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scene3 赤鹿毛の女

赤鹿毛の女・1


 源龍は、徐州は彭城ほうじょうへと、歩みを進める。漢の劉邦率いる五十万の軍勢が、楚の都の彭城を目指しているという。その軍勢に加わるのだ。

 歩きながら、時折背中の剣に手をやり、手ごたえを感じ、香澄が取り返しに来るかどうかを思うこともあった。

 最初裸身のまま腰帯にさしていたが、やはり不便なので旅の途中でにわかにつくって背中に差している。すれ違うものたちは、腰と背中に剣を身に着けている源龍を珍しそうにしていた。剣をふたつ使う使い手かと、江湖の剣客ややくざものと一戦まじえたこともあったし。他に、旅人を襲う山賊の類に襲われたこともあったが、決して背中の七星剣を使うことはなかった。

 売られた喧嘩は買っても、人の剣で喧嘩をするようなことはしない源龍であった。

(そういえば、韓信さんは、股をくぐったんだな)

 ふと、韓信の股くぐりの逸話を思い起こした。今漢の劉邦に仕える韓信は、昔は怠け者であったそうだが、腰にはご立派に剣を佩いていた。それを見たごろつきに、「その剣で俺を斬ってみろ。出来なければ、俺の股をくぐれ」と言われ、股をくぐったそうだ。

「俺には出来ない芸当だな」

 ふう、とため息をつく。剣をふたつも持っているせいか、前にもましてならず者たちに挑まれることが増えた。が、片っ端から斬り捨ててやった。我ながら堪え性がない、と苦笑いする。

 それだけではなかった。旅をする中で、戦乱の傷痕を見、口元を硬く引き締め、足早に過ぎ去ったことも何度あったか知れない。

 戦乱のため土地も人心も荒れ、民は餓え、追いつめられて人が人を食らうということもあった。餓えた民が、鍋で死人を煮込んでいるのを見たときは、さすがに源龍も青ざめたものだった。

 だが、戦乱があって、生きているものもいる。例えば、源龍のような。

 胸のうちでざわざわと雑音が響いてくるのをこらえ、なるだけそれは見なかったことにし、考えないようにしていた。

 秦の始皇帝が他の六国(りくこく・斉・楚・燕・韓・魏・趙)を制し、この大陸を統一した。秦は、伝説によれば、殷の紂王に仕えた悪来の子孫であるという。悪来は勇猛にして怪力無双、秦の大陸統一事業は他の六国にしてみれば、まさに悪(当時この言葉は強者を意味する)が来たる思いであったろう。

 そして徹底的な征服者としての力と法治主義とをもって、大陸を支配した。すなわちそれは、力こそ正義であり、その力を備える秦のもと、天上天下、すべては秦のためにあり、秦の所有物である。というようなことを法制化し、万里の長城や美女三千人といわれる後宮の阿房宮をはじめとする巨大建設物の建設事業のために、多くの人々が借り出され、そこで酷使させられた。

 その一方で永遠の繁栄と享楽を望んで死を恐れ、不老不死を追い求めたが得られず、統一後十五年目に死んだ。と同時に各地で反乱が相次ぎ、秦が滅ぼした国が次々と復興した。その筆頭にあったのが、源龍の祖国、楚であった。

 当時の楚軍には、項羽はもちろん、劉邦も属していた。

 楚人は、感情が豊かで激情家が多い地域性そのまま、秦への激しい憎しみを抱き続け。たとえ残り三戸となるも、秦を滅すは楚ならん、と人々は唱え、秦への報復を心に刻みつけてきた。源龍も幼いころから、秦への憎悪をよく聞かされ、心に刻み付けられてきた。

 そして楚はついに秦を滅ぼした。

 まず劉邦が都咸陽に入り、次いで項羽が入った。劉邦はよく徳をもって咸陽を治めたが、項羽は違った。

 咸陽に火を放ち、人の獣性をむき出しにし、略奪や虐殺をもって都を廃墟となさしめてしまった。

 それからの論功行賞もまずかった。婦人の仁丸出しで、実際の功績に関係なく、自分が好きか否かですべてを力づくで片付けてしまった。劉邦は、漢王として、巴蜀の地(四川省)を治めさせた。ここはまたひどい僻地で、交通の便のすこぶる悪い未開の奥地で、罪人の流刑地であったりするなど、まさに陸の牢屋の態をなしていた。

