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ブルーフルムーン

作者: さのっち

1

「いつもよりおっきいね、今日の満月!」


「ウンウン、そんでいつもより青いねえ、今日の満月」


 モンタとルナが大きな青い満月を見上げて楽しそうにはしゃいでいる。

二人が住むこの星の長い夜は一晩のうちに三日月から満月までいろんなカタチのお月さまを見させてくれる。

 

モンタはルナの肩を抱き寄せ、ずっとこうしていたいと思った。


 モンタは明日、宇宙船に乗りこみ、あの大きな青い月に向かって飛び立つのだ。


三人の飛行士仲間とともに。


再びこの星にもどって来られる保証はないけれど、今、二人はそのことには何も触れなかった。静かに流れる曲がりくねった小川のほとりに腰をおろして、あまりに美しい真っ青な天体をただ眺めていた。

 

銀色の魚が数匹、川の流れに逆らいながら揺らめいている。

昼間は黒褐色のこの魚は、夜になると月の光を受けて銀色に輝くのである。

水辺の植物たちもさまざまなかたちの葉や花をひろげて青い光を浴びている。

静寂の中を、密やかな時間が優しく流れていった。


光も闇も、水も生き物たちも、夜半よわの宴を無言のまま、二人のために催しているのだった。


 

月の端が欠けてきた。あの月が下弦の月となって、きれいな弧を描くころ、モンタは基地にもどらなければならない。

 

モンタたちの星はあの巨大な青い月の周りを公転していた。


自転と公転の、方向と周期が同じなのでモンタたちの国では毎晩、月を眺めることができたけど、この星の裏側の世界では月を見たこともない人々もたくさんいた。

そこでは美しい夜の情景は存在しなかった。

 



表側と裏側ではまったく違う発展の歴史をもっている。

 

表側の世界は月の光にいざなわれさまざまの文化が花開き、芸術家たちは青い月をテーマに美しい作品を生み出し、科学者は月の秘密を紐解こうとおびただしい研究成果を重ねていった。

 

一方、裏側の世界の興味の対象は太陽に限られていた。昼間になると容赦なく照りつける太陽のエネルギーは、裏側の世界に力強く輝かしい文明を築き、時として威圧的とも思える社会性が形成されていく。

科学の進歩に伴い、太陽のメカニズムが解明され核融合の原理までをも知ることとなった。


 


月はすっかり姿を消しかけている。

 

「ルナ、ぼくが帰還するころ君の誕生日だね。この場所で夜の誕生会をしようよ」

 

モンタは立ちあがって、ルナをやさしく見つめた。

 

「本当?やったあ!ムーンライトバースデイだ!」


 モンタを見上げるルナの緑色の瞳が嬉しそうに光った。

 

 

二人は基地まで長いみちのりを黙って歩いた。身長が倍ほども違う、ノッポのモンタと小さなルナだった。

 


入口ゲートで再会を約し合って別れた。


 

ルナは思った。万一のことがあっても彼はわたしの中に生き続ける。わたしが死んでもわたしはこの星とともに生き続ける。わたしたちは永遠にいっしょだ。

でもこんな、言葉にも表わせないような不安と恐れのあとで、生きて帰ってきた彼と会うときの喜びはどんなだろう。

想像もできないけれど、それは数週間後にやってくる。



彼は帰ってくる。必ず帰ってくる。



2

 街は荒廃し、人々の心はすさみきっていた。もう何十年も戦争が続いていた。平和というものがどんなものだったのか思い出せる人もいない。平和を求める気持ちすら失っていた。

 ルナ・フローラは窓際のベッドに横たわり、剥がれ落ちた天井とひび割れた壁に虚ろな視線を這わせながら最期の瞬間を悟っていた。彼方に響く爆音が今は懐かしくさえ感じられた。諦めも絶望も過ぎ去り、もう間もなくこの世界とともに滅んでゆく。

 世界の終わりのあと、この星はどうなってしまうのだろう。朦朧としながら、痩せ細った腕を力なく持ち上げ、ゆっくりとカーテンを開けた。窓の外の暗闇にときおり閃光が走る度、微かに呼び起こされる意識のなかで長い人生の思い出をたぐろうとしていた。この世界の見納めとなるであろう光景をぼんやりと見つめながら。


