scene5 項王来-xiang wang lai
項王来-xiang wang lai・1
彭城落つ!
反乱鎮圧のため斉に赴いていた項羽はその急報を聞き、怒髪天を突くばかりであった。
「斉など捨て置け。これより全軍急ぎ彭城へ向かう!」
身の丈八丈(184センチ)の大柄な身体を揺らし。若き覇王は裂帛の気合をこめてそう叫ぶと、葦毛の愛馬、騅にまたがり、大薙刀をかつぎ、疾風怒濤のごとく、軍の先頭を切って駆け出した。
従うもの、三万。
敵は五十万の大軍であるという、が項羽には数など眼中になかった。
そうとは知らない漢の劉邦軍は、占領から数日経った今でも彭城をおもちゃにして、享楽にふけり。項羽が怒涛のごとく迫り来るのを知らない、いやもう項羽など眼中にないかのようであった。
いかんせん、五十万という大軍であることが、彼らに油断をさせていた。
城外では溢れた軍勢が野営をし、仲間が城内から持ち帰った「戦利品」でもっておおいに楽しみにふけっていた。
さらに城外より遠くで、貴志が目を真っ赤にした涙目で呆けたように一日一日を過ごして、彭城の周辺を、うろうろうろうろと、まるで魂のない屍魔のようにうろついていた。
そこへ、ぽんと叩かれる肩。
はっとして振り向けば、いつぞやの剣士、源龍。
「なにをしている」
と、その顔の精気のなさにやや驚きながら話しかける。
「源龍。いたのか」
「いたのか、とはご挨拶だな。それより……」
かつて会ったときは平服であったのが、今貴志は漢軍の軍装を身につけ、歴とした漢軍軍人の呈をなしていた。
「お前漢軍の人間だったのか」
「いや、違う。この姿はわけあってこうしているだけだ」
「ふうん」
素っ気ない源龍。貴志が何者かどうかなど、興味ない。貴志も、自分のことや源龍がどうしてたかなど、語り合う気が起きなかった。久しぶりの再会だというのに、この冷めよう。そばで見ていた羅彩女は、那二零の手綱を引いて、ぽかんとふたりをながめ。
「ねえ源龍、誰?」
と聞いた。その声を聞き、
「あ、お連れでござるか。それがし、姓は貴、名は志。貴志と申す」
と源龍に連れがいるのに気付いて、慌てて気を持ち直し慇懃に挨拶をする。その馬鹿丁寧っぷりに、羅彩女は、ちょっと、調子が狂う。盗賊の女首領をやってきて、こうした堅苦しいのは苦手だった。
「あ、ああ、あたしは羅彩女。よろしく……」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
貴志は羅彩女を見て、その容姿にも驚きを禁じえない。まさか女連れとは、なかなかどうして、源龍も隅に置けないものだ、と。無論、源龍は貴志が何か勘違いをしていることに気付いてはいたが、いちいち言い訳するようなことはせず、想像に任せた。
しかし、羅彩女が手綱を引く赤鹿毛の馬には、一番驚かされたようだ。あらぬ想像をめぐらすも、
(なんという素晴らしい馬だ)
と赤鹿毛、那二零の存在がぱっと打ち消してしまう。羅彩女も羅彩女で、見れば色こそ赤だが、男物の服を来て、どう見ても堅気ではない。
いったいどこでどうして知り合ったのであろうか。
さらに、貴志の目は源龍が背に負う剣にそそがれた。
「あ、その剣は」
「あいつのだよ」
「……」
あいつのだよ、という源龍の言葉に、我知らず固まる貴志。
香澄と剣を交えたときのことが、ありありと脳裏に蘇る。
「まだ会えないままか」
「まあな」
源龍は香澄のことを思い出し、無口になる。彭城の阿鼻叫喚すら、意識の外だ。まさか、少し離れたところの林で、香澄が三人と一頭を眺めているなど知らず。
澄みきった黒い瞳に、源龍と貴志が映し出される。香澄はうまく気配を殺し、三人と一頭は気付く様子もなかった。
(これは、まさに天佑!)
香澄のそばで、水朝優が気が昂ぶるのを抑えて気配を必死に殺している。まさかここ彭城の城外で、あのときのふたりに出会えようとは。それからさらに離れたところでは、武術の出来ない麻離夷が気配をさとられないように香澄と水朝優から離れて、木の陰に隠れて、碧い瞳で様子をうかがっていた。
水朝優が香澄に目配せする。いくか、と。それを見て、うんと頷く香澄。
「よし、あいつらは無理にしとめなくてもいいから、七星剣を奪い返せ」
水朝優の言葉が終わるやいなや、香澄は風に吹かれるかのように、すう、と進み出る。と同時に、三人と一頭は殺気を感じてその方を振り向けば。
「香澄!」
同時に叫ぶ源龍と貴志。
あの時手合わせした少女が突然現れて、こちらに向かってきている。紫の衣が風に遊ぶ花のように、揺れられている。羅彩女は突然現れた香澄に驚きもしたが、ふたりが少女の名らしきものを叫んだのにはもっと驚いた。
知っているのか、どころか強敵を前にしたように声に戦慄が含まれていて。用心して槍を構える。
貴志は香澄の出現と同時にさっと剣を抜き構える。しかし源龍はというと、背中の七星剣を抜くや、
「落し物を取り返しに来たか!」
と香澄にぶんと投げつけた。
香澄は進みながら、その進み方はまるで風に乗っているかのように軽やかに、手を伸ばす。剣は切っ先を香澄に向けている、それも凄い勢いでだ。このままでは顔面に直撃するかと思われ。遠くで眺めていた麻離夷は顔を真っ青にして、
「あっ!」
と叫んでしまった。無論それと同時に気配も三人と一頭にさとられてしまった。
(仲間がいるのか)
またあの時みたいに、屍魔が出るか。とさすがに源龍と貴志は身を硬くした。そうするうちにも七星剣は香澄めがけて飛び、もう顔面に突き刺さるかと思われた。が、ひょいと軽く身をそらすと、剣は香澄の左頬から少しのところを飛び抜けようとしたところを、ぱしっとその右手に掴まれる。
「おお、見事だ!」
感心するあまり、水朝優まで声を出し、気配をさらけ出してしまった。麻離夷が気配をさらけ出したとき、「もう」と苦く思ったのに。
「誰だ、出て来い!」
香澄が剣を掴むとともに、己の剣、股夫剣をもって攻めに出ようと思っていた源龍だが、香澄の他に誰かいるのがわかって、股夫剣を構え、その誰かに大喝すると。
「仕方がねえな」
と水朝優が姿を現し、後ろを向いて麻離夷にも出て来いと手で合図する。
水朝優にうながされ、麻離夷がやむなく姿を現したとき、三人はその容姿に目を見張り、一時釘付けになってしまった。ことに貴志などは、
