last scene 虞美人草
虞美人草・1
その寝顔は、優しい微笑みを浮かべていた。
項羽は泣いた。涙のつぶが、香澄、虞の頬に落ちてはじけた。
「思えば、そなたは俺のために、虞でいてくれたのだな」
項羽は己の佩く剣をかなぐり捨て、かわって七星剣を佩き。ついに本当の名を知ることなく逝った香澄の身体を抱き上げ、部屋を出て。
驚く配下を退け、自ら穴を掘り、墓碑を刻み。垓下の城の片隅に、質素な墓を建てた。
木でつくられた簡素な墓碑には、「虞美人墓」と刻まれ。
質素なのは仕方ないにしても、目立たない城の片隅に墓を建てたのは、漢兵の狼藉から墓を守るためであった。
項羽は七星剣の柄を握りしめながら墓碑に向かい黙祷を捧げると、
「いざゆかん」
と言って、愛馬騅に打ちまたがり、七星剣を抜きはなち。
城門を開いて、わずかな手勢を率い地を埋め尽くす漢の大軍向かって駆け出した。
楚兵のほとんどは、楚のうたに心くじかれ打って出ることかなわず。付き従うともがらはいずれも死を決した死兵となって、項羽に続いた。
「来たか」
項羽出でたり! と韓信はすぐさまうたをやめさせ、軍を指揮し項羽を討たんとした。
心萎れて自害はせず、潔く討ち死にを選んだとはいかにも項羽らしいと、心密かに感嘆するも。一気に力で押し潰せると踏んで、
「押せや、押せや」
韓信自らも剣を手にし、項王の首級を挙げよと叱咤する。
まだ空は暗く、かがり火は一声に戦場を駆け抜ける項羽に怒涛のごとく押し寄せた。
そのまま、怒涛に飲み込まれると誰しもが思った。
だが夜闇に北斗七星がきらめき、押し寄せる怒涛ことごとく押し返され。騅打ち砕く風のあとの塵のように、血煙が舞った。
にわかにきらめく北斗七星と、その強さにあらためて驚愕するも、それもはじめのうちだけと、韓信はたかをくくってさらに追い込みをかけさせた。
楚のうたととってかわって夜闇引き裂く怒号渦巻き、銅鑼、戦鼓響いて空を揺るがし。地より湧き出た銀河の中、北斗強くきらめき。
北斗きらめくとともに剣風巻き起こり、騅駆けるところ道は開かれていった。
「漢よ、とくと知れ。我を殺すは漢にあらず、天にあり」
項羽雷喝一声。かがり火灯る暗闇の戦場、たちまちのうちに風雲に覆い尽くされる。
誰も項羽を止められず。
阻む者これことごとくきらめく北斗のもとに斃れゆく。
「なんという男だ!」
この大軍を嘲笑うかのように、項羽は翼を得た虎のように自由自在に駆け巡り。韓信驚愕のあまり、二の句も告げず。そのために指揮は遅れて、一時は怒涛の勢いであった漢軍のまとまりにほつれが生じた。
そのほつれをさらに引き裂くように、項羽は進む。
いかに軍才豊かな韓信とて、力と力の勝負となれば項羽の足元にも及ばなかった。ことに項羽らはすでに命を捨てている。死を決した「死兵」ほど、やっかいなものはない。
このことは、本営にも伝わり。劉邦はまさか逃げられるのではないかと、胆を冷やした。
「討て、なんとしても項羽を討て。項羽を討てば、金千両に万戸侯の位を与えるぞ!」
そう左右に怒鳴って、また討てとばかり、このときの劉邦は漢王というよりも、かつてのやくざ者の親分のようになって繰り返しがなり立てた。
それほどまでに、項羽は恐ろしい相手であった。軍師張良はそばにいながら黙ってことの成り行きを見守り、奇跡の起こるのを期待するしかなく。
また韓信とて、言われるまでもなく項羽を討つ気持ちはおおいにあった。が、しかし、いかんせん項羽の強さは尋常ならざり、どうにも手の施しようがなかった。
(源龍、お前いまどこでなにをしているんだ!)
