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ほどけて、きえる

作者: 河原巽

「君との婚約を解消しようと考えている」

「まぁ、エルバート。どうして?」


 婚約者であるエルバート・スミリカが真面目くさった表情で放った言葉にシェルナは大仰に答えてみせた。

 しかし大きく見開かせた瞳とは裏腹に、このような打診がいずれ来るであろうことはわかっていたので内心は冷ややかなものだった。

 そもそも、前日にいきなり手紙を寄越して『話したいことがある』などと言い出すこと自体が彼には珍しい。

 目を通したシェルナは、いよいよか、と思ったものだ。


「シェルナ、君の大罪人が如き振る舞いが僕には許せない」


 テーブルの上で指を組んでこちらを見据えるエルバートの姿勢は作り物のようにピンとしている。


(幼い頃から変わらないわね)


 真っ直ぐな背筋に真っ直ぐな眼差し。

 仏頂面にも近い顔付きは黒髪と黒い瞳のせいか威圧的な雰囲気を漂わせ、幾分堅苦しい性格と物言いがその印象を更に強めている。

 幼馴染のシェルナには見慣れたものだった。


(それももうすぐ終わりのようだけど)


 エルバートの生家であり、スミリカ侯爵家の屋敷の一室。通された応接間から臨む庭園の美しさも見納めかと思うと、眼前の婚約者をそっちのけでついつい見入ってしまう。

 幾度となく眺めた庭の風景が幼い頃から好きだった。


「そうなの。では私をどうしようというのかしら?」


 先程の言い回しと彼の性格からすれば、解消してさようならで済ませるつもりはないだろう。それを見越して水を向けてみた。


「国外追放しようと思っている」


 相も変わらず真面目くさった顔で面白いことを言う。

 シェルナはぱちぱちと瞬いて一呼吸置くと、呆れを隠さずに問い質した。


「あなた、次代の宰相候補として殿下に仕えているのよね? それは本気で言っているの?」

「もちろん本気だ」

「だったら私は上奏するわよ。エルバートを宰相候補からお外しになって、と」

「そんなに僕の足を引っ張りたいのか」


 あからさまに眉根を寄せての言葉は、シェルナに対する憎しみを感じさせる。

 そんな風に見えているのかと落胆する気持ちが湧き上がるが、同時に諦めの気持ちも訪れる。

 それらの感情を吹き飛ばすように溜息をひとつ吐き出してシェルナは続けた。


「落ち着いてお聞きなさい。あなたは私を国外追放すると言ったわね? この国に隣接している三カ国はいずれも友好同盟国よ。そこに大罪人と称した人間を追放するですって? 友好国に大罪人を送り込むだなんて、いえ、他国に追放したとしても外交問題に火種を作ることになるわ」

「む……」

「『む』じゃないわよ」


 シェルナの言は理に適っていると判断したらしく、エルバートは言葉をつまらせた。それを指摘されたことで益々眉間の皺を深くする。


「しかし君を許せない」

「だったら牢獄にでも放り込みなさいな。民の貴重な税で生き長らえさせるのが嫌だというのなら、さっさと首を()ねればいいのだわ」


 シェルナは持ち上げたティーカップの揺れる琥珀色に視線を落として、事も無げに言う。さらりと出た言葉に流石にぎょっとしたのか、エルバートがぴくりと肩を震わせた。


「べ、別に首を刎ねることを望んでいるわけではない」

「国外追放と言っても街で解放されるわけではないでしょう? 森や道もわからない原野に放逐したのなら、下手をすれば一日で命を落とす可能性もあるのよ。命の尽きる瞬間をその目で見るか見ないかの違いよ」


 今度はエルバートの目を真正面から捉える。

 大袈裟に言っているつもりはない。思うままを口にしただけだ。

 平然としたシェルナとは裏腹に、関係の解消を望む婚約者の表情は渋面を形作る。反論されることもその内容も、何もかも気に入らないと言うように。


「命を落とせと言っているわけでもない」

「ならばどうして国外追放などと言うの。私をその視界から消し去りたいからでしょう?」

「それは……」

「命が潰える瞬間を見るのは後味が悪いものね。それなら存ぜぬところで勝手にどうにかなって欲しい、そんなところかしら?」


 語尾に合わせて小首を傾げる。こんな仕草が益々不興を買うことは十分に承知している。

 しかし彼の勝手な言い分に比べたら可愛いものだと開き直っていた。


「……人を卑怯者のように言わないでくれ」


 一段低くなった声にも、鋭い眼光にも、力のこもった指先からもエルバートの怒りが窺い知れた。

 けれどシェルナにだって一歩も引く気はない。


「せっかくだからあの物見塔から飛び降りて差し上げましょうか? 国外追放の手間が省けるわよ」

「だから! 命を落とせと言っているわけではない!」


 ダン、とテーブルに両手を叩き付けて椅子を蹴り倒さんばかりに立ち上がる。

 応接間の扉の脇に控えているメイドたちが涼しい顔でいることにシェルナは感心した。


(昔から見慣れているものね)


