エスペラントと呼ばれた少年
「…………元々、摘発作戦の草案はありましたが、それが具体性を持ち、メンバーを募集して始動するきっかけになったのが、そのロレーヌの町の逃走劇です。まさか、それにカイル君が関わって……というより、カイル君によってそれがなされたとは……」
テッドはどこか頭痛をこらえるかのような顔をして頭を押さえていた。上がってきた報告書から、それが被害者の一人が奮起して起きたことだとは知っていた。
それまで被害はあれど証拠はなく、目撃者もおらず、誰一人として発見されることがなかった人身売買組織による被害者達。
それが一度に十数人という単位でギルドによって保護されたのだ。被害者の聞き取りやケアも含め、対策チームが組まれるのも自然な流れだった。
そして、逃走の際に最も貢献しただろう被害者の一人が取り残され連れ去られてしまったことも知っていた。
しかし、被害者達の心情やプライバシー、何より安全のために被害者達の詳細は明らかにされていなかった。下手に広まってしまえば、被害者だけではなく、その被害者の周辺、つまりは家族にも累が及ぶかもしれないということで。
また、それだけのことをしてしまったのであれば、たとえ連れ去られたのだとしても生存が絶望的だということもあった。その犠牲者の周辺の者達に騒がれないためにも秘匿されたのだ。
それに、当時からブリアントの背後には国のトップに近しい者達の存在があるのではと疑われていたため、情報は対策チームのみにとどめられ、国の上層部であろうと詳細は事後まで知らされていなかった。
摘発後に知る機会もあったのだろうが、なぜか関係者達の口は重く、その名が上がることもなかった。みんなどこか罪悪感に駆られている様子が見られたのだ。
それは、多大な貢献をしてくれただろうその被害者を助けられなかったことに起因しているのだと思っていた。事実、上がってきた報告書において、かの人物は死亡したと記されていた。
死亡した経緯も記されることなく、ただ、死んだという事実だけが簡潔に書かれていた。少々不思議に思った部分ではあったが、その後の火消しと被害者達の救済に当たる中でその疑問も薄れていった。
それ以前の報告書の中では幾度となくその名が出てきたにも関わらず、その死に関してはあまりにも簡素だったことにもう少し疑問を持つべきだったのだろう。
本名を伏せながらも、無視することができないほどの貢献をした人物を指し示すための通り名。それはその人物に助けられた者達が自然とそう呼ぶようになった名でもあった。
名を伏せることの重要性と必要性を説かれた者達が呼ぶようになったその名。彼女達に希望を与え、そして進展が見えず解決の糸口がつかめなかった組織に大きな爪痕を刻み、解体するためのきっかけを作った者。
『エスペラント』、そう呼ばれながらも、その功績による恩恵も、成し遂げたことに対する評価も与えられることなく死亡し、歴史の影に消えていったと思われていた者だ。
「君が……エスペラントでしたか。ずっと知りたいと思っていましたが、対策チームの意向と強い要望でそれが誰だったのかということはずっと秘匿されていました。おそらくそれは、死んだと思われていたかの者の行いを汚させないためだったのですね」
エグモントが納得がいったという顔をした。なぜかエスペラントの素性を知る者達は皆頑ななまでにその正体を語ることを拒んだ。
それは、エスペラントと呼ばれていた者が、世間においては忌避され蔑まれる流れ者の孤児という境遇にあったからなのだろう。
もしそのことが知れてしまえば、彼の者の行った崇高ともいえる行いが否定され、侮蔑の言葉を投げかけられるかもしれない。
実際に彼に関わり、彼によって救われた者達はそうなることが耐えられなかった。自分達の希望が、救世主が心ない言葉で罵られることが許せなかったのだ。
「エスペラント? 俺、そんな風に呼ばれてたのか?」
カイルとしては、自分の名以外名乗ったことはない。だが、考えてみればあれほど大きな事件になったのに、カイルの名が広まっていないというのはおかしなことだろう。
そんなことを気にする暇も余裕もなかったから、そこまで大層な名で呼ばれていたことは初めて知った。
「俺がやったことっていっても、大したもんでもないだろ? 脱走の補助と情報の漏洩、くらいしかできなかったし……」
逃げた被害者達を保護したのも、漏洩させた情報を生かして組織の解体を行ったのもギルドを主体とした対策チームだし、その背後にいた権力者達を捕らえたのは国だ。
カイル自身では、自力でそこから逃げ出すことさえできなかったのだから。一度だけその機会はあったが、自分でそれをつぶしてしまった。そのことに後悔はないが、浅はかであったとは思う。
もう少しうまくやれていたら、何度も死にかけるような思いをしなくてもよかったのかも知れない。自分がやったことで、他ならぬ助けた人を傷つけてしまうこともなかっただろう。
アマンダもまた、そのうちの一人なのだろう。組織の解体によって逃げる機会を得たが、カイルとの出会いによって歪んで狂っていたとはいえ自尊心を傷つけられ立場を悪くしてしまったのだろうから。
