レナルド
とある国の、とある町を、とある醜聞が埋め尽くした。
将来を嘱望されていた青年が、両手で数えきれぬほどの住人たちをもてあそんだ。そんな悪行が、町の権力者の手によって白日の下にさらされたのだ。この青年にもてあそばれた住人たちというのは、未婚者はもちろんのこと、既婚者、男、女、さらには聖職者も含まれている。
彼は教会で育った。その理由を、彼自身は知らない。
噂では生後間もなく親に捨てられたとか、修道女が隠れて生んだ子だとか言われている。
彼は自分の出自に対する興味を、とうの昔に失ってしまっていた。
彼はレナルドという自分の名に誇りを持っていた。誰が名付けたのか知らない。そこがよかった。己の名だけが、世俗に汚されず美しく輝いているような気がしたからだ。
レナルドは幼い頃、近所の子供たちによく馬鹿にされていた。お前のように薄汚い人間は誰にも愛されないのだと、嗜虐的な喜びをたたえた口が宣告するのを、レナルドは静かに聞いていた。
教会の椅子に座って一人で泣いていると、いつも神父が慰めに来た。それが、優しい声色でレナルドの名を呼びながら体のあちこちを触ってくるものだから、気味が悪くなってしまって、彼は人前で涙を流すことをすっかりやめてしまった。
ある日、いつもレナルドのことをあらゆる言葉で侮辱する子供が、母親と一緒に歩いているのを見た。母親と一緒にいる子供など、怖くない。レナルドは堂々と二人の近くを通りすぎようとした。
女の声が、レナルドを呼び止めた。彼女は私の息子と仲良くしてくれてありがとうと言って、レナルドに笑いかけてきた。子供社会の表面を眺めただけで、微笑ましい理想を現実だと解釈してしまう大人の身勝手さに、レナルドは呆れた。
彼女は感極まった様子で、レナルドのことを、とりわけレナルドの見た目のことを褒めちぎり、あなたはまるでどこかの国のお姫さまみたいだと言った。
レナルドは彼女の言葉を、最上級の侮辱と受け取った。彼はまだ、素直に受け止められる褒め言葉の種類があまり多くなかった。
だがそれも成長するにつれて変わっていく。
ある年を境に、レナルドに対する周囲の反応が変わった。
いったいどこから出しているのか、無理に音階を上げた聞き苦しい声で話しかけてくる女が増えた。幼いころはいつもきつい言葉を投げかけてきた少年たちは、そんな過去など存在しなかったかのような態度で、レナルドを自分の親友コレクションに加えようとした。
人の温もりや愛などといったものを欲する気持ちを、レナルドはとっくの昔に手放してしまっていたから、馴れ馴れしく接してくる者たちが酷くわずらわしかった。
レナルドはある日、気づいた。自分はどうやら、彼らの虚栄心を満たしてやれる"皮"を持って生まれてきたのだと。
そう気づいてから、レナルドの日常は変わった。
彼は、生きた人間に対する理想的な振るまいというものを幼い頃から神父を通して学んでいたから、友情や愛情を演じることは難しいことではなかった。
優しい言葉をかけてやれば、女たちはおとぎ話の世界に入り込んだかのような表情をする。
お前のことだけを尊敬しているという旨の言葉をかけてやれば、男たちはレナルドだけが自分のことを理解してくれるのだと真面目な顔で返してきた。
この"皮"が衰えるまでは、こういう遊びに興じるのも悪くないと思った。しかしすぐに飽きてしまった。
やがてレナルドは、相手を夢中にさせるゲームというのは一方だけでなく、レナルド自身にもその利益が還元されなければ意味がないと考え始めた。
レナルドは文字が読めなかった。
ときに恥じらいながら、ときに涙を浮かべながら文字が読めないことが苦痛だと訴えてみれば、大抵の人間は頼んだわけでもないのにレナルドに生きていく術を与えようとした。
小銭の入った空き瓶を持ってうろつく老人には、眉をひそめ軽蔑の眼差しを向ける者たちは、あの老人と立場の変わらないレナルドに対しては、無給の教師となることをいとわなかった。
