武川という男
中学校の一学期当初、生徒の席順は出席番号順に並んでいるのが大方である。これは新しく学級編成されたクラスのメンバーを機械的に並べただけであるが、教師側からすると新しいメンバーの名前と顔を一致させるのには存外便利である。特に中学校は小学校と違って教科ごとに教師が代わるので有効であり、ましてや一年生時の四月は特に有効ということになる。
しかし、生徒の教育の場である学校で、教師の利便性のための席順にいつまでもしておくわけにはいかない。多くの中学校が「班」と呼ばれるグループ活動を学校生活の基本に据えている。これは六人前後(学級人数によって異なるが)の小グループを作り、これに清掃場所、給食当番などを割り振って活動させるものだ。上記のような決まり切った活動の他に授業中でのグループワークなど様々な活動をさせることで、班ごとに自治意識を持たせるようにする。いわば、学級全体が都道府県で班は市町村というようなものだ。ついでにいうと、学校全体の生徒会が国ということになる。
生徒の教育を考えるとこの市町村のような自治体である「班」を早く機能させる必要がある。しかし、「班」を機能させるということは自治体を運営するということであるから、こういうものが運営できるだけの人材がいる。機械的に出席番号で並べられた席でこういう人材がすべての班にいる可能性はほとんどない。どこかに偏ってしまっている。また、そういうリーダー的人材の振り分けのほかに、生徒間の人間関係や生徒個人の能力・資質も考慮する必要がある。現代の子どもたちの中には「いじめ・いじめられの関係」が多分に存在する。また、自治体を運営するといっても、これに協力できるだけの能力を持ち合わせていない子もクラスには数人いる。その他に反社会的分子もいる。これらが一カ所に集中しないようにしなければならない。
そういったことを考慮して班編制を行うのが班長会である。もちろん、班長会の仕事は班編制だけではないし、また、どの中学校も、どの教師も班編制を班長会でやるというわけではないが、龍之介の学校ではこれを採用していた。
龍之介の学校は二つの小学校から生徒が入学してくる。出身小学校が違えばその生徒のことは全く知る由もない。また、出身小学校が同じでも、片方の小学校は一学年六クラスもあった。(ちなみにもう片方の小学校は二クラス)これだと顔だけは知っているとか、もしくは顔さえも知らないといったレベルの生徒たちがたくさんいる。お互いがどんな人間なのかがほとんどわからない状態で、前述のような班編制をすることはできない。そこで、大体中学一年生の場合はゴールデンウイーク明けか、五月下旬の前半あたりで班編制することが多くなる。このくらいの時期なら中学校入学から一ヶ月ほど経っているので、そこそこそれぞれの人物を理解できるようになっているからである。
龍之介たちの学年も五月二十日あたりで班編制を行い、できれば翌週から、最悪遅れても六月一日からはすべてのクラスが新しい班、席順でスタートする打ち合わせになっていた。この班編制のやり方だが、最初に班長を選び、その班長たちによる班長会によって班が編制されるというものだ。大方の中学校では班長は各班一名で合計六名、この六名で班長会が構成される。学校によっては、クラスの代表である学級委員は班長にはしないで、班長六名プラス学級委員二名の八名にする場合もある。
ところが、龍之介の学年の場合は学年主任の武川の強い意向で各班男女一名ずつの合計十二名で班長会が構成されることになっていた。武川の考えでは、中学生期は男は男、女は女で固まりやすく、その縛りによって正しい判断に影響を与えたり、また班内の活動の場面でも班長が異性に働きかけをしづらかったりということがある。特に、男三名、女三名くらいの少人数になるとその傾向が強くなる。そこで、各班に男の班長、女の班長を置くことで前述のような心配を緩和するというものだ。この際の学級委員はというと、班長を兼任させる。理由は、四十人ほどのクラスに班長十二名、学級委員二名、合わせて十四名もリーダー性のある生徒はいないというのもあるが、一番の理由は最もリーダー性のある学級委員の力を最大限に発揮させたいというものである。仮に学級委員が班長を兼任しないとすると、実際、学級活動の主たる母体は班であるから、最も活動回数の多い活動で最もリーダー性の高い学級委員が自分の班の班長に遠慮してしまい、力を発揮できないということになる。日常でのこの繰り返しは、学級委員のリーダー性の伸長を鈍らせることになり、それが学級活動全体を停滞させることに繋がると考えているのだ。
