命名の由来 後編
当然のことながら、魔獣の子であり、主の子であった子犬は普通の子犬ではなかった。強く、賢く、そして誇り高かった。人に飼われることを良しとせず、食べ物を拒否し、懐かず、抵抗し続けた。結果として、棒で打たれ、路地裏に捨てられた。そこで出会ったのが、カイルだったのだ。
牙をむいて威嚇する余裕もなかった子犬をカイルは連れていった。子犬はカイルに食べられるものだと思っていた。散歩と称され連れまわされた時に、似たような光景を見たから。血みどろになりながら、動物に食らいつく子供達の姿は、同じように捕食をする子犬の目から見ても醜悪に映った。
だが、このまま死んでしまうよりは、誰かの糧になって死ぬ方がいいのではないか。そう思って受け入れた子犬だったが、カイルは子犬を食べるということはしなかった。痛みを軽減する程度だったが、魔法で傷を治そうとし、手ずから水を飲ませ、満足にあるわけでもない自分の食べ物を分け与える。
魔獣の高い生命力や回復力もあり、傷が癒え活力を取り戻していった子犬は不思議でしょうがなかった。周りの人間から無下に扱われながらも、その目に負を宿さない子供を。他の子供と違って、魔法を使いいつもきれいでいることを心掛けている孤児を。空腹を抱え、夜も満足に眠れないくせに、子犬に食べ物を分け与えてくれる流れ者を。
興味がわいて、一緒にいるようになった。本当なら町の外に出た時に、家族の元に帰ることができた。実際、子犬を探し回っていた主に発見され、一度は寝床へと帰ったのだ。心配していた主達に嘗め回され、見知らぬ人間の匂いをさせていた理由を話した。
主達は子犬が受けた仕打ちに憤り、同時に子犬を救ったカイルの行動に感心した。そして、子犬がカイルと共にいたい旨を打ち明けるとそれを許した。主達も、町への報復を考えたが、カイルがあの町にいる間は手を出すまいと約束した。そして、何か困ったことがあれば主を呼ぶように、子犬に言いつけた。そうすれば、必ず駆け付けるから、と。
カイルの元に戻った子犬は、自分達と共にいた犬達はどうなっただろうかと考えた。殺され、売られたことは知っている。皮や牙や爪はあちこちに流れただろうし、肉も食用として町中に回っただろう。肉は無理でも、せめて牙や爪の一本でも持ちかえってやることはできないだろうか、そう考えて、匂いをたどり町中を歩き回った。
普段から、賢くて勝手にどこかへ行ったりしない子犬をカイルは紐でつないだりしなかった。カイルが行きたい場所には子犬がついてきたし、子犬が行きたい場所があるならカイルがついて行った。カイルは、子犬が何かを探していることは分かったが、何を探しているのかは聞かなかった。とても、悲しくて寂しそうな目をしていたからだ。だから、黙って付き合った。
『……疫病は、殺された犬達が……殺した旅人の一団が持ち込んだのだな』
「ああ。傭兵、だったらしい。傭兵っていうのは一カ所にとどまらないことが多い。だから、主やテリトリーに手を出すことをためらわない奴らもいる。ハンターとかなら、ギルドで周辺の情報を集めてから狩りや採取を行うけど、傭兵は移動中に見つけたやつを狩ることが多いから」
カイルが傭兵ギルドに登録することを忌避する理由の一つがこれだ。傭兵、とはいうが半数以上はならず者や盗賊・山賊上がりのような連中が多い。確かに人との戦闘には慣れているし、金次第で依頼中に人殺しをすることも厭わない。カイルだって何も人殺しがすべて悪だと考えているわけではない。
この世の中には死んだほうがましな人間もいるし、自他を守るために相手を殺すことは仕方がないことだと考えている。実際にそうやってカイルも自らの手を血で染めている。けれど、彼らは……傭兵は人殺しを楽しむ傾向があるのだ。仕事上仕方なく殺す、なるべく被害を抑えるように戦う。あるいは、依頼を遂行させるためにプロに徹する。そうした道義をわきまえた傭兵もいる。
だが、人を殺すというその重さから逃れるためか、または血を浴びるたびに何かが歪んでいくのか。人を殺すこと自体に喜びを感じるようになっている傭兵も少なくない。傭兵だから仕事で人を殺すこともあるのではなく、人を殺せるから傭兵をやっているというように本末が転倒してしまっている者達が。
