〓14〓屋号 炭酸 明日
立派な旅館だった。入り口から正面玄関まではかなりの距離があり、庇のついた提灯置きの下に屋号を染め抜いた提灯が幾つも等間隔に並んで居る。入り口の前には大きな車止めも有った。正面に見える建物は最近帝都で良く見かける作りのものだった。木造だが、玄関の扉や、窓、屋根などは西洋の趣向を取り入れたものだ。夜に雨に濡れているため、細部は判らないが、重厚な建物であることがすぐにわかった。かなりの財を投入して造られたのだろう。そんな話は全く聞いたことがなかったので、私はその「投資元」について僅かに興味を持った。
私と女は傘の中に寄り添うようにして玄関に辿り着いた。傘を折り畳み、係りの者に荷物と一緒に預けた。
旅館の中はその外貌に見劣りしないものだった。予測した通り、床には滲み一つない艶のある赤い絨毯が敷き詰められ、高い天井には豪華なシャンデリアが吊るされていた。柱の木々はどれも木目も美しく、欄間に幾つもある彫刻や、幾つかの天窓に嵌めてあるステンドグラスは何れも名のある工によって創出されたものであることが一目で瞭然だった。
名前を告げ、宿帳に記入し、部屋の鍵を貰った。長方形の樫の木がぶら下がった鍵だ。204号室と書いてある。私は横に控えていた制服を着た荷物持ちにその鍵を手渡した。荷物持ちは恭しく鍵を受け取り、私たちを部屋へと案内した。
荷物持ちは案内の道すがら、旅館の構造について話した。旅館は大きく分けて3つに分かれており、本館、洋館、和館となっているとの事だった。正面玄関や受付がある建物が本館で、和洋折衷の作りとなっている。私たちの泊まる部屋は洋館だと男は告げた。
長い廊下は真っ直ぐに進んだ後、やがて左に曲がっていた。曲がり角の前で荷物持ちは歩を緩めて私たちを振り返った。
「ここが洋館との連絡廊下でございます。少々暗くなっておりますので足元にお気をつけください」私は黙って頷いた。
長い廊下を抜けると明るいホールに出た。先ほどまでの建物とは明らかに様子が違っていた。壁は木ではなく、白い漆喰のものとなった。ホールから左右に廊下が広がっており、等間隔にランプが灯っていた。ランプの数から予測すると、部屋数はそれほど多くないのだろう。おそらく、合わせて4から、6部屋と言ったところだ。中央には大きな階段があり、それもまた、踊り場で左右に分かれて2階へと続いていた。私たちは先導する男に続いて階段を上がり、踊り場を右に曲がり、204号室に辿り着いた。
2階に部屋は1室ずつのようだった。つまり、踊り場を右に上がって右にある私たちの部屋と、左に折れて左にある別の部屋。合わせて2部屋ということだ。私たちの部屋と2階の他方の部屋は同じ階の廊下で繋がっていない。一度踊り場に降りなければ、他方の部屋には行けないようになっていた。踊り場の上、つまり2階の部屋の廊下のない間には2畳ほどはある、大きなステンドグラスの窓があった。鉄兜の騎士と、女が描かれたものだった。
荷物持は部屋の鍵を開け、部屋の電灯を付けた。彼は旅駕籠を所定の場所に置くと、私たちを中に招き、簡潔に部屋の説明をした。一通りの説明を終えると彼は私にそっと鍵を手渡し、お寛ぎくださいと言い、一礼をして部屋の入り口のドアを閉め、部屋から出て行った。
私は黙ってコートを脱ぎ、コート掛けに掛けた。女も肩掛けを外し、私のコートと少し離れたところにそれを掛けた。
「窓を開けますか」と女が言った。
「そうだね。少し開けよう」
部屋は広く、30畳ほどあるように思えた。二人が寝ても十分余る大きさのベッドが右の壁沿い部屋の中央に置かれていた。ベッドの横には大きな西洋箪笥があった。箪笥の向かい側には大きな鏡台と対になった椅子が置かれていた。部屋の奥には簡単なテーブルと、椅子が2脚。窓の右側には書物机と椅子があった。部屋の右側には凝った彫刻の施された扉があった。
女が窓を開けると涼しい風が部屋の中に入り込んだ。私はテーブルの前に座り、ネクタイを緩めた。女は籠の中から透明な瓶を2本取り出すと、私の向かい側の席に座り、栓抜きで蓋をあけた。炭酸の弾ける音がした。女はそれを自分と私の前に一本ずつ置いた。
「お疲れでしたね。。どうぞ」
「ん・・これは甘いね」
「最近流行りもののようですよ。お口に合いませんでしたか」
「いや、うまいよ。。ありがとう」
女は珍しいと言って笑うと、自分も一口瓶に唇を付けて飲んだ。私はその様子をじっと見ていた。女は私の見ていることに気づくと、これを飲むとだいぶ楽なんですよと言った。
「刺激がありそうなものだが」
「それが良いんです」
そんなものかねと私は言ってテーブルに置いてあった燐寸で煙草に火を付けた。女は灰皿を私に差し出し、煙草を燻らす私の所作を笑顔を含んで眺めていた。
「本当にいいのかい」
「よござんす」
「明日以降としよう。今日はゆっくりと過ごすといい」
「あなた様がそれで良いのなら」