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うおぬまさん

作者: 若葉茂

「どうやらうおぬまさんがいるらしい」

 若葉先生は女生徒たちの顔を見渡して、呟くようにいった。夏休みが終わり、二学期の初日。教室では、若葉先生の受け持ちの五十三人の女子高生が、こんがりコーンな顔を教壇に向けている。

 今、若葉先生は、出席をとり終わったところである。校舎は雲で覆われていたが、午後の教室は明るい。人生の若葉を見、今は黄昏を見ている、白髪まじりの、温厚な先生だ。先生は出席簿と生徒たちを見比べながら、しきりに首を傾げている。

 前列から三番目の、ボーイッシュで頭の良い、相田青葉がハキハキした声で訊く。

「先生、その、うおぬまさんってなんですか ?」

「うん。居間がリビングになっている、近ごろの子は知らないだろうね。先生の子供のころには、うんぬまさんというのがいたんだよ」

「そのうおぬまさんが、今、ここにいるんですか?」

「うん、どうやら、そうらしい」

 たちまちあちこちから声があがる。

「そのお話、聞きたーい」

「先生、そのお話、して下さい」

 F学園は、普通の高校よりも補習が充実しており、授業は頭八分目となっている。

 若葉先生は、百六個の瞳に見つめられ、髪の毛を茂らせる。みんな可愛いいのだ。彼女たちが甘えれば甘えるほど可愛い。

「先生の生まれた、山里の村には、うおぬまさんがいた・・・・・・」

 先生はゆっくり話はじめる。さっそく教科書を片付けはじめた慌てる者もいる。

「黄昏どき。サメごっこに遊び疲れて帰る子供たち。サメもお魚も機雷もみんな仲良く、お手つないで。黄昏の語源は知っているね。誰そ彼。薄暗くて誰だかわからない。でも、ふと気がつくと、彼は彼、彼女は彼女、顔を識別できるくらい明るくなっている。そして人数が一人増えているんだ。例えば最初十人だったのが、いつのまにか、十一人になっている。いったい後からやって来たのは誰だろう。そう思って子供たちがお互いの顔を見合せながら、誰それさんは、はじめからいたし、誰それさんも・・・・・・というように確かめると、そこにいる皆が、最初からいた子ばかりなんだよ。でも最初集まったときには十人だった。いったい誰があとから来たのか、どうしてもわからないんだ。それで、皆が、うおぬまさんがやって来た、っていうんだよ。これがうおぬまさん。うおぬまさんがくると明るくなって、一人増えているんだ」

「学校の伝統(電灯)は?」

「国際交流かな?」

「LEDよ」

 女性徒たちは、急にザワつき、具志○用○をはじめる。相田青葉が先生に訊く。

「じゃあ、そのうおぬまさんが、いまこの教室にいるんですか?」

「うん、どうも、そうらしい」

「一目惚れかな?」

「コシヒカリよ」

「でも、どうしてですか?」と相田青葉。

「うん、先生はね、幾何学専門だけど、数字にも強いんだ。一学期はたしかに五十二人だった。今見ると、五十三人になっている」

「そうかしら、わたしは、最初から五十三人だったと思うんだけど、確か」

「トランプと同じだよ。数字札と絵札で五十二。ジョーカーはない。五十二人だったはず。だからこれは、うおぬまさんが書き換えたんじゃないかな?一学期は八人六列に並んで四十八人、七列めは、4つしか机がなかっただろ。四谷赤坂麹町チャラチャラ流れる御茶ノ水、お茶の水さんの後ろの席はなかったはず。でも、ほら、今は5つになっている」

「あっ、ほんとだ」

 誰かが確認して、前列の生徒がいっせいに振り向く。

「うおぬまさんて、誰なんでしょう?」

「さあ、誰なのかな?」

「ジョーカーさんがいると、ババ抜きできるから、馬場さんじゃないかな?それにお茶の水さんの後ろ、馬場さんだ」

「変なこといわないでよ。私は一学期から、ずっと学級委員やっていたじゃないの」

 その言い方が真剣で、真犯人を捜してと言わんばかりなので、皆、クスクス笑う。

「馬場さんをいじめちゃいかん。うおぬまさんである確率は五十三分の一で同様に確からしい」

「でも、一学期にいなかった人って、誰かしら?」

「先生もさっきから、ひとりひとり順に顔をみて考えたんだが、みんな一学期からいたようだ。そういうのがうおぬまさんなんだよ」

 生徒たちは、お互いに顔を見合せ、訊ねあう。

「あなた一学期からいた?」

「わたしは、板野、いたのよ」

 健康そうな顔を向けて冗談まじりのお喋りしはじめた教え子たちを、若葉先生は、教壇の上から、満ち足りた笑顔で眺めるである。


 少しずつ空気に薄荷が交じりはじめる初秋の夕暮、町はずれの公園を行く若葉先生の髪に、五月の朝のような風がやわらかに吹く。若葉先生は寄り道して、いつもこの公園のベンチに腰おろして、黄昏るのである。缶コーヒーを呑みながら、送電線の向こうに薄緑に霞んだ山脈(やまなみ)をぼんやり眺め、先生は郷里の山を想う。枯れ葉がカラカラ音を立て、あたりは夕陽に暑く染まっている。