(なんと美しい)
と、顔が真っ赤だ。
項王来-xiang wang lai・2
麻離夷は頭巾を深く被っていたが、にわかに吹く強風にあおられ頭巾がずれる。肌白く整った顔立ちをし、ことに彫り深く鼻が高く、碧い瞳に、金の髪。その容姿には、匈奴の血を引く羅彩女ですら、息を呑んでしまっうほどだった。
肌が白いのはともかくとして、眼は碧く髪は金など、見たこともない。さあこれから一番やるか、と身構えていた源龍でさえ、呆気にとられてしまい。動きを止める。それに合わせるように、香澄も七星剣を握ったまま動かず。水朝優と麻離夷をじっと眺めている。
水朝優はふてぶてしく、この様子を眺めていた。七星剣が無事戻り、安心もし、気持ちはいよいよ大きくなる。
麻離夷は慌てて頭巾を深く被る。自分の容姿を人に見せるのがいやらしい。
(なんだ、こいつら)
この間のような屍魔ではないらしいが、警戒を怠らず、三人はじっと構えている。それを見て、水朝優は、
「ゆけ、香澄」
とけしかければ、香澄はうんと頷き、三人に向かって攻め掛けて来るではないか。
「いきなりかよ!」
源龍も貴志も羅彩女も、わけがわからないながらも、自分たちに向かう香澄に構える。そこからだっと飛び出すは、源龍。疾風のように駆け、股夫剣を握りしめ振るい。剣が風を切り、唸りを上げる。
香澄の瞳が股夫剣を映し出すとともに、七星剣も風を切り唸りを上げ。剣と剣が激突し、火花が散り。その火花の下、源龍、香澄は互いの瞳に相手を映し出し駆けた勢いまでぶつけ合って、鍔迫り合いに興じたかと思うと、さっと繰り出される源龍の強烈な右ひざ蹴り。
香澄は素早く察して、さっと後ろへ飛び退くや、すかさず刺突を送りその右膝を突き刺そうとする。ちぇ、と舌打ちし右膝を下げ刺突をかわすと、七星剣の切っ先をかろうじて身をひるがえしてかわしざまに、ぶうん、と股夫剣を勢いよく振るい横なぎに斬りつける。が、紫の衣を風に遊ばせながらなんなくかわされる。
源龍もさるもの、剣風止ませることなく立て続けに股夫剣を繰り出し、香澄に剣をかまえ直すいとまを与えず。勢いを増して、その顔面に刺突を見舞う。が香澄は剣先をじっと凝視すると、そのまま剣先を引き連れるように、すう、ともろ手を広げて、まるで風に乗ったかのように軽やかに後ろへ下がってゆく。
小癪な真似を、と源龍は歯軋りして、その顔面に剣を突き立てんとさらに追いすがる。
それから、香澄は何を思ったか急に動きを止め、顔面向かう刺突をじっと凝視したかと思えば。両脚を縦に広げた状態で地に伏せば、顔面に迫る股夫剣は頭上をかすめてゆき。そのついでのように、さっと源龍の腹めがけて刺突を送る。
急に香澄の顔が下にさがった、と思ったら腹めがけて走る剣光。源龍ははっとして跳躍し、その頭上を飛び越える。それを追う七星剣。両脚を縦に広げて地に伏したままで、香澄は咄嗟に腕を上げて剣を繰り出す。
源龍は宙を飛びながらも、自分に追いすがるような一閃を股夫剣で払いのけて、着地。
その瞬間を見計らって香澄は素早い立ち上がり、前へすぅと進み出て、体勢を整える前の源龍の懐に飛び込み。
香澄の鼻先と源龍の鼻先が触れ合うほどに近くまで、顔を近づける。無論その動きの早さ尋常ならざり、それを見守る者たちは息をするのも忘れるほど、この戦いに見入っていた。
(なっ)
香澄の意表を突く行動に気をくじかれたか、源龍の動きが一瞬止まる。その刹那、香澄が飛び退きざまに七星剣が一閃し、赤い血がぱっと飛んだ、ように見えた。
「ぁう、ぁ……」
貴志、羅彩女は声にならぬ声でうめく。香澄は源龍から離れ、その手に握る七星剣を、天を突かんがばかりに高々と掲げる。その剣身には、赤い血がこびりついていた。
源龍は股夫剣を握り閉め、左の頬、前に香澄に斬られたのと同じところから、鮮血をしたたらせていた。血は頬を赤く染め、口元まで流れ落ち。それを舌で舐めてみれば、確かに血の味がした。
香澄は剣を高くかざしたまま、氷のような冷たさを感じさせる瞳で、源龍をじっと見つめている。
(一度ならず、二度までも……)
血のぬめりを口の中で感じ、源龍憤懣やるかたない。と同時に、この世に項羽の他に、こんなに強い者がいたのか、と狂喜を覚え。我知らず、笑みがこぼれ。股夫剣を握る手に、さらに力がこもる。
「ほお」
水朝優はそれを見て感心し、ほくそ笑み。麻離夷は頬を血に染めながら笑う源龍を見て、引いて、口に手を当て後ずさりする。
と、その時。
ど、ど、ど。と轟く響き、地が揺れる。はっと、水朝優は響きの方へ振り向けば。あっ、と口を開けて、
「項羽!」
と叫んだ。
斉の反乱鎮圧から取って返した項羽軍三万が、彭城を奪還すべく舞い戻ってきたのだ。地を揺るがす馬蹄の響き、馬のいななき。もうもうと立ち込める砂煙に項羽軍の裂帛の気合が込められ、天まで届かんほどだ。
源龍もその方を向き、歯を食いしばる。狂喜が全身を駆け巡る。
だが貴志と羅彩女は違い、このままここにいては戦いに巻き込まれると、逃げ出そうとする。那二零は軍馬のいななきに呼応し、けたたましくいななく。それに急いでまたがり、
「源龍、逃げるよ!」
と一喝するも、源龍は動かないどころか。
「俺にかまうな!」
と大喝して返す。もう、と羅彩女は舌打ちし、
「勝手にしな」
と那二零を駆ってさっさと逃げ出す。無論水朝優と麻離夷もここにとどまるわけにもいかず、麻離夷は懐から小さな笛を取り出し。ぴぃひょろろ、と吹けば香澄は笛の音に応じ、水朝優と麻離夷と一緒に逃げようとする。
(あの時の笛は、この人が吹いたのか)
貴志は笛の音の正体を知って意外な思いがしたが、今は笛の音どころではない。
「おい、お前武芸出来るだろう。しばし力を合わせて、安全なところまで逃げよう」
と水朝優。貴志はどうしようかと迷ったが、白頭巾の麻離夷に少し目をやると、うん、と頷き。水朝優と貴志は麻離夷と香澄を前後に挟んで、戦場となるこの場から離れてゆく。
源龍は一人残された。頬の血が乾きつつあるのを感じながら、項羽軍三万に向かって。
「早く来い、早く来い」
と股夫剣を握りしめ、楽しげにつぶやいていた。
項王来-xiang wang lai・3
項王来たる!
