら、

「生き残りたきゃこそこそするな!」

 と貴志にがなった。

 ちぇっと忌々しそうに舌打ちする貴志であったが、源龍はふんと鼻を鳴らし。

「言ったろう、無用の長物なんざ切り取って宦官になってしまえ、てな。そんなもんで、あの女が悦ぶと思っているのか」

 などとのたまう。

 一瞬恥じらいから顔を真っ赤にしたが、源龍の言いたいことをさとった貴志は、はっとした。麻離夷を想ううちに、知らず知らず臆病心に呑まれていたようで。このままいけば、貴志の一から十まですべてが臆病心の塊りとなるところであった。

 戦場では勇敢だけでもだめだが、臆病だけでも生き残れない。その場その場で、臨機応変に勇敢さと臆病さを駆使して戦わねばならない。密偵として生きてきた貴志に比べ、源龍は兵士として戦場を駆け巡ることにおいては、一日の長がある。それだけに、生き残る術も心得たものだった。

 源龍もまた、貴志と麻離夷のことはわかっていた。

 ふん、と貴志は鼻を鳴らし、敵兵をひとり斬り伏せた。

「きんたまのあるところを、見せてやるさ!」

 と源龍とともに剣を繰り出し、次々と敵兵を屠ってゆく。そこへ羅彩女が軟鞭を振り回して合流し、勢いを増し、ついには城内へと駆け下らんかと階段のところまでやってきた。この階段を下り、内より門を開いて外の味方をなだれ込ませれば、城を獲れる。

 しかしそうは問屋が卸さずと、城内から次々と、敵兵が城壁に駆け上がってこようとする。戦鼓の音も鬨の声も激しく、双方激しくぶつかり合い。血の雨が降った。

「上は任せたぞ!」

 階段を駆け下ろうとして、抵抗に遭いなかなかかなわぬと見て取った貴志は、敵兵が斬られて城壁より内へと落ちようとするところを目ざとく見つけた。と、だっと駆けて、斬られた敵兵に続いて城内へと飛び降りた。

「何考えてやがる」

 かえって仇となったか、と源龍は焦った。羅彩女は軟鞭を振りながら顔を青くした。城壁は高く、飛び降りなどすれば全身を地に打ちつけ、骨が粉々に砕けてしまいそうだった。が、貴志にとっては計算してのことで、落ちる最中に上手く落下する敵兵のうえに足を乗せ、一旦体勢を整えると、地に打ちつけられる直前に、さっと身を弾ませて着地した。その後ろでどんという鈍い音とともに、何かが砕け散った音もした。

「やるもんだ」

 貴志に続けと、源龍と羅彩女も敵をひとり仕留めると。同じようなやり方で、城内へと飛び降りた。

 貴志は取り囲まれてもなおひるまず、剣を振るう。そこへ源龍と羅彩女の助っ人が来て、勢いは増す。城壁からは、味方の喚声が、敵方の恨めしげな叫びが響いた。

 その声に後押しされるように、三人は包囲網を切り開きながら城門に迫り。ついには、内より八の字に門を開け放った。

「いけ!」

 ここぞとばかりに、韓信の号令一下、韓信軍の兵たちは一挙に城内へなだれ込み。ここに勝敗は決して、城は陥落。

 後の論功行賞で、城門開扉の武功第一として、貴志は韓信より金銀財宝や駿馬といった恩賞を受け。金銀財宝は麻離夷に送り届けたのであった。

 最初の遠征同様、戦いは連戦連勝であった。しかし、ついに龍且軍が斉に入ったとの報告が飛びこんできたとき、韓信軍に緊張が一気に駆け抜けた。

 龍且は、あの項羽が信頼を置くほどの、万夫不当の猛将。こればかりは一筋縄ではいくまい、と固唾を飲まずにはいられなかった。

 が、韓信はいつも通り余裕綽々であった。

 斉の城もあらかた落とし、最後は龍且との決戦。予定通りだ、という感じである。

 源龍は、血の沸き立つのを禁じえなかった。当分は韓信への恩返しに専念し、項羽と香澄のことはひとまずお預けにしていたが、もし龍且を討ち取れば報恩のけじめもつくし。それから江湖へ下って……、ということを考えていた。

 項羽と香澄のことは、彭城騒乱のときのように、どさくさに紛れ込めばなんとかなるだろう。それを思えば、無理に韓信軍に身を投じずともよかったのだった。我ながら、なんという頭の鈍さであろうかと、苦笑したものだ。

 まあそれはともかくとして、龍且との決戦まで、源龍は落ち着かなかった。貴志といえば前の城攻めで自信をつけ、また駿馬に、漢軍に忍び込んでいたときの偽名である回七と名前をつけて、試乗にふけっていた。試乗にふけるのはともかく、回七という偽名を馬につけるとは。どうもその偽名に愛着をもっていたようだった。