「若葉先生」

 教え子の稲波すみれが、手をあげ、ブレザーの青のリボンを揺らしてやってくる。お下げ髪の似合う、ラピュタのリューシータ王女のような、可憐で、凛とした生徒である。彼女は若葉先生の横に腰をおろし、くりくりマロンな瞳で先生の横顔に笑いかける。花のように明るい。

「ここ涼しいですね」

「ああ。今、帰り」

「ええ、文芸部の部室でプルーストの耽読登頂をしていたのよ」

「失われた時を求めてだね」

「そうなの、失われた時を求めて。発見とは新しい景色を探すことではなくて、新しい目で見ようとすること。それでわたしは、蜂の目になって菊を見ようとしたの。そうしたら、黄ひと色の花弁は闇に消え去って、その中央が、広漠たる宇宙の小さな星、掌のなかの星のかけらのように光っていたわ。菊は、蜂に慕われるものとして、蜜のありかを示して、形態としての美を隠したのね。それはそうと、今日の、うおぬまさんのお話、面白かったわ」 

「ありがとう。君のお家はこの近所?」

「ええ、そうよ」

 そういえば稲波すみれが、公園の横の小道から、このベンチで物思いにふけっている先生の方に手を振って挨拶し、通り過ぎて行ったことも何度かあったように思う。前を向いて、青空を探すような足どりで帰って行く彼女のうしろ姿を見送った記憶が、確かにあるようだ。

 稲波すみれは、自分のお下げ髪を指さきでいじりながら若葉先生に訊く。

「先生のお郷里(くに)は、遠いんですか?」

「ああ、遠いんだよ。この町からだと、ローマは一日にしてならず」

「ずいぶん遠いのね」

「ああ、とても遠い。でも、いいところなんだ」

「そうでしょうね。でもわたしのお郷里なんか、もっともっと遠いのよ」

「ほう、君のお郷里はどこ?」

 彼女はタンポポの綿毛をパンダボアヌ工場に送るみたいに、夕焼けを眺める。その横顔のえくぼはニコニコそのものである。

「とても遠いところ。ラニアケア超銀河団の郊外から地球まで二百五十万光年ほどあるわ。でもネコバスだと二百五十ネコバスほどよ。広大な宇宙もネコバスで測ると箱庭サイズ。そんなネコバスでも遠いところなの」

 若葉先生は笑う。天性の空想家で物書きなんだこの子は。

「じゃあ、ひょっとすると、うおぬまさんは君なのかな?」

「ええ、うおぬまさんはわたしなのよ」

 そういうと、膝にあったスクールバックを抱きしめてクスクス笑う。

「でも、君は一学期からいたよね」

「ああ、それはわたしが、先生や他の皆に、そういう記憶をあたえたからなのよ。でも、先生が数字に強いのを忘れていたものだから、五十二人という先生の記憶を消し忘れたの。でも、五十二という数字がトランプのカードの枚数と繋がっているなんて思いもしなかったな」

「なるほとね」

 先生は稲波すみれの頭の良さに感心する。彼女の声は風鈴のように澄んでいて、耳に心地よい。

 鳩たちを追いかけ回していた子供たちも帰り、公園は静かになる。

「君は、どうしてそんな遠いところから、こんな町にきたの」

 若葉先生は、稲波すみれの声が聞きたいのである。彼女は話出す。

「わたしの郷里は、言葉の降る里なの。夜空に星が降るように、マムレの年老いた樫の木の下に言葉が積もるの。とても芸術的なのよ。そこでは文学と文楽が天秤にかけられて平衡を保っているの。わたしたちは、あらゆる文章の様式を学び、親しみ、楽しみたいのよ。みんな、あちこちへ文章修行に行っているわ。わたしは文文、飛びたいのよ。文文、浪漫飛行するためにこの町にきたのよ」

「茶川龍之介と夏目そうしきやフラソワーズ・サガンとピエール・ブツダンなんかが天秤にかけられそうだね。私も一度行ってみたいね」

「せつなさと甘さとが貼りついて離れない、この見知らぬ感情に、哀しみという感傷的で美しい名をつけようか迷ってしまう。さがんな。さがりませんよ。家なき子レミのように、いつも希望を失わず前へ。わたしの胸はまだティーカップのままだけれど。いつの日か・・・・・・」