いや、無給と言うと語弊がある。
住人たちは競うようにレナルドに読み書きを教え込もうとして、暇を見つけては教会にやってきた。レナルドと二人きりになることを楽しみにしている者も少なくなかった。
それはレナルドにとっては爪を研ぐようなもので、住人たちはレナルドにとって、ただの爪やすりに過ぎなかった。しかしレナルドにとっての学びの時間を、愛を育む時間であると解釈する女もいた。
最初はその勘違いがわずらわしいと思っていたが、だんだん滑稽に、そして楽しみになっていった。
彼女たちは恋愛というものを、ファッションのようなものとして扱っているようだ。恋人は、自己を確立するための道具に過ぎないのだろう。
だからこそ、家族、友人、学、あらゆる財産を所有しているくせに、ただ"皮"に恵まれているだけのレナルドの振る舞いに一喜一憂するのだ。まるで量産された人形のような彼女たちの必死な様子は、端から見ていれば愉快としか言いようがなかった。
男の相手は面倒だった。とりわけ彼らの自慢話にはほとほと嫌気がさした。
その自慢話が処世の役に立つならまだしも、偉い人間に媚びへつらったというだけの安っぽい処世術を駆使した経験や、どれだけ女をこっぴどく傷つけてきたかという話の、何をレナルドの人生の参考にしろというのか。
文字をすらすら読めるくせに、どちらもレナルドが実行中の事柄であり、自分もその策の中に組み込まれているということは、なぜ読めないのか。
貞淑と思われていた女たち。そして理想的な紳士と思われていた男たち。彼らは教会で育ったレナルドを無垢であると思い込んでいた。事実、そうだった。だが無垢と穢れは共存し得るということを、レナルドは身を持って知っていた。
最初に手をかけたのは、子供の頃レナルドを執拗に侮辱してきた男である。
彼はレナルドに読み書きを教えることにはあまり熱心では無かった。しかし猥談にはことさら熱を入れ、自分が楽しい話題はレナルドも楽しいはずだと勝手に思い込んでいた。
役に立たないと思っていた彼との会話は、実際にそれを実行に移す時でさえ、役に立たなかった。
なぜなら彼もレナルドと同じで、その行為の本質というものを大して理解していなかったからだ。
現実が理想に勝ってはならないことは、人間社会の不文律であるとレナルドは考えていた。しかし物事は多角的にとらえるものであると、この出来事をきっかけに考えを改めなくてはならなくなった。
ある部分では、がっかりすることもあった。そしてある部分では、予想外に夢中になることもあった。ひとつの結果にこだわることは、快楽の質を狭めることに繋がった。
男の相手は意外にも楽しめた。
女の相手は生物としての構造が違うために面倒だったが、レナルドは目先の欲にかられて身を滅ぼすような馬鹿な情夫になるつもりなどなかった。
レナルドが己の身を守るための努力をすれば、女たちはそれを都合のいいように解釈した。大切にしてもらっているとでも思ったのだろう。
これは公正な取引であるとレナルドは考えていた。
知という財産を授けてくれる者たちに――それが実際にレナルドの役に立っているかどうかは別として――レナルドが持つ唯一の財産を返してやっているのだ。
それはうんざりするような毎日の暇潰しであり、あるいは何も持たない自分がどれだけの人間の弱味を握ることが出来るか、試すためのゲームだった。
ごくまれに、レナルドは罪悪感に苦しめられた。
既婚者や聖職者を相手にしたときなどは特に酷く、悪いことにレナルドの相手のほとんどがこのどちらかだった。
レナルドは普段、神を信じてはいないが、時々は信じてみてやろうと思える時もあった。
そんなときは今までの自分の行いが恐ろしくなり、町の中心で何もかもを打ち明けてしまいたくなるのだった。
善行に身を捧げればこの苦しみから解放されると思ったが、同じ苦しみを味わうべき者たちの能天気な様子を見て馬鹿馬鹿しくなった。
善行!
