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レスティア物語  作者: マリア
第二章 王都センスティア
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純潔の証明

『……できぬ、がゆえに、共にいる間は守ってやろう』

「守る、だと?」

 最初にカイルを守ることを誓ったのはキリルだ。果たして本当に妖魔に人が守れるものなのか。何から、どこまで守ってくれる? 約束を守る保証はどこにある? 妖魔が憑いているというデメリットの方があまりにも大きいのではないか。


『左様。言ったであろう? こやつは美味だ、我らのような魔の者にとってはこの上なく美味だ。こやつの存在が広く知られることにでもなれば、それこそこぞって狙ってくるであろう程に。魔獣であれば好かれる程度で済もうが、魔界の魔物・妖魔・魔人であれば見逃すまいよ。血と魔力を糧とする我は、まだましな方であろう。魔の者の糧は多岐にわたる。肉をむモノ、内臓を好むモノ、骨を愛すモノ、恐怖や苦痛・快楽を求めるモノ、血を飲むモノ、魔力を食らうモノ、精気を吸うモノ。一度捕らわれば、精も魂も尽き果て余すことなく骨の髄まですすられ、しかして決して死ぬことはできぬ、永遠の虜囚となろう』

 カイルは妖魔の言葉に、ヒュッと短く息を吸い込む。あまりにも恐ろしい推測に、恐怖で呼吸さえうまくできない。血が足りないはずの心臓も早鐘のようにうち、それなのに手足の先から冷たくなっていくかのようだ。


 人の悪意には慣れている、人の残虐な仕打ちにも。だが、これは……生物としての根源的な、根幹的な恐怖だ。理由もなく理解もできない、魔の者の本能・本質が生み出しもたらす恐怖。そのおぞましくも純粋で、逃れようも救いようもない魔の手が自身に向けられると思うだけで圧倒的な恐怖が心を支配する。

 これは、耐えるとか耐えられないとかの問題ではない。地の三界に存在する生物には、決して受け入れることのできないものだ。それに触れるだけで死を、死以上の苦しみを予感してしまうほどの。


 静まり返った部屋に、かすかに聞こえるのは、震えで歯の根が合わないカイルが出すカチカチという音だけ。それだけで、カイルがどれほどの恐怖を感じているのかが分かる。

『我の存在に震え、勝てぬと理解しておる貴様らに、そのような魔の者からこやつが守れるか?』

「貴……殿なら、守れると?」

 そのように未知で恐ろしい存在から、カイルを守ることができるというのか。レイチェルは自らのふがいなさを痛感しつつ、蒼白で表情を失っているカイルに視線を向ける。


『我は魔界の妖魔の中においても最高位、我を出し抜いてこやつをかっさらえる者など、数えるほどであろう。それに、こやつを標的にするであろう者は魔の者のみにあらず。そうなのではないか?』

「どういう意味だ?」

 グレンは奥歯をかみしめながら、身動きが取れない自身を情けなく思う。息子とも思う存在が、恐怖にからめとられ、絶望の淵に立たされているというのに、そばにいてやることさえできない。

『我は血や魔力から、多少なりとその系譜を……根源をたどることもできる。こやつの身の上、なかなかに複雑なようではないか? 過去に例を見ぬ、異質にして奇跡のような存在。はたして、かの眼に憑りつかれ、暴利をむさぼる狂信者どもに手を出されずにいられようか?』


 妖魔はにやりと笑う。犬が笑うということが、これほど不気味だとは知らなかった。息を飲んだ面々は、カイルの魔法が正しく作用していることを確認する。それなのに、妖魔には見えているのか。カイルの特別な容姿が。

『我ら闇を友とする魔の者に、闇の技が通じるはずはなかろう? 最初からこやつの真の姿など見えておったわ。それに、人界めぐりをした折、彼の地にも立ち寄ったことがある。なかなかに腐っておったわ。もはや巫女は尊きものにあらず、狂信者どもの権威と欲を満たす道具となり果てておる』

 妖魔の言葉に、誰もが顔をしかめるが、それでも決して間違いではないため訂正もできない。紫眼の巫女は精霊と通じる力を持ち、総じて魔力が高く豊富な属性を有している。精霊を友とし、様々な恩恵をもたらし、また精霊王とつながる橋渡しをも担う。