項王来たる!
彭城は突然の項羽襲来にあって、一気に混乱を来たしていた。あろうことか、五十万の兵たちのほとんどが、項羽を恐れて右往左往、慌てて逃げ出す始末。
野営の軍もまた混乱を来たし、幕舎を捨てて着の身着のまま、逃げ去ってゆく。後には虚しく幕舎は風に揺れて、風に乗って残された馬のさびしげないななきが響いた。それを耳にし、源龍は空の野営の陣所までゆくと、残された数頭の馬の中からよさそうな黒鹿毛の馬を見つけ、それに打ち跨れば。城門から漢軍が項羽軍を迎え撃つため、打って出る。その軍勢には「漢」の旗の他に、「韓」の旗も見受けられた。
漢の大将軍、韓信の軍勢のようで。
「お、韓信さんもいくのか!」
と馬を駆って韓信軍に合流しようとする。と、その時、
「蒐弐十!」
と呼ばわる声がした。なんだ、と思ったら、誰か逃げ遅れた者が、源龍の乗る黒鹿毛に向かって叫んでいる。軽装で武人らしからぬその様子は、どうも軍の馬飼いの者らしい。自分が面倒を見ていた馬に、誰か知らないものが乗って項羽軍に向かって突っ走っているのを見て、度肝を抜かれたらしい。が、項羽軍が迫ると馬どころではないと、すたこら逃げ去ってしまった。
「お前は蒐弐十というのか。よろしくな、蒐弐十」
黒鹿毛はその走り力強く、後ろ足のふんばりも強く地を蹴りだし風を打ち砕いてゆき。そのいななきは腹にまで響き、空を揺るがせた。
(こいつはいい馬を見つけた!)
良馬を得ることは武人のたしなみでもある。一応でも武人の源龍は、その良馬にめぐり合えたことにも喜びを見出し、股夫剣を掲げ韓信軍とともに項羽軍に向かった。
とすると、後ろからけたたましい馬のいななきがし、激しい馬蹄の響きがする。そのいななきと馬蹄の響きは聞き覚えのあるものだった。まさか、と思えば、あっという間にその赤い影は蒐弐十と並んだ。
「羅彩女!」
「はっは、遅い遅い!」
得意げに羅彩女は笑う。源龍はむっとしたものの、逃げた羅彩女がどうして、と思ったら。
「あんたが項羽とどう戦って、ぶっ殺されるのか、見届けてやるよって言ったのを思い出したのさ!」
と声も大に闊達と笑った。そういえば、そんなことを彼女は言っていた。それを思い出し源龍を追ってきたというのか。しかも、
「あんた遅いね、ぼやぼやしてると抜いちゃいそうじゃないか」
とまで言う。蒐弐十もいい馬だが、那二零の方がより優れているようだ。さあこれから、という時になんだか出鼻をくじかれた源龍であったが。下手をすれば羅彩女はこれから突っ込もうという乱戦に巻き込まれて、どうなるかわかったものじゃない。それでも追ってきたということは、よほど物好きとみえる。
ともあれ、黒鹿毛と赤鹿毛の二頭並んで、韓信軍とともに項羽軍に突っ込み。
ついに両軍は激突した。
「食い止めろ。項羽軍を食い止めて、漢王が逃げる時間を稼ぐのだ」
自らも剣を振るい、乱戦にあって韓信は大喝し号令を轟かせていた。
(恐れていた通り、五十万の大軍ならぬ烏合の衆、項羽の名を聞いただけで皆逃げ出してしまったわい)
進軍中、幾度となくそれを恐れていたことか。それが現実のものとなってしまった。やはり、項羽は恐怖の代名詞であった。かといって自分たちまで一緒に崩れ去るわけにも行かず、自分たちだけでもと、万一に備えていた。
今劉邦は少数の部下とともに、ほうほうの体で逃げている。その逃げる時間を少しでも稼ぐのだ。
が、しかし。
乱戦の中、凄まじいばかりに竜巻が起こり、血煙が竜巻によって吹き上げられている。韓信の軍勢も、その竜巻を食い止めようと、押し寄せるも。押し寄せども押し寄せども、その竜巻とどまるところを知らず。ますます屍山血河を築くのみ。
「項羽……」
韓信は苦々しくうめいた。その竜巻は、項羽であった。大薙刀振るうところ血煙上がり、まさに竜巻が怒り狂うがごとし。項羽軍の軍勢も一兵卒にいたるまで、大将項羽の心魂が乗り移ったかのように、すさまじいまでの武者働きをし。韓信軍を一挙に揉み潰さんと、怒涛のように押し寄せる。
(こういうときこそ、源龍がいてくれれば)
項羽およびその配下の働きを見るにつけ、強さにおいてはまさに天下無敵。はなから勝てないとわかり、頃あいを見て逃げるつもりで、劉邦の逃げる時間稼ぎと迎え撃って出たものの、その強さを見せ付けられると、大将軍韓信といえども心胆寒くなるのを禁じえなかった。強いもの、項羽と渡り合えるもの、となると、自分の配下にはおらず。顔見知りの源龍しか心当たりがなかった。
(ああ、やはりあそこで引き止めておくべきだった)
崩れようとしている自軍をどうにか押しとどめながら、韓信は苦々しく後悔の念を噛みしめ、もういかんと、退却の号令を下そうかと思ったときだった。
視界の隅で、さっと黒い影と赤い影が疾風のように駆け抜けていった。
「あれは」
源龍ではないか! どうやら源龍はあの後も漢軍の後をつけてきていて、この乱戦にあたり我もと勇んで飛び込んできたらしい。馬はどかで仕入れたものらしいが、疑問なのはあの赤鹿毛の馬とそれに打ち跨る女であった。一体どこでどう知り合ったのか、男と一緒になって乱戦の中に突っ込むとはよほどの女傑のようだ。
いやそれよりも、疾風のようにこの乱戦を駆けてゆくたび、源龍は韓信の与えた股夫剣を振るい次々と敵を討ち取ってゆき。その勢いに乗じ、竜巻の如く暴れまわる項羽目掛けて突っ込もうとしていた。赤鹿毛の女も女傑さながら槍を振り回しそれに続く。