かくして、龍之介のクラスの班編制が始まった。まず、学級委員を除いた班長十名を選出する。このやり方も武川の強い意向で立候補も推薦も採らず、いきなり班長にふさわしいと思われる生徒の名前を男女五名ずつ全員が書いて投票するというものだ。武川によると、立候補にするとリーダー性もないのに、ただ何でもやりたがる生徒が出てくる可能性がある。また、推薦にすると大変な仕事を他人に押しつけようという意図の推薦も出てくる可能性がある。それより、いきなり投票ということになれば何の潜入観念もないまま素直に「誰が班長に向いているか」と考えられるし、人は「書く」となるといい加減なことは書きづらいものである。もちろん、そうは言っても投票前の意識付けが重要である。これを蔑ろにしたり、クラスの雰囲気が「いいクラスを作るための投票だ」という意識を持てないままの投票となれば、正当な班長が選ばれなくなる。この点も武川がこだわっているところだ。
投票の後の開票だが、龍之介はクラス全員の前で公開で行った。実は、これもいくつかのやり方があって、投票だけ生徒にさせて、開票は放課後担任が行うというやり方もある。開票もそれなりに時間がかかるので、この時間がもったいないという考えである。ただ開票の時間がもったいないという理由だけなら、たとえ開票結果が担任の目論見とは違っていても、その結果をそのまま発表すればよい。
しかし、目論見通りでなければ一学期間の学級経営に大きく影響する。経営がうまく運ばないことは、担任にとって大きな負担ではあるが、それ以上にクラスの状態に影響が出るわけで、これによって一番不利益を被るのは生徒である。それは阻止した方がよいだろう。そう考えると、開票結果を密室のうちに変えてしまうという方法もある。これは、選挙というものを考えたときにはあるまじき行為だが、この選挙は社会的な選挙というものを教えるためのものではなく、いいクラスを作るための手段として行っているにすぎない。そう考えると生徒が不利益を被るのでは何のための選挙か全くわからなくなる。武川はどちらかと言えば、この後者の方法が望ましいと考えていたが、そこまでは担任集団に強制はしなかった。
龍之介は若い。若い龍之介には、選挙結果を秘密裏に操作することは、大きな不正であり許せなかった。だから、全員の前で開票させたのである。
この開票のやり方は、確かに武川の本意ではなかったが、武川は嫌な気持ちではいなかった。むしろ、清々しい気持ちで見ていた。大学を卒業したばかりの若者が不正を好まず、生徒たちと真正面から向き合っている姿が眩しく見えていたのである。実は、自分の若い頃を見ているようだったのだ。
ここで、武川の若かりし頃に触れておこう。武川は出身は埼玉であったが、大学は東北、岩手の大学に進んだ。もともと、物事を論理的にストイックに追求する質で、理科系であった。後に数学の教師になるわけである。部活動は陸上部。長距離を専門にしていた。ここにも彼の性質が表れている。群れを好まないのである。人とコミュニケーションをとるのは得意ではなかった。できれば、たった一人で自分自身の成功を追求していたい方だった。だから、チームスポーツでない陸上を選んだ。しかも、もくもくと一人で努力できる長距離が好きだった。
武川は自然も好きだった。山にもよく登った。しかし、山男ではない。武川が登る山は、いいとこ二千メートル未満の山である。思い立つと一人で軽装で登った。やはり、一人がよかった。誰にも邪魔されずに、雄大な自然を全身で感じることができたからだ。彼が東京ではなく、岩手の大学を選んだのもこれが理由だった。
大学二年の五月、武川は練習の一環として実家までの道のりを走って帰ることにした。岩手から埼玉までの道中は長い。この間、いろいろなことに思いを巡らし、考えることができるだろう。武川はわくわくした。
武川は決して強い陸上選手ではなかった。大学の陸上部も同様、強くも熱心でもなかった。おそらく、気の利いた高校に簡単に負けてしまうくらいのレベルだった。だから、武川が大学の大会で好成績を残すことはなかった。しかし、だからといって、勝ち負けに頓着していないわけではなかった。スポーツをやる以上、負けて悔しい思いもした。だから、負けたくない思いから努力もした。ただ、その思いよりも、弱い自分と向き合い、それを克服したいという内向きの思考の方が強かった。
埼玉までの道のりは長く、どの道を通っていいかわからなかった。だから、わかりやすい大きな国道を走った。大きな国道ならどんな地図にも出ているし、道路標識も至る所に付いている。ただ、大きな道は大型トラックが多くなり、排気ガスが気になることになる。特に、自然を好んでいる武川にとっては、好ましい条件ではなかった。
