悪意の矛先
ダリウス→???サイド
町の地下に作られ、日の差すことのない地下に獣の唸り声のような怨嗟の声が上がる。その声に地下にいる者達のほとんどが震えあがり、息をひそめるようにして身を隠していた。
その者の眼に入ってしまえば、何の過失がなかろうとも八つ当たりで殺されてしまうことが誰にも分かっていたから。腹心の部下であろうと、恐怖のあまり近づくことができなかった。
そんな場所に一人取り残された男は、今だに消えない胸の内から沸き起こる怒りに、座っていた椅子の肘かけを握りつぶす。
「この、わたしが謀られただと? 王国に、五大国に、あんな、あんなガキどもに騙されていたというのかっ!」
ぎりぎりと歯をかみしめ、怒りに震える体を抑えきれずにあたり散らす。体からは瘴気にも似た黒い魔力が立ち上がり、それが部屋の中を覆い尽くしていく。
常人が触れれば立ちどころに命を落としてしまうだろうその魔力は、その男の動揺と怒りによってか震えている。
『ククククク、無様なものだな。まさか、貴殿が読み間違えるとはな』
常人どころか、幹部さえも近づくことを忌避する空間に唐突に男とは別の声が響く。それは男のような女のような、子供のような大人のような、不思議な響きと高さの声。
だが、間違いようがないのはその声が男を嘲笑っているということ。自信満々に、起死回生と今一度組織を引き締めるために行った襲撃が無様に失敗したことを笑っている。
「黙れっ! 貴様とて、貴様とて予想していなかっただろうっ! 三つの盟約魔法のことはっ!」
『それはそうだろう? 普通なら、人が逆立ちしようと不可能な所業だ。予測できるはずがあるまい?』
苛立ち紛れに反論されようと、不思議な声の持ち主は動揺しない。
「このままでは、貴様の計画とて実現できなくなるかもしれないのだぞ!」
もう少し真剣に考えたらどうかという男の言葉に、不思議な声の持ち主は鼻を鳴らして答える。そんなことは些事だとでも言わんばかりに。
『問題はないさ。わたしの計画に支障はない。むしろ、困るのは貴殿のほうだろう?』
慌てる必要などないのだ。少々筋書きが変わろうとも、彼自身の計画には何ら支障など出ていないのだから。利害の一致から手を組んだ男の組織が困るだけで自身には影響しない。
「何だとっ! そもそもは、貴様が言い出したことだろうっ!」
『いいや? そもそもは貴殿の一族の悲願ではなかったか? わたしは、少々それに手を貸す代わりに見返りを求めただけ。感謝はしているが、貴殿との関係は対等。違うか?』
男は怒りの言葉を飲み込み、唇をかみしめる。そう、あくまで組織とこの不可思議な存在とのつながりは対等。必要以上に協力を求めれば、それに見合うものを返さなければならない。
今の段階ではこれ以上この男にささげられるものなどない。いや、できなくなったというべきか。忌々しいのは、今まで散々排斥してきたであろう存在達をいきなり懐に抱え込み始めた大国の者達だ。
だが、その原因は分かっている。いや、ここまで追い詰められた原因はたった一つしかなかった。そのたった一つの原因で、組織の計画が破綻しかけている。
ここまで長い年月をかけてきた。あらゆる方面に手を伸ばし、知略と策謀の限りを尽くしてお膳立てしてきたのだ。それなのに、いきなり盤上をひっくり返されたような気分だった。
「ロイド、やはり貴様はどこまでもわたしの邪魔をするのかっ……。今度はその息子までもが、わたしの道を阻もうと……おのれっ、おのれっ!!」
一年半ほど前、ここで高笑いをあげたときとは真逆に、男はかつての宿敵に怨嗟の声を上げる。あの男は愛する者達の後を追ったのではない。愛する者を守るために、自らつながりを断ったのだ。
宿敵に、たった一つ残された自身の希望を、光の存在を悟らせないために。決して見つけられないようにするために、自らという情報源を断ち切った。そして、それは成功したのだ。
彼らは偽物が現れるまで、息子の存在を知らなかった。世界的に広がった情報により、それが真実であると信じてしまった。何よりも情報の不確かさや危うさというものを知っていたはずの自分達が、自分が騙されたのだ。
『まったく、驚くべき存在だ。非常に興味深くもあるが……それ以上に脅威で、邪魔であることは疑いようはないな』
男の狂乱する様子を面白そうに見ていた存在は、そうつぶやくと眉をしかめる。その存在にとって興味深い存在であることは間違いない。だが、いざ敵に回すと厄介でこれ以上ないほどの敵であることにも違いはない。
もっと早くに始末しておくべき存在だった。それができなかったのは、神界にて眼を光らせている存在に気づかれないようにするため。極力身をひそめる必要があった。だが、もう個体の特定はできずとも裏切り者の存在は知れただろう。
これから先、どう動くかはこの男だけではない、彼自身にとっても重要なことだった。彼からすればこの男もただの手駒でしかないが、それなりに使える存在ではある。ならばせいぜい役に立ってもらおう。
