scene2 地獄
地獄・1
源龍と貴志が出会い、香澄と遭遇してから幾日か過ぎたときのこと。
華山という山がある。
秦の都であった咸陽の少し東。大陸を流れる黄河が、一番南にくだる流域に程近く。中国の五岳(恒山・泰山・嵩山・衡山・華山)に数えられる名峰である。
名峰ではあるが、その雄大さもさることながら、五岳はおろか天下第一の険とまで言われるほど、その山は険しく、地元の人間でもめったに登ることはなかった。
そんな華山を、何人かの男女が昇っている。周囲はひどく深い霧につつまれ、昼時にもかかわらずまわりは白け、まるでどこか幽玄の世界へと足を踏み入れてしまったようだった。
それでいて、断崖絶壁は言うに及ばず、よじ登るような華山の道なき道を、彼ら彼女らは額に汗しながら突き進んで、昇っていた。
それぞれ、剣や刀を腰に佩いている。武者修行なのだろうか、それとも華山を根拠地として、華山派とかなんとか、新手の新興門派でも興すのか。と、人が見れば思うかもしれない。が、無論、見る人などない。
「ここらへんだ」
先頭の男が言った。華山もだいぶ登ったが、いま皆がいることろは比較的平坦で広い場所だ。先頭の男は、あたりをきょろきょろ見回して、何かを探しているらしい。
「智之、今度こそほんとにここらへんなんでしょうね」
女がひとり、眉を吊り上げて厳しい口調で先頭の男、智之に言った。ここまで何度、ここらへんだ、と聞かされ、肩透かしを食らわされたことか。
「あ、ああ、今度こそ、大丈夫、だと思う」
「もし違ってたら、ただじゃおかないわよ」
「そんな怖いこと言うなよ」
智之は肩をすくめ、苦笑いをしながら、また何かをきょろきょろと探している。すると、もう一人の女が、
「あれじゃない!」
とどこかを指差す。その指の先を見れば、まるで獣の爪のように、幾重にも突き出ている鋭い岩石の山肌の陰に、ぼっかりと大きな穴が開いている。洞窟のようだ。
洞窟は真っ黒な口を開け、霧を飲んだり吐いたりしているように見える。
「この山に、趙高がいるというのか」
仲間の男が、ぽつりとつぶやいた。智之はそれを聞き、自信ありげに答える。
「ああ、確かに見た。趙高のやつが、この華山に登り、この洞窟の中へ手下どもと入っていったのをな」
「そうか、ともあれ、中に入って調べて。事の真相が明らかになり次第、張良様にお知らせせねば」
もうひとりの仲間の男が言うと、一同うんとうなずき合って、松明を用意し洞窟の中へと入ろうかとした。その時、
「いや入るには及ばん」
と、どこからともなく声がして。一同はっとしてそれぞれの得物を手にして、背中合わせにかたまって身構えた。
「よくぞ我らを突き止めたものよ。だが、そのために、ここであたら命を捨てようとはの」
「まことに、笑止千万」
ひとつ声が聞こえると、また声がどこからともなく聞こえてくる。
しかし、まるでまわりを囲む霧のように、つかみどころがなく、どこで誰が発するものなのか、見当がつかない。
「何者だ、姿を見せよ」
智之は叫んだ。声は霧に、そして霧とともに洞窟に吸い込まれてゆくようだった。すると、
「おうさ、冥土の土産に我らの姿を拝ませてやろうわ」
と、ざっと影が数個、霧の中から飛び出し、一同を囲んだ。
「……」
皆目を見張り、息を呑んだ。影はみっつ、ひとつは巨漢だが、ありえないことに太い腕が六本もあった。六本の腕はすべて剣を握りしめ、いまにも一同に斬りかかりたそうに空に揺らいでいる。
もうひとつは、これは身の細い白面の美男子だが。その背からは大きな白い翼が生えており、細い腕にあわせてか細い長槍を握りしめている。
そして最後のひとつ。これは、天界より降臨した天女かと思わせるほどの美少女で、紫の衣を身にまとい。何故か腰には、鞘のみが寂しそうにぶら下がっている。