 戦乱の発端は裏側の世界の国々が、月の見える表側に進出してきたことだった。

 彼等の言い分はこうだった。表側を半分よこせ、かわりに裏側を半分与える。

 一見、平等な交換条件のように思えるが、長い間青く美しい月の光を享受してきた表側の人々にとって、耐えがたい要求だった。

 この要求に応じるべきか否か表側の議論は紛糾した。争いを好まぬ勢力と、血を流してでも文明と伝統を守り抜こうとする勢力とが対立し、いづれは世界はひとつになるという理想を持つ穏健派の一部が裏側の世界に密通し強硬派を切り崩しにかかる。

 これにより表側では内戦が勃発し、裏側世界に付け入られることとなった。強固な団結を誇る裏側の同盟軍と形だけの連帯を組む表側の連合軍とでは戦いにならなかった。連合軍は四分五裂しゲリラ戦に入る。手を焼いた同盟軍は核兵器を使用し始めた。これまで戦争などしたことのなかったこの星の人々は、最低限の自衛用の武器しか持ち合わせなかったが、戦いが長びくにつれて、より殺傷能力の高い攻撃用の兵器が次々と開発されていったのだ。

 憎悪が憎悪を呼び、連合軍強硬派はさらに強力な核兵器を製造する。核兵器は穏健派への弾圧にも使用され、表側世界はどこまでも続く廃墟の風景に覆われた。

 表側のほとんどの地域が同盟軍の支配下に落ち、自暴自棄になった強硬派はこの星全体を熱風で包み、すべてを灰塵と化す最終兵器の使用を決意したのだった。


 ルナ・フローラは途切れる意識の中で、自分がまだ少女だったころ、平和な日々のなかで起きた出来事、どんな戦争よりも、どんな兵器よりも恐ろしく残酷な出来事に思いを馳せた。

 最愛の恋人、モンタ・ローゼンの死。それは遺体を見せぬ一縷の希望を残した形ではあったが、誰の目にも、そして最も希望を捨ててはならないはずのルナにとってもモンタの死は確実なものであった。


 戦乱が始まる数年前、表側世界の宇宙研究の集大成としての有人月探査が計画され、四人の宇宙飛行士が青い月に旅立った。

 目的は月の大半を覆っている水の採取である。科学者たちは月の水に生命存在の可能性を探ろうとしたのだ。人々が愛着を込めて月と呼んでいるこの青い天体を、科学者たちはマスタリアス(主星)と名付けていた。自分たちが住んでいる星が月の周りを公転していることがその理由だった。

 探査船は一週間かけてマスタリアスに到着する予定だった。航海はきわめて順調に進んでいたが、三日目に思わぬアクシデントに見舞われた。

 突然、船内の照明が落ちて地上の基地との連絡が途絶えたのだ。

 予期せぬ事態に乗組員たちは面喰らった。だが電気系統の制御盤を調べる間もなく、今度は船体が激しく振動し始め、すべての計器類の針が狂ったように暴れだした。

 なす術のない乗組員たちが覚悟を決め始めたとき、すべてが元にもどった。

 このまま航海を続けるかどうか基地のスタッフたちは協議したが、乗組員たちの強い意向でミッションは続行された。

 一週間かかってマスタリアスの軌道に乗った探査船は水採取のための小型船を切り離す準備にかかった。

 そのとき四人の飛行士は、窓から見える「我が星」の美しさに息を飲んだ。

 暗黒の空間にちりばめられた星々を背景に、エメラルドグリーンの女神が悲しげに微笑みながら佇んでいた。滴るような深い緑を白い雲の渦がふたつ、三つ、優しく慈しむように撫でつけている。マスタリアスのおおらかに拡がる青に比べて、なんとひかえめな愛しさを湛えた緑だろうか。