 項羽にすれば、劉邦は目の上のたんこぶであり、領地を与えるよりも流罪にしたに等しかった。

 そんなことだから、項羽に反発した者たちが各地で反乱を起こしたし、なにより楚の皇帝に対する下克上がより一層項羽への造反をうながしてしまった。

 項羽には、悲しいかな、政治的配慮というものがまったく欠けて。すべてを己の武勇でねじ伏せるという、子供っぽさばかりが目立った。劉邦にとって、そこはまさにつけ込みどころであった。僻地より旗を立て、反項羽勢力を味方につけ、天下はまた動乱せんと渦を巻き始めた。

 そんな項羽ではあったが、その強さは天より戦神でも降り立ったかのごとく、凄まじいまでの強さを誇った。

 戦場を駆け巡り、剣風吹けば、すべてが木っ端微塵に打ち砕かれていった。それを目の当たりにして、

(剣士として、これ以上の好敵手はいないのではないか)

 と思うようになり、いつしか、秦への憎しみが、項羽との戦いを望むものと変わっていった。無論、楚人としての葛藤もあった。

 しかし、剣士としての気持ち抑えがたく、楚軍を離れて江湖を渡り歩いて武者修行の旅に出て、武芸に磨きをかけていた。が、どうすれば項羽と戦えるかが悩みであったが、劉邦立つ、の報を聞くに及んでその勢力に加わって、機をうかがおうとしたのである。

 香澄や貴志との出会いは、まさにその道半ばでのことであった。

 ともあれ、源龍は劉邦軍を求めて旅を続けた。

 日も暮れ、道端にひっそりとたたずむあばら家があって、夜はそこで過ごすことにした。

 その夜は、星星は白く輝き、満月冴えわたって月光地上を灯す夜であった。

 食うものはない。途中兎や鳥を捕らえて食いはしたものの、一日中歩いたために消耗も著しく、満腹などここ数ヶ月味わったことなどなかった。が、それでも戦乱のため餓えた民よりはましな方である。

 贅沢はいかん、と自らに言い聞かせ、明日に備えて寝ようとしたときのことであった。彼方から、馬の蹄の音がしたかと思うと。

「ようし、今夜はここでお休みするよ」

 と張りのある、粋のいい女の声が夜気の中、ぱん、と弾けるように響いた。

 それに続き、おう、だの、へい姐さん、だの、

「今日も稼げましたねえ」

「これだから、元手なしの商売(盗賊)はやめられねえ」

 といった男のだみ声も響いた。

 なんだ、と源龍は閉じていた目を開けて、いつでも立てるよう身構え、右手は自分の剣の柄に手をかけ、左手で七星剣を持ち、様子をうかがっていると。女がひとり、あばら家の中へとずかずか入り込んできた。

「あら」

 女は源龍を見止めると、くすりと愛想よく微笑んだ。

「先客がいらしてたのね。ご一緒させていただいて、よろしいかしら」

 媚びるような物言い。張りもありながら、どこか鼓膜へと溶け入りそうで、並の男ならその声だけでも十分そそられそうだった。

 あばら家の窓から漏れる月光が、女を照らし出す。

 服の色は赤ながらも、女だてらに男物の服を着ている。それでもややきついか、服は肢体を包みその柔らかな線を描きながら、はちきれんがばかりだ。


赤鹿毛の女・2


 丸く黒い瞳のおさまる、鋭い切れ長の目に、高い鼻、そして朱を塗ったような唇と、端正な顔立ち。背中まで伸ばした髪は結わず、揺れるにまかせている。

 しなやかな線を描く腰には、剣。

「……」

 源龍はじっと女と、あばら家の外にいる数人の男どもをを眺めている。馬は近くの木にくくりつけている。

 男どもは皆武装していて、やけに面構えが悪く。どう見ても、堅気ではない。それは、さっきの会話からとうにわかっていた。

「いや、出よう」

 おもむろに立ち上がって、源龍はあばら家を出ようとすると。

「ちょっと、待って」

 と女は呼び止める。目は源龍をじっと見つめている。特に、左手に持つ剣に。どうやら二剣を使う使い手だと思っているようだ。しかしそれを無視し、そのままあばら家を出れば、男どもは満面に朱をそそいて目をいからし、源龍の前に立ちはだかった。

