初仕事
一時間目の授業は古典だった。子守唄よろしく、日本語じゃない日本語を朗読された日には即効夢の中へと落ちてしまうのが、いつもの千秋。しかし、今日ばかりはさすがに、楽しい夢を見ているわけにはいかなかった。
――スイに色々教えないとダメか~。
今も千秋の横で、突っ立ったまま黒板を眺めているスイ。この男はどれだけの間生きて、どれだけの間眠りについていたのか、千秋にはさっぱりわからないのだが(本人も分かっていないのだから、当然と言えばそれまでだが)、いかんせん、考え方が古いとか、そういうレベルを遙かに超えている。カタカナはもちろん、時々日本語でさえ通じないことがある。略語なんかもっての外だし、そもそも今の時代の習慣やルールといったものが分かってない。
――でも教えるのめんどくさいなあ。
図書室にでも放り込んでおいてやろうか。読書などは好きそうだから、千秋が教室で勉強している間、スイにも勉強しておいてもらえばいい。そうすればこの男は千秋の傍から離れるし、またわけのわからないことを突然言い出すことも避けられるしで、一石二鳥ではないか。
――しっかし……。
天水和比古神――アメノミナギヒコノカミという仰々しい名を持つ、通称スイに真名を教えてもらってから、早半日。未だ自分に変化はない。禍ツ物とやらに触れ、浄化し、その力をスイに与える、という役目を受けてしまったからには、
「勉学などに励んでいる場合ではない」
とかなんとか言って、スイに学校に行くことを許可してもらえないのかと思っていたが、彼は文句一つ言わなかった。なんだか気味が悪い。
チラリと横を見あげれば、整った横顔があって。
立ちっぱなしで疲れないのか、とか、そういやこいつは一体どこで寝てるんだ、とか、果てしなくどうでもいい疑問が沸いて降ってくる。
――大体歳はいくつよ?
見た目十七、八歳といったところか。しかし神様だからきっと何百歳とかのおじいちゃんなのだろう。だから考え方も古いのだ、と思うと、妙に納得できる自分がいるのを千秋は感じた。
「鈴木さん?」
「え?」
トントン、と肩を叩かれ、千秋はスイとは逆の横を見た。クラスメイトで、今現在千秋の左隣の席の高野純。先日、千秋の激しい貧乏揺すりを見て「いつもに増して怖いよ」と余計な発言をしたため、千秋に教科書で殴られた経緯を持つ、哀れな少年だ。
「何?」
別に千秋は高野が嫌いじゃない。むしろどちらかというと好きの部類に入る。一年の頃からの付き合いだし、今現在隣の席というのもあって、授業中に会話を交わすことも多い。
「当てられてるよ」
「え!?」
見れば、クラスの何人かが千秋の方をチラチラと見ていた。先生なんかこっちを凝視しているし、全く授業なんか聞いちゃいなかった千秋は、慌てて立ち上がる。
「私ですか?」
「そうよ。どうしたの?壁なんかじっと見て」
何度も呼んだのに、との質問に、ここに神様がいるんです、なんて答えられるはずもなく、千秋は曖昧に笑うしかなかった。それなりの優等生を演じている千秋。無論、生徒にはバレバレだが、ふりをしているだけの千秋は、別にバレようがバレなかろうがどうでもいい態度を普段からとっているので(というか千秋が優等生を演じるのは、単に教師と深く関わるのが面倒だからだ)、千秋を責める生徒もいない。実際は責める気力どころか、授業を聞く気さえない者がほとんどなのだから。
「まあいいわ。少し鈴木さんらしくないけれど。三十四ページを訳してくれる?」
いつものように、気だるい授業はやっぱり気だるいままだった。隣に人でないものがいても千秋は千秋のまんまで、学生であることには変わりなく。普段と同じような日々(眠気と戦う日々)を不意に覚悟し始めた千秋は、密かに溜息を吐くと教科書を手に取った。
「千秋」
神様が引っ付いて回っている以外はいつも通りの学校生活を送っていた千秋。あまりにもいつも通りだったため、ほとんどスイの存在などどうでもよくなっていた千秋は、その日の午後、昼休みの時間になって初めて、スイに呼ばれた。
「何?」
キョトン、とした顔で、一緒にいた美夏を含む、友人三人が千秋を一斉に見る。全員、先日の鍋パーティーに参加した者達だった。
「え?」
「何か言った千秋」
「……なんでもない。ちょっと……電話!」
ポケットから携帯を出して、千秋はさっさと教室を出る。電話とは、我ながらいいアイデアかもしれない。一人でしゃべっていても怪しまれない唯一の道具だ。