「いやいや、ずっとそれができなかったから手を焼いていたんだよ! 攫われた人を助けることもできず、潜入して必要な情報を集めることもできない。そんな中で、囚われの立場でありながらそれを成し遂げたエスペラントに対する評価はすごく大きいんだ!」
カイルの言葉を否定するように興奮したトレバースがまくしたてる。そう、もし生きていたならば貴族にとりたてられるほどのことを成し遂げたのだ。
だから、報告書によって死亡したと知った時にはひどく落胆した。素性だけではなく性別・年齢も伏せられていたエスペラントだったが、それだけの評価を得るだけの成果はあげていたのだから。
当時は対策チームであってもエスペラントがもたらした情報や書類をどうやって得ていたのか謎だった。だが、エスペラントがカイルであるというならその謎も解ける。
「数々の証拠書類と顧客リストに内部情報、それらすべて精霊の力を借りて得ていた、というわけか?」
ギュンターも話に入ってくる。エスペラントがもたらした情報や証拠などに関して、当時もかなり紛糾したものだ。どうやってこれほどまでに重要なものを、組織の人間に気付かれないように確保し、脱走する者達に託せたのかということが。
伏せられていた個人情報と併せて大きな謎の部分でもあった。そればかりは対策チームであっても理解が及ばない部分でもあったのだ。
「まぁ、な。精霊の目と耳を借りて内情を探り、隙を見計らって重要書類を模写してすり替え、原本を手に入れる。それを保管したり託すのも精霊に頼んでた」
思えばあの時ほど精霊に頼った時もなかったかも知れない。自分自身で動けなかった分、精霊達にはいろいろと無理を言ったように思う。最も、後から聞けば結構喜んで手を貸してくれていたようだったが。むしろ、カイルを直接助けられなかったことを嘆いていた。
「なるほど、あれだけの書類を持ち出されながら気付かなかったのはそういうことか……」
いくら世界に根を張る人身売買組織といえど、まさか囚われの身であり商品であるものがそれほど大それたことをしているとは思わなかったのだろう。あるいは、カイルがやったと思しき脱走のほうにばかり目を取られていたのかもしれない。
普通の人にはできない、見えない精霊達だからこそできたことであり、カイルだからこそそんな精霊達の助力を得られた。それが結果的にはブリアントの解体につながったのだ。
「その精霊の力を使って逃げることはできなかったのかい?」
それだけのことができたならば、逃げることだってできたのではないか。そう考えたトレバースだったが、カイルの顔を見て言葉に詰まる。
カイルはどこか疲れたような、それでいて申し訳ないような顔をしていた。
「ん、あの場にいた精霊達だけじゃ、無理だっただろうな。精霊は穢れを嫌い、純潔を好む。裏にいるような人間に近づく精霊はほとんどいないし、俺に元々ついてくれてた精霊達には、そこまで強い力を持つ者はいなかったんだ」
書類のすり替えや保管をしてくれた空間属性の精霊も、カイルそのものをアジトの外に転移させられるだけの力はなかった。また、短距離転移ができたとしても、そんな大きな力を消費してしまえば続けて転移することもできない。短距離転移を繰り返して逃げるという方法もとれなかったのだ。
「鎖を壊すくらいなら自力でもできたけど、自立歩行もままならない状態じゃ逃げるに逃げられなかっただろうし……」
時間はかかったとしても、生活魔法の応用によって鎖を断ち切る方法はあった。でも、動けなければ、逃げられなければ意味がない。
眉をひそめて、カイルの言葉の意味を考えている面々にカイルは当時の状況を語る。囚われて一カ月は日夜雑用に明け暮れていた。いろいろな意味で組織のメンバーの欲求やストレスのはけ口になりつつもまだ、商品としては扱われていなかったのだ。
それはカイルの年齢や性別が理由だった。適齢期というか、ある程度成熟した女性達を売りにしていたブリアント。いくら容姿に優れようと、カイルを売り出すのは組織のプライドに関わるのではないかということで。
そのおかげで、カイルはその一カ月を使って様々な準備が行えた。その時にはまだ、カイルには魔法が使えないと思われていたこともあって警戒が薄かったということもある。
逃走経路を複数確保し、組織の者達の動きを観察して把握し、逃走に必要な物品をそろえたりもした。その時点で逃げ出すことも可能だったのだが、カイルが囚われた時からアジトにつかまっていた女性達を見捨てられなかった。
カイルが組織の人間に歯向かって怪我をした時に傷を治してもらったこともある。まだ幼いともいえる年齢のカイルを気遣ってもくれた。だから、逃げるなら彼女達も一緒にと考えていた。
そして、逃げた後自分達の保護をしてもらうためにも、被害者達の身柄の重要性や危険性も示さなければならなかった。
対策チームにとってのどから手が出るほどほしかった情報も、カイルにとっては取引材料の一つにすぎなかった。あくまで自分達の身の安全を確保するための手段として有用そうだからこそ手に入れたものだった。
綿密に見張り達のスケジュールを調べ、魔法を使って周囲を確認しながらの最初の逃亡劇。途中まではうまくいっていた。予定外の客人の訪問さえなければ、逃亡したことが露見するのにはもう少し時間的な余裕があっただろう。
