予測外の仕掛け
周囲に広がる何とも言えない空気と、その中で響くすすり泣きの声に、カイルは困惑すると同時に久方ぶりに頭を抱えたくなった。
カイルの足元にうずくまり、両手で顔を覆うようにして小さなすすり泣きの声を上げるのは、皇国のある貴族の妻だという人物だ。
とはいっても、カイルとしてはなぜ彼女がこうやって泣いているのか分からない。まぁ、周囲の精霊達の反応からこれがある意味カイルに対する攻撃であることは分かっているのだが。
ことの発端は新年が明けて初のパーティのさなかに起きた。相も変わらず、あちこちから声をかけられるカイルだったが、休憩のためにホールから席をはずして、中庭に出た。
ここはホールから直接外に出ることができるようになっている。カイル以外にも、酔いを覚まそうとしたり、親しくなった相手と良い雰囲気になった男女などがちらほらと見られる。
デリウスのこともあるので極力一人になることは避けるように言われていたが、ここなら人目もあるし常にクロがカイルの影に潜んで警戒している。問題は起こらないだろうと思っていた。
だから、件の女性が眼に入った時にもそう警戒はしていなかった。というより、見ただけで隠しきれない悪意が透けて見えていたのであえて警戒する必要性を感じなかったというべきか。
多くの大精霊達と契約したためか、あるいは精霊王とのつながりが生まれたためか。以前よりもずっと人の悪意や闇といったものに敏感になった。
だから、相手の目を見なくても、何かよからぬことを考えているものは見ただけで分かるようになったのだ。カイルの素性が明らかになり、剣聖と分かってから手のひらを返したようにカイルに近づいてくる者達の八割はそんな者達だった。
とはいっても、カイルに直接害をなそうとしたり、動きを阻害するというようなことはなかった。ただ。カイルと懇意になって自身の保身と利益につなげようというものだった。
だが、彼女から感じたのはそんな間接的な悪意ではない。どちらかといえば直接的で、けれどそうなった要因が見え辛いもの。
裏社会の者達が向けてくるような、理不尽でいて否応なしにこちらを飲み込もうとするかのようなドロドロとした悪意だ。
夜になり、ホールからの明かりが届くとはいっても薄暗い中庭で、それでも鮮やかに浮かび上がる深紅の髪、向けてくる眼はきれいな青色をしていた。けれど、その眼の中に宿る感情はひどく濁っている。
彼女を見ていて、カイルはどこか見覚えがあるような、それでいてかすかに焦燥感を感じるような感覚に内心で首をかしげる。
こんなパーティに招かれるような知り合いはそう多くないはずだ。それに、物覚えは悪いほうではない。一度であっても顔を合わせ、言葉を交わしたことがあるなら記憶に残っているはずだ。
それに、こんな風に恨まれるというか憎まれるのであれば、少なからず接触があったはず。それなのに、すぐに思い出せないのはなぜなのだろう。
そんなことを考えていると、その女性がカイルの視線に気づいたように距離を詰めてきた。カイルは不自然にならない程度に身構えて彼女を待つ。
考えても分からない、思い出せないのなら話してみるのも手だろう。声を聞けば何か思い浮かぶことがあるかもしれない。視覚で覚えていなくても聴覚で覚えていることは存外多い。
「こんばんわ、良い夜ですわね」
貴族らしく、微笑を浮かべ穏やかな声で語りかけてくる。それだけなら他の者達と何ら変わりはない。眼だけが笑っていないのでなければ。
「ああ、そうだな」
カイルも言葉少なく答える。やはり声を聞いてもすぐには思い浮かばない。一体どこで彼女と知り合い、あるいは知られて憎しみを買うようなことになったのか。
人に恨まれるような生き方をしてきたつもりはないが、知らぬところで恨みを買う可能性はゼロではない。ここまでぴんと来ないのであれば、向こうの一方的な逆恨みの可能性もある。