「なにやつ」
項羽軍は突然現れた黒鹿毛と赤鹿毛の両頭に打ち跨る剣士と女傑に驚きはしたものの、そこは項羽率いる精鋭たちであった、たちどころにふたりと二頭を取り囲み、一挙に屠り去ってしまおうとする。
だが項羽を求める源龍と、危険も顧みず、それについてゆこうとする羅彩女の敵ではなかった。取り囲んだ兵卒はことごとく討ち取られたうえに、狼狽を見せ、そこにほつれが生じさせ、それを見逃す韓信ではなかった。
「黒鹿毛と赤鹿毛のある方へ、突っ込め!」
とすかさず号令を下した。ひと塊となった軍勢にとって、ちょっとのほつれでも生じればとたんに、そこから一挙に崩れてしまう。それほどまでに、戦争というものは不安定なものだ。韓信はそれをよく心得ていた。
項王来-xiang wang lai・4
号令が下された途端、韓信軍は黒鹿毛と赤鹿毛に向かってどっと押し寄せてきた。源龍、羅彩女はその露払いとばかりに、得物を振るい我が道を切り開いてゆく。向かうは、覇王項羽。
「なにごとだ」
返り血をおおいに浴びながら大薙刀を振るい、敵兵をなぎ倒していた項羽であったが、戦争の勘鋭くにわかに生じた変化を素早く察した。
ふいに黒鹿毛と赤鹿毛がこの乱戦に紛れ込んできたことは見知っていたが、まさかそれが戦局を変化させるほどまでに働こうとは思っても見なかった。さらによく見れば、それらは重装していないどころか、平服ではないか。得物を使いこなしよく働いているとはいえ、そのようなものたちに突き動かされようとは、項羽の怒りは尋常でなかった。
「我が道を阻まんとするは誰か!」
天も割れよとばかりにその大喝空を揺るがし、大薙刀を振りかざして源龍と羅彩女に向かい愛馬、騅を駆けさせ。我が道を血煙上げて切り開いてゆく。
「!!」
源龍の脳髄に、びしっ! と何か電撃が走るような衝撃が駆け巡った。
「項羽っ!」
敵兵を一騎斬り下げながら、自分に向かってくる竜巻のごとき覇王。羅彩女は槍を振り回しつつも、覇王項羽の鬼神のごとき戦場での奮迅ぶりを目の当たりにして、背筋が凍りつくのを禁じえなかった。その勇猛、話には聞いていたが、これほどまでとは、と。
(ほんとうに、これは人なのか)
項羽の奮迅、それはもう人というにはあまりにも強すぎた。まこと鬼神のたぐいではないのか、と羅彩女は恐怖を感じ、源龍から逃げるようにして距離をとった。
そんな項羽に挑もうとする源龍。その目は歓喜に溢れ、まるで欲しい玩具を見つけた子供のような無邪気ささえたたえて。阻むものを黒鹿毛の馬脚で蹴散らしながら、項羽向かって突っ込んでゆく。それを見、朱に染まった大薙刀をかかげ、項羽は己に挑みかかる源龍向かい、食らえとばかりに大喝一声。
「汝はなんぞ、我を覇王項羽と知っての狼藉か」
「応。我は楚人にして江湖の剣客、源龍。一剣士として覇王項羽に一騎打ちを所望せん」
「江湖の一剣客如きが僭越なり、さらに我れと同郷でありながら我に刃向かわんとする裏切り者。そのような下郎と交える剣はない。下がれ」
「否、否。下がらじ」
相手に否定されようがお構いなく、叫びながら源龍は股夫剣をかかげ、項羽向かって黒鹿毛、蒐弐十を駆けさせる。蒐弐十は源龍の心魂乗り移ったか、けたたましくいななき、風を打ち砕いて疾駆する。
「その身の程知らず、哀れなり」
と朱に染まった大薙刀を振りかぶり、項羽もまた騅を駆けさせ源龍に斬りかかる。これを見た韓信、羅彩女らは乱戦の中得物を振るいながらも、息を呑む思いだった。羅彩女は源龍が項羽との戦いを望んでいることを知っていたが、このどさくさにうまく紛れて、実際に挑みかかるのを見て驚くことしきり。また韓信も、源龍をこの場において望んでいいながらも、いざそれが現実となると、腸を断ち切られそうなほどの緊張を覚えるのであった。
「でぇやあぁ!」
双方裂帛の気合を発し、その得物は風を切り唸りを上げ。火花を散らし激しく激突した。周囲の者たちは突然はじまったこの一騎打ちに驚き、また剣風のうなりすさまじく、徐々に徐々に激突する二騎より離れてゆき。戦を忘れ、固唾を飲んで、じっと成り行きを見守っていた。
項羽と源龍の、それぞれの愛馬も主の心魂乗り移り、互いを激しく見据えながら、けたたましくいななき、その乗馬もまた人と人馬一体となって戦っていた。
「あのむっつり屋、あそこまで強くなっておったか」
韓信は項羽と互角に渡り合う源龍に舌を巻いていた。気がつけば、自分の周囲までもが一騎打ちに魂を奪われたように戦の手を休めていて、見入るあまりそれすら気付かないようだった。
(あ、いいぞいいぞ、励め源龍。これで漢王の逃げる時間を稼げる)
勝てぬと知りながらも打って出たのは、まさにそのためだったが。思わぬところから好機が到来したものと、韓信は心の中で喝采した。いかな無敵の項羽軍とて、大将がひとっところにとどまって戦況を把握せず、いたずらに己の勇戦にふけっていては動くことはままならぬ。しかも項羽自身、源龍を討つことに躍起になって、それに気付いていない。
(漢王の運、まだまだ尽きておわさぬわ)
と韓信は喜びをじっと噛みしめるのであった。が、それに気づいたものが項羽軍の後陣にあった。それは項羽軍の軍師、范増であった。眉も髭も白いが、齢七十を越えてもなお壮健なこの軍師は、
「いかん」
と後陣より項羽がどこの誰とも知らぬ一剣士と刃を交えているのを見て、慌てて、