美少女は、物憂げに濡れた瞳で一同を眺めていた。
少女はともかくとして、六本腕と翼人のその姿に、一同は度肝を抜かれてしまい、魂が抜けたように呆然としている。
「わしの六本腕は西の大月氏国に伝わる鬼神、アスラ(阿修羅)にちなんだものだ。名もアスラというぞ」
「わたしはヤクシャ(夜叉)。同じく、西の大月氏国に伝わる鬼神に由来する」
と六本腕と翼人は名乗った。しかし、少女は黙ったままだ。六本腕はちぇっと舌打ちし、やむなく代わって紹介してやる。
「こいつは、まあ何の変哲もない屍魔だが、今の乗りでゆけば、そうさな大月氏国に伝わる龍王の娘、龍女としておこうか。この三人で、華山三傑というぞ」
おどけた物言い、それはもちろん一同をからかってのことで、本当のことは言っていない。これから死にゆく者たちに、本当のことをなんで言う必要があろうか。すると、龍女とされた少女はおもむろに口を開き、
「我不是龍女、我是香澄」(私は龍女じゃないわ、香澄よ)
と、ささやいた。
一同、あり得ないものを目に耳にし、度肝を抜かれて沈思のまま。
ちなみに、三傑の言っていることは仏教に関することなのだが、当時の中国にはまだ仏教は伝わっていないとされる。しかし、最古の王朝である殷王朝跡の殷墟には、アフリカ系の人間のものと思われる人骨が発見されていることを考えると、想像を絶するはるか太古より人間は広いユーラシア大陸を西から東、果てなく旅していたことがうかがえる。そのことから、公の史書に記される以外に仏教あるいはそれの影響を受けた思想が、個人間の範囲ででも、中国に伝えられたこともありうるかもしれない。
以上余談終わる。
「さて与太話も終わった。死ね!」
アスラの六本腕が、六本の剣が唸りを上げた。続いてヤクシャの翼がはためき、長槍を振るい一同向かって飛び掛ってくる。だが香澄はじっとしたままだ。
智之らはおののきながらも敵襲に備えた。が、しかし、
「くそ、なめやがって!」
ひとり、仲間が刀を振るいアスラに向かった。それをきっかけに、皆それぞれの得物を振るい、勇を鼓して華山三傑に挑みかかった。
「はははは、どうしたどうした」
アスラは六本の腕と剣を巧みに使い、相手の得物を受け流し、もてあそぶ。香澄は、アスラのように相手をもてあそばず、飄々と身をかわすのみ。
それを横目にヤクシャは、女の腕を掴み、翼を大きく羽ばたかせて、宙高く飛んで濃い霧の中隠れてしまった。本来のヤクシャ(夜叉)は空を飛ぶとされ。彼に翼があるのは、そこに由来している。
「きゃああぁぁ!」
鼓膜を突く女の悲鳴が霧の中響く。
「離して、離してよ」
「よし、望み通り離してやろう」
どのくらい高く飛んだか、叫びもがくのも構わず、ヤクシャの細い腕はしっかとその腕を掴んでいたが、ぱっと握る手を開いて女を離した。それから女は、はっとしたものの、時すでに遅し。
霧の中、悲鳴が長く響いたあと、どん、という鈍い音とともに、その悲鳴が止んだ。
地獄・2
ぎょ、と男がその方を振り向いたそのとき、アスラの剣が六本、胸に三本と腹に三本貫いて。それから、上下左右に力がこめられ、男はばらばらになり。どっと血をふりまきながら、肉片がちらばってゆく。
もうひとりの女は仲間が早ふたりも斃されたことをさとりながら、香澄に必死の猛攻を加えていた。衣の袖は軽やかに舞うばかり、剣はかすりもしない。
ふと、香澄がはっとしたように眉を動かした。何だ、と思う間もなかった。突然剣光が閃くや、女の首は胴を離れて飛んだ。
首は何が起こったのかわからぬまま、血筋を引いて、阿呆みたいに目と口を開けたまま宙に浮いてから、どすんと脳天から地に落ちた。
胴は首から血を噴き出しながら、ばたりとたおれた。
噴き出した血が、香澄にかかる。
