カイルの失態と聖剣の鞘の力
レイチェルを気遣うように、優しく諭していくカイルにレイチェルは涙が浮かんできた。そうだ、自分が好きになった人はこういう人だった。そのことで自分が辛い思いをしても、自分自身を強く自制することになろうとも、相手を気遣い相手を優先してくれる。
そしてまた、相手が変わったとしても、自らの思いを曲げることのない人だったのだ。カイルは涙を流し始めたレイチェルに焦りを見せる。泣かせるつもりなんてなかったのに、そのために順を追って説明したというのに。
「ごめん、レイチェル。本当に悪い、レイチェルも辛いと思うけど、その、我慢してくれるか? これから先、色々不安にさせることがあるかもしれないし、どうしても避けられない事態でレイチェルを悲しませるようなことがあるかもしれない。でも、俺の心はレイチェルのものだ。レイチェルが俺を思い続けてくれる限り、俺の心はレイチェルに預けておく。俺を見限るようなことがあれば、捨てて構わない。でも、俺はレイチェルの幸せを願ってる、願い続ける。俺以外がレイチェルを幸せにできるって言うなら、それをレイチェルが望むなら、せめて隣でそれを見届けさせてくれ」
「か、カイルっ! カイル、わたしは……わたしもだ。その日がくるまで、わたしの心はカイルに預けておく。カイルの心に別の人が入ってきても、わたしは隣でカイルの幸せを願う。カイル……ありがとう。わたしのことを、ここまで考えてくれて、ありがとう」
レイチェルは堪らなくなり、飛び込むようにしてカイルの胸に顔を寄せて抱き着く。汗で服は湿っているし、女とは違う汗のにおいを感じたが、それすらもすべて愛おしい。カイルの全てが、レイチェルにとっては宝物のように思えた。
レイチェルよりも年下なのに、レイチェルよりもずっと大人の考え方ができるカイル。大人にもできないかもしれない、包容力と寛容さを持つカイル。好きで好きでたまらない。誰にも渡したくなどない。カイルが預けてくれるというなら、レイチェルは全身全霊を持ってその心を守り通そう。いつかお互いの心だけではなく全てを交わせるその日まで、胸の内で大事に守り続けていこうと。
力強い胸の鼓動を感じていると、レイチェルは額に熱い吐息を感じた。ふと顔を上げてみると、整ったカイルの顔が間近にあり、切なげに細められた目にからめとられ動けなくなってしまった。そのまま、視界に収まらなくなるほど近づいてくると、レイチェルは唇に柔らかくも温かい感触を感じた。
驚いて目を見開き、同じように開いた口からレイチェルよりも体温の高い何かが入ってくる。レイチェルの舌をからめとり、歯の裏側や口内をなぞるそれがカイルの舌であることに気付いた瞬間、レイチェルの頭は沸騰したように熱くなり、思わずカイルの体を突き飛ばしてしまう。
いまだに負担の消えていないカイルは、そのままベッドの上に逆戻りしてしまう。突き飛ばされた拍子に痛んだ胸のこともあるが、それ以上に情けなさを感じて胸を押さえ、もう片方の腕で顔を隠す。
「……あー、情けねぇな、俺。あんだけ格好つけといて、我慢できないとか……悪い、レイチェル」
レイチェルはとっさに突き飛ばしたものの、すぐにカイルの体調を思い出し青くなる。いくら軽減したとはいえ、思い切り突き飛ばして反動がないわけがない。今も胸を押さえている手は服を握りしめているし、顔を隠している腕も震えている。考えなくても強い痛みと苦しみを感じているのだろう。それなのに、レイチェルのことを気遣ってくれている。
「わ、わたしこそ。言われていたのにな……先に手を出してしまったのはわたしだ。そ、それに、突き飛ばしたりして、大丈夫だったか?」
「大丈夫だ、こんくらい。戒めだと思っとく」
