異質な獣との出会い
明るい屋外から中に入ってきたせいで、目が慣れずに余計暗く見える獣舎。飼育係は屋外への入り口あたりに立ちカイル達を見送っている。
「何もしてこなければいいが……」
さすがにレイチェルでも、飼育係の心情には気づいた。
「苦労いたしますわね。カイルに非はありませんのに」
「プライド。つまらない虚栄心」
「カイル、悪ぃな?」
「何が?」
アミルが呆れ、ハンナが切って捨てる。だが、トーマは別のことでカイルに謝罪をしていた。
「あの時、俺、思わず飛びかかるところだった。カークがやってなきゃ、たぶん俺達の中の誰かがやってた。でも、そうなるとその責任は……もしかして……」
「俺、になるだろうな」
「なぜだ? 手を出したのが俺達ならば俺達の責任だろう?」
ダリルはトーマとカイルのやり取りが理解できない。傷害の場合、原因がどうあれ手を出したほうが責を負う。原因の方に責が問われるなんてよほど特殊な例だ。
「そりゃ、普通の人同士ならな。でも俺らが関わると別だな。必ず責任を押し付けられる。喧嘩に無関係だったのに通りかかっただけで、そいつのせいにされる。下手すりゃ、殴られてても責任を取らされる」
例え危害を加えられた側だろうと、その原因を作ったとして責任を問われる。関係なくても、運が悪ければ責任を負わされる。関わったというだけで責任を押し付けられる。
「そうすりゃ、また、あんな……」
トーマはあれから丸二日以上たっても忘れられない光景を思い出す。格闘家の修行で血生臭い場面には慣れていたし、人の怪我も見慣れていた。それでもあんな、あそこまでひどく無残に傷つけられているのを見るのは初めてだった。
「あれは、まぁ、特別だとも思うけど……。喧嘩くらいなら手足の骨一二本で済む。そう、ひでぇことにもならなかったとは思うけどな」
「骨一二本でも、十分ひでぇことに気付けよ!? 慣れすぎだろ! 俺でもそんな日常送ってねぇぞ!」
怪我も骨折も日常茶飯事の道場であっても、笑って済ませられることではない。
「慣れなきゃやってらんねぇよ。日常が命がけなのは当たり前のことだぜ?」
カイルが住む、あるいはカイルが見ている世界とレイチェル達が見て感じている世界は違う。こうした時に、特にそのことを思い知らされる。当たり前のように明日が来る生活なんて望めない。その日一日を命がけで乗り切る。そんな自分達にはない悲壮なまでの世界観は。
「それより、あの犬……犬でいいのか? あれも町中に入れていいものか? あれ、なんだか変だぞ?」
カイルが感じているのは、主に感じるような、それでいて全く違う何かだ。独特の空気と雰囲気を持っているのに、なぜか今はそれがひどく弱々しい。まるで死んでしまう前であるかのように。
「ん? ありゃ、走狗か? 珍しいな」
「走狗も騎獣の一種さ。犬の魔獣で、気位が高く気が荒いが一度手懐ければ忠誠心も高く義理堅い質さ。問題はそう乗り心地が良くないことくらいかね。あと、餌が肉だから金がかかるよ」
長く生きて見聞の広いバーナード夫妻が答えてくれる。犬、とはいうがあれは本当に犬なのだろうか。闇に溶け込むような真っ黒い毛に、金に光る眼がギラリと煌く。見た目は凛々しくて、雄々しい。しかし、何かがおかしい。
カイルが疑念を込めた視線で、走狗と呼ばれた犬を見ていると突然頭の中に声が響く。
<そこの子供、少し近くに来い>
魔獣達との対話とは違う、はっきりと声と言ってしまえるほどの明確な意思。カイルはレイチェル達を見てみるが、不思議そうに珍しそうに走狗を見ているだけで、何も聞こえていないようだ。カイルにだけ聞こえているのか。カイルは同じような力持つダリルに視線を向けるが、ダリルも不思議そうに見返してきただけだ。
仕方がないので、カイルは言われたようにそろりと近付いてみる。レイチェル達も続こうとしたが、刺激してもいけないため手で止めてカイル一人で近づいていく。
真正面から向き合うとなお違和感が抑えられない。立ち上がればカイルの頭を越すだろう顔が、今は寝そべっているため、カイルの胸あたりにある。カイルが近付くまでは頭を上げていたが、少し距離を置いて立ち止まると組んだ前足の上に乗せた。