(んっ)

 ふと、立ちはだかる男どもの向こうに見えるものに、源龍はふと見入っていた。それは赤鹿毛の馬であった。赤鹿毛の馬は、月光に照らされ赤く光り輝いているように見え。また眼光鋭く、大柄で引き締まった肢体に、どこからともなくほとばしる覇気。それは、赤鹿毛の馬が駿馬であることを、無言のうちに物語っている。

「おい、何を見ている」

 明らかに自分たちをも無視しているとわかり、男どもは声を荒げて源龍に詰め寄る。

「姐さんがお呼びしたんだ、ちゃんと返事しやがれ」

 ということを異口同音に叫んだ。叫ぶあまり、唾が源龍の顔に散ったほどだった。が、そのとき。かっ、と頭に血が上り源龍は男をひとり、思いっきり蹴飛ばすとともに、剣を抜き放って、おもむろにひとりを斬り下げてしまった。

 月光もまばゆい満月のもと、血煙が舞い。その血煙のもと、斬られた男はどおっとたおれて、そのままこと切れていた。

 他の男どもはそれ驚いて、得物を構えて源龍を取り囲み。

「て、てめえ」

 と口々にわめき、今にも飛び掛らんばかりだった。しかし、剣を握る源龍がそれらをひと目見据えるや、魂を思いっきり鷲掴みされたかのように身体が固まって、威嚇以上のことが出来なかった。

「ぬぐえ」

 と、源龍は女に言った。女は突然のことにややぽかんとしていたようだが、源龍の言葉を聞き、はっとしたように、「なんだって?」と気丈に聞き返す。

 すると源龍は、女をひと目、横目でじろっと睨みつけ。

「ぬぐえ、と言ったんだ。あいつらの唾が俺の顔に散った。それをぬぐえ」

 とまでのたまった。

 その無造作にして高飛車な物言いに、満面に朱がそそがれ、紅蓮の炎が心中に燃え盛った。いったいこの男は自分を何様だと思っているのか、また、わたしをなんだと思っているのか。ひと目見て、男の足元に跪き、媚びを売るような女ではないことは、わかりそうなものだが。

 それでも構わずに、あんなものの言いよう。

(なるほど、命がいらないと見える)

 見所がありそうだから、子分にしようと思ったけど。やめた。

「ふん。唾どころか、あんたの顔から皮を引っ剥がしてやるよ」

 と剣柄に手をかけた。いやそれは、剣かと思われたが女が柄をにぎり剣と思われたものをひと振りした途端に、ぐにゃりと曲がりくねったかと思うと、急に向きを変えて、風を切って源龍の横顔に叩きつけられようとする。

(軟鞭か!)

 相手の武器の正体を見破り、さっと後ろへひと飛び。鼻先を、軟鞭の先がかすめてゆく。軟鞭とは、短い棒を鉄の輪でつなぎ合わせた柔軟性のある武器(軟器械)のことだ。

 その軟鞭は胴で出来ているようで、月光に照らされて胴の胴褐色が時折、赤く光る。

「赤飛鞭、羅彩女とはあたしのことさ!」

 大喝一声。女、羅彩女らさいにょの振るう軟鞭は蛇のように、まるで命があるかのように自在に曲がりくねっては、源龍の顔面に打ち付けられようとする。のみならず、羅彩女自身までもが軟鞭と一体となったように自在に飛び跳ね、攻めをかわす源龍にしつこく付きまとい、軟鞭の攻撃範囲から決して逃さない。

「赤飛鞭? そんなもの、知るか!」

 源龍は叫んだ。実際にそんなあだ名も、羅彩女の名も初めて聞くが。なるほど赤飛鞭せきひべんと、自らあだ名するだけはあった。飛ぶが如く、羅彩女は軽やかに飛び跳ね源龍を追いたて、その手に握る軟鞭もまた、蛇が飛んで襲い掛かってきているかのようで。何度か鼻先や頬をかすめたことか。