またあのときのように、さっと現れて項羽に挑みかかってはくれないかと、そんな期待を思わず胸に描いた。しかし、北斗七星きらめきはやまず、かがり火とどかぬ闇の向こうへと駆け抜けてゆこうとする。
(それにしても)
討ち漏らしそうになりながらも、ふと、思うこと。
(あの、北斗七星は、なんなのだ)
大薙刀で血風巻き起こすのが常であった項羽が、この期に及んで得物をかえている模様。しかもそれは北斗七星のきらめきをはなっている。
どうして、項羽は北斗七星きらめく剣を得物に選んで最後の戦いに臨んだのだろうか。
そのことが、韓信には不思議でしかたなかった。
虞美人草・2
城を中心にして渦巻く地の銀河乱れ、北斗七星ひときわつよく輝く。
遠く離れた小高い丘で、夜闇の中なので、はっきりと北斗七星が見えたわけではないが、銀河を乱す凶星が現れたのはわかった。
その凶星は間違いなく香澄と項羽であろう。
銀河乱れるとともに、渦巻く怒号に銅鑼、戦鼓の響き風に乗ってやってきて、その混戦模様を物語る。
「!!」
光りと闇の渦巻いていた源龍の瞳が、かっと輝き。とっさに那二零に跨って、凶星を求めて疾駆した。羅彩女に回七もこれ続いた。
(香澄は、まだ生きているか)
もうすぐ屍にかえるということは、知っていたが。凶星がかの七星剣であることを思えば、香澄はいまだ健在であるということであろう。と、源龍は心弾ませて乱れる銀河に向かって突っ走った。
羅彩女は、自分たちが今どこに向かっているのかと思うと胆の冷える思いがしたが。ここまで源龍に着いて来たのだ、こうなればとことんまでに着いて行こうと覚悟を決めていた。
が、凶星は銀河を引っ掻き回して、それより抜け出そうとしているようだった。
(まさか)
項羽と香澄、それに付き従う者わずかな手勢、それが地を埋め尽くすような大軍に殲滅させられずに逃げおおせるというのか。
項羽はもとより香澄の強さはよく心得てはいるつもりであったが、こうして遠くから眺めてみるとその強さのほどは天井知らず。
(源龍って、ほんとおかしいよ)
羅彩女は、左腕を断たれてもなお項羽と香澄をもとめる源龍の精神構造のおかしさを、いやでも痛感せずにはおれなかった。
もっとも、
(そんな男に着いていくあたしも十分おかしいか)
と思うと、変に気が楽になり、面白い気分になった。
ともあれ、凶星が銀河より抜け出すことで邪魔がずっと少なくなるのは助かる。
源龍は那二零を疾駆させながら凶星の動きをながめ、にっと笑った。おめおめと漢に討たれるふたりではないのはわかっていた。
なにより、求めるものを眼前にすれば源龍ならずとも心弾むを抑えられない。
那二零も源龍の意気を読んでか、夜闇を打ち砕くかのごとくいななきも馬蹄の響きたからかに風を打ち破りながら駆け抜ける。
凶星は銀河の中を駆けまわり、引っ掻き回すだけ引っ掻き回すと、どこへともなく消えて行った。凶星は、南へと消えた。
(楚へかえるのか)
ここより南下すれば、楚である。
項羽のゆくところとすれば、それしかない。
楚にかえって再起を図るのか。いや、ここまで追いつめられた項羽がそこまでするとは、源龍には思えなかった。
むしろ項羽は、そして命わずかな香澄も、漢と戦って、死ぬつもりであったろうが。項羽と香澄があまりにも強すぎたために、死にぞこなって、成り行きで抜け出してしまったのかもしれない。と源龍は思った。
無論その考えは外れなのだが。
「ちっ」
源龍は舌打ちする。凶星を追おうにも、やはり漢軍が道を隔ててゆくにもゆけず。やむなく迂回して、消えた方角をたよりに、勘で追うしかなかった。