なんと間抜けな響きだろう!
彼らはレナルドに読み書きを教え、さらには快楽も与えているなどという考えに陶酔している。
情けは一種の快楽だ。そしてそれが都合のいい解釈により、満たされるわけだ。
大した善行。己だけは正しい善行。それに人間の本能が加わると、人は恐ろしいほど寛容になる。
夫や妻を愛しているかと問えば、三者三様の答えが返ってくる。しかし言葉はあてにできなかった。なぜなら彼らはレナルドの心はおろか、自分の心すら正確にとらえられていないのだ。
夫や妻を、あるいは神を裏切ることの理由に、人間の本能をあげる者は多かった。
レナルドからしてみれば、彼らとの情事など貴族が狩りをすることと大差ないのに。
人は道を歩いていて、空を飛ぶ鳥を撃ち落とすことや、木に生っている果物をもぎ取ることを、本能に抗って避けているだろうか?
本能を抑え込み、道を行く鶏を絞め殺したい衝動と戦っているだろうか?
貴族が狩りをするのは、それが出来るからだ。
不貞とは本能ではなく、娯楽に過ぎない。なぜそれをするのかといえば、それが出来るからだ。
野生動物はときに、子孫を残すために命までかけるという。
レナルドは知っている。彼らはレナルドのために、命をかけたりはしない。娯楽を手放さないための、努力はするだろうが。
――あれは酷く暑い夏の出来事だった。
熟れきった果物が腐って崩れていくように、レナルドの人生は崩れていった。
町の権力者の妻が、レナルドを養子にしたいと言い出した。もちろんこの女は影でレナルドと情事を重ねていた。
レナルドは人間の愚かさを甘く見ていた。あるいは夏の暑さが判断力を鈍らせていた。
レナルドは彼女の申し出を、愛ゆえの行動だと勘違いしてしまった。家族という集合体の一部になれると想像しただけで、あらゆる冷静さを失ってしまったのだ。
この頃、レナルドは読み書きだけでなく簡易な数式を解くことも出来るようになっていた。レナルドのために学費を出すと言う者もいたし、神父はレナルドを自分の弟子にしようと考えていた。
そのどれもが、レナルドにとってはどうでもいいものになった。この堕落したゲーム以外に、生きる意味が見つかるというのなら。それが愛なら、どんな犠牲をはらってもいいと思えた。
彼女はレナルドを、自分専属の情夫にしたいだけだった。そして彼女はあまり賢くなかった。レナルドを養子にして自分の玩具にしようという企みは、彼女の夫に容易く見破られてしまったのだ。
彼女の夫が町の権力者であることは前述した通りである。
レナルドが取り組んでいるゲームの内容を突き止めることは、彼にとっては動きの鈍い兎を撃ち殺すことと変わり無かっただろう。
ああ、あれほど影で互いにいがみ合っていた者たちが、こうも簡単に一丸となるものだろうか。いや、この町の住人たちは大して個体差がないのだから、自分が罪を犯したのはレナルドのせいであったと口を揃えることは、必然だったに違いない。
無垢で無知で、無力。
そんな風に見える人間を遊び道具にしたつもりになって、日々を過ごしていた者たちに、内省を期待することは酷だろう。自分たちの方が遊ばれていたことにすら、未だ気付けていないのだから。
命を失う覚悟などなかったが、逃げるつもりもなかった。住人たちが武器を手にして教会に押し掛けようとしていると、神父は小指の爪の先くらいは持ち合わせていたレナルドへの罪悪感から、忠告した。
レナルドは己の品位を失うことだけが恐ろしく、それだけは手放すまいと、祭壇の前にひざまずき祈りを捧げていた。神に助けを乞うていたのではない。恐怖に震える体をごまかす方法を、他に知らなかったからだ。
その日、教会には誰一人として押し掛けてこなかった。
レナルドは、自分を教会から追い出すために神父が嘘を言ったのだろうかと疑った。恐る恐る教会の外に出てみれば、道行く住人たちと目が合った。