「楚王ともあろうお方が、雑魚を相手になにを力んでおるのか。これでは軍の動きもままならぬではないか」
と左右のものをかえりみて、
「龍且殿に伝えよ。雑魚は龍且殿が代わって相手をせよ、と。またその方は楚王に、あとは龍且殿に任されて、劉邦を追われよ、と伝えよ」
と言うと、左右の者たちは「はっ」と辞宜をして命を受け、ぱっと馬を駆けさせて飛んでゆき。それぞれ范増の下知通り、龍且に、また一騎打ちに熱中する項羽に伝えた。
「実にも」(げにも・いかにもの意)
と龍且は馬を飛ばして大刀を引っさげ源龍向かって突っ込んでゆき、項羽は源龍を打ち捨てて劉邦を追おうとする。確かに范増の伝える通り、雑魚を相手にしている暇はない。こうしている間にも、劉邦は逃げているのだ。
「あ、待て。逃げるか卑怯者」
と後を追おうとした源龍であったが。
「控えろ下郎! 身の程をわきまえぬ不埒ものは、楚王に代わってこの龍且が一刀のもと屠り去ってくれん」
と龍且が大刀を振りかざし、源龍に挑みかかる。せっかく一騎打ちが出来たのに、項羽に逃げられ歯噛みしていたところへ、邪魔が入りその悔しさ計り知れない。
「龍且か、うぬでは役不足だ。どけ」
「ほざけ。たわ言は冥土へ逝ってから言え」
「その言葉、そっくりそのまま返してやる」
と、悔しさをぶつけるように、今度は龍且と激しく刃を交える。
(項羽に続いて、楚の猛将、龍且と渡り合うなんて、なんて男だよ)
羅彩女はたてつづけに名の知れた猛者と渡り合う源龍の、そのすさまじいまでの闘争心にただただ舌を巻くより他はなかった。なるほど、自分の目は正しかったが、ただ惜しむらくはそこまで見抜けなかったことだった。
項王来-xiang wang lai・5
さすがに今回ばかりは誰も一騎打ちを傍観せず、潮の引くが如く源龍、龍且の二騎を尻目にどっと、置いてけぼりとそのそばを駆け抜けて、項羽の後を追う。
源龍とて項羽を追いたかったが、龍且に阻まれそれもままならない。
「よし、引け。もう楚軍など相手にするな、逃げろ、逃げろ」
とこの機を見計らい韓信は退き鐘を打ち鳴らさせる。もう十分劉邦が逃げる時間は稼げたはずだ、ならもう無理にここにとどまる必要はなかった。
龍且も頃合を見ると、さっと源龍から離れ項羽の後に従い劉邦を追おうとする。逃がすか、と蒐弐十を駆けさせようとするも、前に楚の兵らが立ちはだかり行く手をさえぎる。
項羽も龍且も、源龍と刃を交えようとも、なにぶん源龍はどこの馬の骨とも知れぬ輩である。討ち取ったところで何の益もない。戦は大将格を討って意味がある。雑魚などいくら討ったところで意味はないのだ。
斬っても斬っても楚の兵は次から次へと行く手を阻む。きりがない。いかんせん、源龍ひとり。いくら彼でもその勇猛には限度がある。項羽、龍且と続けて戦ったうえに今度は数にものを言わせた人海戦術。疲労は極に達しようとしていいた。
「くそ、忌々しいやつらめ。俺はこんなところで死ぬわけにはいかん」
ようやく項羽と戦えたのに、途中で逃げられ。その後で雑兵にやられるなど、これほど無念なこともない。というとき、赤い影がさっと己を取り囲む楚兵の間を縫って割って入ってくる。
羅彩女と那二零だ。
羅彩女は楚兵を槍を振り回し、楚兵をぶっ倒しながら、
「あたしらも逃げるよ!」
とわめく。
突然の羅彩女の乱入に楚兵は乱れを見せ、その隙に、心得たり、と源龍は蒐弐十を飛ばし那二零の後に続く。
「なんで戻ってきた」
てっきり自分を見殺しにしてさっさと逃げるかと思っていたのに、羅彩女が源龍の助っ人にまわることに、意外な思いだった。が、羅彩女は、ふっと笑って。
「言ったろう、あんたがどう項羽にぶっ殺されるのか、見届けるってね。それより、先に礼を言うのが筋じゃないのかい」
とのたまいながら、那二零を飛ばす。
源龍はちぇっと舌打ちしながらも、
「そうだな、ありがとうよ」
と意外に素直に例を言った。そうそうと、乱戦の中にありながらもからから笑う羅彩女の駆る那二零の、その速さ赤き風の如しで、馬脚も強く、人馬ともに風にぶつかり、風を打ち砕き地を駆ける。源龍も目一杯蒐弐十を駆けさせるが、着いてゆくのがやっとで。改めて那二零の駿馬っぷりに舌を巻いていた。
のちの後漢末の世に、人中に呂布あり、馬中に赤兎あり、といわれている。那二零はその赤兎の先祖筋になるのであろか。ともあれ、乱戦ひと塊、血風吹きすさぶ修羅場はこれで終わりを告げたわけではなかった。
劉邦を追うほかに、城内になだれ込んだ楚兵たちはこれでもかと言わんがばかりに漢兵を打ち倒してゆき。さらにいともたやすく楚に寝返るものまであり、漢軍が最初彭城に入ったときの威勢はどこ吹く風か。昨日まで漢軍として略奪を楽しんでいたのが、途端に劉邦を追う有様。
五十万である。それらが大混乱を起こして共食いする有様が、ところどころで見受けられて。水朝優が吐いたように、この地上に地獄絵図が繰り広げられていて。それに巻き込まれてしまえば、抜け出すこと容易ではない。
水朝優や麻離夷、香澄に貴志。この乱戦に巻き込まれまいと急ぎ逃げ出したものの、あっという間に濁流のごとく押し寄せる楚漢の大勢に飲み込まれ。ことに貴志は漢兵の姿をしているので、楚兵の格好の標的となり、やむを得ず剣を振るって麻離夷と香澄をかばいながら、四方八方逃げ惑う。
