scene1 遭遇
遭遇・1
紀元前の中国。
史上初めて中国の広大な大陸を統一した秦が滅んで、楚と漢の間で激しい戦いが繰り広げられているころである。
一人の青年があった。
身にまとう服は黒く、長旅のせいかところどころにほころびが生じ、身なりはいささかみすぼらしくも。腰には剣を佩き、肩で風を切りながら、うっそうと木の生い茂る森の中に走る一筋の道を、ひとり黙然と歩いている。
あたりは薄暗く、天を照らす陽光が、うっそうとした森の中ではいく筋かの木漏れ日となって、地に突き立っていた。
時折鳥や虫の鳴き声が、どこからともなくと青年の耳に入り込んでくる。
しかし青年は意に介さず、足早に旅路を急いでいた。
その目は鋭く、薄暗い森の中で異様に光り輝いて。我知らずに、拳は握りしめられていた。
と、そのとき。どこからともなく、鳥や虫たちの泣き声を掻き消す、獣の咆哮が轟いた。
青年、源龍は足を止め、とっさに剣を抜き放って身構える。その目は鋭い眼光を放ちながら、周囲をゆっくりと用心深く見渡す。
すると、木陰の向こうからゆっくりと、低く唸り声を立てながら、一匹の虎が姿を現した。殺気立ち、餓えた目が、
「こいつは、美味いか」
と言わんがばかりに、じっと源龍を睨みつけて。その鋭い牙をひけらかすように、開け放たれた口から、なおも低い唸り声を発している。
(食うか、食われるか)
口をつぐみ、じっと餓虎と対峙する。さすがに、人の身で虎と向き合うのというのは、肝の冷える思いを禁じえなかった。しかしかと言って、逃げたところで、人の足では虎の脚にはかなわない。
「俺にはやることがある」
こんなところで、むざむざと餓虎に食われて死んでたまるか。
ゆくぞ、とばかりに虎が跳躍の構えをして見せた。とともに、かっ、と目を見開き、源龍は勇を鼓して駆け出し。剣を振るって、その脳天に叩き落とす。
剣光一閃。そのまま脳天を砕くかに見えた剣だが、虎もさるもの、身の危険を感じてさっと横飛びに剣をかわす。しくじった源龍は、剣が虚しく空を切るのに忌々しく舌打ちし、次の機会を狙ってまた剣を繰り出そうとする。
させるか、とばかりに虎は地を踏みしめあらん限りの力で飛び掛り、前足の爪を振るって源龍をずたずたに引き裂こうとする。その素早い動きに後れを取ってしまい、繰り出す剣は届かずと観念し。
「うおっ!」
大喝一声。あやうく爪が顔面にかかろうかという直前、源龍は大きく跳躍し虎を飛び越え。さらに森の木を跳躍台にして、また一段と高く跳ね上がるとともに、素早く剣を逆手に持ち替え、今度は上からその脳天に突き立てようとする。
だがそれもかわされ、虎は横へひと飛び。剣の切っ先は落ち葉を軽く突っついた。
着地の勢いで身をかがめ、虎と視線を合わせて、空を切る音を響かせながら剣を隙なく構える。これが人間同士なら、相手の挙動を見て、しばしの睨み合いとなるのだろう。しかし虎に剣などわかろうはずもなく、隙のあるなしなどお構いなく、本能のまま向かってゆくのは己が猛獣としての強さを驕っているからか。
だがそれで虎を笑えようか、その巨体と爪と牙から繰り出される猛威は、人間の弄する小細工などいとも簡単にずたずたに引き裂いてしまう。
やんぬるかな。源龍も隙のない構えなど虎には通じないと悟り、覚悟を決めて剣を唸らせ、閃かせ。駆け出そうとする。とすると、ぱっと脳裏に剣光が閃くように、思案が浮かび。
咄嗟に後ろへ向けて跳躍し、またも森の木を跳躍台にしてさらに高きへと飛び上がった。その足元を、虎が駆け抜けてゆく。
(今だ!)