 そのため、その力を利用しようとする者に狙われる。また強力ゆえに暴走しやすい力を御することができるようにするため、紫眼の巫女は世界中から一か所に集められ、一つの都市の中で暮らしている。大陸の中央にある五大国の一つ、ミッドガル共和国の中にある一都市だが、どの国にも所属せず、中立・独立を認められている。これは政治的に利用されることを防ぐためでもある。

 神殿都市と呼ばれるそこは、巫女とその家族、都市を支える人々しか住むことが許されていない。義務付けられてはいないが、どのような血筋であれ、紫の眼を持って生まれてきた女児は物心がつく前に移転することになる。


 紫眼の巫女の力は遺伝することもあり、また突然あるいは後天的に力に目覚めることもある。だからこそ、婚姻を結び都市を出ていった巫女の子供が力を受け継いでいたり、全く巫女の血筋と関係なかったり成人したりしていても、力に目覚めたことを知られればその時点で都市に入ることもある。

 巫女の力はその処女性、ひいては純潔に基づいているとされており、異性との関係を持った者は巫女の力を失うと言われている。事実、婚姻した、もしくは密通し肉体を許した巫女はことごとくその力を失っていた。巫女の力を保つためにも、閉鎖的な場所が必要であったのだ。


 だが、閉鎖されひたすらに清く穢れなくあることを望まれる巫女と違い、その周囲にいる精霊神教の教徒達は違った。巫女達の活動によって寄せられる寄付や地位、名声を受けるにつれ、それを当然のごとく享受し始めた。巫女を守り、巫女を導く自分達こそが最上の存在と驕り始めた。そうして、本来上位であったはずの巫女達を、自らのいいように使い始めたのだ。

 何も知らされず、幼い頃から教えられたことのみを信じるしかない巫女達は、利用されていることを知らず、あるいは知っていてもどうすることもできず、都市の中に捕らわれている。ロイドはそんな境遇にあったカレナに惚れ込み、救い上げるためにも結婚し、駆け落ち同然に都市を飛び出した。


 当時、そして歴代でも最高の力を持つ巫女と言われていたカレナを精霊神教が手放すはずがなかったからだ。体が弱いことをいいことに、決して神殿の外に出そうともしなかった。都市を飛び出してからは精霊神教はカレナを諦めた。純潔を失い、その最高位の巫女としての力も失われただろうと判断したからだ。

『カイルといったな。そなたの母は紫眼の巫女であっただろう? その母はそなたを生んで後、その力を失っていたか?』

 妖魔に問われたカイルは、少しだけ落ち着いたのか、無理に抑え込んだのか唇の震えを止めて答える。


「い、や。ジェーンさんや、精霊達の……話でも、母さんは、巫女の力を失っていなかった。俺を……生んだ後も、死ぬまでずっと」

 カイルの言葉に衝撃を受けたのはレイチェル達だ。そんなことがあるはずがないのだ。純潔が処女が巫女の証であるなら、カレナが最期まで巫女の力を持っていたはずがない。それが真実ならば、あの逸話はどういうことなのか。精霊神教の信者達でさえ知っているとは思えない。もし、カレナがロイドと交わりカイルを生んでなお巫女としての力を失っていなかったと知れば、彼らは目の色を変えてカレナを連れ戻そうとしたはずなのだから。


『そしてカイル、そなたも彼奴らのいう”純潔”ではないが、巫女の力を失ってはいないであろう?』

 そう言われて、全員がはっとなってカイルを見る。昼間、初恋の話を聞いた時からどこか胸の中で引っかかるようなものがあった。だが、その後緊急事態によってそれを考えることをしてこなかった。

 だが、言われてみればおかしいのだ。カイルはすでに十四の時に、異性との交わりを経験している。早くからそれを知っていたカイルが、まさかおさわり程度で済ませているとは思えない。確実に、”純潔”を失う行為を行ったはずなのだ。