ひとりひとりであるなら、貴志もそれなりの手練れである、そう簡単に負けはしない。水朝優もかつて秦の始皇帝の命ではるか西方まで旅をしただけあり、それなりに武芸の心得もあって立ちはだかる楚漢の兵を叩き斬ってゆくものの、いかんせん衆寡敵せず、きりがないと悲鳴を上げる。
麻離夷は笛を吹きながら香澄の手を取り、貴志や水朝優にかばわれどうにか今のところ無事でいられてはいるものの、このままでは四人ともどうなることやらと案じられて、恐ろしくて、白い頭巾の中で笛の音をとともに声にならぬ声で悲鳴をあげ、あえいでいる。
「麻離夷!」
剣を振るいながら水朝優は叫んだ。
「こうなったら仕方がない。香澄を使え!」
その言葉にはっとした麻離夷だったが。くわえた笛から音は出ず、何か迷っているようだ。そこへさらに水朝優は、早くしろと畳み掛ける。
「このままでは俺たち皆やられてしまうだけじゃない。お前と香澄は女の悲惨を味わいながら、なぶり殺しだぞ。それでもいいのか!」
それでもなお迷っているところへ、後ろからがばっと漢か楚の兵がしがみつき。その手が胸を鷲掴みにし、麻離夷は何か破裂でもしたかのように悲鳴を上げる。笛が地に落ちる。
「あ、こいつは女だ、女だぞ!」
とその兵は狂喜して叫んだ。白頭巾で顔を覆っていたため男女の別がつきにくかったが、その柔らかな感触を感じて早速押し倒そうとする。そこへ貴志が激しく兵に蹴りを入れ、思わず麻離夷の手を取って剣を振るい暴虐の徒と化した兵たちを必死になって振り払う。無論、香澄にも同じような輩が殺到する。
貴志は返り血を浴び、甲冑もところどころがほころび、そこから赤い血が筋を引いて垂れ落ちている。それでも、麻離夷をかばい戦い続けている。
繋がれる手の熱さを感じながら、麻離夷は貴志の必死の横顔を見つめた。彼も強く、その強さで自分を守っていてくれるが、それもいつまで持つかどうか。
「ほら、早くしろ!」
地に落ちた笛は水朝優がすぐさま拾い上げたのでどうにか無事だった。麻離夷はもう迷ってはいられないと、笛を口にくわえ。ぴいひょろろ、と力強く吹いた。すると、それまで光のなかった香澄の瞳に光りが宿った。
麻離夷の手を握り、それをかばいながら、貴志は目を見張った。笛が吹かれるや否や、香澄は紫の衣をひるがえし風に遊ぶ蝶のように舞い、七星剣を振るい。
楚や漢の兵、自分たちに襲い掛かるけだものたちをかたっぱしからなぎ倒し。笛の音に乗って、血風を激しく吹かせてゆく。
七星剣の剣身に埋め込まれた北斗七星の紫の珠は、血風の中、妖しく光り輝き。香澄が振るうたびに、紫色の七つの残影が虹のように筋をつくって、これまた血風の中流れてゆく。
麻離夷は力の限り笛を吹く。その笛は竹の小笛で穴も一箇所のみで一見簡単なものだったが、麻離夷が片手に持って一くわえすれば、たちまちのうちに様々な音色が弾き出されて。その音は時に甲高く、時に低く重く。朝夕潮が満ちまた引くように、はたまた山の木々の葉が風に吹きさらされ騒ぐような、そのうちに陽が昇り沈んでいき、変わって月や星たちが空に浮かんでゆくような。整った音律は聞く者の耳に溶け込みつつも千変万し、音色によって血流の速度まで変わっていきそうだった。
項王来-xiang wang lai・6
貴志は片手に剣を、片手で麻離夷の手を握りながら笛の音色を耳にし、その音色に聞き入りそうだった。のみならず、不思議と気持ちが高揚し恐怖が薄れ、どこか音色に操られそうな不思議な思いにもとらわれていた。
なにより、笛の音にあわせ、踊るように剣を舞わせる香澄の、その姿。
(そうか、あの時の笛はこの人が吹いたものか)
ということは、あの時このふたりはその場にいたのか。そして、笛の音によって香澄を意のままに操ることが出来るらしい。ごくりと唾を飲み込んでしまった。一体この人たちは何なのだろう、と。
疑問が疑問を呼ぶ。それを察したか、
「後でゆっくり話してやるから、とにかくここから逃げ出すことだけに専念しろ!」
と水朝優は貴志にどなった。
不意に麻離夷の横顔をのぞいた。彼女も生き残ろうと必死に笛を吹いている。手は、貴志から離さずに。この乱戦、命の危機に瀕しているからか、人のぬくもりや熱さが恋しいのか。麻離夷も貴志の手をしっかと握っていた。
(そうだ、まずは生きなければ)
うん、と力強くうなずき、迫りくる楚や漢の兵たちをひたすら剣で追い払い、斬り払った。降りかかる火の粉は振り払わねばならない。たとえこっちが不戦と唱えても、むこうはいきり立ってそうではないから。それでも、貴志と麻離夷の心は痛んだ。
その麻離夷の興奮も極に達するか、笛の音は力強さを帯びてくる。それにともない香澄も剣を舞わす速度を増す。というときだった。
四方在喊声廻響
剣飄舞
北斗血風閃亮
這是七星剣
但是七星不眺望我
七星求君
七星求君
四方に喊声響き
剣は舞い
北斗血風に光る
これ七星剣ならん
されど七星我を望まず
七星君を求める
七星君を求める
はっと耳をそば立たせれば、それは香澄が歌っていた。声可愛げで低く控えめで柔らかなれど、喉や腹どころか心の奥底から押し出されるような力強さまで感じさせ、よく響く。
「香澄が、うたを」
貴志が驚いたのは言うまでもないが、もっと驚いたのは水朝優と麻離夷だった。今笛の音によってこの美しき屍魔は操り人形となっているはずだ。それがなんでうたを詠うか。
