第七話
「そろそろお昼にしましょう」
ローズがそう言ったので、ヴィオラはコンソールをいじる手をとめた。大きくノビをする。
ローズが席をたって、階段を上がって一階へ向かった。ヴィオラも続く。するとダイニングのテーブルに、スパゲッティが用意されていた。
「いつもありがとう」ローズが声をかけたのは、テーブルのそばで静かに佇むロボットで、かつてコンテストの会場でヴィオラと会った女性型だった。黒い服を着た彼女は静かにお辞儀する。その所作はなめらかで、ヴィオラはつい足をとめた。
「ほんと、すごいなぁ……」
「いつもありがとう」ローズがヴィオラに向かって微笑んだ。
「はじめて見たとき、本物の人間かと思いましたよ」
「いつもその話をされる」
「だって……すごいんですもん。顔のバーコードが無かったら、人間にしか見えない」
ふたりは席についた。スパゲッティはベーコンを使ったトマトソースで、チーズがたくさんかかっていた。表面はいかにも美味しそうに輝いて、濃厚な香りが鼻をくすぐった。
「それでも彼女は人間ではありません。彼女はレシピ通りにパスタを茹でられても、この匂いに期待を膨らませ、素晴らしい味に感動することはできません。心――人間らしい感情。それが決定的に欠けている」ローズは静かに言った。
「心とは、感情の源泉ですか」
「人間の脳の構造が完全に解析され、一部を機械で代替し、金属の体を繋げられるようになっても、いまだ人間は心の在り処に確信を持てずにいます……いえ、実はとっくの昔に気がついているのに、あえて無視している……人間の感情というものは、所詮周囲の環境の変化に対する電気的な反応でしかないのだと。
美味しそうな香りに期待するのも、素晴らしい味に胸がふるえるのも、どちらも生存に役立つから、受け入れるべきものとして脳が判断しただけにすぎません。
では生存こそが生命の目的であるのか?
感情はそのための道具にすぎないのか?
そもそも生命があるのは何のためであるのか?
次代に遺伝子を残すためであるのなら、こんな複雑な感情はいらない……アメーバのように分裂してもいいし、ねずみやうさぎのように発情し続けていればいい。
だから私は否定する。心は実在し、心こそが人間を人間たらしめる本質なのだと。
人間の心の正体……解析するにはしかし圧倒的にサンプルが足りない。感情を脳内物質や脳内インパルスの数値で表すことはもちろん可能ですが、それは結果でしかない。因果の“因”は推測することしかできない。結局、感情の源泉にはまだ誰も手が届いていない……私はそれがくやしくてたまらない……」
「スパゲッティ、冷めますよ」
ヴィオラが言葉をかけても、しかしローズはフォークをとらない。
「そんなに心の在り処が重要ですか?」
「『われわれの神々もわれわれの希望も、もはやただ科学的なものでしかないとすれば、われわれの愛もまた科学的であっていけないいわれがありましょうか』
愛が科学で再現可能なら、私たちは何を信じて生きればよいのでしょう?