彼女達が押し込められていた牢屋の巡回の間隔は十五分。余裕を見たとしても十分以上の猶予はあったはずだった。しかし、逃亡から五分で事態が発覚してしまった。
そうなってしまえば、あとは隠密など二の次だった。急いで予定していた逃走経路まで導き、しんがりを務める予定だったカイルは念のために集めた書類を一人に託した。
このままでは十分な距離をあける前に追いつかれると思ったから。逃げた後追撃を防ぐために道をふさぐだけでは足りない。もう少し時間稼ぎが必要だった。
本当はどうしようもなく怖かった。一度のみならず、二度までそんなことをしてしまえば次こそは殺されると思ったから。
けれど、青ざめた顔で泣きながら逃げている彼女達を見て覚悟を決めた。彼女達だけでも逃げ切れるように道をふさぐだけではない。自身が別の逃走経路に向かうことで眼をそらそうと考えた。
最も、逃げることを諦めたわけではなかった。幻影を使って自分達の幻を作り出して惑わせ、自身は姿を消して移動した。しかし、あと一歩及ばなかった。
裏社会にいる者達は闇属性に長ける者が多い。何かを隠したりごまかしたりするのに最も使い勝手いのいい属性だからだ。カイルの幻影は見破られ、姿を消していた魔法も打ち消され捕まってしまった。
行き先が決定していた商品達を逃がされたブリアントの怒りはすさまじく、拷問とも呼べる仕置きをされた。そして、二度と逃亡を企てられないよう手足の筋を断ち切られ、その上で鎖に繋がれた。
さらには、カイルのせいで生まれた損失を補てんするために特別な商品として売りに出されることになったのだ。アマンダと出会ったのはそうなってから四カ月ほどたってからだろうか。
ブリアントに次ぐ人身売買組織との会合があったのだ。その時に、互いの組織の目玉商品として引き合わされた。
裏社会において失敗とは、たった一つであっても組織の破滅をもたらしかねない。ブライアンの組織が闇の大精霊を失ったことで崩壊したように。アマンダを連れてきた組織も、相次ぐブリアントの失態に下剋上をもくろんでいたようだった。
だから、互いにとって切り札とも言える商品を見せ合うことでどちらが上かを示そうとしていたのだ。その時、狂い壊れていたアマンダは人としての羞恥心も忌避感も何も持ち合わせていなかった。
客の要望に合わせてどんな痴態でも演じて見せる。その上女としての成長をする前から仕込まれた技術はどんな男でも喜ばせることができた。できると自負してもいた。
アマンダ自身の珍しい髪や眼の色もあって国内における裏での人気は随一だったのだ。負けるはずがないとアマンダもその組織も考えていた。
落ち目のように見えたブリアントにアマンダを超える商品を用意できるはずがないと。ブリアントもそうだが、尻尾をなかなかつかませない人身売買組織は人を売るが現物のやり取りはしないのが特徴だった。
現物、つまりは人のやり取りは移送や管理の観点から足がつきやすく証拠が残りやすい。だから商品の管理はすべて組織が行い、客に通ってもらうという形をとっていた。
一晩、あるいは一人いくらで、その後の処理まで含めた値段で取引を行う。金を払った客は金額によってある程度の制約はあるものの、好き勝手なことができて後処理はすべて任せることができる。
その上、金と時間をきちんと工面できれば大きなリスクなく楽しむことができるのだ。商品を保管する場所も人手も経費も必要としない。その分値段は高くなるが、露見して捕まりすべてを失うリスクに比べれば安いものだっただろう。
だからこそ、顧客は多くその闇は深かった。色町では決してできない行為が可能になる、金額によっては相手を殺してしまったとしても問題にならないのだから。
そんな彼らにとって目玉商品とは、希少価値があり客を喜ばせ、高い金額を払ってもまた買いたいと思わせる魅力があること。その上で、長持ちするということだ。
不思議なことに、あんな正気ではとても耐えられないような場所に人を買いにきているのに、客は人間味を失ってしまったような商品を嫌う。非合法であろうと誰にはばかることなく、人らしい人を蹂躙することに快楽と興奮を感じて通うのだ。
だから、人としては多少狂ってしまっていても人形のように感情も表情も無くしてしまったわけではなく、客の要望に答えて痴態を演じるアマンダは貴重な商品といえた。
幼いころから”教育”という名の”調教”をすることで、そうした商品を作り出せることを知っていた組織にとっても最高傑作と言えるものだった。
しかし、エスペラントと呼ばれていた少年は、そんな彼らの考えも自信も打ち崩した。四肢の自由を失っても、薬や魔法で自我や理性を抑制されても、おぞましい欲望の波にさらされても、人が持つ強さや美しさを失わず、折れぬ意志を見せつけた。
それは闇の中に咲く一輪の花のようだった。その誇り高さに、光に引き寄せられるように、最初はアマンダに群がっていた判定役を任されていた客達はカイルに殺到した。
自分を捨ててまで生にしがみつき、愚かな女を演じていたアマンダは、命を失ってでも自分を見失おうとはしなかったありのままのカイルに負けたのだ。