その白面に、衣に、血が散り。赤く染まる。
「お、おのれ」
怒号が響く。アスラはふんと鼻でせせら笑って、おもむろに怒号に向かって、女の首を拾い上げて投げつけた。
血のぬめりを感じながら、香澄はじっとたたずむのみ。それからその瞳に、虐殺が映し出された。
赤子の手をひねるように。まさにそれだった。
気がつけば、智之以外、皆無残な肉塊と化していた。
「ふん、まるで手ごたえのない」
アスラとヤクシャは智之の前に仁王立ちして、思い思いに痛罵を吐きかける。
智之は、がたがた震えて子供のように泣き叫びながら、
「ど、どうか命ばかりはお助けを」
と必死に命乞いをしていた。
「はっはははは! 今の方が、さっき剣を振り回していたときよりも気合が入っとるぞ」
「どうするアスラ」
「そうじゃな。まあ見逃してやろう。漢の連中に、わしらのことを触れ回ってもらうためにな」
「そうだな」
というと、ヤクシャは槍を突き出し。
「お前は、まあ、見逃してやろう。漢に帰って、とくと我らのことを触れ回れ。そして、やがて秦がまた覇を唱える、ともな」
冷淡に、そう説いた。智之はただ命惜しさに、「はい、はい」ばかり繰り返している。
「目障りだ、早くいけ」
鬱陶しそうに、アスラが六本の腕を振り上げると、智之は転びながら華山の急勾配を駆け下っていった。その無様な姿を、アスラは六本の腕で腹を押さえて大笑いし。ヤクシャは冷笑を送る。
香澄は、淡々としたままだ。
「ふん、華山三傑か。香澄、お前は三傑の面汚しじゃ。ひとりも殺さん」
智之に向けていた痛罵を、今度は香澄に向けるアスラ。ヤクシャはじっと香澄を見据えているが、同意見のようで、その目は異様に冷たい光りを放っている。
深い霧は、ますますその濃さを増し、一面白の世界となってゆく。
「まあよいではないか」
ふと、洞窟から声が聞こえた。
「これは、趙高様」
アスラとヤクシャは、洞窟の入り口に人影を見止めると、さっと跪いた。香澄もゆったりとそれに続く。
「ほほ、苦しゅうない。なかなか楽しく遊んでいたようではないか」
三傑に跪かれ、趙高と呼ばれた者は、満足げに笑っていた。それは、男のようだが、髭がない。顎はやけにすべすべしている。そう、この男こそ、秦に仕えし宦官(去勢された役人)、趙高であった。はじめ始皇帝に仕え、それから謀をもって二世皇帝を立て、欲望の赴くままに二世皇帝を操り私利私欲をむさぼり暴政の限りを尽くし。
自分の立てた二世皇帝を、邪魔となれば殺した。しかし、悪因悪果、かつて楚軍に属していた劉邦が咸陽入りする折、その存在が災いであると、皇族のものによって、ついに趙高はそれまでの報いを受けることとなった。そのはずだった。
「間抜けな密偵にわざとこの華山を探らせたが、大当たりであったようじゃな」
「趙高様のお目の高さ、我ら感服したてまつってございます」
慇懃にヤクシャは言う。こうした礼儀作法に関しては、アスラは苦手か愛想よく相槌を打つのみだが、ヤクシャはそれなりに心得ているようだ。
「こうして遊べるのも、趙高様のおかげでございます」
「そうじゃろう。『活死自在経』を得たわしに、つくれ得ぬものなど、ない」
自信たっぷりにそう言い放つ趙高。香澄は物憂げに濡れた瞳を伏せて、じっと跪いていた。
「影武者の命と引き換えに、再起を図るためにこの華山に引き篭もっておるが、もうよい頃合じゃて」
趙高は、三傑を見下ろしてしみじみとひとりつぶやいた。洞窟の真っ黒な口は、霧を吐いたり吸ったり。その霧に混じって、何か、獣じみたうめき声がながれるように聞こえてくる。
趙高はそれを耳に、悦に入っていると。その左右から、屍魔がぞろぞろと洞窟から這い出してきて、肉塊となった漢の密偵たちを、貪り食いだす。