実のところ剣で刺されたくらい痛いし、まともに呼吸ができないくらい苦しいのだが自業自得だ。胸の中で泣くレイチェルが可愛くて、愛おしくてつい手が出てしまった。これでは、この先レイチェルも不安だろうと思う。いっそクロかシェイドにでも頼んでヤバそうな時には止めてもらうようにしようか。
「珍しいカイルの失態。でも、カイルも男の子」
「あれは無理だよなぁ、さすがに」
「レイチェル、可愛かったですわ」
二人のやり取りをハラハラドキドキしながらも見守っていたハンナとアミルとトーマは、珍しく暴走したカイルをほほえましく見ながらも納得のうなずきを繰り返す。あそこで手を出さなければ男じゃないと思っているようだ。
「う、む。あ、兄としては二人を応援しよう」
「…………舌入れてたぞ? お、俺には無理だな……」
キリルはどこか気まずげな感じで腕を組み、ダリルはそっぽを向いたまま先ほど見た衝撃の光景を思い出していた。歳は下でも、カイルの方が経験値が高いことに何気にショックを受けていた。
「し、舌…………あ、わわわ」
「どうだった? ファーストでディープなキスは」
「腰が……抜けるかと思った。気持ちよすぎて……今も体に力が入らない」
今更ながら先ほどの体験を思い出してアワアワするレイチェルにハンナが切り込む。レイチェルは思わずといった調子で答えてしまい、また真っ赤になった。未経験どころか、知識でさえ浅いこちらの方面では、到底カイルに及ばないと実感させられた。
「……地味に心をえぐるなよ……。にしても、ファーストね」
「誓いの証だと思えばいいですわ。レイチェルはこちらでは全くの初心ですので、全てファーストですわ」
「そういった面でも悪いな。俺がもらってよかったのか? 俺は知っての通りあげられないぞ?」
「い、いや、その……もらってくれ。わ、わたしはカイルが初めてでよかったと思う。カイルがそうでなくても、わたしとカイルの間ではこれが初めてだから……」
「……くそっ、そういうこと、二人だけの時には言うなよ? できる限り対策はしとくし、自制心も鍛えとくけど……下手すりゃ襲うぞ?」
「おそっ……わ、分かった。気を付けよう。…………わたしが襲いたくなったらどうすればいいんだ?」
レイチェルが小声でぼそりと言った言葉は、すぐ近くにいたハンナにしか聞こえなかった。ハンナはニヤニヤしてそれを聞いている。お互い、たまらなくなるくらい可愛い面があるところはよく似ている。どっちが先に我慢の限界が来るだろうか。などと、考えてしまう。カイルの方が経験は豊富だが、レイチェルの方が手は早い。これからの二人の行く末に、興味が尽きないでいた。
あれから痛みの治まったカイルは、汗を流すために浴場へ行きさっぱりして帰ってきた。レイチェルも落ち着いたようだが、チラチラとこちらを見ているのが分かる。お互いキリのいいところまで我慢しようと言ったが、果たしてそこまで持つだろうか。いまいち自信が持てない。
「レイチェル……そこまで意識されると、さすがに、な。普段通りとまではいかないけど、普通に接してくれないか?」
「そ、そ、そうだな。……もうすぐ夕食の時間だ。食べられそうか?」
「あー、たぶん。あんま、食欲はないけど、食べないと持ちそうにないから食べられるだけは食べとく」
「そうですわね。聖剣の力が何から生み出されるか分かりませんが、食べないと持ちませんわね」
「厄介だよな、これも。そこらで練習するってわけにもいかないだろうし。でも、使わないと使いこなせないし」
「それだが、もしかすると剣を顕現させなくても、剣の力を使うことは可能かもしれない」
「剣の力を?」
「そうだ。今も剣を出していなくても、模造品を作り出している。それは剣の力の一部だろう? 同じようにして、剣は今まで通りの剣を使って、力だけを修練するということが可能なら。もし見られたとしても魔法だとごまかせる可能性があると思ってな」