<やはり聞こえておるか。不思議なものよ、人の身でありながらその魂、魔力、潜在能力。我の長い生でも例を見ぬ>
「あ……あんたは、走狗、なのか?」
違うということを確信しながら聞くカイルに、表面上は笑みを浮かべながらも、頭の中に響く声は猛抗議していた。
<我をあんな犬コロなどと一緒にするでない!! 今は姿を借りておるまで、気づいておろう?>
走狗が何もしていないのに、突然カイルがびくりと体を震わせたことで警戒を強めるレイチェル達だったが、カイルは走狗? の前に片膝をついて視線を合わせる。なぜか見下ろしながら話すのは失礼な気がしたためだ。
「悪かった……。なら、なんでここに? ここは人の町だ、あん、あなたには向かないだろ?」
<道理をわきまえる者は嫌いではない。ふむ、なぜかとな。この身に宿り、人界めぐりをしておったまで。だが、少々油断しておったところに罠にかかってな。面白そうなので、そのままついてきてやったのだ>
なるほど、これほどの存在を簡単にとらえられるわけがないと思っていたが、自らついてきたのであれば納得できる。いつでも出ていけるのだから、魔獣の身では入れない町の様子を見てみようと思っていたのだろう。しかし、今、この走狗? は弱っている。それは間違いない。
<全く、人というものは何も分かっていない。我の本質も知らず、犬コロ扱いするなど。だが、まあ色々と面白いものを見れたので、良しとしておくことにした。そして、いざ脱出しようとしたのだが……>
「出来なかったのか? それは、弱っていることと関係があるのか?」
<ふむ、そこまで分かるか。やはり面白き素質よ。本来の住処でなくこの身を保つためには、相応の対価が必要。だが、ここの人間ときたら、我の糧になるものを一つもよこさん。我の気が立っていることを知ってからは近づいて来ようともせん。弱るばかりで、死にかけている今お前が来たというところよ>
「どうすればいい? 何が糧になるんだ? 俺が持ってこれるものならいいけど、そうじゃないと難しいかもしれない」
今も、希少な走狗の柵の前で座り込み、何やら独り言を言っているカイルを飼育係が睨み付けている。みだりに出入りしたり、用意したものを持ち込んでも問題になりそうだ。
<いいや、そう難しいものではない。左腕を我の方に伸ばせ>
カイルは不思議に思いながらも、柵の間から手を入れる。後に自分でも不用意な行動だと悟ったが、この時は不思議なくらい警戒心を抱かなかった。今まであってきた魔獣のどれとも違う理知的な雰囲気と、明確に言葉として伝わってくる意思に半ば人と相対している時のような感覚を覚えていたからかもしれない。
カイルの腕が魔獣の頭に触れるか触れないかの位置に来た時、死にかけているとは思えないほどに俊敏な動きを見せた。伸ばした腕だけではなく、肩口に届くほどに深くかみついてきた。カイルの左腕はすっぽりと魔獣の口内に収まり、二列に並んだ鋭い牙が服などものともせずに突き破り皮膚を裂いて肉に突き刺さる。
それまで冷静に話していたとは思えないほどの狼藉と瞬間的に伝わってきた激痛に悲鳴を上げようとしていたカイルだったが、突如として体の中から何かが、恐ろしい勢いで抜かれるのを感じ声にならない。
感じたことがないくらいの目眩と息苦しさ、体に一切の力が入らなくなるような虚脱感が広がり、カイルは両膝をついて柵にもたれかかるようにして脱力する。柵にぶつかった体が音を立てるが、そんなことは気にならない。気にならなくなるほどに、体から一切の感覚が抜け落ちている。
「ぁ…………」
カイルは小さく息を漏らすと、そのまま意識を落とした。
胸の内にある何かから温かいものが生み出され、全身を廻り始める。それは血のようでありながら目に見えることはない。
それまで全身を満たしていたそれがごっそりと失われ、今は新しく生み出されたそれがどうにか元の流れを取り戻そうとするかのように奮闘している。そのかいあってか、徐々に体が力を取り戻していく。完全というには程遠いが、どうにか命を繋ぎ、活力を与えていった。
カイルは深い闇の底で、その流れを感じていたが、新たに生み出され体を満たし廻る量が一定以上に達した時、ふっと体が浮き上がるかのような感覚を覚える。そのまま、闇の中から光の中に放り出された時、見えたのは板張りの天井。丸一日ほど前に見たものと同じ光景だった。