 幼い頃からシェルナの物言いはエルバートに嫌厭(けんえん)されるきらいがあった。

 同じ侯爵家という家格と幼馴染の立場から対等に渡り合ってきた数年の間に声を荒げる姿を何度も見たことがある。

 スミリカ侯爵家の使用人に謝罪されることもあったが、反論が出来なくて癇癪を起こしているだけだとシェルナは考えていた。

 流石に今回は癇癪程度では済んでいないということも理解しているけれど。


「ならば何故、国外追放などと軽々しく言ったの?」


 上から睨め付けるエルバートの影を鬱陶しく感じながらも、口調は冷静を努める。


「君がこの国に必要ないと思ったからだ」

「あら、エルバート。あなたがこの国の要不要を決める立場にあるというの?」

「ぐ……」

「『ぐ』じゃないわよ」


 痛いところを突けばまた口ごもる。真っ直ぐな性格ではあったけれど、こんなにも勢いで話を進める人だっただろうか。

 あのひとときが彼を変えてしまったのだろうか。


「それは、殿下にご相談して……」

「まずは着席なさって。落ち着かないわ」


 前のめりの姿勢でしどろもどろになる姿を見ていたくはない。着席を促せばエルバートは咳払いで言葉を濁しながらもシェルナの進言に素直に従った。


「『僕の婚約者が殿下の大切なビビアン嬢を虐げているのです。シェルナ・ビギンズを国外追放して下さい』とでも話すつもりかしら?」


 唐突に挙げた名前の効果は覿面(てきめん)だった。

 きまりが悪そうに椅子に腰を下ろしたばかりのエルバートはハッと顔を上げてシェルナの顔を凝視する。その瞳は驚きの色を隠せていない。


「な、にを言って……」

「先日の晩餐会でお酒に酔われていたわね、ビビアン様」


 あの夜のことを思い出す。

 有力貴族を招いて開かれた王宮での晩餐会には、王子殿下の婚約者候補とされる令嬢たちも数名参加していた。

 おそらく水面下では女同士の激しい争いが繰り広げられているだろうに、令嬢たちは淑女然とした振る舞いで晩餐会をやり過ごす。

 しかし王子殿下が賓客への挨拶で席を外すと、令嬢たちの態度に綻びが現れ始める。候補者同士が送り合う眼差しは鋭くなり、控えていた食事に急いで手を付ける者の姿も見受けられた。


 そんな中、婚約者の最有力候補と謳われているビビアン・ウォーリム公爵令嬢は悠然と食事を進めていた。時折にこやかな笑みを浮かべて穏やかに過ごす彼女はグラスに注がれた果実酒に数度口をつけていたのだが、どうやら酒に強くはなかったらしい。

 中座しようとしたのか、カトラリーを置いて立ち上がったビビアンの足元は覚束ず、その身体が傾いだときに支えとなる者が現れた。

 エルバートだった。


「あんなによろめくなんて、相当弱くていらっしゃるのかしら」


 ビビアンとエルバートの席は近く、立ち上がった彼女の不調にすぐさま気付いたのだろう。さっと腰を上げ、ビビアンの身体が揺らぎ始めた頃には彼女の正面に立っていた。

 掴むものを求めて彷徨う手の前に、自らの腕を差し出すエルバート。

 素直に腕に掴まり、その持ち主を見上げるビビアン。

 彼を変えたのは、この瞬間だったのだろうか。


「あのときのあなたの顔ったら」


 吐き出す息と共に笑いが漏れる。


「何がおかしい」

「何もおかしくないわよ」


(おかしくてたまるものですか)


 笑ってしまったのはエルバートに対してではない。己に対してだ。

 幼馴染であり、婚約者でもあった数年の月日。

 その流れた時の中で彼のあんな表情をシェルナ自身に向けられたことは一度たりともない。


(あんな……全てを奪われたような顔)