 それは宇宙の涙であった。

 あれが俺たちの星なのか!四人は絶句して作業の手を休めなければならなかった。

 美しい緑の星からやってきた探査船が、今マスタリアスの水平線に機影を現そうとしていた。小型船に乗り込んだモンタ・ローゼンは眼前の青い海にルナの姿を重ね合わせた。「ルナ、ルナ。待っててよ。あの海の水を持って必ず君の許に帰るからね。」小型船が探査船から切り離され、逆噴射を繰り返しながらゆっくりと水面に向かって降下していった。水面に近づくにつれて強風が機体を激しく揺らしたが、手動操縦に切り替えたモンタは必死にバランスを保った。

 水面から30メートル、といっても10メートルはあろう高波が荒れ狂うなかでは実際の距離はわかりようはずもない。小型船前方の水採取装置の射出ハッチが開き、人ひとりぶんはあろうかという大きさの砲弾状の銀色のカプセルがガス圧で勢いよく押し出された。カプセルが海中に沈みこみ、じゅうぶんに水を取り込むまでの間、モンタは風と波との格闘を続けなければならなかった。

 カプセル内が満タンになったことを知らせる信号を確認すると、ワイヤーを巻き上げるウインチのスイッチを押し、逆噴射のフットレバーを踏み込んだモンタは束の間、緊張感から解放された。小型船は探査船からの指示に従って座標のずれを調整しつつ、カプセルを巻き上げながら次第に高度を上げていく。カプセルが船内に格納されれば機体を反転させて大気圏脱出のためのメインエンジンに点火する。そこからがまたひと仕事なのだが、その作業に入る前にゴン、という鈍い音と軽い衝撃が船内に走った。

 モンタは冷静さを保ちながら機体前方を確認した。カプセルがわずかに射出口のエッジに引っかかってあらぬ角度で静止している。

 とっさにウインチの作動を止めた。水の採取に失敗すれば元も子もない。ワイヤーを緩め、もう一度ウインチで巻き上げたがやはりカプセルはエッジに引っかかってしまう。重力と風の微妙な作用によるものなのだろうが想定外の事態だった。船体の角度をわずかに変えながら何度か試みたが結果は同じだった。モンタは探査船に状況を伝えて指示を仰いだ。

 探査船と小型船の間で短いやりとりがあった後、小型船はカプセルを格納しないまま船体を反転させ始めた。格納を断念し、カプセルをむき出しにしたまま探査船に戻ることにしたのである。ワイヤーさえ切れなければそれは可能であったが、大気圏脱出時の摩擦熱と振動に耐えうる保障はなかった。

 小型船の反転を終えたモンタはメインエンジンの点火ボタンを押し、出力レバーをいっぱいに引いた。「たのむ、このまま戻ってくれ!」激しい揺れと船外後方で火を噴くロケットエンジンの咆哮を一身に感じながらモンタは祈った。



3

 ルナがモンタの死を知らされたとき、世界が凍りつき、彼女の心は奇妙な抽象画のように思考のかたちを失なった。まるで置き去りにされた古い人形のように、ルナはしばらくの間呆然として動かなかった。叫び声も涙も忘れ去って、ただ宙をみつめていた。

 

 家族や友人に抱えられモンタの葬儀に参列したルナはモンタの最期の様子を聞かされた。

 水採取カプセルをなんとか探査船まで運び届けたモンタは、カプセルの回収作業のため、宇宙服を着て船外に出た。探査船からは二人の飛行士が出てきた。三人はお互いを命綱で繋ぎ三人のうちの一人が探査船と命綱で繋がれていた。射出ハッチを開けたまま大気圏を脱出した小型船はもう使い物にならなかった。ワイヤーを切断し物資搬入口からカプセルを回収し終えた三人が探査船内に入ろうとしたその時、無重力状態にもかかわらず、横倒し状態のカプセルがまるで意志を持っているかのように大きく回転し、モンタを弾き飛ばした。

 宇宙服のプラグから命綱がはずれ、モンタは船外に放り出された。それだけではなかった。宇宙服の一部が破損したらしく、破損個所からの空気噴射であっという間に探査船から遠ざかっていった。