すなわちベッドの周りにいたレイチェルや親方夫妻、ギルドマスターのトマスがカイルを覗き込んでいた。カイルの意識が戻ったことに気付くと、みんな安堵の表情を浮かべ、次の瞬間には憤怒の表情になっていた。
「カイルっ! 何をやっているっ!」
「不注意。未知の存在には警戒心を持つべき」
「そうですわ。心臓が止まるかと思いましたもの」
「ばっかじゃねぇの。何やってんだ!」
「話ができるからと、全て分かり合えるわけじゃない」
「すまない、油断していた。だが、カイル、お前も注意すべきだった」
「困った子だよ、本当に」
「これだから目が離せねぇんだ」
「とんぼ返りだね、カイル君」
四方八方から飛ぶ非難の声に、カイルは頭を押さえて呻きながら答える。
「わ、分かった。俺が悪かった……ごめん、次からは、ちゃんと……気を付ける。だから、もう少し、抑えてくれ。……頭が、いてぇ」
頭が割れるように痛み、声がグワングワンと反響している。話だけ聞いたことのある二日酔いにも似ているが、あれよりももっとひどいだろう。みんなも言いたいことを言って、カイルが謝罪し気が済んだのか一転心配そうな顔になる。
カイルは頭痛と目眩がおさまるのを待つ。まだ、少し頭を動かすだけで天井はぐるぐるするし、体にも力が入らない。ひどい出血をした時にも似ているが、それよりも、致命的なダメージを受けた感がある。それまでは無意識だったが、先ほど闇の中で感じることができたため分かる。カイルを支えていた二つの生命線。血と魔力。
普段はその内、血を失って命の危機に陥ることはあった。それは感覚的に理解できるほどに経験がある。普通なら死んでいるであろう怪我を負ったこともある。それでもカイルは生き残ってきた。今まで気づかなかったが、もう一つの生命線である魔力がそれを補い、カイルの命を繋いでいてくれていたのだ。
だが今回、カイルはその両方をギリギリのラインまで失ったことを悟った。今も魔力は生み出され続けているが、普段には到底及ばないほどの量しか体を満たしていない。血の方はアミルが回復魔法をかけてくれたのか、こちらも回復の方に向かっている。
傷と違って、出血して失った血の回復は一朝一夕にはいかない。魔法で傷を治せても血を増やすことはすぐにはできない。ただ活力を与えて、血が生み出される速度を速めることしかできないためだ。魔力を持つ者なら、無意識でもそうした機能の強化を行うことができると言われている。というより、魔力が体の様々な機能を活性化させ生命力を底上げしているのだ。
だからこそ、魔力を持つ者は持たない者よりも長く生きるし、病気にもかかりにくく怪我も治りやすい。人の中でも魔力を持つ者が優遇されたり地位や権力を持つのはこうした理由からだ。魔力が多いほどにその傾向は顕著に出る。
カイルは生まれつき魔力量が膨大だったためか、どんなに魔法を使っても魔力を切らしたことはなかった。まして生命の危機になるほどの枯渇をしたことも。怪我の治りだって早く、他の子が病気になってもカイルだけは元気ということもあった。また、過酷な環境にありながら体の成長が抑えられるということもなく、成長できた。
「俺、どうなったんだ? あの……あとは?」
「覚えていないのか?」
「いや、左腕咬まれて、血と魔力をごっそり持っていかれたのは分かる」
左腕を少し持ち上げてみるが、傷はない。あるいは噛み千切られたのかもしれないがアミルが治してくれたのだろう。高位の光魔法では肉体の欠損も修復できる。精霊達が本気になった時にしか見たことはないが、カイルもそろそろ覚えられるかもしれない。
「そちらは理解できますのね。ですが、不可解ですわね。走狗にはそのような能力はありませんし、ましてあの魔獣はその後息絶えましたし」
「息絶えた? あの、魔獣? が?」
「ああ、いきなりカイルに咬みついたかと思えば、そのままポックリと。そのせいで飼育係が騒ぐし、お前は死にかけてるしで慌ててギルドマスターに来てもらったんだ。あのままじゃ、走狗の弁償だとか、お前の処罰だとかになりそうだったからな」
