scene4 争乱の都
争乱の都・1
さて源龍が羅彩女と那二零と出会って、徐州へ目指しているころ。貴志は主の張良とまみえて、自分が遭遇したことを語った。
あれから馬を飛ばし、徐州へと向かう漢軍に追いついて、合流し張良と会った。そのとき軍勢は征旅の疲れを癒すため、一時の休みを取っていた。
「張良様」
貴志は主の名を呼んだ。どこか、気が重く沈んで、憂いを含んだ声色だった。漢の軍師、張良はその容姿、美しき婦女子のごとく、いわば美男子でたたずまいなどは、まるで春風軽やかに吹くがごとし。
だが貴志には春風は吹かず、かえって冬の冷たい風が吹き付けるようだった。
なぜか。
「そちは、夢でも見たのであろう」
と、語ったことを一蹴されてしまったからだった。
「しかし……」
「もうよい、下がれ。そちは疲れておるのだ、しばし休め」
これはほんとうのことです、と食い下がろうとしたが、にべもなく幕舎を追い出されてしまった。
屍魔など、なにを言うのかと思えば。事の次第を語った後に出た、軍師のその冷たい言葉。世迷言であると、まったく信じてもらえず、話を聞いてもらえない。無理もないことである、誰しも実際に屍魔など見たことはないのだ。
「私に長く仕えてきた真面目な貴志が、突然何を言うのかと思えば……。この長き戦乱の中にあって、疲れが出てきたのであろうか。となれば、彼をこれからも使い続けることは、ちと考えものじゃのう」
ふう、と哀れそうにため息をつく。迷信深い時代ではあったが、張良はそんなおかしなことは信じていなかった。そういうものは、目の錯覚や何らかの思い違い思い込みに過ぎない、と非常に達観した、冷めた認識だった。
それよりも、劉邦のために働かねばならない。おかしなことを言うおかしな部下の密偵に、構ってはいられないのだ。
張良は韓人である。貴志もまた韓人。秦に滅ぼされた祖国の復興のため、血を吐く思いで生きてきた。
その秦が滅び祖国、韓は復興した。それまでの苦難を思うと、喜びは並大抵の大きさではない。が、その喜びは長く続かなかった。
あろうことか、韓王は項羽のお気に召さなかったか、殺されてしまった。張良や貴志の怒り、それはそれは、喜びが大きかった分怒りと哀しみ、そして復讐心も大きかった。
張良は劉邦の軍師として、貴志は張良配下の、漢の密偵としてふたたび戦うことになった。
そんな貴志だったが、出立の直前、張良からお暇をたまわった。つまり、解雇である。今までよく働いたと、いくらかの褒美もあり。添えられた書簡には、君は疲れているようだ、じっくりと休んで心身ともに落ち着けたがいい、というようなことが書かれていたが。これは言外に、貴志が屍魔の話をしたことを怪しみ、これでは密偵として使うことは出来ない、ということだった。
それに貴志が、ひどくがっかりしたのは言うまでもない。
今まで張良の部下として、漢の密偵としてしか生きてこず。それ以外の生き方など、とうていすぐに思い浮かぶものではない。これからどうしようと、漢の軍勢を見送りながら呆然とするしかなかった。
が、いつまでもこうしてはいられない。とりあえず、着いてゆくだけ着いてゆきながら、これからのことを考えよう、と思った。
そこで夜になると、夜陰に乗じて持ち前の武術をもって、そっと漢兵のひとりを気絶させ。退職金の褒美の一部と引き換えにその軍装を頂き、漢軍の下級兵の部隊に紛れ込み、居候を決め込んでしまった。幸い密偵だったので下級兵は彼の顔を知らなかったが、用心してほんとうの名は隠し、回七という思いつきの偽名を使った。
徐州までの道のり、無論戦はあった。その戦は連戦連勝。飛ぶ鳥を落とす勢いであり。それにともない、味方も増えた。軍勢の意気も上がり、向かうところ敵無し。
張良に解雇され行き場なく、やむなく漢軍に紛れ込んだ回七こと貴志であったが、さすがにこの時は胸のすく思いがした。
だが、この連戦連勝を、変に気味悪がっていた者がいる。