 ほんの一瞬、零れ落ちた表情だけれど。

 ずっとエルバートを目で追っていたからこそ、シェルナは見逃さなかった。


 支えを得ても尚ふらつきを隠せないビビアンをエスコートして会場を去るエルバートの後ろ姿を、シェルナはずっと見つめていた。

 頭の中で宰相候補として王子殿下の婚約者候補の扱いは丁重になって然るべきだと納得する一方、言い表せない予感が渦を巻き始めていた。

 次第に形をなしたそれは、今日に繋がっていたわけだけれど。


「ねぇエルバート。あなた、ビビアン様に『宰相に相応しくないから候補を辞退して下さい』とお願いされたら聞き入れられる?」


 件の婚約者候補がそんなことを言うはずもないと確信を持って尋ねた。

 彼女の名を出して以来、警戒に染まった眼差しが訝しげに見つめ返してくる。


「何を突拍子もないことを」

「あなたの言う国外追放も突拍子がないから答えてちょうだい」

「いくら殿下の婚約者候補と言えど、そんな要求を呑むわけがないだろう。家にも関わる話だ」


 力強く言い切られた言葉に、再び笑いが漏れる。

 今度こそはエルバートに対しての嘲りだった。


「あなたの覚悟なんて所詮その程度なのね」

「何だ、その馬鹿にしたような言葉は」

「私はあなたが望むなら斬首刑でも投身でも受け入れると言っているのよ」

「しつこい。どちらも望んでなどいない」

「でも消えて欲しいくせに」


 シェルナを切り捨ててビビアンを選んだとしても、宰相候補という立場を手放すつもりはないらしい。

 聞きたくもあり、聞きたくもなかった言葉。

 彼の中でシェルナ・ビギンズという存在がいかに矮小であるかを思い知らされる。


 そろそろ潮時だと感じた。

 最後に一息で残りのお茶を流し込む。この味を楽しむ機会ももうないのだろう。


「ところでエルバート。私の大罪人が如き振る舞いとは、一体何を指しての言葉なのかしら?」

「さっき自白していただろう。ビビアン嬢を虐げたことだ」

「例え話が自白になるのなら、この世は大罪人ばかりね」


 力なく笑んだシェルナは席を立つ。ドレスの裾を捌いてテーブルから離れると振り向きもせずに言った。


「ごきげんよう」


 見送る使用人たちの視線に滲む申し訳なさが、せめてもの救いだった。



◇◇◆◇◇



 数日後、シェルナは王宮の一室に控えていた。クラーク・ディンバーレの署名が記された、一通の手紙を携えて。

 緻密な透かし彫りをあしらった長椅子に行儀よく腰掛けてひたすらじっとしていると、王宮勤めのメイドが()の人の来訪を告げる。素早く腰を上げたシェルナはそのまま床に膝を突き、目を閉じてそのときを待った。


「椅子に掛けて楽にして欲しい」


 分厚い絨毯を一歩一歩しっかりと踏みしめる音に続いて、通りの良い声がシェルナの頭上に降ってくる。


(楽に出来るわけがないわ)


 もちろん(おもて)には出さず、心の中でこっそりぼやいてシェルナは頭を上げた。

 聞こえてきた足音から同伴者がいることは窺い知れた。瞳を開いて、ようやくそれが誰であるかを知る。


(……お美しいわね)


 シェルナを王宮に招いたクラーク・ディンバーレ王子殿下の隣には、ビビアン・ウォーリム公爵令嬢が凛とした佇まいで並び立っていた。

 クラークもビビアンも感情を露わにすることはせず、粛々と対面の長椅子に腰を落ち着ける。シェルナも二人に倣い、再び長椅子に座ろうとしたところで目にしたくないものが視界に入り込んだ。


(何故あなたまで)


 さも当然のように眼前の二人の背後に控える見慣れた男は今日も真面目くさった顔をしている。

 思いも寄らない王子殿下からの呼び出しにシェルナとエルバートの婚約の件が関わっているのでは、と推測を立てはしたが、ビビアンの登場にその考えは一瞬薄らいだ。しかしエルバートの姿を認めてしまえば嫌な予感しかしない。


「急な呼び立てですまない。シェルナ・ビギンズ嬢、君に話を伺いたい」


(まさか、あの話じゃないでしょうね)


 顔を顰めたい気持ちを精一杯抑え込んで、クラークの話に聞き入るフリをする。


「エルバート・スミリカから、君がこちらのビビアン・ウォーリム嬢を虐げていると報告を受けた。互いが同席した場では話し辛いかもしれないが、事実を確認したい」


 ほんの少しだけ眉が歪んでしまったかもしれない。

 目の前の尊き方はどこぞの誰かとは違い、一方的な話を鵜呑みにするつもりはないようだ。


「恐れながら、殿下」

「どうした」

「我が婚約者のエルバート・スミリカが上げた報告とはそれだけでございましょうか」

「……事によっては君に国外追放の処分を与えたいと聞いている」

「私も本人からそう聞き及んでおります。お話の腰を折ってしまい、申し訳ございません。続けて下さいませ」


 盛大に溜息を吐いてしまいたいシェルナの心を置き去りに、クラークは本題に戻る。


「まずはビギンズ嬢。エルバートの報告に相違はないか」

「身に覚えのない話でございます、殿下」

「ではウォーリム嬢、ビギンズ嬢に虐げられたという話は真実か」


 行き着く先が国外であろうと牢獄であろうと構わないシェルナだが、ビビアンのこの返答には興味があった。


「わたくしにも覚えがございませんわ、クラーク殿下」


 おや、と思う。

 そっとエルバートを盗み見ると驚愕の表情を浮かべている。彼女の舵取りが信じられないとでも言いたげに。


「では、何故このような報告をエルバートが上げてきたのだろうか」

「実はわたくし、先日の晩餐会でお酒に酔ってしまいまして。その際にエルバート様に手を貸していただきましたの。晩餐会とは言え、婚約者のいらっしゃる男性にエスコートをお願いしたのですから、シェルナ様は悋気(りんき)を起こされたのではないでしょうか。それが大袈裟に伝わってしまったのかもしれませんわね」


 クラークに語りかけるビビアンの、しっとり落ち着いた声音と頬に添えられた指先にまで感じられる(たお)やかさはその美貌に遜色のないものだ、とシェルナは思う。


(国外追放という言葉があちらに作用したのね)


 王子殿下の婚約者候補ともなれば監視の目はある。しかし酒に酔って仕方なく手を借りた、という構図であれば他意はなかったと言い逃れることが出来る。その相手が宰相候補ともなれば信憑性は増すのではないだろうか。


「ではエルバートの主張は誤りであるということか」

「ええ、誤解が生じたのだと思いますわ」


 そう言い切るにこやかな笑顔はビビアンの背後に立つエルバートには見えていないだろう。しかし彼は彼女の後ろ姿だけを凝視している。


(あぁ、可哀想なエルバート)