まさか源龍がそばまで来ていると知らず、韓信は項羽の決死の勢いに圧された自軍を叱咤し、追撃の指揮を執ろうとする。その中にあって、
「項羽の剣は、仙女の剣だ」
という声が聞こえた。仙女、と見みまごうほどの美しさと、恐るべき剣技をもった少女が項羽の愛妾にいて。それが仙女と言われている、ということは耳にしてはいた。またその得物が、剣身に紫の珠を北斗の配列に埋め込んだ剣だというこも、いま思い出した。
(項羽が仙女の剣を? どういうことだ)
仙女など、いくらなんでも大げさな、と思ってはいたが。その噂の仙女がおらず、項羽がその得物を振るっているとは、どういうことであろう。
韓信は仙女を知っている者をつかまえ、あらためてその仙女について問いただしてみた。
「それはそれはもう、強うございましたよ。仙女剣をひと振りすれば、我が軍の剛の者たちまちのうちに討たれてしまうありさま」
広武山でのことを、彼は語った。語りながら、思い出して身震いまでする。それを見て韓信は、
(これはいかん)
と、兵たちが想像以上に項羽と、その仙女をおそれていることを察して。
「これ以上仙女のことを口にするな。破れば、斬首だぞ」
と言い、さらに、
「項羽を討てば金千両に万戸侯の位がいただけるのだぞ。そればかり触れて回れ!」
と剣を振り上げ檄を飛ばした。
恐怖を取り除き欲を高めるのだ。項羽を討つの機は今しかなく、これを逃せば取り返しがつかないことになる。
理由はわからないが、幸いにして仙女は天に帰ったかおらず、項羽ひとり仙女の剣を振るっている。剣がどのような業物であろうと、所詮はひとり。あとの手勢はおまけのようなもので、気にかけることもない。
これが功を奏したか、次第に誰も仙女のことを口に出さないようになり。かわって、金千両と万戸侯が異口同音に叫ばれはじめた。
漢の兵たちは恐怖を欲で覆い隠し、餓えた獣のように血眼になって項羽を追った。しかし馬脚にまさる騅は駆け、また北斗七星きらめき血風吹かし。たちどころのうちに逃げ失せてしまった。
それを追い、那二零、回七も駆ける。
天体はうごいて、夜闇は薄れ、空に暁。
夜闇に覆われて影絵のようだった山野の風景が、日差しによって姿をはっきりとあらわしてきて。自分たちがどこにいるのかが、わかるようになってきた。
見事漢の大軍を突っ切った項羽は騅の脚をゆるめず、南へ南へと遮二無二に駆けた。また騅もよくこれに応えた。
後ろにつき従うものは、なかった。皆ことごとく、漢軍によって討ち死にを遂げた。
項羽一騎、黙々と騅を駆けさせた。
やがて、長江の支流、鳥江という河の渡し場まで来た。
この鳥江を渡れば、楚である。いや詳しくは、楚の残存地帯というべきか。ここまで来る途中、楚を守らせていた守将の裏切りを知った。さらに己自身に莫大な褒美がついていることも知った。
「項王よ」
川から呼びかける者がある。楚人で張義という男であった。
男は舟に乗り、しきりに項羽に呼びかけている。
「もし来られたら、と思いお待ちしておりました。さあ、どうぞ舟にお乗りになってくださいませ。わたくしめが、向こう岸までお運びいたしまするに」
張義懸命になって、項羽に呼びかけている。楚人として、彼もまた項羽を信奉していたし、今のすがたに漢を憎み項羽を哀れむことはなはだ大きい。
しかし、それまでひたぶるに駆けて来た項羽は、じっと張義と舟を見。また愛馬騅と、七星剣を見て。しばし物思いにふけったかと思うと、
「否」
と応えた。
なぜでございますか、と驚く張義に、項羽は遠くを見つめながら、笑って語った。