服を引き裂き、肉を食い破り、噛み千切る、耳障りな音が、深い霧の中で響きわたる。音に続いて、赤い血潮が地に溢れて流れ出し、ところどころのくぼみには、血溜まりができていた。
その血溜まりを、地に伏し舌を出し野良猫のようにぺろぺろ舐める屍魔もある。常人が見れば、そこはさながら地獄そのものであろう。
それを趙高は、まるで酒池肉林にあるように、愉快そうに身体さえゆすって楽しそうにしている。ふと、屍魔のひとつが、女の細腕をくわえて趙高の方を振り向けば、趙高は子供を愛でるように微笑んだ。
「よこせ」
おもむろに、アスラが屍魔から女の細腕を取り上げ、口の周りを血まみれにして、むしゃむしゃと貪り食った。
「ひと働きしたあとのメシは美味いのう」
と、ご満悦だ。
「美味いかえ?」
「はい、趙高様、美味うございます。これも趙高様が、わしらを屍魔としてつくり上げてくださったおかげでございまする」
「ほほ、そうであろう。そうであろう。『活死自在経』を苦心惨憺たる思いで研鑽したればこそ、汝らをつくることができた」
「このご恩、粉骨砕身して、報いさせてもらいまする」
「うむ。期待しておるぞ」
趙高は、屍魔たちを眺めているうちに、胸のうちから何とも言えぬ感傷が沸き起こり。霧覆う空を見上げ、一人物思いにふけった。
地獄・3
霧の向こうにあるであろう太陽が、霧の中にほのかな円形の光りを描いている。それは霧の流れに乗って、ゆるやかに回っているようにも見え。見るものはまるで、円の中に引き込まれてゆくような錯覚におそわれそうだった。
趙高は、光りの円の奥に、何を見ているのだろうか。
(思えば、きっかけは始皇帝の不老不死を叶えるためじゃった。あらゆる手を尽くしても、どうにもならなんだったが。そんな時に、西方に行かせた配下の者が、『活死自在経』を探し当てたのだ)
空を見上げながら、回想にふける。知らず、ため息をつく。
(じゃが、それは不老不死の経典ではなかった。屍魔をつくり上げる、邪法の経典であった。それでは意味がない、と奥にしまっておったのだが、その時はよもや秦の滅ぶ日が来ようなどと思わなんだ。しかしそれによって、この経典を生かすことになろうとは、なんという皮肉であろう)
視線を下げ、華山三傑を眺める。よく出来たものだ、と顔がほころぶ。経典に書かれていることを研鑽し、学び、理解し、実践することによって。死者に魂を吹き込めるばかりか、人獣の別なく、死者の身体をつなぎ合わせて思い思いの生き物をこしらえることも出来た。言うまでもない、それを従順な下僕とすることも出来た。
(いや、皮肉などではない。これは天命である。経典をもって屍魔による一大軍団をつくりあげ、ふたたびこの地上に、秦の天下を蘇らせるのだ)
趙高は言いようもない感傷と高揚感と、陶酔感を味わっていた。一時は天下を動かした身である。夢よもう一度と、自身の手によって天下を動かせるのかと思うと、それは胸の奥底で爆発しそうだった。
さて、この屍魔たちをどのように動かそうか、と思索をしようとしたとき、静かに跪く香澄の腰にある鞘が目に入った。過日、人間と戦った折りに、剣を無くしてしまったという。
あの剣は、香澄の出来栄えを見込んで持たせた宝剣である。また、秘策あって持たせた宝剣でもある。しばらくの間、その出来栄えを確かめんと共を連れて旅をさせたのであったが。
見込み違いであったか、と幻滅しそうなのをこらえ、こほんと咳払いをする。
「香澄」
「はい」
趙高に呼ばれ、香澄は瞳に地獄を映し出しながら返事をする。
「わしはそなたの出来栄えに期待したからこそ、七星剣を持たせ、武者修行の旅に出した。だのに、その期待を裏切ったこと、忘れてはおるまいな」
香澄は、趙高に詰め寄られるように問いかけられ、静かにうなずく。その様を、アスラとヤクシャが冷たい眼差しで眺めている。