 二人の飛行士はどうすることも出来なかった。モンタはマスタリアスの軌道に乗って永遠に漂い続けるか、マスタリアスの重力に引き寄せられて流星となって燃え尽きるか、いずれにせよモンタの死は確実であった。


 広い葬儀場の祭壇の中央に、水を抜き終わったカプセルが、遺体のかわりに安置されている。 

 出発前に刻まれた〈命満ちわたりて命にす〉の文字がはっきりとみてとれた。宇宙の生命探索の意義を込めてカプセルに記された文字であった。

 ルナはその文字を凝視し続けた。

 深い緑の瞳からあふれ出る涙は、かろうじて頬を伝わることはなかった。

 「モンタは必ず帰ってくる。たとえ死んでいたとしても必ずまた会える。わたしが死んでもわたしはこの星とともに生きる。いや、この星そのものになるのだ。そして彼が帰ってくるのを待つ。モンタ・ローゼンの帰還を。」

 愛はかたくなに悲哀を拒絶し、愛する者の死を自らの命の糧にしようとしていた。


 モンタの命とひきかえに手に入れたマスタリアスの水には生命の兆候も痕跡も見つからなかった。しかし、(月の水)を持ち帰ったことは科学上の大偉業にはちがいなく、裏側世界の羨望の念は抑えがたい。両世界の宇宙開発競争が始まり、大戦争への導火線となってしまったのである。


 数年後、ルナは社会のしきたりに従い、ある青年と結婚したが、すでに内戦が始まっており、各地を転々としなければならなかった。

 二人目の子供が産まれたとき、夫は召集され戦地に赴いた。連合軍と同盟軍の戦いが本格化し始めたのである。

 まもなく夫は戦死。その後、成長した二人の息子たちも志願兵として部隊に参加し、相次いで戦死した。

 家族の悲報が届くたびに、モンタのことが思い出された。いや、つねにルナのなかにはモンタがいるのだった。

 戦争はいつ果てることもなく続く。

 有史以来ただの一度も争うことのなかったこの星の人々は、ひとたび戦乱が起こればとどまるところを知らなかった。加減がわからなかった。戦争の終わらせ方を誰も知らなかった。殺し合いを諌める教義も、戦争に歯止めをかける律法も存在しなかったのである。


 

 ルナ・フローラが自らの来し方を手繰り終えたとき、背中に地響きを感じた。遠くからやって来るその地鳴りはこの世の終わりの合図であった。地響きは次第に大きさを増し、ルナの体を揺さぶり始めた。この星の断末魔が始まったのである。

 大地は喘ぎ苦しみ、天空が泣き叫ぼうとしていた。

 瞬間、それまで聞いたこともない大爆音とともに真昼の太陽よりも強烈な光が地を覆った。

 突然、ルナの目が大きく見開いた。両手を天井に突き上げて、か細くしゃがれた声で最後の力を振り絞って叫んだ。

 「モンタ!モンタ!いつまでも待ってるよ!あなたが帰って来るのを!必ず、必ずまた会おうね!モンタ!」

 熱風が鬼神の如く地平を走り、この星のすべての構造物をなぎ倒した。数千度の熱は地表を溶かし、海の水は瞬時に蒸発し、あまりにも強烈な爆発は大気までをも宇宙空間に吹き飛ばした。

 美しかった緑の星は、一瞬にして岩石のかたまりと化した。



4

 「ママー!こっちこっち!あそこだよ!」

 「リョウタ、そんなに走っちゃ危ないわよっ」

 史上最大の国際博覧会の会場は世界中からやって来た見物人でごった返していた。

 リョウタは母親のハルナにたしなめられても、そんなことはおかまいなしにお目当ての展示館パビリオンに向かって駆けてゆく。入場の順番待ちは長蛇の列で、走って行ってもどうせすぐには入れはしないのだが、宇宙が大好きな科学少年ははやる気持ちを抑えきれない。なにしろあのパビリオンには(月の石)が展示してあるのだから。