「殺さなければ……だが、もし利用できるのならば…………」
ぶつぶつと男が頭の中で計画を練り、修正していく。彼がこの男に一目置いている部分でもある。人にしては驚くほどに知恵が回る。それも、悪い方向には特に。
人の悪意と負の感情をどこまでも巧みに操り、そそのかす手腕だけは認めていた。どんな策略が練られるのか、楽しみにしながら現れた時と同じく、すっと消えていった。
暗い、暗い闇の中にいた。ある日突然、悪意の渦に飲み込まれ、訳が分からないままに闇の中に飲み込まれていた。
今でも時折夢に見るのは、そうなる以前のとてもとても幸せだったのだと今なら分かる温かな日々。父がいて母がいて、兄と姉がいた。
今となってはその顔をはっきり思い出すこともできない。けれど、確かに平穏で温かで穏やかな日々。それが崩れたのは九歳の時だった。
隣町にある母方の祖父母の家を家族で訪ねることになった。大戦により、情勢が不安定になってあちこちの村や町でデリウスの襲撃が起きていた。
その影響で町を離れたり疎開したりする者も少なくはなく、彼女の家族もその中の一つだった。彼女がもともと住んでいた町はそれなりに大きく、王国の中においてもそれなりに重要な町の一つだった。だから、襲撃の危険性は高く、町を離れる者も多かった。
変わって、祖父母達が暮らしていた村は小さくのどかで、おおよそ襲撃されるだろう要因など見当たらない場所だった。だから、大戦が終結するまで、そちらに身を寄せることになったのだ。
自分達と同じくその村に向かう者達と、その間の護衛を頼んだハンターや傭兵達に連れられておぼろげな記憶にある村にたどりついた。
町や村から一歩でも出れば魔物や獣達が跋扈する人界においては、たとえ親類であっても同じ町や村に暮らしているのでなければそうそう会うこともない。だから、祖父母達は非常に歓迎してくれたことを覚えている。
慣れない環境に戸惑いながらも、家族が一緒にいることに安堵し眠りに就いた翌日だった。魂が凍えそうな悲鳴と、体がびりびり震えそうな轟音で眼が覚めた。
何が起きたか分からず、部屋で震えていると母が迎えにきた。とても慌てていて、顔色も悪くて、寝巻のまま連れ出された彼女は家の外に出たことで何が起きたか知った。
デリウスによる、襲撃だった。襲撃される理由などない村に、彼女達がもともと住んでいた町よりもはるかに少ない人しかいないこの村に、ドラゴンに率いられた魔物達や魔獣達が入り込んでいたのだ。
小さな村では、そこを守る警備隊の数も少ない。何より、なだれ込んだ魔物達が真っ先につぶすのが公共施設と戦力が集中している場所なのだ。
あっという間に村は蹂躙されていった。逃げ惑う人々に混ざり、母に手を引かれた彼女も必死になって走っていた。靴を履く暇もなく、裸足の足の裏が痛くて涙が出たが、それでも必死に走った。
そして、みんなが集まる避難場所の広場についた。ばらばらになっていた家族とも再会して、ほっと一息ついたときだった。
ドラゴンによる身の毛もよだつような咆哮と共に人々の中心に魔法が撃ち込まれたのは。最初に感じたのは目の前が真っ白になるような閃光、次いで耳が聞こえなくなるほどの轟音と爆風に吹き飛ばされて、小さくて軽い彼女の体は広場の端まで吹き飛ばされた。
だが、逆にそれがよかったのだろう。あちこちすりむいたり打ち付けたりはしても、まともに爆風と衝撃を受けることはなかったのだから。
痛む体を起して見えた先にあったのは、地獄だった。子供が描いた絵のように広場には真っ赤な液体がぶちまけられ、その中に散らばる白やピンクの物体。元が何だったのか分かりたくもない髪の毛がついた何か。
それを見た瞬間、頭が考えることを放棄した。それが、それらが何であるのかを受け入れることなく、彼女は家族を捜した。父を母を、兄弟を、祖父母達を。
必死になって捜した。自分の体や服が赤い液体にまみれても、手足によくわからない何かの感触を感じても。きかなくなった鼻の奥に、それでも突き刺さる何かのにおいを感じ取っていても。
そして、見つけた家族は、一つになっていた。よく父や母が言っていた。家族はいつも一緒で、みんな揃って一つなのだと。でも、きっとこれは違うのだろう。
マヒした頭で彼女は考えていた。家族はみんな一緒だった。でも、みんな一まとまりになって砕け、つぶされ、切り裂かれて……死んでいた。
もう動かない彼らを見て、彼女は初めて広場にあるものが何であるのかを知った。分かってしまった。泣いて、泣いて、泣き疲れてそのまま気を失うようにして倒れた。
気がつくと、どこかの建物の中に寝かされていて、服もきれいになっていた。けれど、家族の姿はなかった。
それから彼女の世界は灰色になった。交流が少なかったことや、親類縁者がすべて死んでしまったことで彼女は身元を保証するものがなく、九歳だったことでギルドカードも持っておらず孤児となった。それも、よそ者の孤児だ。