韓信という者である。彼ははじめ項羽に仕えていたが、厚遇を得られず、劉邦に鞍替えしたのだ。それは成功で、最初こそいざこざもあったが、彼を認めてくれるものもあり、国士無双と称され、ついには大将軍に抜擢されて、仕官間もない身ながら諸将を取りまとめて指揮する立場にまで昇った。
そしてその立場での仕事を見事にこなしていた。
その韓信がである。
「これで、ほんとうに良いのだろうか」
と、何か悩んでいるようだった。劉邦はというと、
「いいじゃないか」
と単純に喜んでいる風があった。
軍師の張良は韓信と同意見のようで、劉邦のかたわらにいながら、何度か韓信と目配せしあったこともあった。劉邦という人物は、それこそはじめは一介の侠客であったが、天然的な人徳を備えて人の意見をよく聞くこともあり、またなにより愛嬌と頼もしさもあわせ持ち、我知らず彼を慕うものは多く。いつの間にか多くの人にかつがれて、軍勢を率いて楚軍に加わり、ついには項羽と天下を二分するところまで来てしまった。が、惜しいかな、戦に関する勘どころはなきに等しく、一軍の将としての素質などとても持ち合わせていなかった。ために、今の連戦連勝を素直に喜んでいた。
ともあれ、出征当初は三万だった。司令官たちは懸命に策を講じ、戦に勝ち、それから味方も増えていき、気がつけば五十万を超えた。よほど項羽は不人気だったのだろうというのが、これでよくわかった。が、漢軍の司令官たちは、そのために、敵と戦うよりも増えすぎた味方を制御する方に心血を注ぐこととなる。
味方とはいえ急に出来上がったもので、人員の掌握も間に合わず、不確定要素も多く。いわば坂を転げ落ちる雪だるまのようで、壁にぶつかった途端に、ぱっと散るようにして、瓦解するともしれなかった。そこで、一切の略奪行為を禁じ、破れば死罪という風に軍律を厳しくして、気を引き締めさせ。そして戦に勝つことで意気を上げたうえで、楚の都、徐州の彭城をひたすら目指させるという具体的な目標を与えることで軍勢をまとめようとした。
それは一応の成功を見、敵を撃退し、地元の民百姓から歓迎されてはいた。
そんな時である。韓信に会いたい、という者があるという。それは源龍という、楚の生まれの、江湖の流れ者の剣士であるといい。韓信をよく知っているという。おまけに、やけに具合の良い馬と、やけにきれいな女を一緒に連れているという。
報告を聞いた途端。
(源龍。あ、あいつか!)
韓信の脳裏に、項羽のもとにいたころのことが思い出された。
(あのむっつり屋、いつの間にかいなくなっていたのが、馬と女連れで急に現れたとは、これはいかに)
まあ、いい。とりあえず会ってみよう、と会ってみた。
この時軍勢は、ある城をおさえ、韓信はその城に住む富豪の邸宅を使っていた。使いのものは源龍の薄汚さを少しいぶかしみながら案内し、韓信のいる間へと通した。
馬と女はというと、どんなものか興味がないわけでもないが、馬はまさか邸宅に入れるわけにもいかないし、女は女で、それを近づければ大将が女遊びにうつつを抜かしている、などとあらぬ誤解を招きかねなかったので、やはりこれも入れられず。外で控えさせている。
「やあ、やっぱりお前だったのか」
「ああ、久しぶりだな。韓信さん」
ふたりは顔を合わす途端、互いに笑いあって再会を喜んでいるようだった。そこへ、
「控えろ!」
という怒号が飛んだ。
争乱の都・2
「畏れ多くも漢の大将軍の御前である。本来ならお前のような薄汚い浪人風情など、どうしてあいまみえることなど出来よう。それを、ご厚情から会ってくださったにもかかわらず、礼儀作法もないばかりか、こともあろうに……」
間の一角で控えていた部下が、わなわなと震えながらなにやら口ごもっていた。源龍が礼を欠くうえに、大将軍を韓信さんと呼ばわったことを責めているようだが。あやうく部下はその「韓信さん」、という呼び方を言いそうになり、慌てて言葉をさえぎった、という次第。まさか部下が上官をなになにさんと、口にするわけにはいかない。
「あっ」
