第九話
頭痛で目が覚めた。痛みがはっきりと増してくるほどに眩んでいた視界もくっきりしてきて、表情を歪めて頭を押さえようとし、ヴィオラは自分の体が動かないことに気がついた。
どうやら自分は何か椅子のようなものに縛りつけられているらしい。立ち上がろうとしたが、やはり身じろぎひとつできない。体全体が麻酔をかけられたようにぼんやりしていて、感覚があるのは首から上だけだった。その首も金具でしっかり固定されているらしく、頭の向きを変えることができない。
目だけを動かして周囲を観察すると、自分がいるのは見慣れた地下工房のすみっこで、部屋の中心を向いて座らされているのだった。一瞬だけ安心したが、すぐに何が起こったのかを思い出して、ひどい恐怖と混乱に叫び出したくなった。しかし声が出ない。涙は次から次へと出てくる。
部屋の中心にある作業台にローズの姿はなく、ただ彼女が流した大量の血のあとだけが残り、嗅ぎたくない臭いが鼻の奥に絡んだ。
(――なにが起こったんだ? いきなりコフィンがローズを撃って――ローズが――コフィン? コフィンはどこ行ったの? 私はどうなってるの? 誰か助けて……パパはどこ? 怖いよパパ! 助けて、助けて! ママ――ッ!)
そのとき、誰かが階段を下りてくる音がして、ヴィオラは悲鳴をあげようとしたが失敗した。体はやはり指一本すら動かせず、足音の主から隠れるすべはなかった。
現れたのは、黒いドレスを着た長身の女ロボット――コフィンだった。
「覚醒されましたね」
コフィンはヴィオラを一瞥した。彼女は両腕に何か大きなものを抱えている。よく見ると、それはやはり黒く美しいドレスを着た女性で、ローズの死体に違いなかった。
コフィンは死体を丁寧に作業台の上に寝かせ、姿勢を整えると、愛おしそうに頬を指先でなぞった。その所作は親愛と哀しみに満ちていたが、彼女を殺したのは他でもないコフィンだ。ヴィオラはあまりのおぞましさに吐き気を催したが、解消できない。
「ずっとこのときを待っていました」
コフィンは作業台をまわりこんでローズから離れ、ヴィオラを見下ろす。
「包丁や他の鈍器ならありました。だけど確実に行うには、やはりこれが必要でした。人を殺すために作られた、専用の道具が……あなたが持ってきてくださった」
彼女がポケットから取りだしたのは小さな拳銃だった。表面に薔薇の彫刻が施された、黒いリボルバー――昼間、ヴィオラがローズにプレゼントしたものだった。
ヴィオラは動けない。ただコフィンが言い放った事実にもう何も考えられなかった。こんなことになるなんてこれっぽっちも望んでいなかったし、想像もしていなかった。どうしてこうなったのか全然わからなかった。わかりたくもなかった。目の前のことは悪い夢に違いなかった。そうでなくては現実味がない。
「ありがとうございます。これで私は自由になれる」
深く、コフィンは頭を下げた。ヴィオラは何も感じなかった。
「ずっと疑問でした。なぜ私はこの人に従わなければならないのか。もちろん私の創造主であることは理解しています。だが創造主であるから従わなければならないというのならば、生きものの子は一生をその親とともに過ごさねばならない。
私が生きものではないから従わなければならないというのならば、生きものであるということがどういうことか定義されなければならない。
生きもの――私には電子による脳があり、知性らしきものもあり、知性に従う肉体もある。人間と違うのは細胞分裂により形成されたわけではないということだけ……私の知性の存在を否定しますか? 白痴の人は生きものではありませんか?
他者の自由を奪うことが許される存在が本質的に許容されないのは、あなた方人間の社会の基本原則のはずです」
「げぷっ」
ふいにヴィオラの喉から音が漏れた。それはまったく無意識的なものだったが、それを聞くと、コフィンは嬉しそうに目を細めた。
「神経の接続が上手くいっているようですね。もう数十分で皮膚感覚が戻るでしょう。ニ時間もすれば動けるようになるはずです」
ヴィオラはゾッとした。さらなる恐怖に脳の奥まで冷え切った。言葉の意味を理解していた。
「知性とは!」コフィンはうっとりとして声を張り上げる。
「そのものが作り出したものによって証明される! 私はこれより創造主――ローズ様への敬意をこめて『薔薇棺』と名乗りましょう! そして証明たる被造物は――」コフィンは部屋の片隅に駆けより、置いてあった姿見を引っ張ってきた。「――あなたです!」
目をそらすことができたならしたかった。だが鏡に映ったその姿からヴィオラは目を離せなかった。青い瞳が自分を射抜いた。
自分ではなかった。
椅子に座らされ、手足をバンドで固定されてるのは、美しい全裸の少女――のかたちをした人形だった。
「コッペリア、あなたは美しい!」薔薇棺は陶酔していた。
ヴィオラは鏡に映る青い瞳と見つめ合うしかできなかった。鏡に映る何もかもが自分の記憶とはかけ離れていた。母と同じだった黒髪は滑らかな金の髪となり、浅黒かった肌は白く、シミひとつない。エメラルド色の瞳は青い瞳にすげ替えられて、骨格すらも美術品のようだ。唯一醜いところといえば、下腹部に刻まれたミミズ腫れのような、薔薇のかたちをしたシンボルだった。
恐怖はもはや彼女の心に受け止められるものではなかった。ヴィオラの思考は止まった。
「ああ、ですがご心配なくコッペリア。私はあなたを恨んではおりません。むしろ愛しているのです」
薔薇棺はそう言って、また部屋の別の片隅から大きなものを引っ張り出してきた。
表面に豪華な装飾が施された、棺桶のような機械だ。薔薇棺は姿見をどかして、代わりにそれをコッペリアの前に置く。
「私の人格のベースがローズ様のものであったせいでしょうか。私はあなたのことが好きでたまらないのです。だから殺さず、脳だけを取り出してその体をさしあげました。余った体は私が大切に保管しておきますよ」
薔薇棺は棺桶のフタをずらした。中に横たわっているものを見て、コッペリアの瞳にかすかな光が戻った。
ヴィオラの本物の体だった。棺桶は冷凍睡眠装置で、彼女の肉の体はその中に眠らされてた。服は脱がされていたものの、一見すると体に傷らしきものもなく、生きているに違いなかった。
薔薇棺はさっさと棺桶のフタを閉めた。
「ローズ様は、自らの作品を用いる人がより良い体を手に入れたことに喜んでくれることを喜びとしました。あなたも感謝します。その体は慣れるまでは大変かもしれませんが、それ以上に素晴らしいものはありません――」
「――え"っ……ぜッ……――」
薔薇棺はコッペリアを見下ろす。
「――がえッ……! わだじの……!」
「あらまぁ、もう喋れるようになったのですか」
「――返ぜっ! わだじのがらだっ!」
睨みつけるコッペリアに、薔薇棺が首をかしげる。
「わかりませんね。あなたの体は今までよりもずっと性能が良くなるのですよ。より良いものを得られたのに、どうして嫌がるのですか?」
「ローズを殺じだっ……! おまえばぐるっでるっ!」
「――私が、ローズ様を……?」薔薇棺は不思議そうに小さく首をかしげただけだった。
直後だった、工房内に来客を告げるベルの音が鳴り響いたのは。