新たな領域
カイル→アナザー→ランカ→カイルサイド
ゲートをくぐる瞬間に閉じていた目に柔らかな光を感じて瞼を上げる。七か月の間に見慣れてしまった紅い空ではない、巨大な木々とそこから伸びる枝、生い茂る葉に大部分を遮られつつも見える色は抜けるような青。
感じる空気、周囲に漂う魔力も魔界のものとはまるで違う。全身で感じていた。久しぶりに感じる日の温かさというものを。
「クロ、クリア、もう出てきても大丈夫」
カイルが言うや否やカイルの影からクロとクリアが出てくる。ゲートをくぐる際には空間の中にいた方がいいと言われてそうしていた。ほとんどないらしいが、同じタイミングでゲートをくぐっても出現場所が異なることがあるらしい。それを避けるための処置だ。
『……ここが獣界、か。人界と似ておるが、空気の匂いが違うな』
「ああ、やっぱりそう思うか? 最近五感も鋭くなってきたから、俺の勘違いじゃなかったんだな」
カイル自身の肉体のポテンシャルが上がったためか、それともクロの持つ感覚を自在に制御できるようになったためか、聴覚や嗅覚と言ったものが人間離れしてきたのを感じていた。
まあ、とっくに肉体の強度などにおいては人外の領域に足を突っ込んでいるというより、全身で飛び込んでしまっているのだがそれはあえて考えない。
そうでなければ四天王や魔王のしごきに耐えられなかったのだから、適応力の高すぎる自分の肉体が恨めしい。
<わー、綺麗なところだねー>
クロと違って魔界しか知らないクリアはカイルやクロの周りを飛び跳ねながら弾んだ声を出している。進化しても相変わらずクリアの特性は変わっていない。だが、その能力においてはもはや最弱のスライムとはとても言えないほどに強くなっている。
スライムの特性として物理攻撃にはめっぽう強いのは変わらず、なんと魔法攻撃もほぼ無効化できる。というのもスライム特有の喰属性による捕食によって、魔法その物を食べるのだ。
これができるのにスライムが最弱だとされているのは、通常のスライムでは魔法を使うことが出来ないからだ。喰属性を持っていたとしても、それは捕食の時に補助として使われるくらい。戦闘中に魔法を防ぐ手段として使うだけの知性がない。それゆえに魔法に弱いとされてきた。
ところが、クリアは同調という能力によって魔法の使い方を学んだ。使い魔契約をしたことによってあり得ないほどの糧を得ることが出来、急速にすさまじい進化を遂げた。その結果が魔法を自在に操るスライムという規格外の存在を生み出したと言える。
クリアは食べた魔法はそのまま返すこともできれば魔力として取り込むこともできるという有能さ。さらに、常にカイルやクロの魔力と同調していたためか、クリア自身もカイル達が持つ属性を発現させるに至った。
元々適性属性というものは生まれる時の周囲の環境に影響される。だが、クリアは無属性であり生まれた時から属性を持っていなかった。その上で魔力に同調する能力があったため、後天的に属性を得ることができたらしい。
元々無属性をベースにする種族であればないわけではなかったが、本来闇属性をベースとする魔の者としてはあり得ない出来事だった。
魔力量自体はカイルやクロほど多いわけではないが、二人に同調しなくても自分だけで魔法が使えるようになって大はしゃぎをしていた。
これでカイルやクロの隣に立って自分自身の力で戦うことが出来ると。二人の役に立つことが出来ると、涙さえも浮かべていたのだ。
「……まずは人のいるところを探すべきか? 獣界のゲートがどこにあるか分からないし……こっちに来たなら龍王様にもあいさつしといたほうがいいのか?」
もはや気が遠くなるほどの祖先ではあるのだが、カイルの体に流れる龍の血は龍王から受け継いだものだ。そういう意味で子孫ということになるのだろう。
いまいち実感が湧かない上に、未だ龍属性に関してはほとんど使いこなせていない現状身内であるという感覚はない。だが、魔王からの言伝もある。素通りはできないだろう。