くるりと宙で身体を回転させながら、剣を虎の尾根に叩きつける。
風を切る唸りとともに、手には、確かな手ごたえ。尾は、血の赤い筋を引きながら、地に落ちていった。これに驚いた虎は、突然尾が切り離されたことにひどくうろたえ、恨みを吐くように吼えまくって。まさに手負いの獣、いよいよ手のつけられないような暴れっぷりとなった。
しかし狙い定まらず、暴れれば暴れるほど源龍につけこまれ、剣がその身を斬きたててゆく。しかしなかなか虎はしぶとい。しっちゃかめっちゃかに暴れるため、迂闊に近づけず剣先で傷をつける以上のことが、しばらくはなかなかできなかった。
「いい加減に、死ね!」
痺れを切らせて、大喝。すると、虎はびくっとして尾根から赤い血を滴らせながら逃げ出した。
「逃がすか!」
勝負はあった。だが源龍は許さず、森の中へと虎を追ってゆく。がそのとき、さっと人影が見えたかと思うと虎の前に立ちはだかった。
「なに?」
いつの間にいたんだ、と驚く間もない。虎の前に立ちはだかった人影、源龍と同じ年頃の青い服の青年は、さっと剣を繰り出すや。そのまま虎の脳天に突き立てた。
虎は腹に響くほどの断末魔の叫び声を上げると、力なく崩れ落ちて、ぴくりとも動かなかった。
青年は動かなくなったのを見て、剣を虎の脳天から抜き、肩にかけると、にこっと源龍に笑いかけ。
「危ないところでござったな」
と言った。が、しかし。源龍の目を見て、その笑顔がかたまった。
殺気みなぎる鋭い眼差しをそそがれ、青年はかたまった笑顔で、
「それがし、江湖(渡世)をさすらう韓の生まれの浪人。姓は貴、名は志。貴志と申す。ここを通りがかれば、お前さんと虎のやつが一戦をまじえていたのを見かけたのだ。その助太刀に参ったものを、どうしてそのような怖い目をなさる」
と抗議もふくめて源龍に述べたてた。
ぎっ、と歯を食いしばる源龍。貴志をさらに睨みつけるあまり、ついに破裂でもしたかのように。
「黙れ!」
と叫んだ。これには貴志も仰天した。助太刀をしたのに、怖い目をされて、挙句に黙れ、とは。一体どういうつもりだ、と笑顔はいつしか消え、こちらも目を据わらせて、相手を見据える。剣で肩を軽くとんとんと叩き、いつでも咄嗟の動きが出来ることをさりげなくしめしている。
「余計なことを。よくも俺の得物を横取りしやがったな」
「横取り?」
源龍の言葉に貴志は驚くやら呆れるやら。ふん、と荒く鼻でいきまき。
「横取りとは人聞きの悪い。お前さんが虎を仕留めそこねたのを、手伝ってやったのではないか。感謝されこそすれ、横取りと言われる筋合いはない」
「ぬかせっ。この虎は俺が仕留めるはずだったんだ。それを邪魔しやがって。虎の代わりに、お前を仕留めてやる!」
「なにっ!?」
驚く貴志に有無を言わせず、源龍は激しく斬りかかった。無論貴志も黙ってやられはしない。剣を構えて、素早い動きで剣をかわし。時には己の剣で源龍の剣を受け、流す。
だがそればかりだと、ますます源龍はつっかかってくる。こうなってしまっては、是非もない。降りかかる火の粉は、払わねばならぬ。
「止むを得ん。死んでも恨みっこなしだぞ」
とついに貴志からも剣を繰り出し、源龍を攻め出した。剣の切っ先が風を切り、唸りを上げる。それをかわしながらも、剣に切られた風が冷たく頬を撫でてゆき。これは、貴志も相当な使い手であると認めざるを得なかった。
だが源龍も負けてはいない。
「でやあっ!」
大喝一声。貴志の剣が切る剣風を見切り、一瞬の隙を突いてだっと駆け出し、己の剣を相手の腹めがけて突き出す。
貴志の目は、一瞬きらりと青く光ったと見るや少しさがるとともに刺突を繰り出し。源龍の剣先と、かち合った。
刹那、ぱっと火花が散り。薄暗い森の中、ふたりの姿を瞬きする間照らし出した。
それを合図に双方さっと飛びのき。互いに得物を構えて、睨み合う。
ともに額から汗が流れ出し、頬をつたって流れ落ちてゆく。
(やるな、こいつ)
身を縛るように、周囲の空気が引き締まってゆくような緊張感。というとき、貴志はふと、
「そういえば、お前さんの名前を聞いてなかったな」
と言った。
「そうだな。……ふん、墓に名でも刻んでくれるというのか」
「お望みとあらば」
「ならそうしてもらおうか。俺は楚人、源龍」