そうした者達は、カイルのような孤児や流れ者を平気で虐げ、傷つけて殺す。だからカイルは傭兵が嫌いだった。中にはいい人達もいることは知っていたが、それでも傭兵という者に対していい感情を抱くことができなかった。
『では、その犬達の肉を食べた者、あるいは爪や牙や皮などを扱った連中が疫病にかかったというわけだな? 主が関わった者達の中にそういった者達がいて、子犬が仲間の遺品を探して回っていたために、それらがある場所へと導かれた、と』
「ああ。俺は……魔力が多かったせいか、疫病にはかからなかったみたいだな。クロも病を持ってはいなかった。護衛をしてた犬達が疫病を持ってたんだ。ただ、それも主の配慮によるもの……だったみたいだけど」
もし、主の子供に手を出そうとして護衛の犬達と対峙することがあれば、その者は疫病に犯されることになる。護衛や主の子を殺すことがあれば、対峙した者だけではなく、その遺体が持ち込まれた町や村自体が疫病に犯される。主や主の家族に手を出せばどうなるか、その報復として。
「あの町自体も被害にあった立場ではあったんだろうけど、な。それでも、俺やクロにしたことは許されることじゃない。主がクロの遠吠えで町に入り込んで俺達を連れてったことや、すでに町を出てってた傭兵達が次の町で疫病に倒れたことで、誰に……どこに原因があったのか、あとで分かったみたいだな」
その町はきちんと主への対応をしていたし、ハンターギルドではそうした注意喚起もされていた。もし、傭兵達が殺した犬達をハンターギルドに持ち込んだ際、子犬も一緒であれば何か気付いた者がいたかもしれない。しかし、生きている動物などは引き取りしないことを知っていた傭兵は、犬を買ってくれる者を直接探した。それゆえに事実が明るみに出るのが遅れたのだ。
そして、傭兵達は町で英気を養い、護衛の仕事を受けて次の町へと移っていった。その時に傭兵達が関わり合った人々が、のちにカイルとも関わることになる人々だったのは運命の悪戯だろうか。
カイルと子犬が主によって連れていかれた後、町の人々は別の意味で大混乱に陥った。主は滅多なことでテリトリーを離れたりしない。人の領域に踏み入ったりしない。それをする時は、報復を行う時か……家族を救う時。
子犬にしか見えなかったが、改めて考えればあの子犬は近場の主にそっくりだった。大きさが違うだけで、体の色も目の色も。そして、何より子犬の遠吠えで主が駆けつけてきたこと。それこそがあの子犬が主の子供であることの何よりの証明だった。
また時を同じくして、ギルドを通じて少し前にこの町に立ち寄った傭兵達が同じ疫病に倒れたという報せが入ってきた。そこへきて、ようやく人々は自分達の勘違いと、取り返しのつかない過ちに気付いた。
その町において疫病は、主からの警告と報復であることは古くから知られていた。だが、すぐにそれと結びつけなかったのは、町の者は誰も主に手を出してなどいなかったから。主がこの町に害を及ぼす理由に心当たりがなかったからだ。
だが、もし主の家族に手を出した者がこの町に出入りしたのだとすれば……、それに気づかず疫病を広めたのは町の者達自身だ。そして、主の子供がさらわれ主がその行方を追っていたのだとすれば、町が主の率いる者達に襲撃を受けていないはずがない。また、主が子供の居場所を知らなかったのであれば、あれほど早く駆け付けることなどできなかっただろう。
そこから導き出される答えは、一つしかなかった。主の子供は傭兵達によってさらわれ、疫病を持った犬達の死体と共にこの町に持ち込まれた。そして懐かないで捨てられた主の子を一人の孤児が拾って助けた。主の子はその恩返しをするためか、あるいは主の子自体が共にいることを選択したのか、孤児と共に町にい続けた。そして、主は……その孤児と子が共にある限り、町にいる限りは町へ報復のための襲撃をしないで見守っていた、ということだ。