「そ、そりゃ、カイルが男だったからじゃ……」

 アリーシャは、カイルが通常の巫女と違い男性であることを上げる。しかし、そうなるとカレナのことが説明がつかない。何か血筋や条件でそうなる理由があるのか。

『男……か。処女を失うことが力を失う条件とするならば、こやつも当てはまっておろう。女だけではない、男とも関係を持ったことがあろう? それが合意にせよ、無理矢理にせよ』

 妖魔の言葉に愕然とした面々がカイルに視線を向けた時に見たのは、羞恥と苦悩に顔を歪めながら耐え切れないというように視線を逸らす姿だった。それは言葉よりも顕著に事実を示していた。昼間、語られることのなかったカイルのもう一つの、あるいは数えきることができないかもしれない苦渋に満ちた性的な経験。


「カイル? あんた……いつ?」

 アリーシャは聞いてはいけないと思いつつ、聞かずにはいられなかった。カイルを苦しめたであろう過去の一つを、少しでも軽減してあげたくて。少しでも、理解してあげたくて。

「……っ、…………初めては、十一の時。いきなり何人にも襲われて、抵抗……できなかった」

 レイチェル達から顔を背けたまま、カイルは苦しそうな声で、それでもちゃんと話してくれる。それはレイチェル達への信頼の表れでもあり、また一人で抱えていくにはあまりにも重いそれを吐き出しているかのようだった。

 そして、初めて、という言葉は、それが一度の経験ではないことを意味していた。


「それからも、何度も……ちび達を人質に取られたことも、あった。十二の時には……一人の男に三か月くらい付きまとわれて、三日に一度は、迫られて抱かれてた、こともある……」

 体が大きく成長し始めてからはそういったことも減ったが、それでもなくなったわけではない。

「……ここ最近だと、あの、警備隊の奴ら。あいつら、刑罰にかこつけて……ストレスと性欲発散に俺を使いやがった。散々いいように弄ばれて、後始末までさせられた俺の気持ち、わかるか?」

 背けていた顔を戻し、カイルらしくない歪んだ笑みと憎悪や怒りを宿した眼。拷問を受けても揺るがない意思を捻じ曲げてしまいそうな苦痛を心身にもたらしている。


「……でも、だから余計に、俺は負けてやらねぇ。あんな奴らの醜い欲望に負けて、堕ちてたまるか! 死んでも、この激情に身をゆだねて、未来を諦めたりするものかっ! 俺は、たとえ体をどれだけ汚されても心を傷つけられても、薄汚い欲望と短絡的な復讐心に負けて、心まで穢したりしねぇ! 本当に大切なものを、大切な人達を見失ったりしねぇ! 俺は死んだ母さんや父さん、ジェーンさんに、仲間達に胸張って誇れる生き方を、絶対に捨てたりしねぇ!!」

 カイルの顔から歪んだ笑みが消え、憎悪や怒りが消えていく。高ぶった激情はそのままに感情の色を変えて吐き出される。憎悪を正しく生きていくための情熱に変え、復讐心を親しく関わった者達への情愛と誇りを穢さぬ不屈の心に変えて。


『くっくっく。見たか、聞いたか? これこそが、誰にも犯すことの出来ぬ心の”処女性”、誰にも穢されぬ魂の”純潔”のまことなる意味よ』

 カイルを振り返りながら、心底楽しそうな様子で妖魔が歌うように語る。これこそがカレナが、カイルが肉体的な処女性や純潔を失ってなお、紫眼の巫女の力を失わない本当の理由だと。心の清らかさと美しさが保たれる限り、巫女の力はその身に宿り続けるのだと。ほとんどの巫女が力を失ってしまうのは、欲と情に溺れ、心を歪めるからだと。

「…………たいていの奴は、ああいう話をすると、薄汚いって軽蔑する。それ以外の奴は、分かったような顔をして、心のどっかで嫌悪する。あんたらは、どう、思った? 俺は……目、背けたくなるくらい、汚い、か?」

 カイルの泣きそうなくらい震える声で、レイチェル達はカイルの顔や眼を直視できていない自分達に気付いた。そして、そのことでカイルが深く、深く傷ついていることに。

 慌てて戻した視線の先にいるカイルは、唇をかみしめ、強すぎたのか口の端から血を滴らせながら、泣き出す寸前のように顔を歪めていた。まるで、ひどい裏切りにあったように瞳には失望の色が宿っている。