帰省のためのランニングは、順調だった。出発点の盛岡から十キロメートル程は、地理にも精通しているので、国道四号線は使わず、三九六号線を使った。こちらの方が、北上川沿いを行けるので、気持ちよく走れるのである。天気が良かった。北上川の瀬は太陽光線を受けて輝き、川面を渡る風は心地よかった。あっという間に十キロは走破してしまった。三九六号線を離れ、都南大橋を渡ったらいよいよ国道四号線である。東北で最も交通量の多い道路である。急に空気が悪くなった。このままこの空気を吸って走るのかと思うと、やや気が重くなったが、それより走る喜びの方が強く、楽しかった。
武川は粘り強い性格である。粘り強いというと忍耐力があるという感じがするが、武川の場合、我慢する力が強いというより、ことさら辛いと思うことが少ないという方が当てはまるだろう。確かに、困難なことや辛いことにもじっと我慢することは得意でもあるが、その前に、滅多なことでは辛いと感じないのである。さもなければ、盛岡から埼玉の実家まで走って帰省しようなどとは思わないだろう。今回も距離の過酷さは全く気にも止めず、ただ走りたかったから走り始めたといったところだった。
国道四号線に出てからは土地勘は全くなく、すべてが初めて見る景色だったが、この道が埼玉まで真っ直ぐつながっていることはわかっていたし、道路標識もたくさんあるため、安心して走ることができた。最初は、大型トラックの交通量の多さから、排気ガスの臭いがやや気になったが、それも程なく気にならなくなった。五月の穏やかな陽光を浴びて、武川は気持ちよく走っていた。東北の五月は、まだ肌寒い。しかし、長い距離を走る者にとっては、これでも少し暑いくらいだった。
武川という人間を知る上で、この旅の途中で一つ大きな事件があった。大学のある盛岡から実家のある春日部までは大雑把に五百キロほどある。その事件は盛岡を出てから約三百キロを走破したあたり、郡山にさしかかったあたりで起きたのである。
武川は計画性がない男ではなかったが、見かけほど緻密な計算の元に行動するタイプでもなかった。どちらかと言えば、ザックリといったタイプかもしれない。だから、今回の旅も、自分の体力の消耗を考えて、一キロをおよそ何分でどのくらい走ったら休憩を何分取り、一日の走行距離は何キロまでなどのように、緻密な計画はしていなかった。ざっくり、十キロおよそ50分で、二十キロ走ったら二十分休憩して、くらいのところだった。
走り始めて四日目の昼飯時だった。東北の五月はまだ肌寒いはずなのに、この日は穏やかなはずの陽光がどんどん暑さを増していき、じりじりとまるで真夏の直射日光を浴びているように感じてきた。本来、全身から噴き出しそうな汗も、どういうわけか今日は全く噴き出さない。しかし、日差しの暑さだけは実際以上に感じ、やがてちょっとした目眩を覚えた。そして、次の瞬間意識を失ってしまった。熱中症を起こしたのだ。
三日間ともいい天気であった。そして、今日も。その上、毎日八時間以上ランニングをし、ここまで三百キロ近く走ってきているのである。疲労も相当なものになっていたに違いない。体が悲鳴をあげていたのだ。武川はもともとそれほど強い陸上選手ではない。むしろ、弱小といっていい。まして、武川の大学も弱小で、これまでハードな練習もしてきていない。つまり、鍛えられていないのだ。それを考えると今回の帰省は無謀と言えた。この無謀は、武川にもう一つの悲劇を与えることになる。
意識はほどなく取り戻すのだが、取り戻したとき武川は子どもたちが牽くリヤカーの上にいた。目覚めた武川を見て、リヤカーを後ろから押していた小学生らしき女の子と脇を伴走していたもう少し小さい女の子が、「気づいた、気づいたあ。兄ちゃん、気づいたよお。」とはしゃいで言った。リヤカーを牽いていた中学生らしき坊主頭の男の子が一瞬振り返り、武川を見てからまた前を向いて、「おお。」と小走りの足は止めずに応えた。武川の方は、意識は戻ったものの、頭痛は激しく、頭を上げようとすると目が回り、著しく気持ちが悪かった。体を起こすことさえできなかった。
リヤカーはとある農家の庭先に着けられた。この農家、近隣の中でもかなり大きな家構えで母屋も大きければ、離れも相当立派な造りであった。庭先には、中学生くらいの少女とその父親らしき男性が待っていた。離れにはすでに布団が敷かれていて、父親らしき男性と少女、それにリヤカーを牽いてきた少年の三人で武川を布団に寝かせた。
「お父さん、早く診てやって。」と少女が、せき立てるように言った。実はこの少女の父親は医者で、休日だったため、勤務している病院は休みで家にいたのだ。この時期、このあたりの農家は田植えの真っ盛りで、家族総出、ご近所総出で田植えの作業に従事しているのが常で、そのため少年やその妹たち、少女も田植えを手伝っていたのだ。