「わたくし、アマンダ・フォン・ディズーリアと申します。皇国にあるディズーリア伯爵家に嫁いだものですわ」
貴族階級でも伯爵位といえばそれなりの家のはずだ。皇国に知り合いもいなければ、ディズーリア伯爵家にも聞き覚えなどない。ならば、その伯爵家からの因縁ではないだろう。
では、このアマンダ本人ということになるのだが……。カイルははっきりしない記憶に苛立ちを感じながらも向こうの出方を見る。
いかに個人的な恨みがあろうと、伯爵家の者である以上カイルに何かしてしまえば、伯爵家だけではない皇国全体の問題にもなりかねない。その中で、彼女がどんな手を打ってくるのか。そして、その背景は何なのか。
デリウスの息は掛かっていないだろうと思われる。彼らならこんな拙いとも思える手段をとることはないだろう。それくらいならむしろ思い切ってパーティを襲撃してくるに違いない。
単純に考えればハニートラップなのだが、相手が人妻である以上カイルよりも向こうのほうが不利益を被るに違いない。それに、レイチェルのこともあって、そういった誘いを断っていることは周知のはずだ。
カイルが剣聖と知れた後、あちこちから見合いや結婚の話も舞い込んできた。できることならば抱え込みたい人材だからだろう。
そういった相手を抑え、また自身とレイチェルのためにも二人の関係を明らかにしていた。レナードには事後報告になってしまうのだが、精霊界でレイチェルと再会した後、お互いに感極まって話だけのつもりが行き着くところまで行ってしまった。
言葉で恋人になる以前に、肉体的な関係を持ってしまったのだ。その時のレイチェルは、まぁ、非常に可愛かったとだけ言っておこう。
普段の凛とした様子ではなく、不慣れて初なことが丸わかりで、むしろカイルのほうが余計な気を使ったくらいだった。
冷静になって、やってしまったなという後悔はあったのだが、レイチェルの幸せそうな顔を見ていればそんな小さな後悔など吹き飛んでしまっていた。
新年のあいさつがてら、レイチェルの両親や兄弟にも報告に行ったのだが、反応はそれぞれだった。レナードは気難しそうにしながらもどこか嬉しそうに。母親のティナはにこにこと笑いながらレイチェルをからかっていた。
弟のランドは驚きつつも祝福してくれたし、妹のマルレーンは顔を赤くしながらもお祝いの言葉をもらった。こうやって家族が増えていくのかと思えば、守りたい、守らなくてはならないという気持ちもより一層強くなった。
そんなこともあって、カイルと同じようにレイチェルも剣聖筆頭になった時以上に時の人となっている。現剣聖の恋人として。
二人ともまだ成人していないことや、デリウスとの戦いもあるので婚姻は結んでいないが、公的にもカイルのパートナーとして認められることになった。
パーティにおいても、お互いにお互いを好きあい大切に思っていることは伝わっていると思う。教育の一環で習ったダンスをレイチェルと踊ったり、空いた時間に剣を合わせたりもしていた。
だから、その関係でレイチェルを使える人質として狙ってくるというなら分かる。カイルもそれを警戒していて常に気にかけているし対抗手段も仕掛けている。
カイル自身に仕掛けてくることも考えているが、その中でもハニートラップは少々ハードルが高いと言わざるを得ない。
こういった仕掛けの時に必須となるような薬や魔法はほぼ今のカイルには通用しないし、容姿がいいというだけで惹かれるほど甘い人生を歩んできたわけではない。
一体どういう思惑で、どんな仕掛けをしてくるつもりなのか。そして、それは彼女の今の立場と人生をかけてまでやらなければならないことなのだろうか。
どこか彼女の今の姿や立場と、彼女自身の悪意や思惑がちぐはぐに思えて、今一つ対処の仕方に困る。純粋な悪意を向けられるなら対応できる。それに見合った反撃をすればいいのだから。