「忘れては……、おりませぬ」
「ならば、どうすればよいのか、わかっておろうな」
「……」
香澄、沈黙。趙高にこたえない。その美しさと武術は秀でているのに、どうにも思考の方は遅れがちであるようだ。
「鈍いやつめ。七星剣を取り戻すのじゃ。それから、項羽に近づき愛妾となるのだ。忘れたのかっ!」
その鈍さに苛立ち、声を荒げる趙高。
「それができねば、そなたはほれ……」
と屍魔が貪り食う漢の密偵たちの肉塊を指差し、
「あれじゃ」
と冷たく言い放った。屍魔は、生前の記憶がなく、自分の名前を覚えていない。だから、後でアスラ、ヤクシャといった名前をつけたのだが。香澄は、なぜか生前の名前を覚えていた。もしそうでなければ、アスラがおちゃらけて言ったように、龍女となっていたかもしれない。
「趙高様、もし香澄がしくじれば、わたくしめに」
アスラが舌なめずりしながら、言った。その食欲は同じ屍魔にも向けられるようだ。
「ふん、無事華山に戻れたらな」
「へへ、左様で」
余計な口出しをするな、と主にすごまれ身を縮めるアスラを、ヤクシャは冷ややかに横目で眺めて黙っていた。
(我らの仕事は趙高様のお言いつけに従えば、それでよいのだ。それ以外のことをする必要はない。相変わらず、アスラは、愚かな奴だ)
と心で軽蔑した。また、
(香澄も、見てくれだけの肉人形ではないか。それで、華山三傑か。まったく、それらと同列に並べられる、我が身の哀れさよ)
とも密かに歎いた。
そのとき、洞窟より、
「趙高様」
と呼ぶ男の声があった。その声には張りがあり、声に続いてひとりの男が現れた。年のころ三十少し過ぎ。健全な肉体をもち、愛嬌のよい笑顔をしながら、目には異様な鋭さがあった。それは生きている男の人間のようだ。
「なんじゃ、水朝優」
男、水朝優は趙高のしばし後ろで跪き、
「香澄めの咎、我が咎でございまする。もし宝剣を取り戻しに行かせるならば、わたくしめもご一緒させていただき、共に宝剣を取り戻したいと思います」
とうやうやしく言った。すると、後からまたひとり、これまた生きている人間のようだったが、それが来て、
「わたくしめも、ご一緒させてくださいませ。香澄の咎、そして水朝優の咎は、我が咎でもありまする」
とうやうやしく言った。
それは白い衣を身にまとい、また白い頭巾で顔を隠している。その声と、細く柔らかな線をえがく身体つきからして女のようだが、どこか言葉の発音が違っていて、異邦人のようだ。
「麻離夷、そなたもか」
「はい。どうか、七星剣を無くした罪滅ぼしをさせてくださいませ」
水朝優と、麻離夷のうやうやしく跪く様子に趙高はしばし考えをめぐらせ、香澄と交互に見つめ、うむとうなずく。
「よかろう。香澄とともに華山を下り、七星剣を取り戻しにゆけ。そして、なんとしても項羽に近づき、その愛妾となるよう取り計らえ。あの宝剣は、そのためにあるのじゃからな」
「はは、そのお慈悲に感謝いたしまする」
ふたりは地に頭をつけ、深くひれ伏した。趙高はそれを冷たい目で見下し、
「もししくじれば、あれじゃ」
と肉塊を指差し、厳命に釘を刺す。
もちろん覚悟の上でございます、とふたりはさらに額を地に押し付けひれ伏し。香澄を洞窟の奥に戻して旅支度を整えると、華山を下りた。
香澄は、物言わぬ人形のように黙ってふたりにつき従った。アスラ、ヤクシャはそれらを見送ると、
「趙高様、我らにもなにとぞお下知を。どうか、ご恩に報いる術を」
と焦るようにして、うやうやしくひれ伏した。が、まあ待て、慌てるな、と趙高はそれを制し、
「あれらは、鹿をさして馬という愚者である。まず使うなら、それからである」
と、霧の向こうに消えた三人に冷たく言い放つように、つぶやいた。
scene2 地獄 了
scene3 赤鹿毛の女 に続く