 しかし、そんな間違った認識をしているだろうと、羅彩女はあらから予測をついていたのは、源龍は知らない。

 男どもは、

「やっちまえ!」

「ぶっ殺せ!」

 と好き放題叫ぶ。姐さんが本気を出せば、誰だろうとかなわない、という絶対的な信頼を置いているのがそのでかい声からよく伝わってくる。源龍はくだらないとばかりに忌々しく舌打ちする。

「確かになかなかの手練れだ」

「ほほ、ありがとうよ」

 源龍のつぶやきを、嘲笑いながら羅彩女はかえす。軟鞭はその勢いとどまるところを知らず、いまかいまかと源龍の顔面を、頬骨を打ち砕かんとする。

 ちり、っと前髪を鞭先がね飛ばす。そこからすかさずまた方向転換をし、今度は脳天目掛けて打ち下ろそうとするその一瞬、まさに軟鞭が方向転換をする直前の一瞬動きが止まるのを見計らい、源龍はここぞとばかり、だっと駆け出し素早い刺突を繰り出す。

 剣先が、羅彩女の喉もと目掛けて飛ぶ。

 はっ、として羅彩女は軟鞭を下げつつ右手へ飛んでかわすが、今度はさっきのお返しとばかりに、源龍の剣がしつこく迫ってくる。もちろん左手の七星剣は使わない。

「ただし、民百姓相手のな」 

 と、さすが楚軍で倒秦の戦場を駆け巡っていただけに、戦いの機を見切る業は源龍が一枚上手のようであった。軟鞭は防御に弱い。勢いをつけて鞭先で相手を打ち砕いてこそ威力がある。しかし懐に入られると、自慢の赤蛇はわき腹が弱点であることを見せ付けてしまう羽目になる。

(こいつ、やっぱり只者じゃない)

 その威圧感。修羅場を潜り抜けてきた剣士であろとは思っていたが、まさかそこまでとは羅彩女も見抜けなかった。それ以上に、相手があの覇王項羽との戦いを望み、修行を積み重ねてきたなど、なんで知ろう。

「姐さん、那二零なじれいだ!」

 子分が叫ぶ、いつの間にか、例の赤鹿毛の馬は木から解き放たれその口輪は子分が握っていた。それを見て源龍、

「乗れよ。お前の馬だろう」

 と剣を止め、あごで馬を指し騎乗をうながす。源龍も剣士であるとともに武人である、馬を見る目はあり、あの、那二零と呼ばれる赤鹿毛の馬が、非凡なものであることは、とうに見抜いていた。

 きっ、と源龍をねめつけ。

「後悔するんじゃないよ」

 と愛馬に飛び乗る羅彩女。

 愛馬、那二零にまたがれば、たちまち人馬一体。馬は鳴き声も高らかに月に向かって、威風堂々と吼え猛けり。くうが揺れ、腹にまで馬のいななきが響きわたるようだった。


赤鹿毛の女・3


源龍は片目を少し閉じて、顔をしかめる。

 人馬一体となった羅彩女と那二零、その周りの空が、どこか紅蓮の炎が燃え立ったように揺らいでいる。

「さあ、ここからがほんとうの赤飛鞭だよ」

 張りのある声で叫ぶ羅彩女。那二零も大喝にいななき、蹄の音もけたたましく源龍に突っ込んでくる。騎乗の敵を相手に、徒歩立ちは不利。だが敢えて源龍は羅彩女を馬に乗せた。相手を有利に、本気にさせたうえで打ち負かしてこそ、意味がある。

 そうでなくて、なんで項羽の相手がつとまろう。

「ゆくぞっ!」

 自分に向かい突っ込んでくる赤鹿毛に向かい、源龍大喝し、だっと駆け出す。まっすぐ那二零に向かって突っ込んでゆく。

(こいつは、阿呆か)

 羅彩女は手綱を引いて那二零を走らせながら、前足を上げさせる。その蹄で蹴り飛ばすのだ。同時に、軟鞭をしゅっと繰り出す。蹄と軟鞭が同時に襲い掛かり、源龍はよけようともせず駆けながら剣を突き出し蹄に打ち込もうとする。そこへ軟鞭。源龍の横っ面を弾こうとする。

(だめか)