だが、彼女の悪意はカイルを見ているようでいて、どこか遠くを別の方向を見ているように思う。だから、直接手を下していいものかどうか判断に困っているのだ。
彼女自身も精霊達の反応からすると中途半端だ。善性とは間違っても言えない。だが、悪だと判断するには首をかしげざるを得ない。精霊からの烙印もらっていないようだし、下心をもって近づいてくる貴族達とも違う。
どちらかといえば、そう、孤児達が路地裏の暗がりから表の人々を見る時のような、そんな眼をしている。だからだろうか、相手が何かたくらんでいると分かっていてもその場を離れたり誰かを呼んだりしようと思えなかったのは。
そうすることは、どこか彼女を見捨てるような、切り捨ててしまうような気がしたから。
もしかすると、彼女は同じなのかも知れないと思ったから。自分達と同じ、孤児としての、見捨てられたものとしての過去を持っているのではないかと。
そうであれば、見覚えがあったのだとしても不思議はない。カイルは十一歳の時からは特に、数多くの孤児達と関わってきたのだから。
「驚きましたわ。その年で剣術大会で優勝することもそうですが、剣聖となり、さらにはあのお二方の息子だなんて」
「ああ、自分でも驚いてるよ。ここに来るまでにはもっと時間がかかると思ってた」
時間はかかっても、必ず同じ位置まで上り詰めるつもりではあった。そういう意味で答えたのだが、なぜかアマンダは一瞬眉をしかめ、苦々しい顔をした。
カイルの言葉の何かが彼女の癇に障ったのだろうか。だとしても本心からの言葉なので取り下げるつもりはないが。
「そう……ですの。やはり、あなたは……」
アマンダは口の中で何事かをつぶやいていたが、それは明確な言葉になることはなく、鋭い五感を持つカイルの耳にも届かなかった。
「わたくし、主人とは二年前に出会いましたの。その時のわたくしは、とてもではありませんが主人に釣り合うような存在ではなく、けれど、主人はそんなわたくしを愛し、救ってくれました」
唐突に始まった、アマンダの話だが、カイルは何も言わずに付き合う。一見して感動的な身の上話のようにも聞こえるが、どこか必死な心情が感じ取れたからだ。
認めてもらいたい、あるいは見せつけてやりたい。けれど、その奥で知ってほしい、見てほしいというかすかな声が聞こえた気がしたから。
「そして、一年半前わたくしは主人の妻となることができました。主人には心から感謝しております」
「そう、か。良い人に出会えたんだな」
カイルにとってのグレンやアリーシャ、レイチェル達のように。一生を共にできる存在に出会えた。それは何にも勝る幸運だろう。
「ええ、ですが、時々とても不安になるのです。この幸せはいつまで続くのか。いつか、誰かに奪われてしまわないかと」
アマンダの肩がかすかに震えている。それが本心からの恐怖から来るのか、あるいは演技なのか。二歩ほど距離をあけて佇むカイルには分からない。顔をうつむけているので心情もうかがえない。
「わたくしの素性は主人の家族しか知りません。それ以外の方々には、遠方にある遠い親族ということになっていて……」
もしアマンダの過去が、カイルが考えたように孤児だったとするなら、普通なら貴族の妻になることはできなかっただろう。
知り合ったのも、もしかすると外聞がよくないような場所なのかもしれない。それでも、互いに惹かれあい愛し合ったからこそ夫婦になった。それならば美談に終わる。
実際、アマンダが主人と言うときには、純粋な愛情がこもっているように思えた。彼女の中に夫に対する愛情があることは間違いないだろう。自分を救いあげてくれたのならなおさら、夫に対する愛は深いはず。
だが、それを持ってしても打ち消すことのできない思いがあるのだろう。あるいは、看過しておく事のできない感情が。それが、こうして今現れているのだろうか。