 きっとビビアンが賛同することを信じて疑わなかったに違いない。

 そうしてシェルナにこの場で婚約解消と国外追放を言い渡すまでが彼の算段だったのではないだろうか。


 例え彼本人がビビアンに惹かれるものがあったとしても。男女としてどうこうなるつもりなど欠片もなかったのだと思う。

 敬愛する王子殿下と並び立つに相応しい婚約者候補。宰相となって二人を支える未来が、きっと彼の正義で。

 後の王妃を虐げる憎き存在であり、宰相への道を妨げる忌むべき存在でもある自らの婚約者を排除しようとしたのだ。


(でも、あなた達は見誤ってしまったのだわ)


 我が国唯一の王子殿下、その妃の座を競う争いは穏やかなものではない。

 次期宰相の呼び声高く、クラークに一目を置かれているエルバートの同情を誘い、自らの存在を印象付けるくらいがビビアンの思惑の範疇だったのだろう。

 しかし実直な男はこれを大事にしてしまった。


 ビビアンにしてみれば、格下と言えども侯爵家の娘に国外追放などを負わせる話にまで進展するとは想定せず。

 エルバートにしてみれば、王子殿下を巻き込んだこの場を誤解の一言で反故にされるとは思いもよらなかったはずだ。


(ねぇ、エルバート。今ここで、あなたの望む私になってあげるわ)


「恐れながら、殿下」

「発言を許す」

「先程ビビアン様が申し上げられたのは王城で行われた晩餐会での出来事です。先頃ヒースライ伯爵家で催された夜会での出来事もお耳に入れておかれるべきかと存じます」


 一貫して感情を表さないクラークだが、その双眸は真実を追求する鋭さを帯びている。上申したシェルナを見定める眼差しの強さに思わず伏せそうになってしまった視線を何とか返す。その視界の端ではビビアンが笑んだまま、二人のやりとりを見ていた。


「何があった」

「晩餐会でお酒に弱いとお見受けしたビビアン様ですが、そちらの夜会でもお酒に酔われていたようでした。()()同じ輪で会話をしていたエルバートが、同じように手を差し伸べてビビアン様をエスコートしておりました」


 婚約者として共に会場入りした、あの晩。

 主催のヒースライ伯爵夫妻に挨拶を終えると、単身で歩み出すエルバートの背をシェルナは黙って見送った。


 ほんの二年程前までは互いの両親に見守られ、行動を共にしていた夜会だが、歳を重ね宰相候補として名が囁かれ始めた頃からエルバートは単独行動を取るようになった。

 そこに(やま)しい意味はない。正しく社交の場として有力貴族との顔繋ぎが目的であることをシェルナは理解していたため、いつも快く送り出してきたつもりだ。

 そう、ヒースライ伯爵家の夜会でも。


(顔繋ぎと言ってしまえば聞こえはいいものね)


 いつも快く送り出し。

 いつもその動向をそっと見守ってきた。

 だからこそ、普段通りに見えたエルバートがビビアンを含む令嬢令息たちの輪の中に吸い込まれていく様をざわめく心持ちで見つめることになった。


「ふらついておられて心配でしたのでお二人に続いて私もホールを出ました。ビビアン様がエルバートの耳に口を寄せて私の名を告げていらっしゃるのをお聞きしたのは、そのときのことです」

「エルバートの報告は晩餐会ではなく件の夜会のものだと?」

「私がビビアン様と同席したのは晩餐会が初めてのことでしたので。お会いしたことがない方を虐げるなんて器用な真似は出来ませんわ」


 そもそも晩餐会の決められた座席でシェルナとビビアンが接触する機会はないに等しい。ましてや同席すること自体が初めてなのだから、その夜にビビアンがシェルナの名を口にする方が不自然だ。

 だとすれば、問題の発言は別の日に行われたことになる。

 王子殿下の婚約者候補がエルバートに向けて不用意に見せた二度目の醜態、そのときに。


「ウォーリム嬢が事実を隠し立てしていると?」

「エルバートは殿下に虚言を申し上げるような男ではございません。迂闊に微酔なさる方にも手を差し伸べる親切心は持ち合わせていますけれど」


 ふむ、と頷いたクラークがゆっくりと隣に座る才媛(さいえん)に視線を移す。


「とのことだが、ウォーリム嬢。ビギンズ嬢の言に反論は?」

「わたくしは申し上げておりませんわ、クラーク殿下」

「ではエルバート。君が聞いたというのはこの夜会でのことか?」


 ビビアンに掌を返されて以降、硬い表情で立ち尽くしていたエルバートが仰ぎ見るクラークの眼差しに一層顔を強張らせる。

 長いようで短い時間を躊躇った後、ようやく口を開いた。


「……いえ、僕の勘違いかもしれません」


(そう……あなたはそちらを選ぶのね)


 自らの耳で聞いたシェルナの非道な行いを事実だと主張するよりも、ビビアンの主張を真実とすることを選択するらしい。

 人を大罪人と言い放っておきながら、あっさりと返された掌。

 家に関わる話だと言い切ったのはたった数日前の話なのに。

 王子殿下の前でこの態度は危うい。


(あなたの未来にビビアン様は不可欠なのね)