それに、君を求めるの、君とは誰のことなのか。
どうにか身をかばいながら唖然とする中で、
「やっ」
と叫ぶ声がした。その声の方を振り向けば、貴志と麻離夷、水朝優は生きた心地もせず、もう駄目かとさえ思ってしまった。
視界の先には、覇王項羽が愛馬騅に打ち跨って、大薙刀を高々と掲げ軍勢を指揮していた。それが香澄をじっと目を凝らして見ていた。楚の兵を容赦なく七星剣で葬り去ってゆき、項羽の怒りに火をつけるかと生きた心地もしなかったが。
「虞よ、虞よ」
それまで鬼神のごとき形相であったのが、途端に今にも泣き出さんばかりの悲しさに包まれて、そう叫んでいた。かと思うとおもむろに、大薙刀を高々と掲げ、
「とどまれ!」
と全軍に向かい怒号をはなった。
その声まるで人より雷鳴り響くがごとくで、周りにいた血気にはやる兵たちも、楚漢の別なく気を一片にそがれてしまって。変わって修羅場には、ぴんと糸でも張られたような緊張と静寂に包まれた。
貴志も麻離夷も、水朝優も、その周りの兵たちも、落雷に驚いたかのように、木偶のように動かない。
が、香澄は項羽の命など意に介さず剣を舞わせて、項羽向かって駆け出す。その手に七星剣が光る。
「汝女の身にてその手にもちたる剣はなんぞ」
と大薙刀を香澄に向け突き出し、今にも斬りかからんがばかりな勢いを示した。しかしながら項羽の心中穏やかではなかった。香澄の、乱戦の中剣を舞わせうたを詠うさまを目に、信じられない思いでもあったし。そこへきて、それが初恋の少女の面影を持っていたこと。
(虞よ!)
と心にいたく衝撃を受けた項羽は、初恋の少女、虞を思い起こし一瞬だけ軽い錯乱状態に陥った。虞は項羽の少年時代に、ぱっと花の散るがごとく若き命をまっとうしたはずだ。それが、まさか生き返ったわけなどなく、そうでなくとも虞が乱戦の中剣を舞わせるような芸当などまず出来ないことも項羽は知っている。だが、それでもその心は千々に乱れ、息すら整えることが精一杯。覇王とて、いまだ二十六の若者であった。
水朝優と麻離夷は、七星剣を手に項羽に近づく香澄を、生きた心地もなく見つめていて。そばで貴志も同じように、息を潜めて成り行きを見守っている。
(この娘は何者だろう。どうして虞に似ているのであろう)
香澄は項羽の戸惑いなど知らず、顔に微笑すら浮かべている。それを見て、彼の脳裏にありし日の虞の面影が浮かんでくる。それが、香澄と重なった。
「虞、汝は虞か」
思わず、口走った。彼はいま十五の少年に戻っていた。虞も項羽と同い年で、その十五の歳に……。
周囲は呆然としている。覇王の、覇王らしからぬさまに驚くあまり魂をもぎ取られたように。その遠くから、けたたましき馬のいななきと黒鹿毛の駆ける蹄の音と、
「うおおぉぉぉーー!」
と股夫剣をかかげ絶叫し項羽に迫る源龍があることに、気付くものは少なかった。
香澄は項羽に向けていた微笑を、迫り来る源龍に向けると、憂いを含んだ悲しげな眼差しになって、その瞳が憂いに濡れ光り。七星剣の北斗七星もまた光り。
すぅ、と風に乗るように衣の袖をはためかせながら迫り来る黒鹿毛へと駆け出した。
「香澄!」
前に立ちはだかる者があった。それが香澄だとわかって、源龍はまた絶叫し。黒鹿毛を駆けさせ一剣必殺とばかりに、一陣の剣風を巻き起こす。しかし香澄はその剣風に乗ったかのように、ふわりと蝶のように高く舞い上がり、これもまた一陣の剣風を巻き起こし。
双方の剣風互いに鬩ぎ合い(せめぎあい)、ぶつかり合って。北斗七星は光った。
ことに一方は馬上より、一方は徒歩で。源龍は蒐弐十と人馬一体となって、香澄を攻めた。しかしながら、香澄は蝶のようにひらひらと舞い、己向かって繰り出される剣風をかわすばかりか、時折高く跳躍し七星剣の繰り出す剣風をもって源龍を翻弄した。
七星不眺望君
七星不眺望君
……
七星君を望まず。戦いの中、短いながらも香澄はさっきと同じようにうたを詠った。そりゃどういう意味だ、といぶかりながらも、源龍は股夫剣を振るう。
ふたりの周囲には数万と兵がひしめいているのに、まるで無人の野のような傍若無人な戦いぶりであった。
項王来-xiang wang lai・7
これに黙っていられなかったのは、項羽であった。
「助太刀」
と叫ぶや、大薙刀を振りかざし竜巻を起こして、源龍と香澄の繰り出す剣風まで飲みこもうとする。そこへ、赤い影がすかさず割って入る。これなん赤鹿毛、那二零に打ち跨る羅彩女であった。
羅彩女は槍を振り回し、気合の一喝をほとばしらせながら香澄を馬上よりその長柄で打ち払おうとする。
それはさらりとかわされ、そこへ項羽の大薙刀が迫る。
(ああ、だめ)
大薙刀の唸り声に胆を縮め、さすがの羅彩女もこれまでかと観念した。が、それを受け止める股夫剣。
がっきと、火花が散るや大薙刀と股夫剣は唸りを上げて何十合も渡り合った。羅彩女はというと、槍を振るって香澄と渡り合うも、北斗光る七星剣のもと、防戦一方だ。
源龍、羅彩女とこの乱戦を逃げ惑う中、幸か不幸か項羽をみつけ、再戦を挑んだのであった。が、よもや香澄までいようとは。その心はますます燃え上がった。
それを、
(またか)
と苦々しく眺めているのは、老軍師范増であった。その気配を察したか、項羽は途端に馬を返し、
「勝負は後日」
と言うと、源龍を置いてゆこうとする。そこへ、羅彩女を攻め立てていた香澄も取って返し、項羽に付き従うではないか。それを見て、