 さっと前にたおれるとともに、素早く寝転がって右手に逃れる。顔のすぐ横で、那二零の蹄が地に深くめりんだ。その次の瞬間、さら寝転がってうつぶせになるとともに、勢いよく手で地を突き背をそらし、くるっと後ろ向けに一回転。そして着地。

 イチかバチかで仕掛けたが失敗した、と苦笑いを浮かべ。さらに後ろへ下がる。前髪がまた少し、軟鞭に刎ねられた。

 今度は上方向からである。騎乗、それも屈強な赤鹿毛の名馬を駆ってである。さっき羅彩女が徒歩立ちで攻め立てていたときよりも、すくなくとも三倍は速い。となれば、かわすのも一苦労だし、攻めるのはもっと一苦労だ。

(なるほど、赤飛鞭)

 騎乗から繰り出される軟鞭は、鷲が獲物を狙い急降下してくるように、さっきよりも増してまさに赤銅色の鞭が空から飛んでくるが如くだ。

「ほらほら坊や、どうしたどうした!」

 相手を坊や呼ばわりしながら、羅彩女は那二零の上から軟鞭を繰り出す。源龍は逃げるばかり、なす術なしかに見えた。それを見て、

「圧倒的ではないか我が姐さんは」

 と、子分の男どもはやんやの大喝采だ。だが源龍は、悪戯好きな悪餓鬼のように、にっと笑った。それを見過ごす羅彩女ではない、形勢はこっちが有利なはずなのに、どうして相手はそんなに笑うのか。

「秦の兵士相手なら、まあものになるだろう」

 相手の笑うのを見て、羅彩女が一瞬眉をひそめたのを見逃さず、源龍はからかうように言った。さらに、

「馬がもったいない」

 とまで言った。羅彩女の激怒せんことか。

「ほざけ! 負け惜しみを」

「負け惜しみではない。証拠に、一剣しか使ってない」

「ふん、我慢しないでふたつとも使いなよ」

「いやだ」

 と言いながら、源龍は逃げの一手。決して七星剣を使おうとはしない。それを侮辱ととった羅彩女は、ますます怒り猛って、火を吹くように攻め立てる一方だ。

(女はともかく、問題は馬だな)

 源龍は馬の動きに目をみはった。その赤鹿毛の馬はまさに俊敏で、付け入る隙もなさそうだ。羅彩女も巧く乗りこなしている。

 項羽には、すいという愛馬がある。それもまた名馬であるという。

(あの馬なら、騅にも負けまいに)

 と思うと、にわかに那二零が欲しいという気持ちが湧き上がった。源龍、今まで戦場を駆け巡ったといっても位は低く、一応馬には乗っていたが、いい馬は与えられなかった。戦場では、何度騅に置いていかれたことであろう。

 ともあれ、そうなれば馬を傷つけるわけにはいかない。さてどうするか、と思ったときふと一計を閃いた。

 と、すると、源龍は子分の方へだっと駆け出すや、ひとりとっ捕まえていきなり前にかざす。突然のことに、捕まった子分も抵抗のしようがなく、されるがままだった。

「あっ」

 と一斉に声が上がった。

 とともに、軟鞭が子分の顔面を打ち砕いた。

「しまった!」 

 あまりのことに、羅彩女は狼狽し動きが止まり。それを見逃す源龍ではなく、顔面を打ち砕かれ、顔を真っ赤にして息絶えた子分を投げ捨てると。すかさず駆け出してその勢いで跳躍し、羅彩女の腹に激しい蹴りを見舞った。