源龍のこたえるのを聞き、貴志ははっとしたように目を見開いた。今たしかに、楚人といった。
「楚、項羽のか」
「知れたこと」
「浪人か」
「まあな」
何を思ったか、貴志は源龍のことを妙に聞き出そうとする。名だけでなく、それまでどう生きたかまで刻んでくれるというのか。いぶかしく思い、それから、
「これ以上のことをお前に言う必要はない」
と口をつぐんでしまった。貴志は、ああそうか、と言いたげにすまし顔で剣を構え、いつでも攻め立てられる体勢をとっている。
源龍も相手の剣の切っ先を見据え、隙あらばいつでも飛び出せるよう虎視眈々と貴志の動静をうかがっている。
少しはなれたところでは、なきがらとなった虎が静かに横たわり。そういえば、ふたりの殺気を恐れたか、鳥や虫の鳴き声がなくなっていた。
耳の痛くなるほどの、静寂。空は流れ、相手の気を乗せて肌に触れる。
双方、やわらかに吐息をつき、なおも静寂の中に身を置く。
孫子の兵法にいわく。静かなること林の如く。ふたりは動かざること山の如く。そしてひとたび双方の剣が交われば、迅きこと風の如し、侵掠すること火の如し。この四つをまとめて、風林火山という。
ふたりはともに睨み合って、そのまま日が沈むかと思われたほど、動かなかった。ここでじれて迂闊に動けば、相手に隙をさらしてしまって、負ける。
かといって、動かないままでいるなど、人間である以上、出来る事ではない。ここは我慢比べだ。
と、相手の限界を待ち焦がれているときだった。
「うふふ」
という、笑い声が耳に触れる。それは異様に冷たくも、耳を優しく撫でるように優しく、艶かしく、明らかに鳥の鳴き声を聞き間違えたのではなかった。と同時にふたりは戦慄し、鳥肌が立つ。
その笑いの中には、童子めいた無邪気さに溢れ、まるで童女が遊ぶような。しかし、このうっそうとした、しかも虎が出るような森の中で、童女が遊ぶなど。いやそうでなくとも、さっきまでふたりは大喝し、死闘を繰り広げていたのだ。たまたま近づいたものなら、それに驚き慌て、わんわん泣いてよさそうなものだが。
(聞こえたか)
と貴志は目で訴え、源龍も口をつぐんでうなづいた。ふたりして、笑い声を聞いたようだ。
緊張のあまり、ふたりして幻聴でも聞いてしまったか、それとも物怪の業か。ふたりは理解に苦しみながら、それぞれ得物を構えて動かない。
これはふたりで争っているどころではない、と。いまや注意は、その笑い声にそそがれていていた。
すると、何かが源龍向かって飛んでくる。
さっと剣を一閃。飛んできたものを打ち返せば、それはふたつに別れ、地に落ちた。見てみれば、さっき源龍が叩き落した虎の尾ではないか。
「なんだとっ!」
同時にふたりは驚きの声を上げる。虎の尾がひとりでに飛ぶはずがない。と、すると。
「うふふ」
また、笑い声がした。ふたりは笑い声の方へ顔を向け、目を見開き息を呑んだ。
いつの間にいたのか、紫の衣をまとった少女が、ふたりをいわくありげな眼差しで見つめながら、こちらへ向かって静かに歩み寄ってきているではないか。
少女の腰で、剣が揺れる。
年のころは十七、八くらい。肌は蝋のように白く。艶のよい長い黒髪は首の後ろでまとめ上げられ。目は憂いを含んだように潤んで、薄暗い森の中でほのかに光り輝いていた。
遭遇・2
その黒い瞳を見ると、なにか吸い込まれそうなめまいを覚え、ふたりはあわてて目をそらす。それは、その美しさに惹かれてか、それとも、
(妖女の業か)
冷や汗がどっと吹き出るのを禁じえなかった。
(項王のもとで百戦錬磨した俺が、小娘などに)
源龍は自分が信じられなかった。剣を頼みに、楚人として秦と戦ってきた「剣士」の己が、一瞬とはいえ、若い娘に魂を奪われたようになるなど。ありえないことであった。項王こと、項羽は女を近づけず、戦神の如くというに。己はまだ項羽には及ばないのか、と思うと忸怩たる気持ちに襲われ、ぎっ、と歯を食いしばる。
貴志は、背筋に冷たいものが走るのをこらえながら、少女の出方を待っているようだ。
「ねえ」
娘はふたりを交互に見つめ、見入りそうな笑顔で、つぶやいた。
「わたしも混ぜてよ」
源龍の中で、プツン、と何かが切れた。
「小娘!」
弾かれるようにだっと駆け出し、剣を閃かせ振り上げ、少女の脳天目掛けて振り下ろそうとする。貴志は「危ない!」と思いながらも、とっさのことで止める間もなかった。