 この国に必要ないと言われた自分とは正反対に。

 次期宰相候補を味方に付けて難を逃れた令嬢はただただ穏やかに微笑むばかり。

 ならば自分にもう用はない、とシェルナは心を決める。


「殿下、私はいかなる罰も受け入れる所存です」


 改めてシェルナに向き直ったクラークに頭を下げてそう告げる。


「その理由は?」

「お二人が違うのだと仰る以上、私はビビアン様を貶めるための虚偽を申し立てたことになります。王子殿下の婚約者候補に対してあるまじき行いだと理解しております」

「なるほど、言い分はわかった」


 瞑目して言い募ったシェルナはクラークに説き伏せられて顔を上げる。

 ビビアンがどんな表情を貼り付けていようと、エルバートが誰を見つめていようと、もうどうでもよかった。ただひたすらに眼前の尊顔だけに意識を集中した。


「ビギンズ嬢、本日は足労に感謝する。後は我々だけで合議するので退室してくれて構わない」

「はい。本日はお招きいただき、ありがとうございました」


 優雅な手付きで扉を示されてしまえば、ここに居座る道理もない。

 出来得る限りの丁寧な所作で淑女の挨拶を残して、謁見室を後にする。


(あっけない幕切れね)


 使用人によって静かに閉ざされた扉の音を背に感慨に耽る。

 エルバートを救う言葉ですら不要なものとされて、この数年間の積み重ねの無意味さを思い知らされるだけの時間だった。

 さて、家族にどう打ち明けようか。

 そんな物思いの時間は意外な形で終わりを迎える。


「ビギンズ様、どうぞこちらへ。別室にご案内いたします」


(あら、もう国外追放されてしまうのかしら)


 それも良いかもしれない。

 そんなことを思いながら、使用人の後に従った。





「そのままで良い。楽にしてくれ」


 通された部屋でしばらく待たされたシェルナにそう言ってのけたのは他の誰でもないクラークその人だった。彼の人の姿を認めて椅子を降りようとしたところを先手を打つように動きを遮られてしまう。


(だから楽に出来るわけがないじゃない)


 ビビアンもエルバートも伴わず、単身で訪れたクラークと差し向かいに腰掛けて落ち着けるはずもなかったが、不平は心内に留めて相手の出方を窺うことにした。


「エルバートは婚約を解消するつもりでいるようだが、君はどのように考えているのか聞いておきたい」


 前置きなく本題に切り込むクラークの姿勢は美しく、シェルナを捉える瞳はひたすらに真っ直ぐなもので、どこかエルバートと重なって見える。

 こんな王子殿下だからこそエルバートは惹かれているのかもしれない、と思う。


「私は受け入れる所存でございます」

「あのような曖昧な証言を聞いた上で?」

「はい」

「スミリカ侯爵の怒りが目に浮かぶな」


 今までの四角張った口調にほんの少しの感情を混ぜたようなクラークのその一言にはシェルナも思い当たる節があった。

 スミリカ家は代々多くの騎士を輩出してきた名門貴族だ。現当主でエルバートの父でもあるスミリカ侯爵もまた長らく騎士団に在籍していた経歴を持ち、その性格は騎士に相応しく厳格であると言える。

 侯爵からの通達がないところを見るに、エルバートの話は当主にはまだ伝わっていないらしい。家を飛び越えて王子殿下に報告を上げている現状の異常さにシェルナは改めてげんなりしてしまう。


「しかし随分と一方的な話であると思うのだが。君に異論はないのか?」

「はい。彼が望むのでしたら」


 エルバートの性格はよく知っている。

 ここまでの大事にしておいて、今更なかった話にするつもりはないはず。

 ましてや彼の瞳に浮かぶシェルナへの感情を察すれば、今まで通りといかないことは一目瞭然だった。


「君のことはエルバートから聞き及んでいたよ、ビギンズ嬢」

「え?」

「武門の出である彼が宰相を目指すことにしたのは婚約者の言がきっかけだと語っていた」


 癇癪を起こす幼い頃のエルバートが脳裏に蘇る。

 侯爵家の嫡男らしからぬ膨れっ面を頻繁に見せていたのは、父から受ける騎士の訓練について行けずに不満を溜め込んでいたから。スミリカ家にとって受けるべき当たり前の教育が彼にとっては当たり前のものではなかった。