「ティーカップとドーナツは位相的に同じだから稲波さんのふたつの丘は、ドーナツサイズなのかな?」

 稲波すみれは少し顔を赤くして、またクスクス笑う。

 いつのまにか公園にはススワタリが歩きはじめていたが、あたりは水明かりほどのベールに包まれている。

 稲波すみれはあわてて立ちあがる。

「わたし、帰ります」

「ああ、すっかり遅くなってしまったね。気をつけて」

「ええ、さようなら、若葉先生」

「さようなら、また明日」

 稲波すみれのほっそりとしたうしろ姿が、樹の向こうに見えなくなるまで見送ってから、若葉先生はゆっくりベンチから立ちあがる。公園のすぐ裏にあるアパルトマンで、アクアリウムのお魚がサメごっこをしながら、先生の帰りを待っているのだ。

 今日も若葉先生は、公園のベンチで稲波すみれを待つ。

 ケヤキが黄色に色づき、あたりはすっかり秋めいていたが、先生はあいかわらず、ベンチで黄昏ている。秋は黄昏。黄昏は秋。迷子になった落葉を、先生に届けると、ちびっ子が、広場へ駆けて行く。

 やがて稲波すみれの姿が公園の入口に現れる。彼女は快活に手を振りながら、若葉先生の横に腰をおろす。

 先生は、彼女がいきいきと淀みなく物語る心模様に、いつまでもうっとりと見とれている。それは先生に、子供の頃読んだ、世界児童文学の主人公たちを想い起こさせるのだ。彼女は小説の世界を実在する世界として駆けていた。彼女の声は新世界のように明るく、情熱的で、若い人はいいなあ、と先生はつくづく思うのだ。


 ある夜、若葉先生は稲波すみれの夢を見た。世界の文豪たちに囲まれて、幸福そうに微笑んでいる夢である。だが夢の中の彼女は、何故か、先生の郷土出身の作家の三部作を読んでいるのだった。


 冬が近づいていた。北北東の風が吹いて、公園の木の葉は落ち尽し、裸の木の枝が空に向って根をはやしている。落葉だきの焼き芋がほっくほく糖で、暖かく甘い。もうすぐ二学期も終わろうとしていた。

 若葉先生は、今日も稲波すみれを待つ。

 やがて、稲波すみれがやってくる。今日の彼女は、何故かしょんぼりしている。

「どうしたの元気ないね」

「若葉先生、わたし、ひょっとしたらこの冬、郷里へ帰ることになるかもしれないんです」

「えっ、帰ってしまったら、もうこの町には来ないの」

「ええ、来ないと思います」

「そう」

 ふたりはしばらく黙ったまま、遠い雲をぼんやり見つめていた。やがて、若葉先生は、彼女を元気づけるように、彼女の肩をポンとたたく。

「また、きっと、会えるよ」

 稲波すみれは、収穫された稲穂がそうするように、頭を持ち上げて、応える。

「ええ、いつか、また」


 次の日、稲波すみれは、学校に来なかった。

 それでも、若葉先生は帰り道、公園のベンチに腰をおろし、稲波すみれを待つ。

「季節はめぐり、また冬がくる」

 先生はこの頃、よくひとりごとをいう。

「郷里ではもうドカ雪が降って、校庭がなくなっているだろう」

 あたりが暗くなり、二本目の缶コーヒーを護美箱に投げて立ちあがる。大きく伸びをし、深呼吸して、ゆっくり歩き出す。

『うおぬまさんは、冬が来たので地平線の下に、隠れてしまったのだろう』


 冬休みが終わり、三学期が始まった。

 その初日、若葉先生は教壇から、皆の顔を眺めて、おやと思った。二学期には五十三人いたはずの生徒が五十二人しかいないのだ。誰がいないのだろう。そう思って、皆の顔をもう一度見渡す。

 だが、みんな揃っている。しかし、机のならび方が少し変わったような気がする。

「おやおや、これじゃ、うおぬまさんの転校じゃないか」

 さっそく前列から三番目の相田青葉が大きな声で訊く。

「先生、その、うおぬまさんってなんですか?」

 若葉先生は、ゆっくり話はじめる。

「うん、うおぬまさんっていうのはね・・・・・・」

 帰り道、いつものように若葉先生は、公園のベンチで黄昏る。いつかここで、誰かと話していたような、ぼんやりした記憶に気がつく。

 あれは、いつの日のことだったか。今も先生は、自分が、やがてここへやってくる筈の誰かを待っているような気がしてならないのだ。

 町の彼方の、白い帽子を被った山々は、青ざめていった。さいしょは光曜のうちに、やがてその薄明のうちに、最後には漆黒のなかに。

 それを見ると若葉先生は、長い間かえっていない郷里を想い呟いた。

「うおぬまさーん」と。

 すると山々が明るんで白く輝いた。暮れた筈の夕陽がひょっこり顔を出したように。



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