「……もしかして、俺が寝てる間にそういう話もしてたのか?」
「そうだぜ。それに、俺らもステップアップしようってことになってな。カイルには何度か言われてたけど、今まではみんな、ついついカイルにつきっきりだったからなぁ。カイル、レナードさんに剣を教わる気あるか?」
「団長に? レイチェルにも教えた人だろ。もちろん、出来るなら教わりたいと思うけど……ああ、なるほど。俺が別の人に教わったり、勉強してる間にってことか?」
カイルはおおよそどんな話になったのか見当がついた。確かにレナードであれば、レイチェル達に学ぶよりも多くを学べるだろう。また、そうして空いた時間をレイチェル達の自己研鑽の時間に充てることもできる。
今までにもそうした提案をしたことはあったが、今はなるべくカイルの実力をつける方が優先と聞き入れてはもらえなかった。だが、カイルが聖剣に選ばれ、いずれは剣聖としてレイチェル達の目測よりも早く世に出なければならないことが確定してしまったため、それについて行けるようにレイチェル達も早急に上に登る必要性を感じたのだろう。このままでは、その時に隣にいることができないかもしれないと。実力があっても立場が許さないかもしれないと。
「俺達も先を目指す。だから、カイルも自分を磨け。そのためなら国王様も力を貸してくださるだろう」
キリルの言葉にカイルは力強くうなずいた。今はまだレイチェル達に並ぶことはできていないけれど、いつかは追い越すくらいのつもりで学び続けよう。聖剣の力だって、いつか使いこなして見せる。あの気に食わない聖剣とも、まあ付き合っていかなければならないのだろう。死が聖剣と剣聖を分かつなら、クロと同じく聖剣とも長い長い付き合いになるのだから。
シェイドは、というと、カイルが呼びかけたり力を貸してほしい時にはすぐに応じてくれるのだが、基本的には闇を通じてあちこちに飛び回っている。今まで霊力不足が原因で思うように人界を見て回れなかったが、カイルという無尽蔵にも近い霊力の源を得たことで、水を得た魚のように生き生きと活動していた。
ちなみに、元々シェイドの力の源であった闇の玉は、知らないうちに授けられていた精霊王の宝玉と共にカイルの中にある。宝玉の周りを闇の玉が旋回しているような感じだ。こうすることで、もう二度とシェイドが裏社会にいいように使われることもないのだと言われれば受け入れるしかない。
意識してみると、カイルは自らの体の中にいくつもの種類の違う力の流れを感じ取れる。最も身近だった魔力はパスを通じてクロとつながっている。魂から生み出され、心を反映する霊力はその中心に宝玉と闇の玉を抱き、カイルを包んでいる。そしてもう一つ、新たに生み出された聖剣の力の源。熱いような冷たいようなそれは、細胞の一つ一つにまで行きわたっている。相反しながらもらせんを描くように絡み合う二つの力が、体の奥に渦巻いている。これが剣と鞘の力なのだろうか。
鞘には癒しと守護の力があるという。癒しはカイルにとっても身近な感覚だ。回復魔法を使うようにその力を使うことも可能なのだろうか。それを使えば、カイルをむしばむ聖剣の負担を消せるのか、あるいは力を使ったことでさらにひどくなるのか。
少し試してみたくなったカイルは、ダリルが言っていたように聖剣を出さないままで力のみを引き出せないか、ベッドに腰かけて目を閉じたまま集中する。熱い力は剣だろう。荒々しくも力強い波動を感じる。冷たい力が鞘か。静寂にして揺るぎない波動を感じる。冷たい力をまとめ上げ、意思を乗せて回復魔法を使うように体に作用させてみる。
「ふっ、は、あぁ、何とか……なるもんだな」
使った瞬間には胸の奥のつっかえが余計に苦しくなったが、すぐにスポンと抜けるようにしてなくなり、深く息を吸っても胸が痛むこともない。体と頭の奥に残っていたしびれのような倦怠感がすうっと引いていくのを感じた。