ふっ、と少女はうっすらと笑みを浮かべると、すぅ、と流れる空気に乗ったかのように源龍の剣をさらりとかわした。とともに、きらりと閃く光。源龍の左頬を撫でてゆく。
それから少女の右手には、腰に佩いていた剣が握られ、不気味な光りを放ち。切っ先には、赤い血が剣光とともに濡れ光っている。
「……」
源龍は左頬にかすかな痛みとべっとりとした感触を感じて、たらりと流れ落ちる血が口元まで落ちてきたのを舌で舐めた。妙にひんやりとして、確かに血の味がした。
(いつの間に)
わからない。少女が剣をよけざまに、剣を抜いたのみならず、ついでに源龍を傷つけたというのか。いや、そうとしか考えられない。
風に紫の衣がそよぐように、少女は右に左にゆらりゆらりと風と戯れるように揺れ、手に持った剣も一緒に揺れている。
血の冷たさを感じながら、源龍は気を持ち直し剣を構え直し。少女に備えた。そして、戦慄した。
楚人として、項羽のもとで幾たびもの戦に赴き、幾たびもの死地を乗り越えてきた。そして、そこでの項羽の鬼神の如き戦いを目に、心に焼き付けてきた。
(さればこそ、俺は楚軍をはなれて江湖に下った)
項羽と戦うために。
剣士として、項羽ほどの好敵手はいないであろう。しかし楚人として楚軍にいる限り、項羽とは闘えない。だから、楚軍を離れ、江湖に下り、武者修行の旅をしていた。
それが、こんな小娘相手に。剣をかわされたばかりか、傷までつけられて。これは、源龍にとって屈辱的なことであった。
「源龍!」
貴志の叫び。
「ここはひとまず、手を組み協力して娘に当たるしかないぞ。どうだ」
それを聞き源龍は顔をしかめた。娘一人に大の男がふたりで、本来なら恥ずべきことだが、その強さは計り知れず、体面にこだわっている場合ではない。それくらいはわかった。
やむを得ず、
「応」
とこたえるより他はなく。ふたりは、息つく間も与えまいと、少女に攻めかかった。
ふたりの剣が交差しあい、閃きあうも。少女は笑みをたたえ、風に揺られるかのようにゆったりと、攻めをかわしてゆく。無論ふたりの攻めは迅速をきわめ、ゆっくりできるはずなどないのだが、不思議にも少女は、そよ風に遊ぶ蝶のように余裕しゃくしゃくと、その身を風にまかせるかのようにゆらぎ。
その手に握られる剣をかかげ、それを扇子に見立て舞いを舞っているようでもあった。
(なんで当たらんのだ)
貴志はあせりを覚えつつも、剣を大きく振りかぶって、横なぎに斬りかかり。その反対側からは、源龍の剣がこれまた同じく横なぎに少女に斬りかかり、挟み撃ちをなす。しかし少女は意に介さないどころか、いまだ余裕ありげに笑みをたたたまま、跳躍すれば。
その足元で、剣と剣が交差する。
あっ、と源龍と貴志は得物を咄嗟にひっこめ、今度は跳躍した少女を下方から突き上げようする。だが少女は、貴志の剣の切っ先を跳躍台にして、ふわりとさらに高きへと飛んだ。
衣の袖や裾が、ゆらりとゆれ、少女がほんとうに風に乗って遊んでいるかのように見え。まるで、天女のようだった。
それを見上げた貴志は、思わず見惚れ、動きが止まる。
「おい!」
その様子を見て取った源龍が、貴志に大喝する。
はっとすれば、やけに得物を振るう手ごたえがおかしい。あっ、と思ってももう遅かった。先端がなく、剣は途中でまっすぐに折れている。
剣は少女の踏み台にされたときに、蹴り折られてしまったようだ。その剣の先端は、宙でくるくる回って、切っ先を地に刺して落ちた。
少女はさらに木を蹴って、ふたりから距離をとったところで着地。袖をたなびかせ、くるりとひるがえってから、剣を構えて。
ふたりに笑いかけるや、さっとふたりへ向かって駆け出し、剣光を閃かせる。
(ええい、このなまくらめ)
貴志は苦々しく切っ先の折れた剣を放り投げ、拳法の構えをとった。武器は剣以外に持っていない。源龍は目をいからせ剣を構え、地を踏みしめだっと少女に向かって駆けた。貴志もそれに続く。
あいも変わらず少女は微笑をたたえ、剣を一閃、また一閃させる。薄暗い森の中、香澄の振るう一条の剣閃はふたりの男を翻弄し、たまに衣が木漏れ日に当たって、艶やかに光った。
剣を失った貴志は、双拳を繰り出し、地を踏みしめ蹴りを見舞う。その動きもまずくない。剣同様、拳、脚ともに風を切り唸ること、その威力剣にも勝るとも劣らず。