「ああっ!」

 なす術もなく、那二零から転げ落ちる羅彩女。まさか子分を盾にするとは。

 源龍は蹴ったついでに羅彩女を跳躍台にして、子分のところまでひとっ飛びし着地。

「この野郎!」

 子分どもは我を忘れ、一斉に源龍に飛び掛る。だが、誰もかなわず、片っ端から斬り伏せられてゆくのみであった。

 地に叩きつけられる衝撃が身体中に走るとともに、視界が途端に真っ暗になり。ようやく目が見え始めたとき、子分たちは皆源龍に斬り殺されてしまっていた。

 いくら民百姓相手の盗賊でも、あっという間にひとりの人間によって全滅させられてしまうとは。しかも、ふたつある剣のうち一本しか使わず。

 左手は、しっかと鞘に収まった剣を握ったままだ。

「……」

 ようやく上体を起こし。長い髪が目を覆って、髪間から見る光景に、羅彩女は絶句し。ずきりと痛む腹のため、うっ、とうめいてまた地に倒れ臥す。

 軟鞭はいつの間に離したのか、手には何もない。そこへ那二零が、羅彩女の頬にその鼻先を摺り寄せてくる。

「那二零。負けたよ」

 と、寂しげにぽそっとつぶやいた。哀れ子分も皆殺しの憂き目に遭ってしまった。このご時勢に、強きを助け弱きをくじく、そうでもしなければ生きていけなくて。肩を寄せ合うように、力を合わせて生きてきた。

 だがやはり、悪因悪果、盗賊の最後など、所詮そのようなものだった。まっとうな死に方は出来ないだろうと、心の奥底で思ってはいても、いざそれが現実のものとなると、どうしようもないやるせなさにも襲われて。

 ふと、羅彩女の脳裏にそれまでの越し方が思い浮かぶ。

 出生が中原という以外に知れない、過去を持つらしい母と。そんな母を哀れに思い、また愛した匈奴の父の間に生まれて、長城の向こうの草原で遊牧を営む生活を送った幼い日。匈奴は北方の騎馬民族で、たびたび秦と激しい戦いを繰り広げた。万里の長城は、その匈奴対策のために建てられたものだ。

 家族には、自慢の馬があった。それが那二零だった。羅彩女と那二零は幼い日から苦楽をともにした、いわば分身のようなものだった。

 その素朴にして仕合せな日々は、秦の暴風雨のような匈奴征伐のため、滅茶苦茶に壊され。戦乱の渦中、家族は……。

「彩児、逃げるのよ。何があっても生きて、生き抜くのよ!」

 それが、最後に聞いた母の言葉だった。母は泣き叫ぶ羅彩女を力ずくで那二零に乗せて、その尻を引っぱたき遮二無二に走らせた。

 振り返って、小さくなってゆく母。それから、怒涛のように押し寄せる秦の兵たち。それからは、覚えていない。思い出すには、あまりにも辛すぎる記憶で、胸の奥底に仕舞いこんだきり。

 父は秦との戦いに赴き、それきり帰って来なかった。

 それから、那二零とともに江湖に生きてきた。なまじ容姿に恵まれているために、何度愚かな男たちの毒牙に犯されそうになったこともあったか。そんな自分の身を守るために、武芸を覚え、特に鞭ではちょっとやそっとでは引けをとらないところまで、その腕を磨いた。

(だけど、それがいつの間にか、あらぬ道に迷い込んでしまったね……)

 その鞭をもって、力なき民百姓から奪う、ということを覚えてしまった。すべては、生きてゆくために。生きてゆくために、憎しみを抱いていた秦と同じようなことをしていることに、気付かなかった。ただ、生存本能だけがあった。

 鞭をもって奪うことをするうち、あの子分どもと出会い、徒党を組み、そして今に至った。

(ああ、せめて、女らしく、恋のひとつでもしたかった)

 今さらのように、そんなことを思い。惨めさが胸中に溢れ、目頭が熱くなってくる。那二零は、そんな羅彩女を慰めるように、ずっとそばにいて、鼻先で頬に触れていた。

(もう一度、私を走らせてくれ)

 と言うように。


赤鹿毛の女・4


 源龍は人馬の情厚いさまをじっと眺めていたが、何を思ったか、おもむろにそばまで来る。

「どうしたの。あたしを手篭めにでもするのかい? そうだね、戦利品が欲しいよね。なら、やるよ、好きにしな」

 捨て鉢なことを言う羅彩女だが、那二零は頭を上げて、静かに源龍を見つめている。

 羅彩女の見上げる源龍の、その向こうに、煌々と光る月光。星たちは、静かにまたたき、地上を見下ろしている。

 すると、源龍は羅彩女に見えるようにして、手で顔をぬぐう。その顔は返り血を浴び唾どころか血があちこちに飛び散っていたが、それらを手でぬぐう。さっとぬぐっただけで、きちんと血は取れず、まだ返り血の残る顔を羅彩女と那二零に向け、何やら思案していたが、用は済んだとばかりに、くるっと後ろを見せて立ち去ろうとする。