 人類初の月面着陸隊の「お土産」は地球の人々のロマンをかき立て、一大宇宙ブームを引き起こした。国際博覧会が開催された前年、人類の科学技術力の威信をかけて、三人の宇宙飛行士を乗せた月探査船が巨大なロケットによって打ち上げられたのだ。これまでに月の周回軌道上を周って地球に戻ってくる計画は実行されていたが、月面に人が立つのは初めてのことだった。

 

 四十億年前、地球の海は強い酸性を帯びていて生命いのち欠片かけらも存在しなかった。巨大隕石が雨のように降り注ぐ時代は終わっていたが、まだ小規模な隕石の衝突が断続的に繰り返されていた。

 そのなかに混じって、大気中で燃え尽きてしまいそうなぐらい小さな取るに足らない物体が海に向かって落下していった。特殊繊維や金属膜で幾重にもおおわれた人形ひとがたの落下物は頭を下にしながら、やがて炎につつまれて消えていくかに見えたが、わずかに残った肉体の一部が海に到達した。肉片は強い酸によって分解されたが、最小単位の有機物は果てしない海へ拡散していった。

 

 数億年の時が流れた。強い酸性を帯びていた海水は岩石から溶けだしたカルシウムやナトリウムによって中和され、優しくやわらかな母胎となって奇跡が起きるのをじっと静かに待っていた。

 広大な海を漂うごく微量の有機物は、互いに出会うことなど永遠にありはしないかもしれない。それでも数万年に一度、遭遇のチャンスが訪れそうになる。そしてお互いに気づくことなくすぐ側を通り過ぎてゆく。

 そのようなことが幾万回も繰り返された。仮に邂逅かいこうしても、何の反応も示さず離れてゆくかもしれない。複数の有機物が巡り会い、有機体を組成することなど見果てぬ夢に違いない。

 だが奇跡は起きる。数種類の有機物が、薄暗い海の中で再会し、反応し、有機化合物が形成され、気の遠くなるような時間の経過の中で生まれたいくつかの化合物が、幾度も幾度もすれ違い、出会っては離れ、それを繰り返すうちに互いに結び合おうとする生命のベクトルが備わったかのように、それぞれが引き寄せられ、また離れ、そしてまた引き寄せられ、遂には寄り添うように近づき合い、戯れるように反応を始めた。

 それは静かに、ひそやかに始まる美しい音楽であった。


 やがて原始生命体は、海中の無機物を取り込みながら増殖していく。何億年かを費やし海は生命で満たされ、さらに数億年かけて生命は様々な形態に分化し、劇的な進化を遂げる。

 生き物たちの饗宴が海の中で繰り広げられる間、光合成という魔法を手に入れた者たちが酸素を大量生産し、海中から大気へと放出された酸素によって創られた守護神オゾンは、層をなして太陽からの強力な紫外線を退け、生ある者たちが地上へと踊り出るべく地ならしを始めた。


 命は海を脱ぎ捨てて、陸へと果敢な冒険を開始する。

 最初は植物が、続いて昆虫類が、そして肺を持った魚類が過酷な環境の変化に挑戦していった。

 上陸作戦に成功した生命は陸と海と空を制し、力強く乱舞しながらさらに進化の足取りを速めていく。


 そして、絶滅と進化の壮大な物語ドラマは、異常に高い知能を持った二足歩行の哺乳類の出現で頂点クライマックスを迎える。

 地球上で最初の人類は、自由になった両手で道具を持ち、火をおこし、走り、叫び、獲物を奪い合い、愛し合い、死者を葬い、祈り、怒り、怖れ、縦横無尽に大地を駆けた。そしてときおり、深い憂いを湛えた目で、夜空にかかる月を見つめるのだった。

 彼は満月にむかって悲哀に満ちた声を、懐かしむように、乞い願うように、高く低く、長く短く発した。

 大きなあざのような影がある黄色い月は、いつも同じ面を地球に向けて、その声にじっと耳を傾けているかのようだった。

 ある日彼は、月にむかって泣き叫ぶように吠え、手に持った棒きれを力いっぱい空に投げ上げた。

 棒きれは地面に落ちてくることはなかった。人類の頭脳はおそろしいスピードで発達し、空へ空へと上昇した棒きれは、成層圏に到達する頃、三人の宇宙飛行士を乗せた月探査ロケットに「進化」していたのだ。