「我は江南の地より兵を起こし、秦を滅ぼし覇王となるも。天意によりその最期は近い。またこれまで我に付き従ってきた者は、ことごとく死した」
張義に、というより、天に昇ったであろう楚の将兵たちに語るような、語り口であった。
「なるほど、川を渡り楚にかえれば、肉親の死の悲しみをこらえ皆温かく迎えてくれよう。されど、我は恥ずかしい」
話を聞き、張義はいやな予感がし。どうぞお考え直しを、と言おうとしたが、なぜか身体は震えてばかりで声が出ない。
「我に、楚の民にまみえる面目はなし」
言い終えたとき、遠くから馬蹄の響きが聞こえた。
漢の追っ手かと思われたが、違った。来るのはわずか二騎、しかも一頭は見事な赤鹿毛の駿馬に、乗り手の剣士は隻腕。
これなん項羽を求めて追った源龍と那二零であった。少し後ろに、回七を駆る羅彩女。
「これは、いつぞやの匹夫ではないか。うぬも我が首を求めんとするか」
迫る源龍に、項羽は七星剣をかかげて雷喝した。
しかし源龍黙して、足を踏ん張り那二零を疾駆させながら、残った右手で股夫剣を抜き放ち。
刹那に那二零、騅に迫り、まじわる双剣きらめきをはなち火花を散らす。
少し離れて羅彩女、回七を止め。ふたりの闘いを見守り。張義は金縛りにあったように、船の上に棒立ちする。
「香澄はどうした」
「香澄、誰のことか」
「ぬかせ。お前が愛妾にしていた女だ。その七星剣を持っていた女だ。俺の左腕は、香澄に断たれたのだ」
刃をまじえながら、源龍は項羽に吼える。漢軍に先を越されてはと必死の思いで駆け、幸い項羽と巡り会えたものの、香澄がいない。だが項羽の振るうは、香澄の七星剣。
「香澄、それが虞の本当の名か」
「……?」
双方咄嗟に馬を引いて距離をとり、闘いの手を休める。
項羽も、いつぞやの匹夫が、隻腕になっていることに疑問をいだいていたが。まさか香澄、虞がそうしたなど夢にも思わない。
「項王よ、あんたは女の本当の名も知らぬまま、そばに置いていたのか」
「そうだ。彼女は、虞でいてくれた」
かつて、項羽が香澄を見初めたとき、「虞よ、虞よ」と叫んだことは覚えている。虞というのがどういったものかは知らぬが、男女の恋にうとい源龍でも、あらかたの予想はついた。しかし、本当の名を告げずそのまま虞でいたなど、夢にも思わなかった。
香澄はそこまで項羽に尽くしたというのか。屍魔でありながら。
「虞は、死んだ。本当の名を告げぬまま。そうか、香澄という名であったか」
項羽は、その手に握る七星剣を眺め、虞に、香澄に想いを馳せる。対して源龍は、香澄が死んだ、屍にかえったことを告げられ、雷に打たれたような衝撃を覚え。
しばし呆けたかと思うと、
「天は我が敵を奪った」
と、狼のように天に向かって猛々しく吼えた。
虞美人草・3
その無念、声に乗って天に響いた。羅彩女も、成り行きを静観しながら、香澄が屍にかえったことを聞いて、なにか心うずくものがあった。
(あれだけ強かったのが……)
反魂玉を打ち砕き、これにより屍魔が屍にかえることは避けられぬと知っていても。香澄が屍にかえったことは、にわかに信じがたく。死というものは、いかなる者であろうと避けられぬものであることを、今さらながら痛感していた。
「匹夫、うぬは香澄と何のかかわりがある」
と項羽は問いかけた。さすれば源龍、
「剣」
と股夫剣をかかげて応える。
項羽それで察しがついた。源龍と香澄は、剣の宿敵であったという。なるほど細腕の少女ににつかわしくない剣技に、業物の七星剣。その過去は知らず、香澄もまた江湖の剣客であったということか。
ではあのとき、ふるさとにかえると言ったのは、実は源龍と剣をまじえるための旅だったのか。源龍は、そこで左腕を失ったのか。