「違うっ! 違うんだ、カイル! そうじゃない、そうじゃないんだ!」

 レイチェルは妖魔への恐怖も忘れて叫ぶ。このまま誤解させては、このままで済ませてしまっては、たとえカイルの生き方は変わらなくても、きっとレイチェル達には関わってくれなくなる。その目に映してくれなくなる。共に歩いては、くれなくなる。

「そうだぜっ! 俺は、俺達は! お前のこと、汚いなんて思わない、思えない!」

 トーマも続く。カイルがどんな気持ちで打ち明けてくれたのか。きっと初恋や初体験を告白するよりもずっと勇気と覚悟が必要だったはずなのだ。それでも告白してくれたのは、それは自分達を信じてくれていたから。きっと、真実を知っても変わらないと、共にいてくれると。ならばそれに応えなくてどうする。


「人は、あまりにも美しいものを見ると、真っ直ぐ見ていられない。自分の、醜さが分かるから」

「そうですわ。光の一族とうたわれるわたくしでさえ、カイルの放つ輝きをまぶしいと感じたのですわ」

 ハンナは胸を押さえながら、アミルはいつになく必死になって訴える。この輝きを曇らせることなど、たとえ一瞬であってもあってはならない。失わせてはならない、カイルの持つ光を。

「何があっても、自分を卑下しない、否定しないお前の生き方が、俺に光をくれた。本当に進むべき道を選択させてくれた。だから俺はもう迷わない。正しい道を生きていける!」

 ダリルの闇を晴らし、自らを見つめなおすきっかけを与えてくれた。生れや育ちは消せなくても、胸を張って誇れる生き方はできるのだと教えてもらった。だから、今度はダリルが支える番だ。


「誓ったはずだ。俺は、お前のつるぎだ。常にお前と共に在り、お前と共に歩んでいく。共に誓った夢をかなえるまで、約束を違えたりしない」

 キリルの義理堅さや、約束を守る律義さは身をもって知っているはずだ。剣として体や命だけではなく、心や夢も守ろうと心に決めた。なら、今それを伝えなくていつ伝えるのか。

「息子同然のあんたを、そんなふうに思うわけないだろ? 悪かったね、気づいてやれなくて。いつも後になってから分かるねぇ、親として情けないこった」

 孤児達の現実も、カイルがさらされてきた理不尽も、そして深い傷も。アリーシャはふがいなさに、胸がつぶれそうだ。


「ばっか野郎が……、俺達をそんな奴らと一緒にすんじゃんねぇ! ガキが外でつけられてきた泥くらい、一緒にひっかぶってやらぁ。んで、言ってやるよ、少しも汚くなんかねぇって。これは、ガキが気張って生きてる証だってなぁ」

 グレンは拳を固めて宣言する。泥で汚れたくらいが何だ、そんなもの洗い流してしまえばいい。誰もが汚いと罵るならば、同じように泥をかぶってやる。その上で、これは勲章なのだと誇ってやると。

「君が汚れてなんかいないことは、誰よりも君自身、そして常に君と共に在る精霊様達が知っているよ。だから君の過去に、刻まなければならない罪なんて一つもなかったんだ」


 不思議でも何でもなかった。精霊達がかばっているわけでもない。失われない心の美しさと、見失わない生き方の正しさが、全てを証明している。罪に問われるべき、醜い行いなど、一つも犯していないのだと。咎められるような汚らわしい行為など、少しもないのだと。

「……そっか。俺、みんなと一緒にいても、いいのかな?」

「ああ!」

「ったり前だ!」

「当然」

「もちろんですわ」

「構わない」

「そばにいる」

「何言ってるんだい」

「一々聞くんじゃねぇよ」

「こちらからお願いしたいくらいだよ」

 間髪入れずに返ってきたみんなの答えに、カイルはひどく安堵して息を吐く。もう、怖くない。きっと、乗り切れる。過去のことだけではない、現在直面している問題も、未来でぶつかるであろう壁も。きっと、一緒にいてくれる仲間がいるなら。

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