「我とともにゆくか」
と項羽は問えば、
「どこまでも」
と香澄は応える。
項羽は少年のように顔をぱっと輝かせると、手を差し伸べ。香澄もまた手を伸ばして項羽の手を取り、ひょいと飛んで騅の腰にうまく腰をかけ、項羽の背につかまる。
水朝優と麻離夷は呆然とそれを眺める。
「逃げよう。とにかく逃げよう」
貴志は夢から覚めたように、はっとして言うと。麻離夷の手を取って走り出し。水朝優もそれに従った。
ぱっと空気が弾けたように周囲は己を取り戻して、再び刃を交え乱戦模様を呈してくる。源龍、羅彩女もいい加減逃げねばと、蒐弐十、那二零を駆って戦場から抜け出し。彼ら彼女らは乱戦より逃げ出す過程で落ち合い、黒鹿毛と赤鹿毛を先頭に逃げ道を切り開き。辛くも一命を取り留めたのであった。
戦場よりかろうじて逃げ延び。
源龍らはとりあえず安堵のため息をつく。ことに麻離夷の疲労ははなはだしく、羅彩女は馬を下りてやって、麻離夷を乗せてやった。
重い足を引きずりながら、たどり着いた小さな集落。この戦乱で逃げ出した民も少なくなくて、空いている家屋に宿を求めるのは造作もなかった。
「まさか、香澄が」
水朝優と麻離夷はただそればかりつぶやいていた。確かに項羽に近づきその愛妾となる段取りではあったが、馬鹿正直にそれを遂行する気もなかった。
「もう、なにがなんだか……」
麻離夷は頭巾を取り、頭を抱えた。その金髪碧眼の容姿に、源龍、貴志、羅彩女は改めて驚き、思わず彼女をまじまじと見やってしまう。
(ここまで色の違う髪と目は見たこともない)
万里の長城の向こうにある草原や砂漠地帯で幼年を過ごした羅彩女も、麻離夷の容姿はかなり珍しいようだ。長城を越え、西へゆくほど中原と異なった目鼻顔立ちに肌や髪に、目の色の人種や民族があることも知っている。それにともないその文化様式も違ってくる。幼年期に匈奴人として過ごした蒙古の草原や砂漠地帯は西域やシルクロードの中継地としても知られる楼蘭、敦煌などのオアシス都市や国家があり。独自の文化を築きつつも東西強国の板挟みに置かれるのだが、それが史書において顕在するのはやや後の時代のこと。
ともあれ、皆疲れているから今日のところはゆっくり休み。詳細は翌日語られることとなった。
朝、源龍と羅彩女はそれぞれ馬を駆って狩りにゆき、当座の食を求め。
貴志は早く起きて、周りに異常がないことを確認して回った。追っ手がいまいか、といつでも剣を抜けるよう身構えて。その間にも、麻離夷の顔がちらちらと脳裏に浮かぶ。あの乱戦の中、咄嗟に手を握ったこともひっきりなしに浮かぶ。どうしたのだろう、と自分でもおかしいとは思っていたが、ひとりの女性が気になるなど初めてのことで戸惑いも覚えた。
見回りが終えると、麻離夷が笑顔で出迎えてくれていて。貴志は思わず顔を朱に染め、自分の心の動きを察せられまいとどうにか冷静を装うのであった。
そうするうちに源龍、羅彩女が戻り。狩ってきた兎や小鳥をさばいて火にあぶる。
「さて……」
肉が程よく焼け皆がそれを口にするころ、それぞれの自己紹介を経てから、水朝優が重い口を開いた。
自分がかつて秦に仕えていた事。始皇帝の命で不老不死の妙薬や方法を探るため西方へ旅したこと。そこで『活死自在経』を見つけ、持ち帰ったこと。その過程で、大月氏よりもさらに西方より彷徨い旅した麻離夷に出会ったこと。
そして、趙高が生きて『活死自在経』をもって屍魔をつくり上げた事。香澄もその屍魔であること。その香澄を項羽に近づけること。漢の密偵を無残に殺したことなどなど、洗いざらいすべてぶちまけた。
その間、麻離夷は黙ってうつむいたままだった。笛の音によって、屍魔を思い通りに操ることもまた、『活死自在経』に記されてあったことだという。
「まったく、とんでもないものを見つけてしまったものだ」
と水朝優は苦々しくつぶやいた。
「俺は、ただ秦の臣たらんとしてのことだった。地獄を作り出すことまで望んではいない」
「よく言うものだ」
声を荒げ、水朝優に迫るのは貴志であった。貴志は祖国韓を秦に滅ぼされ、張良とともに復讐と復興のために今まで生きてきた。秦への憎悪はそうそう消せはしなくて。そこへ来て仲間の非業の死、それこそ目の前の秦人を今にも、斬り殺さんがばかりの剣幕であった。
「秦の世も地獄であったではないか。秦のためにすることは、これすなわち地獄をつくることではないか。何の違いがあるというのだ」
迫る貴志に水朝優は押し黙っていた。言い訳はせず、貴志の吼えるに任せていた。そこへ、源龍はおもむろに立ち上がると、その胸倉を引っ掴み。思いっきり拳をその頬に見舞った。
「何をする!」
いきり立った貴志は剣を抜く。だが源龍も股夫剣を抜かず、じっと対峙する。
「お前は楚の人間だろう。秦が憎くはないのか。残り三戸となるも、秦を滅ぼすのは楚ならん。というのは嘘か」
「うるせえっ!」
すべてを掻き消す大喝。源龍はぎろりと貴志を睨み。周囲は緊張につつまれる。
「甘ったれやがって。てめえひとりぎゃあぎゃあ騒いで何になる。それが腹が立つのさ」
ふん、と鼻息も荒く。
とつぜん貴志の胸倉を片手で掴んだと思ったら、もう片方の手で、
「お前、きんたまはあるか」
と突然急所もつかんだ。
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