耐える覚悟と支える力
「ほんと、ふざけてるよな。こんなこと、許してはおけない。だからレイチェル、今は耐えろよ。今ぶつかっても、声高に叫んでも、こっちが潰れるだけだ」
「しかしっ!!」
穏やかにも聞こえる声でレイチェルをなだめるカイルに、レイチェルは咬みつくように反論しようとした。だが、カイルの表情を見て言葉を飲み込む。そこには、見たことがないほど憤怒を宿し、それでも目は凍えるほどに冷静さを保っているカイルがいた。
「何度も言うようだけどな、レイチェル、それにみんなも。これが、俺達の現実だ。俺はこれをどうにかしたくて足掻き続けてきた。親方達やレイチェル達に出会わなくても、一生一人ででも抵抗し続けるつもりでいた。でも、親方達に出会えて夢ができた。レイチェル達に出会えて希望が見えた。だから、今でも俺に力を貸してくれるつもりがあるなら、耐えてくれ。今の俺には、俺達にはこの現実を押し返しひっくり返すだけの力がない。味方が……足りないんだ」
かつてカイルに助力を誓った者達は、各々が自らの無力を感じ、うつむく。考えていた以上に重い現実を知って。これから先立ち向かわなければならない敵を、ひっくり返さなければならない常識の手強さを感じて。
「そのために必要な力を蓄えて味方をそろえるまでは、耐えるしかない。潰されそうになっても、一人じゃないならきっと耐えられる。俺は、みんなが仲間や友達になってくれて、同じもの背負ってくれるって言ってくれた時死ぬほど嬉しかった。もう、一人で耐え続ける必要はないんだって分かって泣きそうになった。十年以上、独りになってからも七年以上、俺は一人で戦い続けてきた。一緒に戦ってくれる仲間ができて、心強いしもっと頑張れるって思えた」
あまりにもそれが当たり前になりすぎて、常識になってしまっていて、誰もがそれを疑わない。孤児や流れ者を虐げることにも、踏みにじることにも、死に対してさえ無関心であることにも。不思議に思うことも、直そうと考えることもしない。
目に映らず、耳に届かず、心に響かない。そんな存在である者達を、人に戻そうというのがカイルの夢であり、希望だ。ちゃんと目に入れば、声が聞こえれば、心が伝われば、きっと気付く、変えていけると信じて。
「必要な力や味方を付けて、万全を期して戦いを挑んでも無傷じゃいられない。誰かが、死ぬかもしれない。俺が……死ぬことだってあるかもしれない。それは……覚悟してる。戦うと決めた時から、覚悟も決めた。でも、ここでレイチェルを……仲間を失いたくはない。そんな覚悟なんて俺にはない、できない。ここで仲間を失ったりしたら……俺はきっと耐えられない。今まで耐えて積み上げてきたもの全部、無駄になる」
来るべき日のために耐えて耐えて積み上げてきたもの。これから先仲間と共にさらに積み上げていくだろうもの。だが、その日が来る前に仲間を失ってしまえば、きっと積み上げてきたものも崩れ落ちてしまう。耐えられずに、つぶされてしまう。
「な、なぜだ? カイルは、今までずっと一人ででも……耐えて……」
カイルはこの重責に長年一人で耐えてきた。それなのに、仲間とはいえ最近出会ったばかりのレイチェル達を失うだけで、なぜそれができなくなるのか。
「一人だったからだ。一人だったから、俺はズタボロになっても耐えられた。俺が耐えなきゃ、俺がやらなきゃならないって自分を追い込めた。この現実がおかしいって気付いて、常識を覆すために行動を起こして、少しでも変えることができたのは俺だけだったから。だから、俺がやらなきゃって」
気づけない者が大半で、気づいても行動できない者がほとんどで、行動を起こせても変えられるのは一握りで。そんな一握りだったカイルは、自分がやらなければならないと、自分自身を追い込んだ。そうすることでしか耐えられなかった。それがカイルを支える最後の柱となって重圧に耐え続けることができたのだ。