(ほう)
と源龍は少女へ剣を繰り出しながら、密かに貴志の無手の戦いに感心していた。どこの門派が知らぬが、相当に武術の修練を積んでいること明らかで、その武芸も浪人離れしていることも明らかだ。もとよりただの浪人ならば、源龍の敵ではない。
にもかかわらず、少女へは、相変わらずかすりもしない。
それでいて、少女はふたりにとどめをさそうとしない。
「なぶっているのか」
思わず源龍はそう口走った。今までやりあって、その気になれば少女はふたりをしとめようと思えば、しとめられたかもしれない。にもかかわらず、それをしない。
それを聞いた少女は、さっと後ろへ下がるや。
「なぶっているのか、って何?」
と不思議そうな顔をして言った。
まさか、とふたりは一瞬顔を見合わせた。言葉の意味がわからないのか。そんなはずはあるまい。清楚な顔立ちに、衣の着こなし。身分卑しからぬことは明らかだ。ということは、それなりに教養もありそうなものだが。
からかっているのだろうか。しかし、少女はほんとうにわからない、と不思議そうにしている。
(あっ)
生い立ちなどどうでもいい、今こそ絶好の機会。ふたりは同時に攻め立てた。少女も機先を制せられ、はっとしたものの時すでに遅し、源龍の剣が、貴志の拳が迫り。貴志の拳は頭を下げてどうにかかわすも、源龍の剣は避け切れず、咄嗟に後ろへ飛びのいたものの、衣の袖には一筋の切れ目が入っていた。
だが少女は無表情。衣を切られても、そ知らぬ顔だ。それどころか、源龍に微笑みかける。
(なんだ、こいつは)
少女のおかしさに、戦慄を通り越し、不気味さを覚える源龍。少しばかりお返しが出来たことなど、何ほどのことがあろうというのか、という感じだ。それと同時に、どこか、人間とは違う何かを感じていた。かといって、さっき渡り合った虎と同じことはない、なんというか、人でもない、獣でもない。ならば、やはり妖女なのだろうか。
無手での構えで控えていた貴志も、うすうすと感じているようだ。
「お前、名前はなんという」
と問いただす源龍。戦いよりも、少女の素性が気になって仕方がない。
すると、
「人に名乗らせる前に、まず自分から名乗れば?」
と返されたではないか。なぶるの意味がわからず不思議そうにしていたのに、そういう礼儀作法は知っている。
(からかっているのか? いやしかし……)
忌々しく舌打ちしながら、
「俺は楚人、源龍」
と名乗った。貴志はこのやりとりを奇妙に思いつつも、源龍に続き、
「韓人、貴志」
と名乗った。そうすれば、
「私は、香澄。生まれは、わからない……」
と少女、香澄は名乗った。
生まれは、わからないという。それから、あろうことか、香澄は途端に剣をぽとりと落としたかと思うと。頭を抱えて苦悶しはじめたではないか。
遭遇・3
(な、なんだどうした?)
あまりの展開にふたりはなす術を知らず、呆気に取られるしかなかった。すると、ぴぃひょろろ、とどこからともなく、笛の音がこだまする。それを聞いた香澄ははっとして、笛の音のする方角へとさっと駆けてゆく。
逃がすか、と源龍と貴志は追おうとするが、突然覆面をした謎の集団がふたりの前に立ちはだかり、ゆく手をさえぎる。
「邪魔だ!」
と大喝するや、源龍はかたっぱしから覆面の者たちを叩き斬ってゆき。貴志も拳、脚を振るい覆面の者どもを薙ぎ倒してゆく。訳もなかった。覆面の者どもは、いともたやすくふたりに倒されてゆき、あっというまに全滅させられた。
この呆気なさに、またふたりは不思議な思いに駆られた。
「あ、しまった」
貴志は香澄の消えた方へと走ったが、案の定、香澄の姿はもうなかった。この覆面の者どもは、香澄を逃がすための時間稼ぎだったのだ。が、しかし、何故この覆面どもは、香澄のために死ななければならなかったのか。
あたりは久しぶりのように、静かになって。虎のなきがらはやはり静かに眠っている。源龍は香澄の落とした剣を拾い上げ、じっと見つめる。
「……」
剣に付着する己の血を目にし、さらに口をかたくむすび。
(これは)
源龍は息を呑んだ。剣には衣と同じ紫色の珠が埋め込まれており、その紫色の珠は、北斗七星の配列をなしていた。剣自体もよく出来たもので、不気味に光る刃身に思わず寒気を覚えるほどだ。