実際は違うのだが、当たらずといえども遠からず。
「だがすでに香澄はなし。左腕の仇も討てず、俺の命も、もうゆくところはない」
香澄すでに屍にかえる、と知り。源龍、項羽を前にして愕然。そして命の行き場を失う心境になり。己の心は項羽よりも香澄が占めていたと、あらためて知った。
源龍の心にあったものは、香澄と闘い、勝つか、敗れて死ぬか、そのどちらかでしかなかった。いつそうなったか、それは左腕を断たれて以来、項羽を差し置いて、香澄は源龍の心を占めた。
だが、時の流れが、天意が、香澄を奪い去ってしまった。もう、敗れて死すこともかなわない。源龍は、己の命の行き場を失うことになった。
「否!」
源龍の嘆きを打ち消すように、項羽は吼えた。
「我に虞より、いや、香澄より受け継いだ七星剣あり。剣に生き、剣に死すを望むならば、項羽かわって相手をいたそう」
当初と打って変わって、項羽は源龍に礼を尽くす作法をとった。虞が、香澄が一目置くほど剣士であるということが、項羽の源龍に対する印象を変えたらしい。
「いざ」
項羽七星剣をかかげ、騅をけしかけかかってくる。
源龍、項羽かかげる七星剣の紫の珠光るのを目にし、今にもさまよわんとした己が命、そこに活路を見出した。
「おう」
項羽の掛け声に烈しく応え、口に手綱をくわえ源龍隻腕ながら股夫剣をかかげ、那二零をけしかけ、七星剣を受けて立てば。
たちまちのうちに双方より烈火ほとばしり、激闘すること十数合、剣風竜巻を巻き起こす。
騅、那二零の二騎も乗り手の心魂乗り移り、蹄たくましく地を踏みしめ、また力強く地を蹴り駆ける。
項羽七星剣を振るい、源龍隻腕であるとも容赦はしない。また源龍隻腕なるとも項羽の剣撃も怖じることなく、右腕一本股夫剣と同化させるがごとく存分に振るう。
張義すでに言葉もなく、今は夢の中か、と思えるほど呆け。羅彩女固唾を飲んで、双剣のゆくすえを見守ろうとたたずむ。
幸いにして漢兵の追っ手邪魔に来ず、ふたりはさらに十数合をかさねた。
(こいつは)
源龍、項羽振るう七星剣の剣風に触れて気付くこと。かつて項羽と刃をまじえたときは、剛の一手ですべてを叩き斬る勢いであったのが、それに柔がくわわり。剛にして柔、柔にして剛。剛柔相反する要素たくみにまじわり。
ときに裂帛の気合込めて叩きつけられる龍尾か、ときに大風巻き起こさんとして羽ばたく鳳翼のごとくか。
羅彩女も、それに気付いたようだ。
「こ、これは」
ぽそっと、つぶやいた。
項羽の中で、ひとひらの剣譜がひらめいていた。その剣譜に描かれるは、剣を舞わせる虞こと、香澄の姿であった。
垓下の城で見た、香澄の剣舞。
それは項羽に新しい剣の境地をさとらせるものだった。項羽の剣舞巻き起こす剣風に触れて、燃え尽きようとしたその命、最後に強く輝いた。
ただ、命の火燃え尽きんとした屍魔が、己が剣技を人に託するかどうか。香澄にあったのは、魂の共鳴のみであったのではなかったか。それがさらなる共鳴を生み、項羽に新しい剣の境地をさとらせ、項羽雷に打たれた思いに駆られるとともに、その心にひとひらの剣譜が描かれた。
(こいつは、まるで香澄とも闘っているようだ)
源龍刃をさらにまじえて、にわかに湧き上がる歓喜。香澄屍にかえろうとも、その魂、項羽の魂とともにあり。
「源龍よ、知れ、我を殺すは天のみ」
心に香澄を描きながら、項羽雷喝一声。手綱口にくわえる源龍、歯を食いしばって股夫剣を振るうを応えとする。
闘いは一進一退。いずれの剣もきらめきやまず、剣風おさまらず。