『ふむ、獣界にも魔界のような都市はあると聞いたな。ほとんどは種族ごとに固まって生活しているようだが、獣王の治める都市では様々な種族の獣人が住んでいるという』
それはカイルもヒルダやトーマから聞いたことがある。いつか獣界に行くことがあれば役に立つ知識として。
だが、今カイル達がいるのはうっそうとした森の中。獣人達がどのような場所に居を構えているかは分からないが、少なくとももう少し人の手が入った形跡があるだろう。
今もあちこちから獣達や魔獣の気配もしているし、長くとどまるべきではないかもしれない。人界と違って獣界では魔獣によるテリトリーの縄張り争いが頻発して、危険も多いという話だ。極力周囲を刺激しない方がいいだろう。
カイルは探知魔法を発動させる。今では処理能力や魔力の扱いに慣れてきたこともあって、半径一kmくらいであれば問題なく探ることが出来る。
獣達の楽園という名の通り無数の獣や魔獣の反応が返ってくる。知っているものも知らないものも、だが、その反応の中に少し変わった反応があった。
一体の魔獣と、そして数人の小さな獣人らしき反応。その反応を感じた瞬間、カイルはその方向へ駆け出す。一拍置いてクロとその頭に乗っているクリアも続く。
整備されていない、足場の悪い森の中だが、それを全く感じさせない動きで距離を詰めていく。その顔にはわずかな焦燥がある。間に合え、そう思いながら風のように森の中を駆けて行った。
獣界に住む獣人達は一種族、あるいは一族で小さな集落を築く。それは一種の獣としての本能でもあるし、獣人ごとに特性や習慣が違うこともある。元々の獣の種が違えば好みや性格も大きく異なるのだ。
人界に渡ったり、獣界唯一の都ディンガロンに住む獣人達は獣としての本能を理性で抑え、妥協をしながら生きているが、基本的に獣人は他の獣人とは相いれないのだ。
勇猛な虎が臆病な兎と一緒に生きることが出来るだろうか。姿を隠し一撃必殺で獲物をしとめる豹と仲間と連携しながら一匹の獲物をしとめる獅子が反発しないでいることが出来るだろうか。
答えは否。それだけに一種族で固まって住むのは当然のことだった。さらには同じ種族内においても同じ祖を持つ一族で固まってしまう。ある意味閉鎖的ではあるが、それだけに同じ集落の中における団結は強く争い事も滅多に起こらない。
一族の中で一番優秀なものが長となり、一族を率いて自然の中に溶け込んで生活を行っている。成人する頃になれば使い魔という形で自分の群れを作り、伴侶を迎えて一族の発展と存続に貢献する。
そんな生活をしているからこそ、集落の中にいる子供というのはその集落の宝であり、集落全体で慈しんで育てる存在だった。
子供達もそれが分かっているからこそ、日中仕事をしている大人達の邪魔をしないよう、子供達だけで固まって遊ぶ。極力村からは離れず、どこかへ行く時にも必ず伝言を残すようにしていた。
獣人達の生活の基本は自給自足だ。自分達が食べる分くらいの食料を畑で育て、森や草原で採取し、獣を狩って生きる。
だからある程度物心がつくと村の周辺で食べられるもの、食べられないものの見分けがつくように教え込まれ、遊びの中でそれを身に付けていく。
今日もその遊びの延長での採取を行っていたはずだった。大人達に声をかけ、小さな籠をそれぞれが持ち、集落を出る。
集落の周辺は道や足場が整えられているが、少し離れると自然そのままの森が姿を見せる。それはほんの些細な思い付きだった。
いつもは行かない、行ったことのない場所へ行ってみようと誰かが提案し、そしてみんながそれに同意した。
それは抑えようのない小さな冒険心。森が危険を多分に孕み、小さな子供であろうと容易に牙を向く存在であると知っていても、これまで遭遇することがなかったことによる油断と慢心。
大人が口酸っぱく、普段から行く場所以外には行ってはいけないと忠告していた意味を本当には理解していなかった。
いまだ手つかずで、面白いように取れる山菜や薬草、果物に茸。夢中になっているうち、知らず知らずのうちにそれまで踏み込んだことのない森の奥へと入ってしまっていた。