「でも、一人じゃないことを知って、共に戦ってくれる仲間ができて、一緒に耐えてくれるその手に触れたら、もう、無理だ。その嬉しさや心強さや温もりを、一度でも感じてしまったら、もう一人には戻れない。信じてしまう、頼ってしまう、託してしまう。俺一人のものじゃなくなった責任や義務に一人じゃ耐え切れなくなる」
知らずにいれば、感じることがなければできたことでも、それを知ればできなくなる。感じてしまえば戻れなくなる。人との絆や温もりとはそういうものだ。大きな力をもたらすが、同時にどうしようもなく人を弱くもする。
「短い付き合いだけどレイチェル達の性格は知っているつもりだ。だから、こんなこと頼むのは、俺の我儘かもしれない。信念や誇りを傷つけることになるかもしれない。それでも、俺は、ここで誰も失いたくない。頼むから…………もう、俺を、一人にしないでくれ。俺はもう、一人で生きていくことなんてできない。独りでは……生きられない…………」
前半はレイチェル達一人一人に視線を向けていたカイルだが、後半になると気まずさに顔を伏せて視線を逸らす。彼らが積み上げてきただろう信念や自らを形作る誇り、それらをカイルの我儘で傷つけ曲げさせることを彼らはどう思うだろうか。
あまりにも子供っぽい理由に呆れるだろうか、自分勝手な言い分に軽蔑するだろうか。押しつけがましい要求に見限られてしまうだろうか。戦々恐々と彼らの返答を待つカイルは、目の前に誰かが立つ気配を感じて顔を上げる。その瞬間、ふわりと柔らかな香りが鼻腔をくすぐる。この香りは知っている。けれど、カイルにこういうことをするには一番遠いと思っていた人物だ。
「レイ……チェル?」
「すまない、カイル。何度も君を馬鹿と呼んだが、わたしの方がよほど馬鹿だった。自分が背負っているものの中味も、その重みも知らず、自らの言動がもたらす影響に無頓着で無責任で、未来に目を向けることさえできていなかった。わたしは……騎士、失格だ」
胡坐をかいて座り込むカイルの正面に膝をつき、身を乗り出すようにしてきつくカイルを抱きしめるレイチェル。背中に回した両手は、己の中に生まれた思いを決して手放すまいとするかのように、優しくけれどしっかりと掴んでいる。
真剣な顔は少し上気して染まり、決意を固めていく。自ら定める、忠義と礼節と身命を賭すべき相手として、二度とあのような思いや顔をさせることがないように。信頼に、期待に応え変革の一助になれるように。
「何でしょうか、今、レイチェルの気持ちがとてもよく理解できますわ」
「同感。これは我慢できない。やっぱりカイルは予想外」
「お、落ち着け俺……カイルは男、俺も男……だから、これは気の迷いだ。やっちゃいけない、レイチェルみたいに抱きしめて慰めてやりたいなんて、思っちゃいけないんだぁぁぁ……」
「これが、熱くなるってやつか。ようやく、理解できた。あの人の、気持ちも」
「剣としても、失格だな。戦うべき場を間違えて暴走するなど、魔剣よりも質が悪い」
アミルはドキドキと高鳴る胸を押さえて衝動をこらえ、ハンナもうずうずする体をどうにかなだめる。トーマはぶつぶつと誰にも聞こえないような声で葛藤し、地面に四つん這いになる。ダリルは湧き上がる闘志を感じるとともに、今まで理解することのできなかった養父の選択や気持ちが理解できるような気がした。キリルは双剣の柄に両手をかけて握りしめ、深い息を吐く。
「レイチェル? 俺は、別にそんなふうには……」
「いいのだっ! 君にそんな思いをさせているとは思わなかったのは、わたしの不明の致すところだ。言われるまで気づけなかったのは、わたしの……わたし達の目が曇っていたせいだ。君を、君も一人の人間だと、そう考えることのできていなかったわたし達の過ちだ」