 シェルナと過ごす時間でさえも当時のエルバートは不機嫌を隠さず、平素の仏頂面をより強調していた。

 そんな彼に嫌気が差したシェルナは苦言を呈したことがあった。


「そんなに嫌だというのなら、騎士にならなければいいのだわ」

「何を馬鹿なことを。許されるはずがないだろう」

「誰に許されないの? あなたのお父様? いずれお仕えするかもしれない王子殿下?」

「王子殿下がこんなことでお怒りになるはずがない」

「ならいいじゃない。お父様も王子殿下のご意向に背くことはないでしょう?」

「む……」

「『む』じゃないわよ。あなた、体を動かすことは苦手でも頭脳は優秀なのだから違う形でお支えすればいいのではなくて?」


 子供ながらの浅い考えがもたらした言葉にも関わらず、そのときのエルバートはまるで雷にでも打たれたかのようだった。

 そして、じっとこちらを凝視する瞳にシェルナの未成熟な心が高鳴る気持ちを覚えたのはこのときかもしれない。


 スミリカ侯爵家でどのような話し合いが持たれたのかは不明だが、しばらく経った頃からエルバートが不満を口に出すことはなくなった。

 屋敷に訪れたシェルナが食い入るように本を読み込むエルバートの横顔を見つめることになったのは数え切れる回数ではない。

 そうして流れた数年の後には宰相候補と謳われるようになり、社交場で顔繋ぎを行うに至るまで研鑽を積んでいた。


 現在の彼を形成する一端を担っていることに違いはないだろうが、王子殿下にまで周知されているとは。思いもよらない告白は確かな驚きをシェルナにもたらす。

 何を思ってクラークに打ち明けたのかと疑問に思うところはあるが、エルバート本人がシェルナの一言を糧にしたという自覚があったのは事実らしい。


「そんなエルバートが君との関係を解消したいと言い出したことに驚いているよ」


 視線を絨毯に落として紡がれた言葉はどこか物憂げな色を含んでいる。

 臣下の些細な夢物語の始まりをこうして記憶に留め、その行く末に心を砕く様はエルバートが敬愛して止まない王子殿下の一面なのではないだろうか。

 そう思うと優しい気持ちになり、自然と笑みが(こぼ)れ出た。


「夢の出処を忘れてしまえるほどに最良を模索することが生き甲斐になっているのだと思います」

「そうか」


 他愛も無い助言に魅入られたような眼差しを向けた幼き頃のエルバート。

 同じ眼差しを刹那垣間見せたのがあの晩餐会のひとときだった。

 自身には向けられなかったその瞳がどのような意志を持っているかは痛いくらいにわかっている。


「こんな形で関係を解消したとなると身の置き場に困るのではないか?」

「構いません。国外へ出ることも受け入れます」

「何故そこまで?」


 至極真っ当な疑問だった。

 第三者の目にシェルナの理など見当たりはしないだろう。


「彼に夢を叶えて欲しいからです」


 気難しい癇癪持ちの少年は、婚約者のほんの些細な言葉から夢を見出した。

 得意としていた勉学に更に励むようになり、良き臣下として国を支えるための理想を語った。

 穴だらけの理想論を(つつ)いてみれば、怒り混じりの反論が返される。それはシェルナにとっても面白く、有意義な時間だった。


 彼が実際に政に携わったとき、どこまでが実現するのだろう。

 想像すると期待に胸が膨らんだ。

 エルバートが何者にも邪魔をされずに望む道を邁進して欲しいと願った。


「私自身が彼の妨げになりたくないのです」


 別の想いは最早消えつつあるが、彼の夢は今もシェルナの中できらきらと煌めいている。

 じっと耳を傾けていたクラークが眉間から力を抜いたようで、それだけで表情は随分と柔らかいものになる。同情でも哀れみでもないその眼差しは、上に立つ者が持つ慈しみのそれなのだろうか。


「ビギンズ嬢、二度手間を取らせてすまなかった。協力に感謝する」


 労いの言葉に深く頭を下げ、シェルナは部屋を辞した。




 王城の長い廊下を正門に向かって歩いていると見慣れた影が立ちはだかっていた。素知らぬ顔で前を通り過ぎれば後方に一人分の靴音が増える。


「シェルナ、先程は何故あんなことを言った?」


 足を止めずに言葉だけを返した。


「あんなこと、とは何を指して言っているのかしら?」

「ビビアン嬢が僕の耳に口を寄せてだなどと、ふしだらな女性のような言い回しで」

「あら、そんなこと。見たままをお伝えしただけから、私の目にはそう映っていたのでしょうね」

「殿下の婚約者候補に対して何たる言い様だ」


 周囲の人影が薄いとは言え、抑えられた声でも誰の耳に入るか知れたものではない。仕方なく立ち止まったシェルナはエルバートにしっかりと向き直った。


「私の主張が事実に反するのであれば王子殿下に虚偽を申し立て、ビビアン様を貶めたことになる。あなたの言葉を借りて言うなら大罪人となるわね。そして私の主張が事実であればビビアン様の評価を著しく落とすような侮辱的な発言をした。あら、これも大罪人と呼んで然るべきではないかしら?」


 見上げた先にある瞳は明らかな怒りを灯してシェルナを見下ろしていた。


「良かったわね、エルバート。いずれにしても私に処分を下すことが出来るわよ」


 軽口を叩くようにくすりと笑えば鋭い眼差しは軽蔑に色を変えた。


「人ひとりを貶めておいて、よくも笑えるものだな」

「あなたの望む通りに事が運ぶのだから喜べば?」

「彼女が傷付いていることを知っていて、どう喜べというのだ」


 その瞬間、するりとリボンが(ほど)けるような、そんな感覚をシェルナは味わった。

 未来を語る婚約者を見つめるうちに、いつしか芽生えた心の中の想い。

 どうか願いを叶えて欲しい、そんな彼を傍で見守りたい。


 重ねる月日と共に強く結ばれていった想いは晩餐会のあの瞬間から綻びを見せ始めた。

 じわじわと緩む結び目を自覚してはいたけれど、止める手立てなどなく。

 その一端が(まさ)しく今、枯れた花のようにくたりと地に落ちたのをシェルナは感じ取っていた。


「命を惜しまれない誰かは傷付かないのかしらね?」


 ぽつりと本音が零れ落ちる。

 大声で笑い出したいような、泣き喚きたいような、複雑な感情が胸に去来する。

 クラークに明かされた事実の何と儚いことか。


「エルバート。あなた、私の命を取るつもりはないと主張していたけれど、いずれ宰相となってこの国を動かすあなたが私を必要ないと言ったのよ。死を望まれる者の気持ちなんて、きっとわからないでしょうね」