家族が死んで以来、表情も感情も大きく動くことのなくなった彼女を誰も気遣うことをしなかった。みんなそれどころではなかったのだ。みんな、誰かしら大切な人をなくして、一人の孤児に構うことなどなかった。
はじめは孤児院にいた。朝から晩まで働いて、わずかばかりの食事をもらって、固い床の上で薄い布をかぶって眠る。
同じ境遇にある子供達も多かった。けれど、そんな仲間達の言葉にも反応しない彼女はやがて孤立していった。それでも良かった。もう、生きる目的も意味も見失ってしまっていたから。
これ以上悪くなることなんてないのだと、そう思っていたから。でも、そうじゃなかった。そんなのは、こんなのは地獄でも何でもなかった。ただの、始まりにすぎなかったのだと、すぐに思い知ることになった。
きっかけが何だったのかは分からない。けれど、おそらく多くなりすぎた孤児達を間引く意味があったのだろう。孤児院にいた半分くらいの子供達は、胡散臭い男がひいてきた馬車に乗せられ別の町に移動することになった。
どうでもよかった。どうせどこへ行っても生活など変わらないと思っていたから。他の子供達と違って、生きていたいとも思わなかったから。
でも、その先にあったのは、その先で見たのはあの時に見た光景をはるかに上回る、この世の地獄そのものだった。
魔法陣に乗せられた子供達が泣きわめきながら人の形を失い、崩れていく。そして、人が人でなくなる瞬間を目の当たりにした。自分達は別の場所に行くのではなく、売られたのだと分かった。彼らが人でなくなるために必要な生贄として捧げられているのだと。
そこで、初めて心の中に恐怖が生まれた。死ぬことなんてどうでもよかったはずなのに、生きたいとも思っていなかったはずなのに。怖かった、どうしようもなく怖かった。
凍りついていた感情が、表情が悪意の炎に嬲られて悲鳴を上げていた。死にたくなかった、身動き一つ取れず、粗相をしても、死にたくないと叫び続けていた。
そして、その願いは思わぬ形でかなえられた。集められた子供達の数が合わなかったことで、数人次回に回されることになったから。
その幸運な数人に、彼女も含まれていた。でも、安心はできなかった。分かっていたから。今は見逃されただけで、次には必ず殺されてしまうことが。
どうすればいいのか分からなかった。どうすれば助かるのか、必死になって考えた。でも、幼い彼女にはその方法を見出すことができなかったのだ。
しかし、そこで彼女にとっては幸か不幸か一つの奇跡が起きた。彼女を運んできた裏社会の者が、彼女の容姿と将来性を見出し連れ帰ることになったのだ。
彼女は兄弟の中でも、一際容姿に優れていた。母方の実家である村は国境に近く、母は他国の血をも引いており、王国によくある髪や眼の色とは違っていた。父は生粋の王国人らしく、茶色い髪と眼をしており、兄や姉はその血と色を継いでいた。
けれど、彼女だけは母と同じ燃えるような赤い髪と、空のような青い眼をしていたのだ。王国においては異なる髪や眼の色を持つ者はある種の好事家達に好まれる傾向にあった。
それに、彼女は村一番の美人とうたわれた母の美しさを継いだ愛らしい顔をしており、成長すれば間違いなく美人になることがうかがえた。
しかし、当時の彼女は彼らから向けられた眼や思惑など知る由もなく、命が助かったことに安堵し、彼らに感謝までしたのだ。
そして、連れて行かれた場所で雑事をこなしながら礼儀作法やルールを教え込まれた。日の光も当たらないような場所から出ることはできなかったが、それでも温かなベッドで眠れて、毎日三食食べられる生活に満足していた。
しかし、十歳になった時、彼女の次の地獄が始まった。そして、自らが連れてこられた意味を知った。最初は悲鳴を上げた。助けを求めた。でも、何一つ聞き入れられず、救いはなかった。
抵抗するほどに手ひどく扱われ、食事を抜かれる。それが嫌で、だんだんと相手を喜ばせることを覚えていった。次第に嫌悪感が薄れ、常識が崩壊し、これこそが自らの役目だと思うようになっていった。
そのまま思いこみ続けることができれば、幸せだったのかもしれない。でも、彼女は出会ってしまった。自らの行いが間違っていることを知らしめ、それを享受することの異質さを突き付ける存在に。
それまで築き上げてきた彼女のプライドも地位も何もかもを奪っていった憎らしい存在に。だから、上を求めた。もっと上にいけば、もっと自分を磨けば、あの時に感じた狂おしいほどの劣等感をぬぐいされると信じて。
そして、彼女は手に入れた。手に、入れたはずだった。あの薄暗い部屋の中にいたのでは決して手に入らない輝かしい地位と名誉と居場所を。
もし、また会うことがあれば自信を持って突き付けることができると、そう思っていたのに。再び彼女の前に現れたその存在は、彼女が手に入れたものなど何の価値もないと思わせるほどに、あのときと同じくまばゆいほどの輝きを放っていて。
彼女の中に消えずにうごめき続けていた闇が、ずるりと胎動するのを感じて狂気に口元をゆがめた。