レイチェルの懺悔のような言葉を黙って聞いていたカイルだったが、最後の言葉で衝撃を受け、傷ついたような顔をする。まさかレイチェル達であっても、カイルを一人の人間だとは、人だとは認めてもらえてはいなかったのかと。カイルは無意識に身じろぎをしてレイチェルの抱擁から逃れようとする。
「あ、い、いや、違う! そうではない、そういうことではなくてだな……」
レイチェルはカイルを誤解させてしまったことに気付き、慌てて言い募ろうとしたがうまく言葉が出てこない。こういう時、対応力や柔軟性のない自身の性格や物言いがつくづく嫌になる。そのくせ、焦れば弁明の言葉さえ満足に出てこない。ただ、決して逃がさないよう放さないようにより一層力を入れて抱きしめることしかできない。
「憧れは、時として相手への無理解にもつながるということですわ。相手を持ち上げるばかりに、その光に目を奪われるばかりに……相手も自分と同じように弱くて脆い部分があることに気付けないのですわ」
「カイルを下に見てたわけじゃない。でも、同じ場所にいるってちゃんと認識できなかった。わたし達も、同罪」
「孤児や流れ者っていう偏見の目はなくなっても、別の意味でカイルを差別してた。俺達とは違うんだって思っちまったんだ。悪い……ほんとに、ごめん」
「カイルにとって結局は同じことかもしれない。だが、俺達がカイルに言った言葉に偽りはない。今度こそお前を、一人の人間として、受け入れる」
「……主の、友の気持ちを理解できない剣ほど意味のないものはない。これから先、俺はお前の気持ちを裏切るようなことはしない、決して」
レイチェルに代わりアミルもまたしゃがみ込んでカイルに視線を合わせる。ハンナも冷静で正しい認識や判断ができていなかったことを恥じる。トーマは四つん這いのまま、土下座するように頭を下げてきた。ダリルは自由を得て以来、初めて本気で人を受け入れる覚悟を決め、キリルは剣としての意義を再確認して誓う。
「わたしは……わたし達もカイルと共に在りたいのだ。これから先も、命ある限りずっと。だから、こちらこそ謝らせてくれ。そして、共に生きることを……共に戦うことを許してくれ!」
「…………ははっ、許すも何も、こっちからお願いしなきゃならないことだ。なら、いいのか? みんなを信じて、頼って、託しても。俺、みんなが思ってるよりたぶん貪欲で、強情だぞ? 一度手にしたら絶対に自分からは手放さない。一度決めたら誰に何言われても変えない。束縛もするし、強要もする。それでも、俺の手を取ってくれるのか?」
決して綺麗ではない、カイルの手を。これから先も様々なもので汚れていくだろうこの手を取ってくれるのだろうか。共に汚れる覚悟をして、共に歩んでいってくれるのだろうか。カイルはレイチェルを抱きしめ返すこともできず、下ろしたままになっていた手を目線の高さまで持ってくる。
「聞くまでもありませんわ」
「当然。こっちこそ手放さない」
「男の手を握ることなんてないと思ってたんだけどな」
「そういう束縛や強要なら受け入れる」
「この手が力になるなら何度でも手を取ろう」
カイルの左手をアミルとハンナが、右手をトーマとダリルとキリルが手に取って握りしめてくる。その温かさと力強さに、カイルは安堵の表情をする。それから、みんなの手が離れるのを待ってレイチェルの肩をつかんで体から離す。再び抱きしめようとしてくるレイチェルと至近距離から顔を合わせる。
「レイチェルの思いってやつは、ちゃんと伝わった。だから、俺はもう大丈夫だ。レイチェルももう謝らなくていい。引け目も感じなくていい。俺達は対等な……仲間なんだろ?」
「あ、ああ。そうだ。その通りだ! ならば、うん、そうだな。これ以上は余計なことだな」
