第95話『爛れた関係』
「……ともちん、なんか元気無くない?」
いつも通り自宅で結羽と夕飯を取っていると、箸があまり進んでいない俺を見て、結羽は心配そうに声を掛けてきた。
「……そんなことないよ」
甘狐処での涼香の言葉が、モヤのようにずっと胸に残り続けている。それは真っ白な服に零したジュースのシミのように、簡単に消えるようなものではなかった。
会話の流れとかで紅音の名前が出てくることはこれまでにたくさんあった。しかし、あの日以来、涼香が紅音のことに関して深く踏み込んできたことは無い。幼馴染と言えども、軽々しく踏み込んではいけない領域だと分かっていたから。
あの時、涼香が何を思ってそれを口にしたのかは分からない。
けど一つだけ分かることがある。昔のように都合よくはもういかないということだ。
何がきっかけでこうなったのかは考えるまでもない。
春──桜の舞う季節にやってきた少女。俺のことが好きだと黒い嘘を吐く、星ノ宮愛桜という得体の知れない人間。彼女が現れてから色んなことが変わった。
季節の流れと共に子どもは大人へと成長していく。
あの幸せだった時間に留まり続けることは出来ない。愛桜が俺たちの前に現れたことによって、止まっていた時間が動き出したのであれば、今後のことをもっとしっかり考えなければならない。
後悔することのない最善を──俺は見つけることが出来るのだろうか。
「──ともちん、顔が怖いよ」
そんな結羽の声にハッと我に返る。
考えに耽ってどれだけ時間が経っていたのだろうか。結羽はもうほとんどご飯を食べ終えているような状態だった。
「もしかして……うちの作ったご飯、美味しくなかった? もしそうなら無理して食べなくてもいいよ」
俺は首を振って即座に否定をする。
「ううん、美味しいよ。結羽の作るご飯はいつだって変わらず美味しい。ただちょっと疲れているだけだからあまり気にしないで。ちゃんと全部食べるよ」
笑顔を見せながらおかずの唐揚げを口に入れる。
濃いめの味付けと、溢れんばかりの肉汁が口の中いっぱいに広がって幸せな気持ちになれる。少しばかり冷めてしまっていたけれど、その美味しさはいつもと変わらない。
「うん。美味しい。美味しいよ、結羽。でも……ごめん」
なのに、全然箸が進まない。俺は短くため息を吐いてテーブルに箸を置いた。折角の料理をこれっぽっちも楽しめないのが辛い。
そんな俺を見て結羽もさすがに黙っていられなくなったらしく、食べる手を止めて俺の顔を覗き込んできた。
「何があったのさ。ともちんらしくない」
「結羽には関係無い話だから、あまり話したく無いかな」
これは俺の問題だ。無関係な結羽を巻き込むようなことはしたくなかった。けれど、俺の言葉は逆効果だったらしく、結羽はバンと強くテーブルを叩いて立ち上がった。
「関係無い? あるでしょ。現にこうしてうちに心配かけさせているよね? 別にそれが迷惑だなんて言うつもりは無いけど、うちの気持ちも考えて発言してよ」
「……失言だった。ごめん、結羽」
ダメだ。冷静さが完全に欠けている。
項垂れる俺を見て結羽もさすがに悪いと思ったのか、深呼吸を一度してから椅子に座り直す。
「うちの方こそ大きな声出してごめん。誰にだって踏み込んで欲しくないことはあるよね……。でも、これだけは言わせて欲しい」
「……何かな?」
光を集めたような金色の瞳が俺を射抜く。
その強い想いの込められた瞳を見れば、結羽が俺のことを本気で心配しているのが手に取るように分かる。
そして心配する理由はそれだけではない。結羽は友達として俺のことを心配している訳ではなく、もっと特別な感情を抱いているからこそ、今の俺の状態が見ていられないのだ。
「うちは……ともちんのことが好きなんだよ。好きな人がそんな辛そうな顔をしていたら、心配するのは当然じゃん?」
「そうだね。心配させてごめん」
「ともちん、謝ってばかりだよ」
「……ごめん」
「また謝った」
咄嗟にまた『ごめん』と言いかけて、慌てて口を噤む。
そんな俺の仕草がおかしかったのか、結羽はくすりと笑った。
「何があったかは聞かないよ。でも、いつまでもそんな辛気臭い顔されたらうちも辛い。だからさ、ともちん──」
テーブルから身を乗り出してきた結羽が俺の頬へ手を伸ばした。
触れた指先には熱が篭っており、それに同調するように結羽の頬は紅く染まっていた。
「──エッチしようよ」
「……発想が飛躍しすぎていないかな」
「好きな人を癒してあげたいって思うのは間違っていない。だからうちは、うちの出来る最も効果的な手段でともちんを癒してあげる」
魅惑的な笑みが俺を誘ってくる。
拒むことはきっと許されない。こうなってしまったら、俺では結羽を止めることは無理だ。
結羽との爛れた関係はいつまで続くのだろうか。
まるで先の見えない螺旋階段を登っているようだ。終わりが見えず、だらだらと進み続けることしかできない。だから、だから俺は──その誘いに笑顔で頷く。
「ありがとう。じゃあお願いしようかな」
そう答えて俺は目を瞑る。
その刹那、唇に柔らかい感触が重なった。
欲望をぶつけたようなキス。
けれど、あたたかくて、優しかった。
本気で俺のことが好きで、心から心配していると感じることができる。何もかも全て委ねてしまおうと思える優しいキスだった。
でも──
「ベッドに行こうよ、ともちん」
「うん」
──目を開けるその瞬間まで、紅音の顔が頭から離れなかった。
to be continued
次回の更新は『10/3 21時』です。