廊下に出て、手にあったそれを耳に当てる。
「何?」
「それは何?」
質問したいのはこっちだというのに、どうやらスイは千秋のすることなすことがいちいち気になるらしい。携帯電話を指さして、不思議そうに首をかしげる。
「帰ったら教えてあげるよ。こうしてたら変な眼で見られないから」
「ふうん……」
「それよりも何?出来る事なら友人達とのきちょーな青春の時間をぶち壊してほしくないんだけど」
「初仕事だ」
「……えっと」
仕事。つまりそれは――。
「禍ツ物?」
「ああ。この建物の中にいるよ」
「ええ!?」
廊下にいた何人かが千秋の方を振り返った。それとはなしに携帯電話を右耳から左耳へと当て変え、千秋は顔をしかめる。
「学校の中に?どこよ?」
「そこ」
スイは指さす。
「……なんですと?」
「そこ。さっきまで千秋がいたところ」
あまりのことに、千秋は言葉を失った。
スイの指さす先は間違いなく千秋の教室で。その中では依然として自分の友人やらクラスメイトやらが、楽しい昼休みを満喫しているわけで。
そんな台風やら地震やらを起こす(しかも悪い意味で)やつらが自分の教室にいる。身の毛のよだつ話だ。
「……どこにいんの?」
うしろのドアから教室を覗いてみる。
「千秋には見えない?」
「んー……」
目を細めて千秋は教室を見渡す。別段、いつもと変わった様子はない。
「なんもないけど」
スイから真名をもらえば、見えるようになるのではなかったのか。今のところ、それらしい影は全く視界に映らない。
「気配が薄いからね。大きなものではないから逆に見るのが難しいのかもしれない」
「禍ツ物とかに大きいとか小さいとかあんの?」
「あるよ。小さければあまり害はないけれど……一応ね。千秋」
スイは優しく言う。
「目で見ようとしないで、体で感じてごらん。あの禍ツ物はおそらく、普段からこの建物の中にいるものだ。もし千秋が慣れてしまっていたら見ることが出来ない可能性の方が高い。そうだな……目を閉じて」
「ん」
「目を閉じていても、キョウシツとやらの形は思い浮かべられるね?」
「うん」
「……違和感を感じる場所がない?」
千秋は頭の中に思い浮かべた教室を、万遍無く見つめた。
生活の大半を占める教室。勉学の場としてだけでなく、時に笑いを、時に悲しみを伴うこの狭い部屋は、やはり誰の心にも深く残るもので、千秋の場合もそうだった。慣れ親しんだ教室にある違和感。それに早急に気づくことは出来なかったが、こうして指摘され、眼で見えにくいものをいざ体で感じながら見てみると、それは明らかだった。
「後ろの、窓のところ」
瞼を閉じたまま、千秋は言う。
黒い影。うっすらと人型をとっているのが分かる。スイの言う、禍々しい、という気配までは分からなかったが、いいものでないことだけは理解出来た。
「そう。分かったら目を開けてごらん」
言われたとおりにすると、今度は確かに千秋の目でも分かった。クラスメイトが教室で楽しそうな会話をし、何人かはトランプで遊んだり、漫画を読んだりしている。その様子を、まるで見つめるかのように身動きしないでいる影。その姿を目にして、千秋は背筋がゾッとするのを感じた。
「あれが……」
――禍ツ物。
スイいわく、あれで小物だというのだから、大物になったら一体どうなるんだ、という恐ろしい想像を無理やり押しとどめ、生唾をゴクリと飲み込むと、千秋はスイをじっと見つめた。携帯電話の存在など、すっかり忘れていた。
「触れれば……いいんだよね?」
「ああ」
「……あいつ、何してんの」
触れる、という行為をすることに恐れを感じている千秋に、まるで逃げ道を探っているかのような素朴な疑問が、ふと浮かんだ。自分でもあの影に近づきたくないが為の、子供じみた時間稼ぎだと分かっていたが、スイは何も言わなかった。
「わたしと同じ、宿るものを探している」
その言葉に、千秋は思いっきり顔をしかめた。
「あんたと同じ?」
「そう。言っただろう?神は宿るものがなければ神ではない。やつらも同じだ。宿る……というよりとり憑く、と言った方が正しいかもしれない」
「とり憑くって、もしかして人に!?」
千秋の言葉に、スイは神妙に頷いた。
「場所や物の場合もあるが……大概は人だ」
真剣な眼差しで禍ツ物を見ていたスイをポカンとして見ていた千秋は、次の瞬間、スイから目を離し、キッと禍ツ物を睨みつけた。
――冗談じゃない!