憎々しげな視線だった。自分の生活が狂ってしまったのは、レナルドのせいだとでも言っているかのような。
レナルドに言わせれば、色事にしか能がないこんな男一人に狂わされる人生など、いずれ壊れてしまう運命だったろう。
レナルドを自分専属の情夫にしようとした女の、夫。この町の権力者が、ある日、教会にやって来た。
なんでも、彼の乳母であった老婆が、レナルドを引き取りたいと申し出ていると言う。彼女は町の住人たちにとても好かれていて、特に彼女が焼くパンは評判が良く、住人たちの心の拠り所である。
信頼が厚いゆえに、彼女に逆らえる住人は少なく、権力者である彼も例外ではなかった。レナルドに私的制裁を与えようと息巻いていた住人たちを説得したのは、彼女だった。
そして彼女は最近、一人きりでの生活が難しくなってきていた。本来であれば、彼女の手で大きくなり、また財産を多く所有している彼が彼女の世話をする役目を担うはずだった。その役目を、仕方なくレナルドに譲ってやると、彼は憂いをおびた顔で言った。
軽蔑する余地もないと思っていた人間という醜い生き物を、さらに軽蔑する日が来ようとは、レナルドも驚きであった。
文字を練習するための紙と、鉛筆。それだけを持って、レナルドは老婆の家に向かった。
煙突から煙がもうもうと立ちのぼっていて、家の外までパンの匂いが漂っていた。
レナルドを出迎えた腰の曲がった老婆は、皺が多すぎて表情がよく分からなかった。
彼女はレナルドに、数着の着替えと、古びた本を何冊か手渡した。
それからかご一杯のパンを、食べなさいと言って差し出してきた。
本当は興味のないフリをして、良い香りを撒き散らすパンを床にばらまいて、踏みつけてしまいたかった。しかしレナルドは本当に腹が減っていた。まるで野良犬のようにパンにかぶりついて、全て平らげた。あまりの屈辱に涙が出た。
驚くことにレナルドには自分だけの寝室が与えられた。
その日、身の置き場が分からず、レナルドは部屋の角に身を丸めて息を殺し、日が暮れるまで文字の練習をして時間をつぶした。
夜になり、老婆が寝静まった気配がした。
彼女がレナルドを引き取った理由は、ひとつしか無いとレナルドは考えていた。あまり気が進まなかったが、生きていくためには仕方がない。
レナルドは老婆の寝室に忍び込み、彼女のベッドに潜り込んだ。
老婆は、とても驚いていた。レナルドはもっと驚いた。急いでベッドから飛び降り弁明すると、老婆は大声で笑い始めた。
老婆があまりにも大笑いするので、レナルドはもしかしてこれは笑っているのではなく発作ではないかと怖くなった。
幸いなことに老婆が発作でこと切れることはなかった。老婆は、自分は結婚しているのだと言った。夫はひと足先に神の元へ旅立った。神の教えに背くつもりも、お前を汚すつもりも、汚されるつもりもないと老婆は言った。
それならばなぜ自分を引き取ったのかとレナルドが問えば、一人で食事をするのは味気ないから、と老婆は答えた。
レナルドは納得出来なかった。必ず何か裏があり、いつか老婆が牙をむくはずだと思った。
毎日毎日、暗くなるまで部屋の角で何かを警戒して過ごすレナルドに、老婆はある日、本を読んでほしいと言ってきた。
本ならレナルドの方が読んでほしいくらいだ。発音を間違えてしまうことが恐ろしく、そして屈辱であったため、全く気が進まなかった。
しかし生きるためには仕方がない。何とか頭を働かせて、紙の上の文字を音にする。失敗したら追い出されるに違いないという考えに囚われて、紙をめくる指が震えた。老婆は目が悪く、レナルドが情けなく震える姿を全く気に留めなかった。
やがてレナルドは老婆に読み聞かせている、物語というものに静かな驚きを覚えるようになった。この紙の上にあるものは、現実に似せた理想。ときに美しく、ときに残虐な理想がひっそりと横たわっている。