ならば余計に、彼女への対応は慎重に行わなければならない。下手に敵を作って、デリウスとの戦闘中に背中を刺されるなど冗談ではない。
「だから、あなたの姿を見た時に目眩がしました。今も、震えが止まりません。もし、わたくしの過去を暴かれたりしたら、そう思うと夜も眠れなくて……」
アマンダは体を震わせながら顔を上げる。その顔は演技でできるのであれば表彰ものだろう。青ざめていて眼には涙が浮かび、唇も震えていたのだから。
そして、嘘かまことかフッと倒れそうになる。普段なら既婚者ということも含めて体に触れることがないよう魔法で受け止めるところだが、下手に魔法を使ってしまえば大騒ぎにもなりかねない。
そう思って、倒れる前に距離を詰めて体を支える。肩と背中に手を添えて、座れる場所はなかったかとあたりを見回した。
そこで、アマンダが思ってもみなかった行動に出た。というより、まさかそれをやるとは思わなかった行動というべきか。
中庭だけではなく、ホール中に聞こえるだろう声で悲鳴を上げたのだ。それから、両手でカイルの体を突き飛ばして地面に座り込み、嗚咽を上げ始める。
この調子では、手を差し出すことも逆効果だろうとすすり泣く彼女を見ながら、困ったような顔を浮かべていた。
結局、あの後アマンダの主人であるボレウス・フォン・ディズーリア伯爵がきて彼女をなだめ、騒ぎを聞きつけた王族達が集まり、何事かと警備まで駆けつけ、なかなかの見世物になってしまった。
そういうわけで、事情を聴くために当事者であるカイルとアマンダ。アマンダの夫とアマンダ付きの侍女が彼女に付き添い、カイルにはレイチェル達がついて別室に集まることになった。
何かまずいことがあってはいけないということや、この騒ぎに乗じて何か起こらないとも限らないので、各国の王族達もその部屋に集まり、ホールの警備も強化された。
思ったよりもずっと大事になったことに、カイルはため息をつく。こういう騒ぎにしたくなかったから個人で対応したというのに、本当に彼女は何を考えているのだろうか。
これでは彼女自身や家名に傷がつくだけではない。国とカイルとの親交をも阻害しかねないだろうに。まぁ、カイルとしてはこんなことでつながりを断ち切る気も、何かを要求する気もないのだが。
「えーっと、それで、何があったか教えてくれるかい?」
トレバースも予想外の騒動に戸惑っているようで、どこか遠慮がちにカイル達に尋ねてくる。カイルはちらりとアマンダを見る。
今は少し落ち着いたのか泣きやんでおり、夫の肩にもたれるようにしてソファに座っている。その様子をソファの後ろにいる侍女が心配そうに見ており、ボレウスは心配そうにしながらも、どこか敵愾心を含んだ眼でカイルを見てくる。
その顔には見覚えがある。皇国の貴族達と会話した時にいたうちの一人だ。しかし、その時にはどちらかといえばカイルに対して友好的な態度だったように思う。
それが、今では親の敵というか妻に対して不埒なことを働いた間男を見るかのような眼で見てくる。それにもまた一つため息をつく。
ある意味ではカイルにダメージを与えることはできているが、その狙いがさっぱりだ。カイルに乱暴をはたかられたと訴えるつもりなのだろうか。
だが、あそこにいたのはカイル達だけではない。他にも人はいたし、カイルはいろんな意味で目立つのであの時のことを目撃した者も多いだろう。ならば、倒れそうになったアマンダを支えただけだとすぐに分かりそうなものなのだが。
むしろそれで傷がついて困るのは彼女のほうだ。カイルはレイチェルと恋人とはいえ、結婚しているわけではないし、一夫多妻も許される世の中、浮名を流したとしてもそこまでのダメージにはならない。
本当に何が目的でカイルに近づいてきたのか。それを知るためにも、アマンダの話を聞いてみたいと思った。