と気まずそうに源龍は跪き、頭を下げた。そうそう、それでよいのじゃ、と言いたげに部下は源龍を見下ろし、韓信は苦笑している。懐かしい相手を前に、つい自分も楚の一兵士であったころの昔が出てしまった。そのため、源龍もつい、一兵士のままで話しかけてしまったのだろう、と心で相手に詫びていた。
本当なら自分も一兵士にかえっていたかったが、いまや大将軍という立場、しかも軍律を厳しくしている。まあよいまあよい、と軽くいえないのがなんともむずがゆいような気がする。
部下はぎろりと、源龍を見下している。じっと構えてはいるが、内心はかんかんのようだ。これにも苦笑し、やむなく韓信は、
「昔のよしみで会うことにしたが、そう礼を欠かれてはな。お引取り願おう」
とにべもなく、追い返そうとする。源龍は目を点にして、韓信を見ていたが、その片目を一瞬だけ閉じて、なにやら目で意思表示しているようだ。
(今回は是非もない。また別の機会でな)
と韓信は心でそう語りかけていた。幸いなるかな、源龍もそれを察し、今度は礼儀正しく使いのものに案内されて、邸宅を出て行った。
(やれやれ)
なんとも難しいものだ、と苦笑しきりの韓信は源龍を見送ると、軍務にとりかかった。
で、邸宅を出て、那二零と一緒に源龍を待っていた羅彩女。源龍が出てくるのが思ったよりも早く、しかもなにやら気まずそうな顔をしているのを見て、
「追い返されたのかい」
とにやにやしながら言う。源龍は怒るどころか、気まずそうに、
「うん」
と頷く。
その素直さに羅彩女はかえって拍子抜けし、あやうくずっこけそうになってしまった。
源龍と羅彩女に、那二零。このふたりと一頭は、あれからも行動をともにし、ここまでやって来た。
その道のりの途中で、俺は韓信を知っている、と大見得を切っていたのに、こうもあっさりと追い返されて、気落ちまでしているというのはどうであろう。
「ほらよ」
と、ふた振りの剣を源龍に返す羅彩女。知り合いとはいえ、漢の大将軍に会うのだ、無論帯剣はできないので、預けていたものだ。
「落ち込んでも仕方ないやね。しお(機)を見て出直すしかないんじゃない」
「そうだな。そうするか」
ふたりと一頭は、収穫無しの寂しさを背負って、とぼとぼと城から出て行った。
そもそも、項羽と戦う夢というか、漠然とした夢妄を描きながら江湖をひとりさまよい歩いていた源龍である、剣しかない源龍である。礼儀がそなわっているわけもなかったし、相手の立場を慮る思考もなかった、所詮下っ端兵士であった。ということを、この時いやというほど痛感してしまった。
それも、相手が韓信だからだった。他のものなら、こうはならなかったろう。
自分の剣を腰に佩いて、背中に七星剣を負う。
歩きながら時折、剣の柄を指でとんとんと軽く叩く。その手ごたえを感じて、あの時の韓信の目配せを思う。
(別の機会。そうだな、戦の真っ只中に飛び込んで、俺の働きを見せ付ければよいのだな。いや、なんでそれをもっと早く思いつかなかったのか)
源龍は自分の行き当たりばったりなやりかたを、今さらのように気付いて、忸怩たる思いに胸を詰まらせ、なんだか今日はやけに沈んで。
その様子に、羅彩女はちょっと、かえって不気味な怖さを感じていた。それもそうだった、
(この剣は、韓信さんが俺にくれたものだ。韓信さんは、楚軍でただひとり、俺を認めてくれた人だ)
楚軍時代、源龍は勝ち気な性格が災いして、誰とも馬が合わなかった。だが当時一緒に楚軍にいた韓信だけは、源龍を認めてくれていた。さもあろう、韓信は韓信で、周りから、「股夫」(こふ)と呼ばれてけなされていたのだった。
楚軍に加わる前の浪人時代、あぶれ者でそのくせ剣だけはしっかりと腰に佩いていた。それを見たならず者に「その剣で俺を斬ってみろ。それが出来なければ、俺の股をくぐれ」と挑発されたが、挑発に乗らずに、股をくぐった。
以来、臆病者という悪口の意味で「股夫」と不名誉なあだ名がついてしまった。もちろんそれでは人に好かれるどころか、馬鹿にされ嫌われてしまうことが多い。