こんなファンタジーな思いをするのは、自分だけで十分だ。それこそ、自分は「神様を助ける」という役柄に当たっているから(と千秋は思うことにしている)いいものの、悪いやつにとり憑かれる、なんていう可哀そうすぎる役柄を、自分のクラスメイトにやらせるなんて、いくらなんでも酷だ。千秋みたいな良い役でも、監禁され、おでこをしこたまぶつけ、ストーカーされてと最悪だったのに、これで禍ツ物にとり憑かれた人間は一体どうなるというのだ。
「浄化とやら、やってやろうじゃねーの」
突然の千秋の変化に、スイは驚いてまじまじと千秋を見つめた。闘志みなぎる目から、炎があがっているかのようなその様子。それだけでなく、唖然とするスイを放っておいて、千秋は恐れることなく影の方へ寄って行くではないか。
――なんという娘だ……。
彼女には、一応守りの呪をかけてある。スイが真名を与えた、それが呪になるのだ。千秋のおかげで神に戻れた時、スイは千秋の護り神となることが出来るし、千秋がそれを望めば、むしろスイは何よりも彼女の守護を優先しなければならない。千秋なしにスイが神になることはない。それが現実なのだ。
スイが神に戻れたとき、彼女にかけた守りの呪――正確には真名の呪――は、彼女によって継続されるか否かが決まる。千秋が「是」と言えばその呪はより強さを増し、スイは彼女を守護することになるが、千秋が「否」と言えば、呪はそこで切れる。「伴侶」とい関係も消え去り、スイと千秋の間には何の繋がりもなくなるのだ。神と人に戻る――つまり、当り前の関係に戻る。会話を交わすことも、会うことすらなくなるだろう。
――だが千秋には、「真名の呪」のことを伝えていない……。
彼女の性格からしてその呪のことを話せば、呪なんて気持ち悪いから止めろ、と騒ぐか、これで怖いものなしだ、とこれまた騒ぐかのどちらかしかない。だからスイはあえて千秋に守りの呪のことを言わなかった。前者の解釈をされれば千秋に危険が及ぶだろうし、後者の解釈をされれば、やはり千秋に危険が及ぶのだ。
スイの力はまだ絶対ではない。完全に禍ツ物の脅威から彼女を守りきれるわけではないのだ。
「千秋」
スイは千秋の名を呼んだ。がしかし彼女には聞こえていなかった。
「真名の呪」のことを話していない以上、千秋は危険を顧みず、恐怖を捨て去り、自分の意思であの禍ツ物を浄化しようとしているに違いない。何が彼女をそうさせているのか分らなかったが、スイが「とり憑く」と言ったのを期に変貌したあたり、彼女自身の為ではないだろう。
そう考えると、人としての千秋に不思議を感じずにはいられなかった。
――どこで会ったのだろうか。
眠りにつく以前のことをスイは覚えていない。暗闇と、ひたすら眠り続ける自分だけが、己の知る世界だった。もっとも、人間の世界だけは覚えている。あの頃はまだ豊秋津島に神々は数多くいた。それが今の世では随分と少なくなっている――否。人の世界への介入を拒絶している。それはここ数日、スイが感じる諸々の気配を読めば明らかだった。
禍ツ物に手を伸ばす千秋を、スイは黙って見守ることにした。大物ではないから怪我もしないだろうし、集中してやろうとしているのだ。わざわざ余計なことを言って、気を散らせたくない。
代わりに、くらすめいと、とやらに怪しまれないよう、千秋の周りだけに軽く結界を張ってやる。人の目に映りはするが、何も注目することなく素通りしてしまう、そんな結界だ。
彼女に初めて会った時の既視感。真剣な面持ちの千秋の横顔を見つめながら、スイは、あのときの衝撃にも近い感覚を思い出していた。
彼女だ、と思った瞬間、視線が反らせなかった。何の力もない、むしろスイのような類には疎いといってもいいくらいの、普通の娘なのに。それに、あの時感じたのは、「伴侶」だということとはまた別にある気がする。そもそもスイ自身、伴侶がどうして選ばれるのか、どうして必要なのかさえよく分っていない。ただ、数少ない自分が神であった頃の記憶らしきものがそう指示しているような気がするから、千秋に自らの真名を与え、神力を与えたのだ。
「……考えてみれば不用心だな」
千秋の腕が禍ツ物へと伸びる。その様子を見つめながらスイは呟いた。
真名を与える理由が既視感を感じたから、だなんて。そんな論も証拠もない理由で、人間に神力を与えてしまう自分が不思議だった。
スイの視線の先では、千秋が禍ツ物に触れているところだった。スイは特に注意することなくそれを眺めていた。が、人間が近くにいて、しかも明らかに触れようとしているというのに、禍ツ物は全く動かなかった。
――動かない、だと?
不意に嫌な予感がして、スイは千秋の方へと走り寄っていた。神の伴侶としての力を持つ人間に触れられ、浄化されて消えていくそれ。浄化を行っている当の本人は、困惑した様子でそれを見ていたが、次の瞬間、恐怖に顔を引きつらせた。
「千秋!」
スイが叫んだのと、彼女の周りの窓ガラスが砕け散ったのは、ほぼ同時だった。
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