「余所で生きればいいだろう」

「余所で野垂れ死ねばいいと同義よ、それは」


 関係が絶たれれば二度と(まみ)えることはないだろう。

 それをわかっていて余所で生きろだなんて、悪い冗談にしか聞こえない。


「あなたがビビアン様を王子殿下のお相手に相応しいと感じるのは自由だわ。お側で見守りたいと願うならそれも好きにすればいい」


 それが宰相を目指す彼にとって正義であるなら、シェルナはただ見守るだけだ。


「でもね、その思いを清廉なものだと信じているのであれば、私が殿下に事実を述べ伝えた行為も清廉と呼んで間違いない」

「どう解釈すればそうなる」

「思い慕う相手の願いは応援したくなるものでしょう? ビビアン様が王子妃に選ばれることを願うあなたと同じように、私もあなたに宰相の座に就いて欲しいと心から願っているのだから」


 そのために最有力と評される婚約者候補がその座を逸しようと知ったことではない。

 何を言っているのだと問いたげな表情でエルバートがこちらを凝視している。

 しかしシェルナの言葉に理解が至ったのか、僅かに首を傾げる素振りを見せた。


「安心してちょうだい、今となっては思い慕って()()相手だから」


 断ち切れた想いが消え去ってしまえば、残るのは純粋な祈念だけだ。


「次期宰相の辣腕を期待しているわ。ごきげんよう」


 今度こそ城を後にするため、シェルナは再び歩き出す。

 その先、重たい靴音が付いてくることはなかった。



◇◇◆◇◇



「それでは、行って参りますわ」


 ドレスの裾を小さく摘んで簡単な挨拶を家族と使用人に向ける。

 人々は一様に笑顔を浮かべてシェルナを見送ってくれる。図書館へ赴くというだけなのに大袈裟なことだと内心で苦笑しつつも、家族に恵まれた現状にどこか安堵する気持ちもあった。

 すでに馬車は屋敷前で待機しており、澄み渡る快晴のお陰で軽い足取りがシェルナの歩を自然と速くする。

 装飾の施された鉄門を潜って、馬車に辿り着こうとしたそのときだった。


「シェルナ」


 横面から掛けられた声は煉瓦塀のすぐ脇に立つ男の発したものだった。屋敷の敷地からは塀に遮られて気付けずにいたが、男の方はシェルナが出てくるのを待ち受けていたらしい。


「ごきげんよう、エルバート様」


 無視をするわけにもいかず、立ち止まって淑女の礼を返す。家族に向けたものとは違う、形式張った挨拶を。


「……その話し方は何だ」

「礼を尽くしているだけですわ」


 一年半ぶりに見る顔は気難しい表情を浮かべている。

 一見変わりがないように見えたが、彼の片側のこめかみから頬に走る一筋の傷跡に気付く。すでに皮膚は色が沈んでおり、真新しい傷ではないことがわかる。

 現当主のスミリカ侯爵と一悶着あったのだろうな、とシェルナは察した。


「気持ちが悪いからよしてくれ」

「そういうわけには参りません。身分が違いますもの。侯爵家のご嫡男に滅多な口は利けませんわ」


 微笑みを絶やさずに言い切るとエルバートは一層眉根の皺を深くする。

 誰に居場所を聞いたのかは知らないが、ここまで来るということは事情を全て把握しているはずだ。難癖をつけられる謂れはない。


 王城での謁見から僅かな日を置いて二人の婚約は解消された。

 横槍を入れられずに解消まで持ち込めたのはクラークが証人に立ったことに他ならない。それだけでもありがたいことだったが、彼の人はシェルナの今後についても力添えしてくれた。

 そのため、国を離れるつもりでいること、親戚筋を頼って隣国の子爵家の養女になるつもりでいることを率直に打ち明けた。大きな滞りもなく子爵家に養女入り出来たのもまたクラークのお陰だと言える。


(きっと素晴らしい王政をしかれるに違いないわ)


 眼前の男の存在を余所に生国の未来に思いを馳せていると、小さな咳払いに邪魔をされた。


「ビギンズ家を離れてルグレー子爵家の養女になったというのは本当なのだな?」

「ええ、相違ありませんわ」


 にこやかに笑むシェルナとは対照的にエルバートの顔つきは明るくない。

 これしきの事実確認をするためだけに隣国まで赴くとも思えず、彼が切り出したい何かを待つことにした。こんなところに彼との婚約期間に得た経験が活きるのも馬鹿らしい話だと思いつつ。


