第136話『私が知らなかったこと』
Another View 瑠璃
「──月城紅音さんのことですわ」
「…………え?」
その名前を口にした瞬間、涼香さんの表情が目に見えて変わる。
私の口から紅音さんの名前が出てくることを想像すらしていなかったのかもしれない。涼香さんは驚きのあまり手に持っていたたこ焼きを落としそうになって、慌てて両手で抱えると安堵の息を吐く。それからたこ焼きを安全な場所に置き直すと、まだ少し戸惑った様子を見せながら恐る恐る訊ねてきた。
「あーちゃんのこと……とも君から聞いたの?」
……あーちゃん。なるほど。涼香さんは紅音さんのことをそう呼んでいたんですのね。
私や結羽さん。それに愛桜さんと違って、苗字ではなくあだ名で呼んでいる。些細なことかもしれないけれど、呼び方一つで紅音さんの存在が涼香さんの中で特別だと伝わってきた。
友樹さんにとって紅音さんが特別なように、涼香さんにとってもそれは同じことが言える。きっと和也さんだってそう。この三人にとって紅音さんという存在は他の何よりも大きい。それこそ本当に太陽のように果てしなく遠く、何よりも眩しい存在なんだと実感する。
いくら手を伸ばしたところで月である私には紅音さんに到底届かない。それを再認識してしまったせいかまたしても目頭が熱くなってきて、私は涙が零れる前に目元を手で覆う。
そんな私を見た涼香さんはどんな顔をしているかは見れないけれど、酷く焦った様子でわたわたとしているのが空気から伝わってくる。
困らせるつもりは無かった──とは言えない。この話を涼香さんに振ってしまった時点で困らせてしまうのは明白だった。それでも、どうしても一人で抱え込むには限界があった。あの夜と今日。私は二回振られてしまったようなものだから。
「な、泣かないで九條さん……。とも君からあーちゃんのこと何をどこまで聞いたのか分からないけど、悪気があって話したわけじゃないよ。それだけは断言出来る。とも君にとってあーちゃんはその……わたしやかず君以上に特別な存在なの。だから、その……気にしちゃダメだよ」
その言葉は何の慰めにもなっていない。むしろ心の傷を大きくするだけ。
焦りのあまり思考がめちゃくちゃになっているのかもしれない。だからだろうか。涼香さんの言葉はナイフのように胸に突き刺さって痛いけれど、少しずつ冷静さが戻ってくる。
「気にしてはいけない……ですか」
噛み締めるように復唱する。
気にしない──前向きな言葉では無いかもしれない。けれど不思議と心が軽くなっていく。それは多分、私の中で思うところがあるから。
「……うん、そうだよ」
「一つ、聞いてもいいですこと? どうして涼香さんは私にそこまで言ってくれるんですの?」
「それは……九條さんがとも君のこと好きってことをわたしは知っているから。一度振られたことも……察しているよ」
なるほど。そういう事でしたか。涼香さんが私のためを思って言ってくれたのがよく分かりましたわ。
大きく深呼吸をして、ゆっくりと思考を切り替えていく。
そう、涼香さんの言う通り。気にしすぎたところで何かが変わるわけではない。それに友樹さんは言っていた。想い続けても構わない──と。
あれがその場限りの言葉で無いのであれば、私の想いを友樹さんの心に届かせるのは不可能ではない。私の友樹さんに対する想いは紅音さんの話を聞いて諦めるほど薄っぺらい想いではない。
「……不可能とは、自らの力で世界を切り開くことを放棄した臆病者の言葉だ」
「九條さん……?」
「知りませんか? モハメド・アリというプロボクサーの名言ですの。不可能というのは単なる先入観。可能性。そして通過点。不可能なんてことは有り得ないんですのよ」
「……要するに、九條さんはあーちゃんの話を聞いても尚、とも君のことを想い続けるってこと?」
「ええ、そうですわ」
力強く断言するのと同時に、不安や恐れが自分の中から消えていくのが分かった。
「……そっか。強いね、九條さんは」
そんな自信に満ち溢れる私を見た涼香さんは砂浜に視線を落とす。たらりと垂れたアッシュグレーの前髪が表情を隠したせいで、今涼香さんが何を考えているのか分からない。ただ、声のトーンから察するに前向きなことを考えているとは到底思えない。
だから、普通ならば涼香さんが何か言うのを待つ場面ではあるのを承知の上で私はあえて切り込むことにした。
「涼香さんも恋をすれば分かりますわ」
煽るような発言をしたのには意味がある。
和也さんの恋を成就させるというこの夏の計画の一つ。涼香さんが和也さんのことをどう思っているのかを探っておく為だ。何かしら情報が出れば御の字。出なかったとしても大きな問題では無い。
「例えば、和也さん。昔からずっと仲良くしているのでしょう? 少しくらいそういう感情があったりしな──」
「──無いよ」
「……え?」
「かず君に対して恋愛感情なんて必要無い」
ポタリ──と、太ももの辺りに水滴が落ちた。
一瞬雨が降ってきたのかと思ったが違う。それが自分の頬から零れた汗だと気づくのと同時に、今この瞬間自分が恐怖を覚えていることを全身で感じ取った。
「勘違いをしているよ、九條さん」
「……」
息を飲む。言葉が声にならない。
まるで喉の水分が乾き切ってしまったかのように掠れた声しか出なかった。
「絶対的な信頼関係があれば恋愛感情なんて要らないんだよ。大好きなとも君とかず君の絆という信頼さえあればわたしは他に何もいらない。信頼こそがわたしの絶対なんだ」
この瞬間、私は初めて知った。
あんなにも冷たい目で、人は信頼を語ることが出来るということを。
to be continued
次回の更新は『2/9 21時』です。