要するに、嫌われ者同士で同類相憐れむ、という感情があったのだろうか。妙に、韓信と源龍は気が合った。仲間たちから外れて、ふたりで酒を酌み交わすこともしょっちゅうだった。
そんな折、源龍はある戦で剣を叩き折られてしまった。それを見た韓信は、
「俺の剣をやろう。股夫が使っていた剣だから、股夫剣だ」
と冗談交じりで言っていた。
「他は知らず、剣にかけては、お前さんが断然上だからな。この剣も、良き主のもとで、よく働かせればそれ以上の幸いはなかろう」
と、からから笑って、源龍に剣をわたした。
そう、源龍の剣は、韓信からもらったものなのだ。なかなかよく斬れる剣で、名剣といっても差し支えなかった。なるほど、あぶれ者の浪人がこんないい剣を持っていれば、難癖をつける輩が出るのもうなずけるというものだ。
ともあれ、おかげで自信を益々つけて、それにともない剣技も磨きがかかった。今の源龍があるのは、韓信のおかげであると言ってもいい。
それからふたりは別々の部隊に配属されて、以来音沙汰がなかったものの。剣をくれた恩は忘れたことはなかった。
その韓信が劉邦に仕え、漢の大将軍にまでなった、と聞いたときは驚きもしたが。また項羽と戦う機会が得られるかもしれないという望みと、韓信への恩返しをしたい、というのもあって、漢軍に加わろうとしていたのだった。
が、さて、まっとうなやり方が出来なかった源龍。良い機を得て、韓信と一緒になれるかどうか。すこし後ろでは、羅彩女が那二零に乗ってぱかぱかと着いて、さあどうしようか、と考えながら歩いている源龍の背中を笑っていた。
争乱の都・3
機というものは、望めど望めど、ないときはなくて。
漢軍はあれからこれと言った戦もなく、とうとう徐州の彭城まで来てしまった。彭城はというと、楚王項羽が反乱軍を鎮圧するために留守にしていたため、五十万という大軍の前に、あっけなく門を開いた。
軍中にあった貴志は、そのあっけなさに驚きもしたが、敵の本拠地を占領できたということに、素直に喜んだ。他の兵も喜んでいた。
それは、貴志とはまた違った理由からだった。
楚の都だけあり、彭城は大きく豪華絢爛。人も物資も地方の都市とは桁違いに多い。それは、血気にはやった兵たちにとって、略奪という楽しみを与えることとなり。
途端に、漢軍五十万は暴徒と化し、思い思いに略奪を楽しみ。かつて項羽率いる楚軍が、秦の都咸陽でそうしたように、漢軍もまた、同じように破壊に猛り狂った。あちこちで火が放たれ、建物は壊され、市民はたちどころに虐殺され、金銀財宝は奪われ、女は犯され、そこには道徳も倫理観もない、ただ狂い、欲望の爆発みがあった。それは地獄絵図であった。
「……」
機を得られず、成り行きで彭城まで来てしまった源龍と、羅彩女はこの光景を唖然とながめ、金縛りにあったように身体が動かなかった。
今まで毅然と進軍していた「軍隊」の、その変わりよう。
目ざとい者が、羅彩女を見かけるや、毒牙にかけようとわっと襲い掛かってくる。いかに武芸優れたふたりといえども、五十万の暴徒の前には無力であった。
ここまで来る途中で手に入れた槍を振り回し、暴徒を追い払うも、次から次へときりがない。源龍も剣で追い払うものの、やはり同じできりがない。忌々しく舌打ちし、
「逃げるぞ!」
と逃げるしかなかった。途中までしつこく追ってくるものもあったが、
「おい、無理に追いかけなくても、他にもいっぱいあるぞ!」
と他の兵が呼び止めると、それらは呼びかけに応じ源龍と羅彩女をあきらめ、他の獲物を求めていった。
「やめろ、やめるんだっ!」
貴志は暴徒と化した戦友たちをいさめ、略奪暴行をやめさせようとするが、聞く耳持たずで一向にやめない。ばかりか、やめさせようとする貴志を忌々しそうに睨みつけ。
「なんじゃい、聖人君子ぶりやがって」
とかえって貴志までも手にかけようとする。これにはやむなく、拳法をもって防ぎ、時には暴れまわる戦友たちを止めることもあったが、それは火に油をそそぐようなものであった。せっかくの楽しみを貴志の行為に邪魔され、いよいよ怒りも込み上げて。数に物を言わせ、数人で一斉に襲い掛かってくる。