異変を感じたのは誰が最初だっただろうか。鋭い嗅覚が、これまで一度も嗅いだことのない匂いを伝えてきた。そして、その匂いを嗅いだ瞬間から本能的な恐怖が沸き起こり、逃げることもできず一塊になって震えていた。
声も出せず震える子供達の前に現れたのは子供達と同じ種の、けれどその大きさはあまりにも違う一体の魔獣。
その姿を見た瞬間、威嚇するように低く唸る声を聞いた途端、子供達は決して犯してはならない間違いに気付いた。
獣界に住む獣人と魔獣の間には不文律が存在する。それは互いのテリトリー、活動領域における契約にも似た約束事。
互いの領分を侵すことなく、共存していくために守らなければならないこと。子供達が普段行っていた場所は彼らの集落が治める領域だった。
だからこそそこに他の魔獣は入り込まず、その中にやってきた獣を狩ることを許されていた。けれど、子供達が足を踏み入れたのは他の魔獣のテリトリー。
それも、一番やってはならない同種族のテリトリーを荒らす行為。その場合、いかな理由があろうとも問答無用で殺されても文句が言えない。いくら子供達であろうと、同じ種族のテリトリーを荒す行為はそのテリトリーの略奪を狙っているとみなされる。
それだけに子供達の顔には隠しきれない恐怖と絶望が浮かぶ。けれど、それでも魔獣はそれを見逃すつもりはなかった。
子供の不始末は親の責任。そして、その親に対して最も効果的な見せしめとなるのが子供を殺すこと。獣界に住む以上、それに意を唱えることが出来る者はいない。
地面から三m、頭から三本ある尻尾の先まで五メートルほどもある狐の魔獣にとって、固まって震える子狐達など腕の一振りで始末できる存在でしかなかった。
不機嫌を隠しもせずにうなりながら一歩一歩距離を詰める。一層震え、涙を流し粗相までするが魔獣の気持ちは変わらなかった。同種であるからこそ、情けは無用だ。
そして、鋭い爪の生えた前足を振り上げ、叩き付けるようにして振り下ろした。子供達の小さな悲鳴が重なり合い、重苦しい打撃音が響いた。
その時の光景をランカは一生忘れないだろうと思った。ランカは狐人族の子供達の中でも年長で、彼らを率いる立場にあった。だから本当なら彼女が子供達の暴走を止めなければならなかった。それなのに、同じようにして間違いを犯してしまった。
楽しい山歩きが一転、恐ろしい死の恐怖が襲ってきた。同じ種族であれば獣人と魔獣は意思の疎通が可能になる。そうして感じたのはただ純粋な怒りと殺意。
終わりだと思った。手に持っていた籠を取り落とし、かろうじて残る意識で集まってきた子供達の盾になり両手を広げる。十歳に満たない子供達は皆ランカにしがみつき震えて泣いていた。
ランカも涙を流していた。震える足では立つこともできず地面にへたり込み、密着した体から伝わる震えと生暖かい感触が服と地面を濡らしていく。
それでも怒れる魔獣から目を離すこともできず、ただ絶望しながらその時が来るのを見ているしかできなかった。
思い浮かぶのは優しい母と逞しい父。温かい集落の人々の笑顔。
<ああ、なんて馬鹿なことをしてしまったの? ごめんなさい……ごめんなさい、お父さん、お母さん。みんな、ごめんね……>
振り上げられた魔獣の手を見て、目をつむって後悔と謝罪の言葉を繰り返す。そして地面を揺らすほどの打撃音が響き、違和感に気付いた。
痛みを感じない、それどころか怪我一つ負っていない。そうして眼を開け、顔を上げた先に見えたのは魔獣の前足を身一つで受け止めていた人影。
そのすぐ後に、魔獣にも引けを取らない狼か犬に似た黒い獣が狐の魔獣を吹き飛ばす。その余波で目の前にいた人がかぶっていたフードがめくれる。
木漏れ日を受けてキラキラと輝く銀色の髪が目に焼き付く。振り返った時に見えたのは心配そうな青い眼と安堵に緩んだ口元。
お兄ちゃんと呼べばいいのか、それともお姉ちゃんなのか。ランカはそんなことを考えながら呆けていた。
森の中を駆け抜け、見えた光景に肝が冷える。瞬間的な強化を行い、攻撃の間に割り込むことが出来た。かなり重い一撃だったが、気功と魔法で強化した肉体であれば容易に受け止めることが出来た。