「それにまぁ、なんていうかその……こういうのは嬉しくもあるんだけど、気恥ずかしいっていうか、その、困ったことになりそうというか……」
納得した表情でうなずくレイチェルに、カイルも同意のうなずきを返す。そして、少し頬を染めると、レイチェルから視線をそらしつつ、現状について理解を求める。
「何が困るのだ?」
「あー、いや。レイチェル、俺も男だってちゃんと認識してるか?」
「当たり前だろう? カイルは男だ、それとも違うのか?」
「いや、間違ってない。じゃあ、それを踏まえて今の状況を理解できるか?」
「なにを…………」
言っている? と言おうとしたレイチェルだったが、瞬時にその意味を理解して真っ赤になった後、カイルを突き飛ばすようにして離れ立ち上がる。バランスを崩しそうになったカイルはクロが支えていた。クロもまた一生を共に生きる相棒として思いを確かなものにしていた。
「気が付いたか? ったく、俺もお前も年頃の男女なんだから……そう、無闇に抱きしめられたり、無自覚に接触されるのは……色々と、その、まずいことになりそうでな。分かってて俺の自制心試すなら、まぁどうなっても自己責任だろうけど。そうじゃないなら、なるべく気を付けろよ? 男って生き物は勘違いしやすいし、簡単に理性が本能に負けちまったりする。俺も例外じゃないんだからな?」
「わ、わわわ、わ、分かった。理解した、承知した……自己責任か、それなら別に……い、嫌。結婚前の男女がそんなふしだらなことはっ」
呆れたような、照れたようなカイルに、レイチェルはがくがくとうなずいて承諾の意を示す。その後口の中だけでぶつぶつと言っては盛大に首を振っていた。レイチェルの狂乱ぶりに、本当に色事には免疫がないのだと納得するやら感心するやら、カイルは一つため息をついた。
言葉通り、あれ以上くっついていられると、その甘い香りや防具を付けていても感じる柔らかい体、体温や息遣いなどを意識してしまうと、本能が理性を打ち破ってしまいかねない。この場面、こんなところでレイチェルを押し倒してしまうような事態はぜひとも避けたかった。
「そうだよな、カイルも男だもんな。我慢できないよな」
「……トーマほど理性の紐は緩くないと思うぞ?」
「なにをっ! 年下のくせに生意気なっ!」
「経験では俺の方が上だな。トーマはまだ男になってないんだろ?」
「ぐぬぬぬぬぬぬ、おのれ、痛いところを、この野郎っ!」
そんな微妙にピンクな空気を壊したのはやはりというかトーマだ。納得の表情でカイルの肩を叩いてくるが、なんとなく気に食わなったカイルは反論し図星をつく。言い返せず追い詰められたトーマはまだ動きの鈍いカイルにつかみかかって、そのまま喧嘩のようなじゃれ合いに入る。
カイルの話を真剣に聞き、その後の仲間とのやり取りに一喜一憂していた子供達は、その様子に笑顔を浮かべたり、声を出して笑いながら見ていた。それもまたカイルの気配りだったのか、あるいは天然か。子供達の心を覆っていた闇も、レイチェル達にのしかかっていた胸を焦がすほどの憎悪も、まとめて晴れてしまっていた。
ただ一人、ずっとうつむいて手を握りしめていたテリーを除いて。
苦難を乗り越え、明日に希望を見出した子供達は、いつもと同じ路地裏で、けれどいつもとは違った夢を見ながら眠りについていた。すっかり日が落ち、一切の光が入らなくなった路地にあっても、見えた光を見失うことはないだろう。
そんな、柔らかな静寂の中、密かに起き上がる影があった。路地に落ちる影よりも暗くて深い闇を携えた影が。その影は、周囲の子供達が安らかに寝入っているのを確認すると、音を立てないように気を付けながら寝床を離れる。
そして、向かうべき場所を見定めるように前を向くと、足音を殺してその場から歩き去っていった。その影を、背中を見つめる一対の目に気が付くこともなく。