 遠征をする中で、少ない平時の一日。遠征の疲れを取るため、韓信は軍を占領した城にて駐屯させた。

 その間にも、早馬が続々と龍且の動きを報じてくる。そのたびに、城内は騒然として、色めき立ってきて。とても疲れを取るような雰囲気ではなかった。

 むしろ龍且の武勇を警戒し、恐れているようでもあった。


遠征・6


 龍且は項羽より託された二十万の軍勢を率い、臨沂りんぎの地まで進軍した。

 斉に入ると、韓信は手強い、無理をせずに持久戦でいこう、と進言されたが。

 龍且は呵呵大笑し。

「案ずるには及ばん。俺は韓信のやつを知っているが、あれは、臆病者だ。昔ごろつきに脅されて、股をくぐったのだ。そんなやつ、我が大刀の餌食にしてくれようわ」

 と進言策を退け、韓信なにずるものぞ、と正面からの決戦を挑んで、勇んで進んだ。

 楚の援軍、ついに来たる。の報を受け、韓信は、さていくか、と軍を進めた。

 進軍する前に、他の将らとなにやら話し合っていたようだ。が、源龍は知らない。源龍が韓信と親しかろうが、いかんせん、源龍はあくまでも一剣士にすぎないので、作戦会議には参加させてもらえない。まあ、たとえ出来たとしても、軍をまとめ指揮を執ったり、何かの策を立てたり、ということは無才に等しいので、いたところでやくたいもないのだが……。 

 ともあれ、軍中にあって源龍は、楚の猛将龍且との戦いに臨んでまるで童子のように心弾むのを抑えられなかった。

 それに引き換え、羅彩女、貴志らは今までにない緊張を禁じえなかった。相手は龍且、さて勝てるかどうか。そうでなくとも、相手はこちらの二倍の兵力。真正面からこられたら、ひとたまりもない。いかに源龍が剣を振るおうとも、どうしようもないわけで。

 それは他の兵たちも同じようで、今まで連戦連勝を重ねてきたといっても、龍且の名を耳にしただけで震えを来たし、勝敗の行方を案じるばかり。

 韓信軍は、息苦しい緊張に包まれたようだった。

 が、これとは別に韓信の命を受けて、別働隊が別行動を開始していた。

 こんどの戦い、別働隊の働き如何によって勝敗が決まる。

 一日軍を進め、夜に入って夜営し休みを取る。

 他もそうだが、貴志はなかなか眠れぬ夜を過ごしていた。

 それは、源龍もそうだった。が、わけは貴志とは違った。明日進めば龍且軍とぶつかる。さて、己は龍且を相手にどれくらいの働きが出来るのか。また、これに勝てば、韓信への恩返しへのけじめもつき、心置きなく江湖に下れる。

 と思うと、気持ちは高ぶり、血の温度があがって、身体はほてりを覚える一方で。眠れないのに無理に寝ることもない、と幕舎を出て、夜空を眺めていた。

 北斗七星の七つの星が、きらきら光る。

「……」

 ふう、と思わずため息をつく。気のせいか、左の頬が、ちりちりと痛む。

(香澄はいまごろ、何をしているのか)

 突然遭遇してしまった、屍魔の娘。宝剣、七星剣を得物にし。絶妙の剣技をもつ。それも、秦を復興させるために、秘術によってつくられたという。

 いわば、化け物だ。

 水朝優も麻離夷も、もう化け物をつくることにうんざりして、根城にしていた華山から逃げたという。

 水朝優は言った。地獄をつくりたくない、と。

「秦人もまた、人間であったか」

 そうだ、楚人も、韓人も、秦人も、匈奴も、同じ人間だ。と、今さらのようにそのことを考えた。

 が、難しいことの苦手な源龍はそれ以上のことを思い浮かべることはできなかった。孔子だの荘子だの、名前しか知らない。

 それはともかくとして、血は構わず沸き立つ。あまりにも血の沸き立つに、源龍自身どうしてよいのかわからなかった。いくらなんでも、沸き立ちすぎで、頭が変になりそうだった。

 何か落ち着ける術はないか、と思ったとき。はっと何かを思い立つと、羅彩女のいる幕舎まで来るなり、中へ呼びかけもせずに、ずかずかと入り込む。

 明日の戦で神経が昂ぶりなかなか寝付けなかった羅彩女だったが、これには驚き、飛び起きようとすれば。源龍は物言わず羅彩女に覆い被さり、力いっぱい押さえ付け、そのまま口を吸った。

 咄嗟に平手を飛ばす。

「な、なにを……」

 抗おうとすれば、ぎらりと光る源龍の目。それこそ、その名のとおり龍に睨まれたような気迫を感じて。その視線に射竦められて、身動きがとれない。

 気のせいか、源龍の体温が熱いほど感じられた。

「羅彩女、お前の身体を使わせてもらうぞ」

 訳も語らず、源龍は思うがままにその身体を貪った。

 最初抗いを見せた羅彩女であったが、次第に何もかもがとろけるようになって。それからのことは覚えておらず。

 ただ、ひどく脳乱した。


scene6 遠征 了

scene7 合戦 に続く


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