これは貴志もたまらず、後ろ髪を引かれる思いで走って逃げるしかなかった。
逃げる中で目に飛び込む、悲惨な光景。折り重なる屍の中、死せる母親の腕の中で息絶えた嬰児もあった。
(ああ、なんということだ)
目も当てられなかった。知らずに涙が溢れてくる。
遮二無二に駆けて、彭城から遠く離れたところまで逃げた。背中に打ち付けられる阿鼻叫喚が小さくなって、そこでようやく足を止め。地に突っ伏して、泣いた。とめどもなく涙が溢れ、貴志はひたすら泣いた。
「こんなことのために、俺たちは今まで戦ってきたんじゃない」
もう、それしか言葉はうかばかなった。何のために戦ってきたのであろう。秦の暴政を憎み、故国の復興とともに、この地上に安楽をもたらさんと、戦ってきたのではなかったか。
それが、同じことの繰り返しとは。
張良は何を考えて、漢軍の略奪を許したのであろう。むしろ解雇されてよかったのではないか。様々な思いが涙とともに溢れるが、いやそれよりも、今は泣くことしかできなかった。
韓信と張良といった劉邦の心ある臣たちとて、無論この暴挙をいさめた。しかし、
「なんで天恵を捨てられようぞ」
とこの暴挙をあろうことか劉邦自身が楽しんでいた。今まで我慢に我慢を重ねて、禁欲的な進軍をもよおしてきたのは、まさに今日のためではないか、と。彭城はそのための天恵ではないか、と。
戦といえば、勝てば好き放題奪える。という戦争観。
(こういうことをしても良いのだ)
勝つことによって、そういう気持ちが芽生え。支配される。それに抗えるのは、この五十万の中の、ごくわずかであった。
だがどうすることも出来ず、それぞれ奥に引き篭もって熱の冷めるのを待つしかなかった。
(これは、やばいぞ)
韓信は気が気でない。彭城を獲ったといっても、こう好き放題ばかりしていては。この楚の都は、項羽の主力が留守だったという好条件のもとで獲れた、ということをほとんどの者が失念している。これでもし万一のときの守りに備えられるだろうか。
「否、否。項羽が取って返せばたちまちのうちに崩れ去る」
五十万といえど、それが烏合の衆であれば意味がない。だからこそ、規律を厳しくし「軍隊」としての体裁を整えようとしたのに。ここに来て、一挙にご破算になってしまった。進軍中に感じていた違和感が、現実のものとなってしまった。
「こうなれば是非もない。我らだけでも、城の守りを固め、万一に備えよ」
やむなく韓信は直属の部下たちにそう告げた。さすが彼らは他の兵たちに混ざって略奪暴行はせず、韓信の命をやきもきしながら待っていた。
(源龍はいまなにしてる。こういうときこそ、あいつがいてくれれば)
と思ったものの、いないものを当てにしても仕方がなく。自分のすることに専念するしかなかった。
その、地獄絵図の繰り広げられる彭城を遠くから見守る影が三つ。
夜も更けるというのに、城内の乱痴気騒ぎは収まらず、ところどころに放たれた火が闇を裂いて空に広がり、薄墨色の雲さえも照らし出す。月は下界の様を見たくないのか、雲に隠れてしまっていた。
「ふん」
ひとり、男が吐くように言う。
「華山で地獄を見、下界でも地獄を見。地獄ばかりだ」
と忌々しそうに、奥歯をぎっと噛みしめる。
そばにいた白頭巾に白い衣の者は、そっぽを向いて無言のまま。またそのそばに、紫の衣の少女が、腰に鞘を下げて、呆けて彭城を眺めている。
香澄だった。その黒い瞳を通じて、何を思うのか。
争乱の都・4
男は香澄をちらりと一瞥し、ふう、と男、水朝優はため息をつく。
(まったく、よく出来たものだ)
かつて秦に仕え、始皇帝の命令により不老不死の妙薬を捜し求めた。いったいどのくらい、西へ西へと旅をしたことか。行けども行けども、果てなどなく。永遠にこの大地が続くかと思われたこともあった。土地が違えば人も違い、その文明・文化の様まで違って。まこと秦と陸続きなのか、知らないうちに異次元の国へ飛んでしまったのではないかと、と何度驚かされたことであろうか。