「七星剣」
ぽそっとつぶやいた。知る人ぞ知る名剣だ。なぜ彼女がそれを持っていたのかは、わからないが。それを取り落としてそのままでいるわけもなかろうし、おそらく取り返しに来るかもしれない。そのときを狙い、返り討ちにするために、源龍は剣をしばらく持つことにして、腰帯に差した。
貴志は物言わぬしかばねとなった覆面どものそばにしゃがみこみ、覆面を引き剥がした。すると、目を見開き、
「うわっ」
と驚きの声をあげ、「ううむ、これは」とうめいた。
(かばねなぞ、見慣れているだろうが)
と源龍は貴志のうめく様を内心けなしながら、そのそばまでゆけば、
「……」
口をつぐんで、押し黙った。
しかばねはすでに変色して、腐敗もはじまって。どう見ても今さっき死んだものとは思えなかった。まさか、と思い他の覆面もはがしたが、まさかというかやはりというか、他のも、同じように変色して腐敗がはじまっていた。
「なんだこれは」
「俺が知るものかよ」
ふたりはかばねを眺め、唖然としてしまった。
これらは、どう考えればよいのだろう。姿を現したときに、すでにそうなっていた。となれば、すでに死んでいるはずだ。それがどうして、ふたりの前に立ちはだかったのか。
呆然と眺めるしかばねに時間を吸い取られてゆくような錯覚にも陥りそうで、じっと時はすぎてゆくかに思われたそのとき。
くわっ、とかばねの目が見開かれた。
「うそだろうっ!」
突然の驚きのあまりふたりはさっと後ろへ飛びのけば、しかばねは次から次へと目を見開き、ゆっくりと起き上がってゆく。ばかりか、ふたりをねめつけ、ゆっくりと近づいてくる。それを目にしながら、信じられない思いだった、が今確かに、しかばねは動き出し、ふたりに近づいてきているのだ。
「屍魔……」
貴志は、ぽそっとつぶやいた。
「なに、屍魔だと」
源龍が貴志の言葉を聞いて、ふん、と鼻を鳴らす。屍魔とは、何らかの術によって、生き返った死人のことである。妖術秘術のたぐいで、死人が生き返る。そういう話は耳にした事はある。しかし、耳にした程度で実際に見たことはなかった。だからそれは、まやかしであると思っていた。なのに今、確かに屍魔とおぼしきものが、目の前にある。おまけにふたりに危害を加えようとして。
「また来るぞ」
源龍、貴志は不気味な思いにとらわれながらも、屍魔の迫り来るにおとなしくしているわけにもいかず、勇を鼓して立ち向かった。その屍魔の動きは鈍く、攻めれば攻めたで歯ごたえはなく、いとも簡単に打ち倒されてゆく。しかしまた動き出すかもしれないと思うと、異様におっくうな思いにもとらわれ打つ手がなさそうだった。
「このぉ!」
源龍はやけになって、一体の屍魔の頭を剣で叩き斬って落とした。すると、ぴくりとも動かない。それにはっとし、
「頭を狙え!」
と貴志に叫んだ。
「心得たり!」
貴志も応えて叫び、拳、脚で屍魔の頭をどつきつぶしてゆけば、確かにぴくりとも動かなくなって、元の屍に戻った。これを見るに、まったく弱点がないわけではないらしい。あるいは屍魔をつくった妖術秘術の使い手が、そういう風にこしらえたのか。
こうなればもう怖いものなしで、またたくまに屍魔は屍にかえってゆき。すべてを片付けられた。だがふたりは、地に伏すしかばねの群れを見下ろし、肩で息をし、なお呆然とした気が抜けきらないようだった。
思えば、香澄が笛の音を聞き逃げ出して、それの時間稼ぎにふたりの前に立ちはだかった。ということは、香澄とこれらの屍魔はなんらかの関係があると見てもいいだろう。しかしなにゆえ、香澄は見知らぬ男ふたりと突然闘ったのか。どこから現れたのか、どこで武術を身につけたのか。すべてが謎だらけで、頭が混乱しそうだった。
疲れてはいるが、ここから早く離れたい一心で源龍は忌々しく地に唾を吐き捨て、剣の血を服でぬぐって鞘におさめ、肩で風を切って歩き出す。貴志はそれを見て、待てよとばかりについてゆく。
「どこへゆく」
「お前に言う必要はない」
ついて来ながら行き先を尋ねる貴志を、源龍は無視して、歩みを速め置いてゆこうとする。だが貴志は構わずついて来ながら、
「そうだな、俺は劉邦様のもとへ行こうと思う。お前はどうだ」
と言った。途端に源龍の歩む速度がゆるみ、耳がぴくっと動いたようだ。それを見逃さなかった貴志はさらに、