疫病を持ち込み、蔓延させていたと考えていた孤児は……人懐っこい笑顔で悪事を隠していたのだと考えていた流れ者は、町を主の怒りから守ってくれていた。自覚がなくてもカイルが主の子を助けたから、主の子がカイルと共にいたから、主は町への報復をしなかった。自業自得ともいえる疫病の被害のみでとどまっていたのだ。
その子供に、町の救世主でもあったその孤児に町の者達は何をした? 勘違いからとはいえ、相手の言葉を聞きもせずに、何をしたのか。何を、見ていたというのか。残飯のような余りものでも、もらう度に嬉しそうに笑っていたその顔を、子供ながらに一生懸命働いていたその姿を、子犬と一緒に楽しそうに町中を歩き回っていた光景を見て、本当にそんなことをする子に見えたというのか。
状況が分からないまま理不尽に傷つけられ、親しくしていた町の人達に石や罵倒を投げつけられ、むごい方法で処刑されようとしていた。自らも火にまかれるところなのに、子犬の心配をして、自分の体を登って逃げろと言った。そんな子が、どんな悪事を企んだというのか、どんな罪を犯したというのか。
町の者達は、自らの行いを顧みた時愕然となった。あれだけ長く、親しく関わってきたのに、いまだカイルのことを孤児の流れ者としてしか扱っていなかったことに。何かあれば真っ先に疑い、責任を押し付けることに何の疑問も抱かなかったことに。まだ十歳だった子供を、孤児で流れ者でありながらまっとうに生きようとして努力していた子供を……自分達の手でむごたらしく殺してしまったということに。それも、主の子供と一緒に。
主が駆けつけて火を消した時に見えた子供と子犬の姿は、到底生きているとは思えない様だったから。まだ息があったとしても生き残ることはできないと分かるほどにひどいものだったから。広場に残されたままの処刑場の跡が、町の者達の罪をありありと訴えかけてきていた。
「でも、俺は、俺達の無実が証明されたことよりクロのことの方が大事だった。精霊達にも頼んでみたんだけど……人界で精霊達が力を発揮するには条件が必要みたいで、駄目だった。なんでか俺を助けることはできるのに、他のやつの傷を癒したりはできないみたいなんだ」
人にもルールがあるように、精霊達にもルールがある。そして、それは人のルールよりもはるかに厳しく精霊達を縛っている。精霊達は限られた手段で情報を与える以外では、運命にも関わった人々にも影響を与えない。忠告はしても助けることはないのだ。
例外ともいえるカイルにも、必要以上に手助けすることはしない。カイルが死にかけたりひどい怪我を負ったりして、自分ではどうしようもない事態になるまでは静観している。そして、カイル以外にはどれだけカイルが頼み込もうと、力を使って救うことはない。
必死で手を尽くそうとするカイルだったが、腕の中の子犬の息は小さくなるばかり。冷たくなっていく体を、自分の体で必死に温めようとした。それでも子犬は……温もりを取り戻すことはなく、息を引き取った。最後の気力を振り絞って、カイルを見つめた後に。
子犬を抱きしめたまま慟哭するカイルを、子犬の家族達は同じような哀しみを抱えながらも慰めてくれた。カイルは泣いて、泣いて、泣き疲れて眠るまで子犬を手放さなかった。そして、目を覚ました時、カイルはあの町で起きたことも子犬のことも……忘れてしまっていた。
なぜか裸で主達の寝床にいて驚くカイルを、主は憐れなものを見るような目で見てきた。だが、何も伝えず、森で果てた人間が持っていた荷物をカイルに渡した。訳が分からないカイルは、それが自分のものではないことは分かったが、さすがに裸では旅にも町へ出入りするにも支障がある。死者の冥福を祈りながらもありがたく使わせてもらうことにした。
通常、そうした死者の遺品というものは拾った者に権利がある。たとえ正当な持ち主やその遺族であっても、ただで返せということはできないのだ。そういう時には当人間で交渉を行い、あるいは裁判で調停を行って返却されることもある。そうした取引は、よほどの価値がある品に限るが。
近くの町に戻ろうとしたカイルを、主は引き留めた。次の町に行くことを勧め、一つの伝言のような、戒めを授けた。カイルは記憶が戻るまで、その意味を理解することができなかったが、その戒めはしっかりと心に刻んだ。