そんな中で、月氏の国というところで、『活死自在経』を見つけてしまった。そう、見つけてしまったのだ。
すべては、そこから始まった。
(俺は、地獄をつくるために経を見つけたのではない)
と思うと、どうしようもなく、忸怩たる思いに駆られる。まだ若く、純粋な忠誠心より経を見つけた。それが、現実はどうだ。まんまと趙高にそそのかされ、経を研鑽し、屍魔をつくり。その屍魔をもって、この地上にさらなる地獄をつくりあげよとしている。
(俺は、どうすればよい)
彭城の阿鼻叫喚を遠くから眺め、迷いにとらわれているようだった。おそらく項羽は舞い戻ってくるだろう、そのどさくさに紛れて香澄を近づける。剣はまたの機会に、項羽に無事近づけられたら、探させるという手もある。
あの時、香澄の様子がおかしくなって咄嗟に笛を吹いて引き下がらせて、華山へ急いで帰った。まだ未完全なところがあったのだ。華山を下りてここへ来る途中、あの場所に立ち寄り探したが、見つからなかった。おそらく、源龍と貴志のいずれかが持ってるのかもしれない。
正直、趙高の命令など正直に聞く気が起きない。何度香澄を屍に戻そうかと考えたが、その顔を見るたびに、決意が鈍ってしまう。己の死は恐れぬが、どうも香澄に愛着を持ってしまったようだった。水朝優が恐れるとすれば、その、香澄への愛着だった。
気がつけば、白頭巾、麻離夷が水朝優を心配そうに眺めていて。心配ない、と水朝優は気を引き締めて、その碧い瞳に頷いた。
その様子を見た香澄はふたりに、にこりと微笑む。それに微笑み返す麻離夷と水朝優。ふたりの脳裏に、香澄を屍魔として蘇らせたときの記憶が閃く。人が死ぬなど日常的なこと、素材を見つけるのはたやすい。しかし、香澄のように生前の美貌を残したものなどは、やはり少ない。どこそこで若い娘が死んだと聞けばすぐに赴き、墓をあばいては失望する、ということを何度繰り返したことか。その果てにようやく、見つけたのが、香澄であった。
ところは旧呉の国のさる小さな村であった。どのような病で亡くなったのか、傷ひとつなく、眠るように死んでいた。それを華山に持ち帰り、経力をもって、屍魔として蘇らせた。よくできたものだった、なにせ、
「わたしは、香澄……」
と、生前の自分の名前を覚えていたのだから。最初は本当に、そのまま生き返ったのかとさえ思えたほどだった。しかしそれ以外のことは覚えておらず、出来具合に不安を持ちながらも、美しき刺客として仕込んだ。
美しい若い娘の屍を求めたのは、趙高の発案からだった。
「若く美しい娘の屍魔をつくり、いにしえの西施のように項羽か劉邦に近づけるのだ」
いまよりさかのぼることおよそ二百年前、春秋戦国の時代のころ、江南の呉と越の国は興亡を賭けた激しい戦いを繰り広げていた。が、最後は越が呉を制した。越は呉を弱体化させるため、様々な策を施したが、そのひとつが、美女を呉王に差し出し骨抜きにするというものであった。
趙高もまた同じように、美しき屍魔をもって、項羽か劉邦のいずれかを骨抜きにしてしまうつもりだったが、項羽がその勢力を強め覇王と号したのを知ると、香澄は項羽に近づけることとなった。
そして、七星剣が与えられた。剣身に北斗七星の配列で、紫の珠が埋め込まれた宝剣だ。豪勇を誇る項羽である、ただ美しいというだけでは振り向きもされまい、と。無論武芸もそれに相応しいもので、それについては、虎を倒した源龍と貴志のふたりを手こずらせたことで実証が示された。出来具合を見るために、蘇った香澄をともなって旅をし、ゆきずりの武芸者や武人を七星剣の餌食にしたものだった。
さて、七星剣は香澄の腰にぶら下がる鞘に戻る日があるかどうか。
それよりも、水朝優も麻離夷も、阿鼻叫喚の彭城を遠く眺め、身動きもせず。香澄もじっと静かにふたりのそばで、たたずんで。そのまま時がすぎてゆくかと思われた。
scene4 争乱の都 了
scene5 項王来-xiang wang lai に続く