視線を感じて顔を上げると、驚いた様な顔でレイチェル達が見ていた。
「カイル? 何を、したんだ? 急に、底冷えのするような寒さを感じたと思えば、その、カイルの方から冷涼な風が吹いてきて、いきなり絶好調になったんだが……」
一日室内で過ごしたことによる疲れや、離宮にいるという気疲れに近いものも一瞬にして消えてしまった。それは他の者達も同じだったようで、ダリルはすぐにその原因に気付く。
「もしかして、聖剣の……鞘の力か?」
「あ、ああ。そうみたいだな。やっぱ制御が必要だな。漏れてたか……」
「大丈夫? 負担は?」
「あー、その辺も確かめるつもりで、試してみたんだ。癒しの力を使った時、負担が軽くなるのかそれとも逆か。それによっては力の使い方ってものを考えないといけないだろ? で、今のところは、その、負担による症状が消えてる。かといって力を使ってるわけだから、その反動はどうなのかっていうところまではまだ分かんないな」
カイルは胸をさすりながら、この日聖剣と融合してからずっとあった負担の消失を告げる。みんな目を見開いていたが、カイルの復調に嬉しそうにする。
「癒しと守護……か。もしかすると、鞘は剣の力を使うことによる負担を軽減、あるいは相殺できるのかもしれない。苦痛を癒し、反動を防ぐ。そして、先ほどカイルがやったように、その余波だけで他者も癒せる。使いこなせば、より多くの人を癒すこともできるだろう」
その道を選ばなくても、キリルはドワーフの血を引く。そのため、武器の性能や能力に関しては詳しい。聖剣が強大な力を持っており、またその源が持ち主によるのであれば、その持ち主を援助し守るための措置も必要だろう。大きな力ほど、またそれを支えるために土台も強力でなければならないのだから。
今までの持ち主達は鞘の力をあまり使えなかったため、負担を軽減することができなかったのだろう。だが、鞘の力も聖剣の能力である以上は使いすぎれば反動はあると思われる。このあたりは調整と見極めが必要になってきそうだ。
カイルは軽く体を動かしてみる。今のところは本当に相殺という感じで、剣による負担も鞘による負担も感じられない。この分では明日からも普通に動くことができそうだ。ただ予定は変わらない。知識も学ばなければならないと感じた以上、勉強はするつもりだ。
カイルの復調を感じたのかクロがするりと影から出てくる。影の中にいた方が魔力的にもカイルの負担が軽減するため、カイルの体調が悪い時などはなるべく影の中にいるようにしていたのだ。特に今回はクロが負担を分担できなかったため余計に。
『ふむ。本当に負担が消えているようだな。まだまだ制御を鍛える必要はあろうが、これなら生活に支障はあるまい』
「だな。発動がうまくいけば維持はある程度聖剣の方でもやってくれるようだし」
なんだかんだ言っても、持ち主を助けてくれるのが聖剣というものなのだろう。あるいはそう作られているためか。魔法のように常に制御をどこかで意識しなければならないということもなさそうだ。
「クロがそういうならひとまず安心だな」
「俺の言葉信用してなかったのか?」
「していないわけじゃないが、カイルは無理をするからな。平気な顔をして耐えているということもあるだろう?」
「そりゃ、まぁ、否定できないか……」
我慢できる程度のことであれば一々顔に出したりしない。弱みを見せれば付け込まれる裏通りで生きてきたために、カイルにはそうした癖が付いていた。最近は慣れて魔力切れくらいなら、気付かれないようになっていたため余計にそう思われているのだろう。
そうしたところへ、ノックがあり一人のメイドが入ってくる。どうやら夕食の支度ができたらしい。案内されるままたどり着いた会食室で、思わぬ出会いがあるとは誰も思わなかった。




