第42話『混乱』
「……っ、うっ」
指の爪が手のひらに食い込むほどの強さで包丁の柄を握りしめる瑠璃。これはもはや包丁を使うのが怖いとかそういう次元の話ではない。他に使いたくない理由があるのが明確だった。
即座に頭を回して様々な理由を考え始める。しかし、瑠璃の柔らかい肌から血が滲むのが見えたその瞬間、俺は余計なことを考えるのをやめて、危険を顧みずに包丁を握るその手に手を伸ばした。
「瑠璃。包丁を離して。今すぐに!!」
「っ!!」
思わず声を荒らげてしまったのがよくなかったのか、驚いた瑠璃は反射的に俺の伸ばした手に向かって包丁を動かしてしまった。
「痛っ」
その結果、包丁の切っ先が俺の手に触れた。
深く切ったわけではないが、すぐに血が溢れ始める。
「あ、あ……友樹さん……血が……血が……っ!!」
「落ち着いて瑠璃。大丈夫だよ。ちょっと切っただけだからね」
取り乱す瑠璃を見て、事態に気づいた他の面々が慌てて俺の元へ寄ってくる。
「ともちん、手首を押さえて血を止めておいて。かずやんは消毒液と絆創膏を貰ってきてくれる?」
「おけ」
イベントスタッフの元へ走る和也。涼香が心配そうに俺を見つめていたから笑顔を浮かべて安心させる。
とりあえず結羽に言われた通り止血を始めた。それなりの力で押さえているおかげかすぐに血の勢いは止まる。出血が続けていることは変わらないが、大事にはならずに済みそうだ。ホッと一息ついて顔を上げると、険しい顔付きの愛桜が視界に入った。
「……」
顔を真っ青にして震える瑠璃と、その手に固く握り締められた包丁を交互に見つめている。きっと考えていることは俺と同じだろう。
確証はまだ掴めない。けど、こうなった原因──それは包丁にあるのではないか。憶測の域を出ないことには何も出来ないのは変わらないが、今この場で話を拡大させるつもりは無い。
それは愛桜も同意見のようで、一瞬俺と顔を合わせてからこくんと頷く。話は夜に集まる時にいくらでもすればいい。今も尚青ざめているであろう瑠璃のフォローをしなければならないのがお互いに分かっている。
意思疎通は一瞬。愛桜とほぼ同時に瑠璃の方へ振り返る。
「……え?」
でも、瑠璃の顔を見た瞬間、俺と愛桜の思考は同時に停止した。
青ざめて震えていたはずの瑠璃。それがこの一瞬で別人のように変わってしまっていたからだ。
震えていたはずの体は氷像のようにピクリとも動かず、目を見開いて俺の手から流れる血を見つめたまま、唇を三日月のように吊り上げて──笑っていた。
「……何を、笑っているんですか、瑠璃ちゃん」
未だに混乱している俺とは違い、愛桜が正気に戻るのは早かった。驚いたのはあの一瞬だけで、今は瑠璃の持つ包丁のように鋭い目付きに変わっていた。
愛桜の言葉で瑠璃の様子に気づいた涼香は、ヒッと小さな悲鳴を上げて顔を引き攣らせる。多少何かあると考えていた俺ですら状況が掴めないでいるのだ。何も知らない涼香にとっては恐怖以外の何物でもない。
黙り、不気味な笑みを浮かべ続けたままでいる瑠璃。黙って様子を見ていた結羽はついに堪忍袋の緒が切れたのか、苛立ちを顕にして瑠璃に詰め寄った。
「ともちんに怪我させておいてその態度は何?」
「……あは」
瑠璃の口から漏れたのは結羽の質問に対する答えではなく笑い声。
自分の感情に正直な結羽だが馬鹿ではない。ここでようやく何かがおかしいと気づく。瑠璃の身に何が起きているかを知るために、結羽はこちらに顔を向けてきたが、俺は静かに首を振って分からないと伝える。
とにかく瑠璃の手から包丁を取り上げたい。理由が何であれ手放してくれればその場しのぎは出来るはず。だが瑠璃の耳にこちらの声は届いていない。どうするべきか考えていると、消毒液と絆創膏を取りに行っていた和也が戻ってくる。
「……」
何も言わずとも場の空気で何かを感じ取った和也。俺の元へ進んでいた足が、元凶である瑠璃の方へ向けられる。そして瑠璃の背後から近づき、危険を顧みずに包丁を握る手を捻りあげた。
「……っ!!」
瑠璃の手から包丁が落ち、けたたましい金属音が鳴り響く。
その瞬間、正気を失っていた瑠璃の瞳に光が戻った。同時に自分が何をしていたのか思い出したのだろう。俺の手を傷つけてしまった時のように震え始める。
「あ、ちが……わざとじゃ、わざとじゃないんですの……っ!!」
「大丈夫。分かっているよ瑠璃」
「あぁあ……いや、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい!! ごめんなさい友樹さん……っ! っあ、うぅ……!!」
「瑠璃!?」
和也に掴まれたままだった手を振り払い、混乱したまま瑠璃はイベントスペースを飛び出した。咄嗟に止めようと伸ばした手は何も掴むことは出来ず、走り去っていく瑠璃の背中を呆然と見つめることしか出来なかった。
to be continued