 ロケットが地球軌道上を一周半した後、探査船は推進ロケットを切り離し月へと進路を取った。月まで三日半の道程である。

 順調な航海だった。地上の基地とのやりとりもスムーズだ。なにせ、これまでの幾多の有人飛行の実績と、このプロジェクトにおける数千回ものシミュレーションの裏付けがある。不測の事態に陥っても考え得る限りの対処法とバックアップが準備されており、あらゆるトラブルもハプニングも想定内であった。

 だが地球を発って二日目、クルー達は信じられないものを見てしまう。

 奇妙な形をした、まるでギリシャ神殿の石柱を束ねたような姿の宇宙船とすれ違ったのである。

 赤茶けて鈍く光るその船は、探査船から1キロメートルほどの距離をゆっくりと通り過ぎていった。向かう方向はあきらかに地球である。

 すぐに地上の管制基地と連絡をとる。しかし、地球からはそのような物体は確認されないとの返答だった。しばらくして、探査船からもその宇宙船はまったく認知することが出来なくなった。

 このエピソードは飛行士たちが地球に帰還した後、「なかったこと」にされた。


 地球を離れること三日と半日、月に到達した探査船は、月の周回軌道上を十三周した後、司令船と月面着陸船とに分離し、飛行士一人を司令船に残して二人の飛行士が着陸船に乗り込み、月面に降下を始めた。そしてこれまでの調査計画で、着陸に最も適していると確認された「静寂の海」と名付けられた平地に、着陸船の足を着けた。

 二人の宇宙飛行士は、動きづらい宇宙服を着て、月面に降り立つ初めての人類としての栄誉と興奮に上昇する心拍数を深呼吸で抑えながら、着陸船から下ろされた梯子を降りていった。

 月面に立ったとき、二人は意外な感慨に襲われた。


 (俺たちは何のためにここに来たのだろう。ここにいることが一体何になるのだろうか。これまでの宇宙飛行士としての過酷な訓練は何だったのだろう。)

 全世界の期待を一身に受けてひたぶるに頭脳と肉体と精神のトレーニングを続けた日々が虚しく感じられた。

 どこまでも荒漠とした砂と石ころの風景は、その思いをいっそう強めるのだった。命の欠片かけらもないこの世界に来るためになんと膨大な時間と労力を費やしたことか。

 遥か彼方に山脈が見える。この平野は巨大なクレーターであった。あれは山脈ではなく、クレーターの縁なのだ。そのすぐ上に青く美しい地球が姿を見せている。

 青く美しい地球。そこでは人びとが待っている。自分たちの帰還を。無事に生きて帰ることを信じて。


 そのとき二人はある声を聴いた。


「おかえりなさい」


 それは耳からでなく身体中の細胞が感じる声だった。

 二人は顔を見合わせた。二人とも同じ声を聴いたことがお互いの表情でわかった。

 もう一度声がした。


「おかえりなさい」


 あきらかに地球の言語ではなかったが、彼らには意味がわかった。

 

 宇宙飛行士たちは(月の石)を地球へ持ち帰った。



 パビリオンの入り口へ続く行列は(月の石)が展示してあるフロアまで身じろぎもしないかのように緩慢に進んで行く。リョウタとハルナが石を目のあたりにするまでに四時間を要した。

 だけど、リョウタにとってそれはけっして退屈な時間ではなかった。期待に膨らむ胸に両手をあてて落ち着かせながら、月や太陽や星座やロケットのことなどをハルナに語って聞かせるのだった。

 ようやく石が入れられたガラスケースの前にたどり着いたリョウタは、頬を紅潮させて(月の石)に見入った。

 なんの変哲もない灰色の石ではあったが、これこそが人類の叡智の証しなのであった。

「ねえママ、月の石・・」

 リョウタが振り返ってハルナを見上げた。

 照明の加減か、ハルナの瞳はいくぶん緑がかって見えた。



 了









 

 

 




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