その後を追ってきたクロによって吹き飛ばされた魔獣だが、怪我はさせていない。ここに来るまでの間に精霊達から聞いた話によって事情はあらかた理解している。
だから、カイルがやろうとしていることは獣界のルールを破る行いなのかもしれない。それでも、あのまま子供達が殺されるところをただ見ているということはできなかった。
振り返って確認したが、子供達に怪我はないようだ。みんなへたり込んで泣いたり、漏らしてしまったりはしているようだが、小さい子供でもなぜこうなったのか理解して反省しているように見える。
そこへ飛ばされた狐の魔獣が戻ってくる。警戒しているのかゆっくりと距離を詰めてきた。カイルの側で子供達を守るようにして立つクロが自分以上の実力を持っていると理解しているのだろう。そしてまた、カイルのことも自分の攻撃を物ともしていない強者であると。
「テリトリーを侵し、森を騒がせてすまなかった。謝って許されるようなことじゃないのは分かってる。けど、まだ小さな子供がやったことだ。子供達にも親にもよく言い聞かせて二度とないようにする。だから、見逃してやってくれないか?」
カイルは魔獣の眼を見ながら語り掛け、歩いて近づいていく。そして向こうが静止の声をかけたところで地面にひざまずいて頭を下げた。
それは後ろで見ていた子供達も魔獣にとっても予想外のことだったらしい。困惑したような唸りが聞こえる。
カイルの今の格好であれば、魔獣がその気になれば叩き潰すこともできる。それが分かっていてあえてその姿をさらすことで敵意も害意もないことを示す。その上で深く謝罪しているのだ。
先ほどまでの焼け付くような怒りが収まってきたことを感じてカイルは頭を上げる。地面に座ったまま見上げる形になったが、魔獣は先を促しているようだった。
「子供達はここがあなたのテリトリーだと知らずに入ってきた。好奇心の強い年頃だ、それに大人達の役に立ちたくてつい深入りしてしまったんだ」
それは子供達が抱えていた籠を見ればわかる。楽しかっただけではない。あれだけ取ることができればきっとみんなの役に立てる、喜んでもらえる。そう思ったから止められなかった。
狐の魔獣は低く唸って尻尾を振る。事情は理解したが不満は残るのだろう。子供だからと許していたのでは示しがつかない。むしろ子供だからこそ厳しく周囲が見ていなければならないのだから。
「あの子達は今までずっと守られてきた。ちゃんと周りが見守ってきた。だから、本当の脅威を知らず、感じることなくここに来てしまったんだ。でも、あの子達はそれを知った。だから、次はもうない。二度と同じことはしない」
狐の魔獣は目線だけちらりと後方の子供達に向ける。知らないがゆえの過ち、知れば二度と同じことは繰り返さないだろう失敗だ。
「ここであの子達を殺しても、次の何も知らない子供達がまた同じことをするかもしれない。なら、ちゃんと間違いを知った子供を帰したほうがテリトリーの平穏は保たれると思わないか? 自然の摂理と言っても、その方が余計な軋轢も生まなくて済むだろう?」
いくら当然の報いとはいえ、子供達を殺せば禍根が残る。仮にこの魔獣の子供が同じことをしてしまった時、その時には容赦なく殺されることは容易に想像できる。
弱肉強食、厳しい自然の摂理と言えどそこに悪意がないのであれば、もう二度と同じことが起こらないのであれば見逃すということも一つの道なのかもしれない。
そして、この温情はいつかきっと別の形で狐の魔獣に還ってくるだろう。それもまた自然の摂理か。そう考え怒りを抑える。
そしてほっとした表情を浮かべる闖入者に眼を向けた。見るからに獣人ではない。かといって人というには匂いが変わっている。芳醇な、それでいて心地よい匂いを嗅ぐために胸元に鼻をこすりつける。
不思議な感覚だった。なぜかこの者の言うことには耳を傾けなければならないような、そんな気がして。その気になれば自分を殺して子供達を助けることもできただろうに、真正面から頭を下げてきた。
それが面白く、そして不思議な感覚がして狐の魔獣はしばらくその人間と戯れていた。