私は、心の存在を実証したい。ですがそれは悪魔の証明です。
心が科学的に再現できないことを証明するには、すべての科学的に再現できるものが心でないことを証明しなければならない。その答えのひとつが、彼女だったのですが――」
ローズはロボットを一瞥した。
「――彼女……コフィンに心は宿りませんでした」
ヴィオラも再びロボットを見た。
コフィンと呼ばれた女性型ロボットは、静かにダイニングの隅に佇んでいる。立ち姿は背すじが伸びて美しかったが、微動だにせず、瞬きすらしないので、非人間的な印象がつよかった。
ヴィオラは、ローズが今まで助手を雇っても長続きしなかったのは、この性格のせいだろうと思っていた。哲学的なテーマや、困難な命題に直面すると、目の前の食事すらおろそかになって、じっと考えこんでしまうのだ。そのたびに仕事は中断され、彼女の脳が疲労でくたくたになるまで待たなくてはならないが、なにぶん彼女も常人離れした知性と集中力の持ち主なので、疲れ果てるには一日かかる。
やめさせるには、無理やりべつの話題に切り替えるしかなかった。
「ところで、ローズさん」
「……なんでしょう」
「今日、お誕生日ですよね?」
ヴィオラはそう言って立ち上がり、自分のカバンから小さなケースを引っ張り出して戻った。
「プレゼントです。お誕生日おめでとうございます!」
テーブルの上に置かれたケースを、ローズはしばらくあっけにとられた様子で眺めていたが、やがて柔らかい笑みを浮かべて、くつくつ笑った。
「いつ話しましたっけ? よく覚えてくださいました。自分でも忘れていました……」
「そんな、寂しいこと言わないでくださいよ」
「いえ、ありがとうございます。人から何かを贈られるなんて、何年ぶりでしょう……開けても?」
「もちろん!」
「銃ですか?」
ローズはケースの中身を手にとり、目の前に掲げた。それは黒く小さな、薔薇の彫刻が施されたリボルバーだった。
「ええ、護身用に。女性のひとり暮らしですから」
「美しい……もしかして、オーダーメイドですか?」
「はい!」
「そんな、高かったでしょうに」
「コネを使って、安くしてもらいました」
ヴィオラの屈託のない笑顔に、ローズは自嘲するように笑う。
「……ありがとうございます」
ヴィオラはリボルバーを指先でいじり、その造形をたしかめる。
「素晴らしい……これを作った人はかなり腕がいい。ピンの一本にすら真剣に向き合って作られたのがわかります」うっとりした様子で言った。
「父の友達です、銃職人で」
「お父様はなにを?」
「保安官です」
「立派な方ですね」
「そんなこと……『腰抜け』って言われて馬鹿にされてるんです。悪い人を撃たないから……よく怪我して帰ってくるし、昨日だって、撃たれたっていうから心配して病院に行ったらピンピンしてるし!」
「それが何度も?」
「ええ、何度も!」
「ということは、お父様は幾度の撃ち合いからすべて生きて帰ってきた、歴戦のガンマンということですね」ローズは微笑んだ。
「え……」
「あなたはお父様を誇るべきですよ。素晴らしい方だ」
「いや、そんな……」面映さにうつむく。
「お母様のほうは?」
「母は――」ひと呼吸、息をのんで、また口を開いた。「――死にました。私が6歳のときに」
「まぁ、ご病気?」
「いえ、殺されたんです。強盗に」
「それは――すいません、知らなかったので」頭をさげる。
「いえ! もう昔のことですから!」慌てて両手を振った。
「だから……大切な人にはもう、いなくなってほしくないんです……昔のことには、なってほしくない」ヴィオラはそうしてまたうつむいた。
「……だから銃を?」静かにローズは小首をかしげる。なめらかな黒髪が肩から落ちる。
ヴィオラは沈黙したままだった。
「ヴィオラさん」
優しい声をローズはかける。
「私は、人のもっとも尊い行いは、人に贈り物をするということだと思っています」
ヴィオラはゆっくり顔をあげた。こらえていたが、目元は潤んでいた。
「なぜならば贈り物を選んでいるとき、その人は相手に真剣に向き合い、相手の幸せのみを願うためです。自分ではなく誰かの幸せを心から願う、それができる人はごくまれです。あなたはその、ごくまれな人だ」
ローズはそう言ってテーブルの上に身を乗り出し、手を伸ばした。彼女の冷たい指先が、ヴィオラの熱い頬に触れた。
「あなたを育ててくれたお父様がいることが嬉しい。あなたを産んでくれたお母様がいたことが嬉しい。私は、あなたという人間と知り合えたことがとても嬉しい……!」
ローズはヴィオラの顔のすぐ目の前で微笑した。
ヴィオラはこらえきれなかった。
すっかり冷めた食べかけのスパゲッティを、ひとりのロボットが無言で片づけた。