第1.5話『回想 ①』
「──ともくん」
凛と透き通った声が俺を呼んだ。
学校から出された宿題を自室で励んでいた俺が振り返るよりも早く、その声の持ち主の温もりが背中に広がる。それと同時にふわっと鼻腔をくすぐる甘い林檎のような香り。これまで何度も嗅いできた幼馴染の香りだ。
「どうしたの、紅音」
月城 紅音──。一つ歳上の俺の幼馴染の一人。
「ともくんが勉強を頑張っているから、ご褒美をあげようと思って」
「それは嬉しいけど、終わってからの方が良かったんじゃないかな」
「うん。そうだね」
そう答えつつも紅音は俺の背中から離れない。それどころかより一層背中に密着してくる。おかげで紅音の柔らかい部分の感触が理性を刺激していた。
「彼氏でもない男によくそんなこと出来るね」
「幼馴染だもん」
恋人がするようなことを普通にしてくるが、俺たちは付き合っている訳ではない。紅音の言う通り幼馴染。それ以上でもそれ以下でもない。
「普通は幼馴染相手にもやらないよ」
「そういうもの?」
「うん。そういうものだよ」
優しく答えると、紅音は「そっか」と言葉を返す。表情は見えないが、いつものように微笑んでいるのだろう。
紅音はどことなく抜けているところがある。だからといって誰に対しても同じではない。きちんと相手は選んでいるのを俺は知っている。
こんな事をするのは俺を含めた幼馴染三人だけ。他の人に対してはガードが固いのだ。壁を作っていると言ってもいい。その証拠に、紅音が他人に対して笑顔を見せることは決して無い。
「手が止まっているよ、ともくん」
甘い林檎の香りが濃くなった。俺の顔のすぐ横に、紅音が顔を近づけてきたからだ。
「数学苦手なんだよね。公式を当てはめていくだけなら分かるけど、応用になると訳が分からなくなるんだ」
「ともくんは難しいことを考えるのが苦手だもんね。大丈夫。わたしが教えてあげるよ」
横から伸びてきた手が俺に触れる。シャーペンを握っていた指を一つずつ解いていき、ものの数秒で紅音の手に収まっていた。
「この問題はこうすればいいんだよ」
そのまま紅音はノートにシャーペンを走らせる。
答えまでは書かず、途中式と問題を解く為の重要なポイントだけを記す。それを参考にして俺は問題に取り組んでいく。
「……なるほど。この公式を使った後にこうすればいいんだね」
「そう。あとはもう分かるよね?」
お世辞抜きで紅音は頭がいい。試験の学年順位は常に一位。しかもスポーツも出来て、容姿も整っているから才色兼備という言葉がとても良く似合う。
受け取ったシャーペンと紅音のアドバイスで答えを導き出した俺は一息ついた。
「これで合っている?」
「うん、正解」
紅音の温かい手が俺の頭を撫でる。心地の良い手つきに凝り固まっていた頭が解れていくのを感じた。
このままいつまでも紅音の温もりに触れていたい。優しさを感じていたい。嘘の無い時間はとても安らかな気持ちになれる。
「ありがとう、紅音」
「どういたしまして。はい、ご褒美」
ふわっと背中に温もりが生まれる。再び紅音が俺を抱きしめたからだ。体が密着している分、紅音の香りが濃く、耳元で囁かれる声が麻薬のように脳を痺れさせる。
「よく頑張ったね、ともくん。えらいえらい」
「……子どもじゃないんだから」
「子どもだよ。わたしにとってはね」
「一歳しか違わないはずなんだけど」
「ともくんはこうされるのは嫌?」
その聞き方は卑怯だ。嫌なわけがない。
かと言って気持ちをそのまま口にするのは恥ずかしく、答えに迷っていると紅音は微笑する。
「からかうのはこれくらいにしておこうかな」
背中から温もりが消える。俺から身を離した紅音はそのまま部屋の外に向かうと、ドアの前でピタリと止まる。
紅色のセミロングの髪を宙に舞わせながら紅音が振り返る。そして髪と同じ紅色の瞳が俺を捉えると同時に微笑んだ。
「またね、ともくん」
そうして俺の返事を待つこともなく、紅音は部屋を後にした。
もうちょっと一緒に居たかった──そんな俺の思いはそっと胸の奥にしまった。
to be continued