トーマは獣化までしてギルドへと急いだ。ギルドマスターはその町でかなりの顔が利く。それに、民間での騒ぎの調整を行う警備隊が再編成の最中だったため、現在はその役割の一部を肩代わりしていた。
連絡を受けたトマスが慌てて駆け付けると、息絶えて獣舎に横たわる走狗のそばでレイチェル達と飼育係の押し問答が繰り広げられていた。レイチェル達のかばうその後ろでは、カイルが床に横たわり真っ白な顔をして息も絶え絶えの状態でアミルの治療を受けていた。ハンナも真剣な表情でカイルの体を調べ、走狗の体を探っていた。
すわ何事かと事情を聞けば、カイルが走狗の様子がおかしいと言って、しばらく対話をしていたが触れようと手を伸ばした瞬間に左腕に咬みつかれ、声を上げることもなく意識を失ったという。あれだけの仕打ちにも耐えられるカイルが、咬まれたくらいで意識を失うのかと思ったトマスだが、ハンナやアミルの見解を聞いて納得した。
なんでも、大量の血と魔力のほとんどすべてを失っているという。どちらも生命を維持するギリギリは残されていたようだったが、カイルの魔力量が膨大であることを知っているトマスは、それが枯渇するということの異常さやその反動も理解した。カイルといえど気を失うはずである。魔力が枯渇した時の反動は、魔力量が多い者ほど大きいのだから。
飼育係はカイルのせいで走狗が死んだと主張し、レイチェル達は元々死にかけていた走狗が、人にとらえられたことの仕返しにカイルを道連れにしようとしたのだと主張した。走狗は野生であれば、なまなかなことでは人に下ることを良しとせず懐かない。
飼育係は、カイルに咬みついた後に走狗が死んだことを取り上げ、カイルが何かしたせいだと声高に言い放った。根拠はないが、カイルを咬んだ後に死んだことは事実だ。カイルの意識がない以上確認することもできず、弁償して罰を与えろと叫ぶ飼育係を一方的には非難できない。
レイチェル達は最初に見た時からぐったりしていて元気がないように見えたし、直前のカイルとの対話でもカイルの問いかけから弱っていることや、糧になるものが与えられていないのではと思われたこと。ならば走狗を弱らせて手懐けようとした飼育係に責任があり、カイルはその巻き添えを食っただけだという反論をする。
餌はきちんと肉を与えていたと、飼育係はその反論をつぶしにかかる。そもそも、弱っていたや糧が与えられていないなどというのは、カイルの一方的な独り言であり信用に値しないと。カークの件で、飼育係にもカイルには何か特別な力があるのではと疑っていたが、流れ者の孤児にそんなことができるなどと認めるわけにはいかなかった。
平行線をたどりそうだった互いの主張だが、ギルドマスターであるトマスが獣医を連れてきて、死んだ走狗の検死を行うと提案したことで両者の言い争いを止めた。飼育係も、カイルと浅からぬ縁のあるギルドマスターを信用せず、自分でも馴染みの獣医を連れてきて事に当たらせた。
「検死の結果、走狗の死因は餓死と判明した」
その時レイチェル達は我が意を得たりという顔をしたのだろう。二人の獣医が変わらぬ結論を出したことに、飼育係は目をむいて「馬鹿な!」と喚き散らした。飼育係は確かに毎日餌である肉を与えていた。なぜかだんだん気が立ってくる様子に、棒の先に肉を括り付けて落とすということに切り替えていたが、それでもきちんと世話をしていたはずだ。餓死などであるはずがない。
「走狗は気位が高い。人に飼われるくらいなら、自ら死を選ぶくらいのことはすらぁ」
親方も、納得のうなずきを見せる。柵の中を調べてみると、手が付けられていない腐りかけの肉がたくさん見つかった。飼育係は気性の荒い走狗の柵の中を掃除することを恐れ、餌に手を付けていないことに気付いていなかったのだ。
結果、走狗は緩やかに死へと迎い、息絶える直前にカイルを見た。こちらのことを気にしている様子から、近くまで呼び寄せ、対話をして実情を伝え油断させたところで、一矢を報いた。かろうじてカイルの腕も命もつながっていたが、その傷は深くダメージは重かった。
飼育係は恐れてきちんと世話ができていなかったことで客を死なせかけた監督責任を問われるはずだったが、カイルの不用意な行動もあり、相殺ということでどちらも不問にすることが決定した。