ただの紙切れのくせに、それはかつて住人たちと交わしていた会話よりもレナルドの役に立つような気がしたし、この本を書いた者たちは今、レナルドの目の前にはいないのだから、夢中になってもプライドは傷つかないような気がした。
老婆はゆっくりと、当たり前のことが出来なくなっていった。
階段を上ることが難しくなり、身支度にも時間がかかるようになった。
レナルドはある日、老婆の着替えを手伝おうとした。しかし彼女はそれをとても嫌がった。階段を上ることも、パンを焼くことも、結局最後はレナルドが手を貸すことになったが、本人は自力で身の回りのことをこなすことにこだわっていた。
レナルドは最初、老婆の振る舞いを不思議に思ったが、あるとき気付いた。これが、人間の本能なのだと。
自らの心身をコントロールすることは、全ての人間に備わっている本能なのだ。
彼女はまだそれを、放棄したくないのだ。
レナルドは形ばかりは、彼女の本能に敬意を払ってやろうかという気になった。
レナルドは近所の材木店に、余った丸太や木板を譲ってくれるよう頼みに行った。店主は最初、レナルドのことを相手にしなかった。
レナルドは何とか粘り強く懇願した。店主はレナルドに、彼の靴を舐めるよう言った。レナルドはひざまずき言われるがままにした。
丸太や木板を引きずって、泣きながら老婆が待つ家に帰った。家のあちこちに不格好な手すりを作り、階段は段差が低くなるよう板を打ち付けた。
それが老婆の役に立つのか立たないのかレナルドには分からなかったが、老婆は喜んでいた。
レナルドは老婆のことを心の中で嘲笑してやらなければならなかった。自分は人間の本能に敬意を払ったまでのことだと、喜ぶ彼女のことを哀れに思うように努めなければならなかった。
レナルドは、不味いパンを食べさせられるのも、火傷の手当てをさせられるのもごめんだったから、老婆が書き留めていたパンのレシピを暗記した。材料を細かく量って、台所に置いておいた。
レナルドが準備した材料を使って老婆はパンの生地を作る。それをレナルドが老婆に指示される通りに窯で焼いた。
やがて老婆は本格的に助けが必要な身となった。
世話をするのは辛いこともあったが、生きていくためには仕方がない。
ときどき、教会での享楽的な日々が恋しくなることもあったが、そんな気持ちは長続きしなかった。
助けてやっていると思われるよりも、助けてやっていると思う方が気分が良い。利用されているのではなく、利用しているのだと思い込まなければ自分を保てなかった日々は、今考えてみると酷くむなしかった。
老婆はレナルドのことが分からなくなった。レナルドはたびたび、自分の部屋に隠れて涙を流した。醜い姿をさらされて不快だったからだ。
老婆は夫の元へ旅立った。
町の住人たちは、レナルドが老婆の葬式に参列することを許さなかった。レナルドは葬式になど興味が無かったので、特に不満はなかった。
レナルドは老婆の家を隅々まで掃除した。気位の高い彼女は、猫のように、自分がそこにいた痕跡を残すことを嫌がるだろうと思ったからだ。
落ち葉を掃くために庭に出た瞬間、よく晴れた空に鐘の音が響き渡った。老婆の葬式が行われている、教会の鐘だ。
別に、その鐘に心を打たれたわけではない。背中を押されたような気がしたわけではない。
何かきっかけが必要だと考えていたときに、ちょうど鐘が鳴ったのだ。
レナルドの心に、ふつふつとマグマのような熱さが湧きあがってきた。
家に入り、鏡を見た。ボサボサの頭に、無精ひげ。目の下にはクマが張り付いている。
生気のない姿に反して、レナルドの胸には炎が揺らいでいた。
レナルドは老婆が与えてくれた服と、本、数冊のノートと鉛筆を抱えて、陰鬱な町を飛び出した。
主を失った家に風が吹き込む。
誰かが窓を閉め忘れたのだろう。
美しい鐘の音がカーテンを揺らし、空っぽの家を震わせた。