 遠ざかる足音を耳にし、羅彩女は痛みをこらえ、那二零に手をかけながら起き上がると。

「待ちな」

 と源龍を呼び止めようとするが、腹を蹴られ息がしづらく、そうなれば声も出ず。蚊が飛ぶような消え入りそうな声しか出せない。そうすうちに、源龍の背中は夜の闇の中に消えてゆく。

 くっ、と痛みをこらえて、鞍にしがみつき、ようやくにして愛馬に乗れば。那二零は主の意を察してか、ぱかぱかと蹄の音も控えめに歩き出し。

 源龍に追いつき、そのまま後を着いてゆく。

 なんだ、と後ろを振り向いた源龍は、那二零が羅彩女を乗せて後をつけてくるのを見て、少し驚いたようだが。やれやれと言いたげにため息をつくと、前を向いてとつとつと歩く。左手には、大事そうに剣を握っている。

「ねえ」

 腹の痛みもおさまりつつあり、どうにか、声も出せるようになった羅彩女は、

「そういえば、あんたの名前を聞いてなかったね」

 と言った。背中で聞いていた源龍は、それもそうだった、と思い、

「楚人、源龍」

 と簡単に名乗った。

「楚の人間だったの」

「ああ、まあな。そういうお前は、どこの生まれなんだ」

「長城の向こう。父が匈奴で、母は中原(中国中央部)の生まれってことしか知らない。まあ、匈奴の血を引いてるって思えばいいさ」

「その馬も、匈奴の馬か」

「ああ、いい馬だろう。那二零っていうのさ」

「そうか。……いい馬だな」

 羅彩女は声が出せるようになった途端に、やけに饒舌になってよく喋る。それにつられて、元来口数の少ない源龍もよく喋る。

「わかる?」

 那二零を褒められ、羅彩女はご機嫌だ。子分どもが殺された恨みもあるはずだが、江湖で盗賊稼業を働いていて、覚悟はしていたので、そんなに湿っぽい恨みは抱いていないようだ。

「ところで」

「なんだ」

「左手に持っている、その剣は?」

「……」

 源龍無言。こればかりは、話したくなさそうだった。それを察して、

「ああ、話したくなけりゃ、いいよ」

 とさらりと話題を変えた。どこに行くんだ、と。

「徐州」

「里帰り?」

 徐州には楚の都がある。源龍は楚人だから、てっきりそう思っていたが。「違う」とこたえる。

「じゃなんだい」

「漢軍に加わる」

「ええっ」

 漢軍、劉邦の軍勢は徐州に向かっている。攻め落とすために。ということを、思い出す。まあ、生まれ故郷を攻めるなんて、このご時勢ではよくあることだ。と思っていたが。源龍はまた振り向き、羅彩女をひと目見て、それからぽつりと言った。

「剣士として、項羽と戦うためにだ」

「……」

 思わぬ言葉に羅彩女の口は、半開きのまま、止まった。こいつ、本気で言っているのか、と開いた口がふさがらない。

 覇王を称す項羽の強さは羅彩女も知っている。いや、大陸の人間ならば誰でも知っている。項羽は今、斉の国を攻めて都を留守にしているが、漢軍に攻められれば黙ってはいまい。なら戦う機会はあろう、が。項羽を相手に、剣士として戦うなど、正気の沙汰ではない、狂気の沙汰だ。

「だから、俺について来ると、死ぬぞ」

 じっと聞いていた羅彩女だが、ふん、と大きく息を吐き鳴らす。それから、腹がずきりと痛み、顔をしかめてしまう。だが、すぐに気を取り直し、那二零の馬上から突き刺すように、気を吐くように、源龍に言った。

「面白いじゃない。あんたがどう項羽と戦い、殺されるか、見届けてやるよ」

 それを聞いて、源龍はふっと笑って、前を向き歩く。それから、振り返りもしなかった。

 やがて、空が白みはじめて、あっと羅彩女は声を上げる。なにごとだと、源龍が背中で聞けば。それは他愛もないもので、

「軟鞭忘れちゃったよ、もう」

 と羅彩女は、自分の迂闊さに頬を膨らまし、ぷりぷり怒っていた。


scene3 赤鹿毛の女 了

scene4 争乱の都 に続く



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