剣まじわり火花散らすたび、項羽と源龍の魂ともに響き、共鳴し合う。騅、那二零の二騎もまた蹄けたたましく鳴り互いの瞳にそれぞれを写し合い、眼光するどくまじえ火花散るよう。
その激闘永遠に続かんとするか。
されどいかなるものも永遠なるはなし。
それは神の悪戯か、悪魔の業か。項羽七星剣を源龍の脳天に振り下ろし、源龍かろうじてこれをかわせば。その揺れる左袖、突如の風にひらめき七星剣を包み込む。
「う、むっ!」
それは一瞬であった。七星剣袖に巻かれ、項羽咄嗟の動きままならず。そこに機を見た源龍、七星剣袖を切り裂きいましめより逃れようとするところを、股夫剣うなりをあげて項羽の太い手首に迫れば。
項羽剣柄より咄嗟に手を離し、股夫剣の切り裂く風の破片を指先で感じる。とともに、袖断ち切った七星剣宙に浮く。
「いかん」
はっとして、慌てて手につかもうとも遅きに失した。七星剣は項羽の手より逃れるように、落ちた。
七星剣、騅と那二零の蹄のそばで、北斗に配列された紫の珠きらめかせながら、地に落ち着いて。刃が欠けた。
勝負あった。
が、項羽と源龍、黙して語らず、愛馬の蹄そばの七星剣を見下ろす。
源龍の揺れる左袖が風にまかれ七星剣にからみついたのは、源龍自身意図したわけでもなく、項羽もそれはわかっていた。偶然のことであった。では、その偶然は何によってもたらされたのか。
(これは、天の采配なるか)
項羽はすべての終わりをさとって、騅より降りて七星剣を拾い上げると。
「ふう」
と、何か気楽そうにため息をつき。
「源龍、しばし待て」
と言う項羽の顔からは、さきほどまでの覇気は失せ。気軽に友人に語りかけるような趣の顔であった。 騅を引き、戸惑う張義に強く言い聞かせて、愛馬を預けて舟に乗せ。向こう岸へと渡らせた。
舟の中でたたずむ騅は、ずっと項羽を見つめていた。が、項羽は未練を断ち切るように背を向けた。
すると、
「さらばだ」
と言って、源龍は項羽に背を見せ遠ざかってゆくではないか。羅彩女がこれに続く。
無欲な奴だと、項羽は源龍の背にそう語りかけると、手に握る七星剣を、北斗に配列された紫の珠をじっと見つめて。
「俺もゆくか」
と来た道を歩いて戻り。
たったひとり、漢軍と戦い。存分に戦ったあと、自ら首を刎ねて、自害した。
そのなきがらに、欲に憑かれた漢兵が群がって奪い合いを繰り広げた果てに、その身体は五つにちぎれたという。
七星剣はそのどさくさに紛れて、誰かが剣身を砕き、紫の珠のみ持ち去られて。
破片のみが残された。
そういうことがあったとも知らず、源龍は那二零を走らせる。
回七をならべて羅彩女、
「これからどうするのさ」
と問えば、源龍しばし風を感じながら沈思して、
「そうだな、長城の向こうへいくか」
と言った。
羅彩女、そりゃいいと、破顔一笑して賛同した。
ふたりの瞳は、長城の向こうに何を見ているのであろうか。
以後、源龍と羅彩女は、中原に姿を現すことはなく。
司馬遷の史記にも、その名は記されなかった。
……
かつて垓下の城であったところは、廃墟となり。風が砂埃を運んでは、巻き上げてゆくばかり。
城壁崩れ形を成さず、家屋も柱朽ちて倒れ果て。
その廃墟のときの流れを見守るように、片隅にしずかにたたずむ、木造りの墓碑。ところどころが朽ちかけてはいるものの、虞美人墓、と刻まれているのが見えた。
そばに、一輪のひなげしの花が、しおらしく咲いている。
いつからか、誰がつけたのか。
墓碑に刻まれた虞美人の生まれ変わりと思ってか、そのひなげしの花は虞美人草と呼ばれるようになり。
花の可憐に咲き誇る様から、人は墓碑の下で眠る虞美人をしのんだ。
dead or alive ~活死剣譜~ 完