そんな折、倒れている武川をまず少女が見つけた。少女は一人ではどうすることもできないので、近くの大人に声をかけたが、忙しくて取り合ってくれない。そこで、同級生の少年が近くで田植えを手伝っているのを知っていたため、少年に助けを求めた。二人とも、意識を失っている武川を見て慌ててしまったが、少女が医者をしている自分の父が今日は家にいることを思い出し、自分は急いで家に帰り、父と準備を整えておくから、少年はリヤカーで家までこの人を運んで欲しい、と依頼したのだった。
父親の診断は、「軽い熱中症だね。救急車を呼ぶほどのことはなさそうだけど、点滴を打った方が治りが早いから病院へ行こう。」ということで、父親の勤務している病院に向かった。
点滴は、一時間ほどで終わり、その頃には大分回復していたが、まだ少し目眩はした。武川は、これ以上迷惑をかけては申し訳ないと思い、病院で暇乞いをしたが、「若いからって、無理はいけないよ。熱中症って死ぬこともあるんだからね。もう少し、安静にしていないと危険だ。うちでもう少し休んで行きなさい。遠慮はいらないよ。医者としてこのままほっぽり出すわけにはいかないからね。」という父親の言葉で、離れで休ませてもらうことになった。
父親の家に帰ると少女と少年が待っていた。もう一人で歩ける武川を見て、二人とも安心したような笑みを浮かべた。父親は武川に向かって、「君は相当に運がいいね。この子たちが迅速に動いてくれたから重くならずに済んだのと、農作業が苦手で田植えサボりの私が家にいたのがラッキーだったね。」と冗談めかして言った。
この父親は養子だそうで、実家は医者一家で次男坊だそうだ。学校は違ったが、大学時代に少女の母親と知り合い、結婚を誓い合ったが、旧家の一人娘だった少女の母親は家を継ぐしかなく、母親の父親は当然家業を継いでくれる婿を望んでいたので、二人の結婚はなかなか一筋縄ではいかなかったということだ。
「全く大人たちったら、私が人が倒れてるから助けてって言ったら、連休で朝まで飲んでて酔いつぶれたんだろとか、日陰で休ましとけば治るよとか言って、まともに聞いてくれないんだから。」と少女が口をとがらせて言った。「まあ、まあ、酔いつぶれたは別として、日陰で休ましとけば治るの方はあながち間違っていたわけではないからね。最近では、このあたりも専業農家は減って、勤め人が多いから、この休み中に田植えを済まさなければならないからみんな大変なんだよ。」と少女の父親は少女を諭した。
体は相当に疲れていたらしく、夕方まで武川は眠ってしまった。ちょうど目が覚めた頃、少女の父親が様子を見に来てくれた。脈をとり、顔色を確認した後で、「大分落ち着いたようだね。顔色もよくなった。気分はどうだい。」優しい医者の顔で武川に聞いた。「はい、もう目眩もしませんし、気持ち悪くもありません。」と武川は元気に答えた。「それはよかった。」と笑顔で言った後、急に真顔になり、「ところで、悪く思わないでくれたまえ。」と少女の父親は言った。武川は何のことかさっぱりわからず、返事もできずにいると少女の父親は次のように語った。「このあたりの人たちが、うちの娘が声をかけたとき、どうして反応してくれなかったのかが解せないんだよ。いつもなら全く見知らぬ人でも困っていたら、やり過ぎなくらいに手を貸してくれるのに、今回はそれをしなかった。娘の伝え方に問題があったのかなあ。でも、子どもの純真さってすごいね。倒れている人がいるから助けなきゃいけない。ただ、それだけなんだね。そこには、忙しくて余裕がないとか、知らない人だからなんていう言い訳めいた邪念はない。助けるっていう正解しか見えていない。本当に子どもってすごいよね。頭でなくて体全体で何が正しいか知っているんだから。」
この出来事が、武川の教育信条の根幹にある。子どもはどんなに遠回りをしても必ず自力で正しい方向にベクトルを向ける。だから、待ってやればいいんだ。そうしたら、必ず正しい方向に足を踏み出してくる。
この無謀な帰省は、武川に貴重な体験ももたらしてくれたが、大きな悲劇をも与えることとなった。
それは、武川がもう少しで春日部の実家に到着するというあたりで突然訪れた。左の膝に激痛が走ったのである。走り始めてから四百キロを過ぎたあたりから痛みは出ていたが、筋肉痛か疲労痛くらいに考えていた。それが家に近づくにつれ痛みはどんどん大きくなり、ついには激痛のあまり一歩も歩けなくなったのである。仕方なく、実家の家族に連絡をとり、車で迎えに来てもらい、そのまま病院に直行した。
診断は最悪だった。大して鍛えてもいない足で五百キロ近くも硬いアスファルトの道を走ったため、膝の軟骨が完全に潰れてしまい、半月板が修復不能なほどに損傷してしまったのだ。日常生活には支障がないものの、武川の選手生命は絶たれてしまった。