「クラーク殿下の婚約者が決定した」

「まぁ、おめでたい話ですわね」

「そのお相手だが」

「お待ちになって」


 本題を切り出そうとしたエルバートを掌を見せることで制止する。


「クラーク殿下のお幸せは心より願っております。ですが、そのお相手が誰であるかに関しては全く興味がございませんの」


 聡明な王子殿下であればこれからの世に求められる王妃となり得る女性を間違いなく選び抜くだろうという確信がある。

 それが件のビビアンであろうとも、なかろうとも。

 シェルナに一切の関心はなく、ただ王子殿下が望む未来へと進めるのであればそれで良かった。


「ですからお名前をお伺いするには及びませんわ。元より私は今、この国の民ですので」


 自国の慶事となればめでたい話だが、今はそれも違う。

 こちらの国でもニュースになるだろうが、耳に入れようとしなければ存外入らないものだ。


「ご用件はお済みでしょうか。お忙しい身では他国でうつつを抜かしている(いとま)もございませんでしょう?」


 暗に帰れと示唆してみたのだが。


「クラーク殿下の婚約者が内定した折に、殿下にお話を伺う機会を賜った。選定の決め手は何だったのかと」


 道端で一国の王子の婚約にまつわる内情を語り出すところを見るに融通の利かなさは変わりがないようで、シェルナは大きく吐き出したい溜息をぐっと堪えて彼に歩み寄った。


「このような場所で軽々に持ち出す話題ではありませんわ」

「『未来を照らしてくれる令嬢だ』と殿下は仰った。『お前にも経験があるのではないか?』とも」


 それを伝えたのはクラークの優しさだろうか。

 側面にしか目を向けられない不器用な宰相候補のための、戒めを含んだ優しさ。


「君は覚えていたのか?……いや、愚問だな」


 苦り切ったエルバートの表情を見て思う。そう、愚問だ、と。

 それを知ったところで変わるのは、せいぜいエルバートの心持ちくらいなもの。

 自身の視線を平然と受け止めるシェルナを見て、エルバートは躊躇いがちに続ける。


「戻るつもりはないのか?」

「あら、どちらへ?」

「ビギンズ家に」


 それは即ち、生国を意味している。


「籍を移すことが容易ではないとご存知でしょう?」


 家を離れ、国を離れている。

 王子殿下の近しい場所を許されている彼がそれを知らないはずがない。


「何よりあなたの思い描く未来に私は必要ありません」

「しかし」


 語尾に被せるようにエルバートは口を開いたが、そこで言葉は途切れる。

 婚約解消を告げられてからの日々がシェルナの脳裏に思い起こされるように、彼もまた過ぎた日々を思い出しているのかもしれない。


「……シェルナがいなければ、今の僕はいない」


 平素のエルバートにはありえないくらいの弱々しい声音だった。


「あなたの夢は私が国を去っても続いています」

「きっかけを、始まりを与えてくれたのは君だ」

「その事実があったとしてどうだというのでしょう。あなたは関係の解消を望みませんでしたか?」


 もし彼が夢の始まりの日を覚えていたとして、同じ轍を踏まなかったと言い切れるのだろうか。

 ビビアンとの邂逅を経てもその瞳に曇りは生じなかったのだろうか。


「私はそうは思いません。王子殿下の御前に相応しくない大罪人が如き振る舞いをお見せしてしまいましたものね」


 沈痛な面持ちで瞑目したエルバートは口を噤んでしまう。

 皮肉が通じるくらいには冷静に自身を省みることが出来ているのかもしれない。


「クラーク殿下がまだあなたをお側に置いて下さっているのなら、道は潰えていないということでしょう。それで十分では?」


 穏やかな微笑みで会話を切り上げようとしたのだが。


「どうしても戻らないのか?」

「えぇ」

「ならば僕は、君の人生を狂わせたけじめをつけたい」


 この男ときたら、相も変わらず真面目くさった表情でそんなことを切り出す。

 例えどんな償いを差し出されても、何もかもが元通りとはならない。

 消えてしまった感情は取り戻せない。


「私の思い描く未来にあなたは必要ないのよ、エルバート」


 幼馴染として最後の忠告をすれば、エルバートは強く唇を噛む。

 そして地を這うような声を絞り出した。


「すまなかった、シェルナ」


 謝罪の言葉を最後の最後まで控えておくのは政に携わる者としての性分なのだろうか。まるで汚職事件で退任する大臣のような謝罪だ。

 自身のそんな下らない思考がおかしくなってきて、くすりと溢れた笑みで頬が緩む。


「ご多幸をお祈り申し上げますわ。それでは、ごきげんよう」


 今一度、淑女の礼を執る。

 次の瞬間にはくるりと振り返り、待たせたままの馬車へと歩き出した。

 侯爵家のものに比べると格が落ちる馬車だけれど、こぢんまりとした空間は存外好ましい。乗り込んで扉を閉じてしまえば、世界は完全に分かたれたかのようだ。



 かつての婚約者を置き去りにして走り出す車中でシェルナは思う。

 エルバートが国外追放を口にしたあの瞬間から、二人の世界も分かたれてしまったのだろう、と。

 彼がクラークに報告を上げることなく自分たちの間に留め置いていた話だったとしても、シェルナの心に刻まれた亀裂は日々広がりを見せたに違いない。


 新しい土地に移り住んで一年半も経てば気付くことがある。今日、エルバートの顔を見てそれは確信に変わった。

 いつか叶えばいいと願った、彼の幼き頃の夢。

 それすらも今となっては薄靄(うすもや)の向こうに消えかかっている。

 彼を思い慕う気持ちが土台にあってこその願いだった。


(物見塔から飛び降りなくて良かったわ)


 あのときの自身もエルバートと同じように熱に浮かされていたのだろうか。

 だとしたら迂闊なことだ、と軽く頬を(はた)く。


 消え去った想いは蘇らない。

 けれどもシェルナの胸の奥には微かな夢の欠片が転がっていた。

 穴だらけの理想論を突いていたときの、あの心が沸き立つ感覚。

 彼のものでなくなったのなら、自分のものにしてしまえばいい。


 図書館へとひた走る馬車の中で今日は何を読もうかと思いを巡らせる。

 国が変われば政策も変わる。

 生国にいれば知り得なかった世界。

 未知を知るきっかけを与えてくれたことだけを元婚約者に感謝して、シェルナは心地良い揺れに身を任せた。

 

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