「劉邦様は仁徳厚いお方と聞く、きっとわれらふたりの浪人の身も受け入れてくれるだろう」
誘うような貴志の物言い。源龍はしかし、無言で歩くのみ。
「劉邦様のもとで手柄を立てれば、一城の主も夢ではあるまい」
最後にそう言うと、黙って肩を並べて歩く。なんだこいつは、と源龍はちょっと横目で隣を睨む。そういえば、貴志も貴志で、突然現れて虎を横取りしてくれたのだ。たまたま通りかかってのこと、と言うが、どこまで信用できるのか。このご時世、人ほど当てにならないものはない。虚虚実実、力でのねじ伏せあいに、騙し合いにすかし合い。
秦滅後の楚漢の戦乱端を発し、世は再び修羅の巷と化そうとしている。
そんな時に、どこの誰とも知れぬ馬の骨と旅を共にするほど、源龍は酔狂な男ではない。が、しかし、ため息をつき、観念したように。
「俺も、劉邦のもとへゆくのだ」
と言った。
遭遇・4
源龍が劉邦のもとへゆく、ということをを聞いて、貴志は「ほう」とつぶやく。なんだ同じことを考えていたのか、という風に。行く先は同じ。なら同じ道を行かざるを得ない。となれば、追い払っても詮無いことではあった。
ともあれ、楚人が劉邦のもとへゆくということは。
(おそらく項羽の扱いが悪かったのだろう)
と想像をめぐらせた。項羽と劉邦。かつては同じ楚軍に属して秦を倒していたものが、いまは天下を二分して戦おうとしている。
倒秦の志を遂げた後、その蛮勇の本性を現し、祖国楚の皇帝を殺して下克上をかまし、自らを覇王と称し天下に覇を唱えんとする項羽。
劉邦は項羽による楚帝殺害を聞いて、それを機に打倒項羽の旗を打ち立てた。
劉邦に仕える武将韓信は彼を「匹夫の勇、婦人の仁」と評している。匹夫の勇とは、勇のみを頼みにする野蛮な武将である、という意味で。婦人の仁とは、実践のともなわない口先だけの優しさやえこひいきをすることを指している。事実項羽は蛮勇の一方で、口先だけの優しさやえこひいきをする性癖があり、それに反発して離れるものも少なくないという。韓信はかつて楚軍に身を置いていたのだが、そんな理由で項羽のもとを離れ、劉邦についたのだった。
だが、源龍はそんな理由で楚軍を離れるのではないのだが、無言のままなので貴志にはわからない。
それよりも。
「香澄という娘。あれは、何者だ」
ぽそっとつぶやく声。貴志もそれを聞き、顔を曇らせ、思案する。源龍が香澄の剣を腰帯に差しているのを見て、それをどうするのか、すぐにわかった。再戦を望んでいるのだろう。香澄も剣を取り戻しに来るかもしれない。が、あれから逃げた。で、どうやって源龍と剣の居所を探し当てようというのか。
周囲に何かの気配がないか探ったが、何も感じられなかった。後をつけて来ているものはいないのか。
いや、世の中は広い。自分以上の使い手などいくらでもいる。ひょっとしたら自分たちに察せられないように、巧く気配を殺しているのかもしれない。
(江湖を渡り歩くのだ。いつも、誰かに見張られ、狙われている、という心構えでいなければ)
と、自分に言い聞かす。
しかし香澄のことを思い出すだに、今さらながら身震いする思いだ。また戦うとなると、果たしてどうなることか。ぞっとしないでもない。
どこへゆく、という話をしたのも、どこかで香澄のことを思い出さず気を紛らわす、というのがあったのかもしれない。それに、その剣をくれ、と言いたかったのだが、どうにもその気になれず黙ってしまっていたのは秘密だ。
源龍は香澄のことが、脳裏に強烈に刻み込まれているようだ。見れば、左の頬には香澄に傷つけられた斬り傷が、深く生々しく、赤茶けた血が乾いてこびりついているままだ。
おそらく、傷は跡に残ってしまうだろう。まだ痛むのか、時折眉をひそませたりしている。
だが、その正体はわからず、次にいつ会えるのかもわからず。そんな香澄のために思案に暮れるわけにはいかず、黙々と歩き。
やがて森を抜け、まわりがぱっと明るくなって、開けた景色が広がって。それからもしばらく歩き、日が暮れようとし始めたころ、
「ああ、そういえば」
突然、源龍ははっとしたように、
「あの虎、腹が減ったときのために肉片を何切れか切り取っておくんだった。俺としたことが、迂闊だった。よほど香澄に慌てていたんだなあ」