「都合のいい話だよな。あの町でクロと一緒に見つけた孤児達を救う方法、それは覚えてたのに、クロのことはすっぱり忘れてたなんて。そのこと、不思議にも思わなかったなんて……俺、馬鹿だよな。クロが最期に俺に伝えてくれたことまで忘れてたんだ」
『何といったのだ? その子犬は。そして、主はどんな戒めを授けた?』
「……生きろ、約束を忘れるな。いつかまた相棒を見つけて、二人の夢を受け継いでくれって。主はあの町が今度の騒動を忘れないでいる限り、町には平和が保たれるって」
子犬はカイルが生きることを望んだ。いつかした約束、それは子犬にとっても大切な夢になっていた。それがかなわないと悟った時、子犬はカイルと、そして自分の後を継ぐであろう者に全てを託した。カイルならきっとまた、自分のような相棒を見つけることができる。なら、今度こそその相棒と一緒に自分の、自分達の夢も叶えてほしいと。
「俺、つい一週間前まで、そのこと忘れてた。警備隊に捕まって、背中焼かれて……その痛みと熱さと匂いを感じて……思い出したんだ。忘れちゃいけない、大切な約束のこと。かけがえのない相棒のこと。楽しかったクロとの思い出を」
平時であればそれを受け止めるだけで時間がかかったかもしれない。だが、非常時だったことで案外すんなりと受け止め、自分の中に取り入れることができていた。それもまた、カイルがあの状況を乗り切る助けになったのだから。
「だから俺、最初にお前を見た時驚いた。あの時クロが死なずにでかくなってたら、お前が姿借りてた犬くらいになってただろうから。お前の本当の姿だと、ちょっと違うけどな」
クロは犬というより狼に近い外見をしている。真っ黒な体毛と金に光る眼は同じだが、感じる力は桁違いだ。カイルが違和感に気付くきっかけになったのは、驚いて見つめ続けていった結果だ。子犬のことを思い出してすぐに、その子犬の見ることのなかった未来の姿を彷彿とさせる獣を見たから。
「お前に、あいつと同じクロって名前を付けたのは……外見が似てたってこともあるけど、お前ならあいつの夢を受け継ぐ相棒になれるって思ったから。剣聖って称号が受け継がれていくように、相棒を受け継ぐお前に、クロって名前も受け継いでほしかった。俺は、あいつとの約束を一緒に叶えることはできなかったから。だから、いつか俺が約束を守ってあいつとの夢を相棒と一緒にかなえた時、せめて名前だけでもそこに連れてってやりたいと思ったから」
『むぅ……短絡的でないことは理解したが、逆に随分と重い名を付けてくれたものよ』
単純に同じ名前を付けたわけではない。その名にまつわる様々な思いや願い、夢でさえも込めたたった一つの、相棒に与える名前。それが、クロという名前だった。
「嫌か? 俺は、お前ならその名を受け継げるって思ったから付けた。千年以上もずっと、冥界の門を守るって重たい使命を背負い続けても応えてきたお前なら。また、お前の望むところではないのかもしれないし、俺の身勝手な願いでしかない。ただ、俺の相棒はお前しかいないから。一緒に背負ってくれたら嬉しい」
クロはカイルの切なげでいて、期待を込めた目を見て、足元に視線を移す。ずっと一人で門を守ってきた時には感じたことのない様々な感情が浮かび上がってきては、クロの心を翻弄する。どうやら、クロの見つけた宝は、クロが思っていた以上に厄介で……大切な、存在らしい。
『……全く、この無自覚の天然たらしめ。そのようなことを言われたら、そのような顔で見られたら断ることなどできぬではないか……よかろう。この名、我が受け継いでやろう。ありがたく思うがいい。全世界に我が名を知らしめてやろうぞ』
いつかきっと、子犬の家族にも聞こえるように、冥界に逝った子犬の魂にまで届くように。クロは何度も己の名をかみしめながら、思いを定めていく。これから先、いかなる苦難があろうとも、隣で笑ってくれる存在と共に乗り越えていくことを。共に様々なものを、見て聞いて、歩いていくことを。カイルとクロの、二人の夢をかなえるための長い旅路は、始まったばかりなのだから。