と、ため息をつき、おっくうそうにつぶやいた。
そんなこんなで歩を進めていると、夕陽が沈むころになって、やがてはさびれた小さな村にたどりついた。どこか泊まれるような宿はないか、と貴志はあたりを見回すが、源龍はかまわず村を通り抜けようとする。
「おい、宿はどうする」
と貴志が聞く。陽はだいぶ沈み、西日照らす山々は夕もやにつつまれようとしていた。が源龍はまだ陽は高いとばかりに歩き続けていたが、ちぇ、と舌打ちし。
「金がないわい」
と吐き捨てた。なるほど、源龍は腰に剣を佩き、肩で風切る大丈夫ではあるが、服は長旅で汚れ、ぼろで、いかにも金など持っていそうにない。
あったとしても、安宿賃すらけちってしまいたくなるほどの額だろう。
(ああ、これは悪いことを聞いてしまったな)
と自らに苦笑してから、何かはっとするとまた、
「その剣で、いかようにも稼げるんじゃないか」
と聞いた。暗に、強盗働きして稼げるんじゃないか、ということを聞いたが。源龍ほどの腕前なら、簡単なことだろう。だが、
「俺は剣士だからな」
とにわかに鋭い目を貴志に向けて、つぶやいた。そこで貴志も納得をし、またにわかに源龍を見直し、肩を並べて一緒に歩く。
(これは良い拾い物だぞ)
と内心無表情を装って、ほくそ笑んでいる。
(少年のころより張良様の密偵としてお仕えしていたが、こやつを味方に引き入れればたいした手柄になるし、また張良様の恩に報いられるというものだ)
貴志は、密偵として張良に仕えていて、江湖をさすらう浪人というのは真っ赤な嘘だった。世の中の動静をさぐり情報を仕入れ、張良に報告する。少年のころより、そうして生きてきた。今まで何度か危ない目にも遭い、仲間も何人か死んだが、幸いにも今日まで生きてこられた。
そしてその今日、源龍と成り行きでだが知り合い、それを漢軍に投入させられれば……。源龍もそのつもりのようだし、自分がその案内をつとめれば、張良に、漢におおいに貢献出来るというものだ。
(あ、そうそう。屍魔のこともお知らせせねばなるまい。楚になんらかの秘術妖術を使うものがいて、それによって、漢を害そうなどと企んでおるのかもしれん)
迷信深い時代である。この世は神々が創り給うたもので、幽霊や妖怪、はたまた神仙のたぐいが実在すると信じられていた。秦の始皇帝は、不老不死を神仙より与えてもらえると本気で信じ、様々な方法で神仙を呼び寄せようとしていたし。
それが叶わぬとなると、わざわざ、あるかどうか疑わしい伝説上の東夷の小島(日本列島のこと)まで、徐福という者を遣って不老不死の妙薬を得ようとしたくらいだ。しかし徐福は帰ってこなかったので、妙薬はおろか東夷の小島などなく、哀れ徐福以下つき従った者たちは海の藻屑と消えてしまったのだろう。
ともあれ、貴志は屍魔のことを思い浮かべ、急いで張良に知らせねばという焦りに駆られた。源龍に剣をくれ、と言いたかったのも、それを張良に見せたかったためだ。しかし、それを持って果たして無事に張良にまみえることができるか、どうか。
しかし、源龍はどうする。もし、これほどの手練れが突然の心変わりを起こして楚につけば、強敵となること火を見るより明らかである。
(己を剣士と言い張るほどの男だ、嘘は言うまい)
と自分に言い聞かせ、にわかに村人をひとり捕まえると。
「すまんが馬を一頭所望したい」
と言った。源龍はいぶかしげな顔をする。
「突然どうしたんだ」
「あいや、急の用を思い出してな。悪いがこれでお別れだ」
その言葉を聞き、源龍は内心ほっとしていた。一人を好む性格か、どうも誰かと一緒に行動するというのが苦手なたちだった。これで、風通しが良くなったような開放感を覚え、
「ああそうか、じゃあな」
村人に馬をくれとせがんでいる貴志を一瞥し、ひとり先へ先へと歩いてゆく。
それからいくらかすると、望み通り馬をもらった貴志が、馬を鞭打ち疾駆して、源龍を追い越してゆく。振り向きもしない、よほど急なことなのだろう。
馬の揚げた砂埃に眉をしかめ、それをよけながら歩き、ふと、七星剣に手をやった。果たして、香澄と再び出会うことは、あるのかどうか。
源龍は日月の下、とつとつと歩き旅を続けながら、時折剣の感触を確かめて、東へ向かう漢軍を追っていた。
scene1 遭遇 了
scene2 地獄 に続く