魔界からの旅立ち
魔界に来て以来習慣となっていた、自らの作成した空間での目覚め。最近では有り余る魔力と上達してきた魔法によって中と外との時間差が激しいことになっている。
この中で十分な睡眠時間を取ったとしても、外では一分とたっていない。今ならその気になれば外での一日を中での一年間くらいにすることが出来る。というより、実際にそれができたからこそリプリーに勝てたともいえる。
地力と年季と経験が違ったためにかなりギリギリの勝負にはなったが、それでも鍛錬の結果が実ったことは喜ぶべきことだろう。
いつもならここで朝の運動となるのだが、今日はそれをせずに空間を出る。外でやるべきことが山積みになっているからだ。というのも、今日は魔王城に来て一か月、つまりはいよいよ魔界を出る準備が整ったということなのだ。
その前に挨拶をしないといけない者もいる。スルリと空間から出るとすぐそばにクロがいた。クロの頭の上にはクリアも乗っている。どうやら使い魔組の準備は整っていたようだ。
『いよいよか。長いようで短くもあった。いや、長かったか? ふむ、時間感覚があやふやだな』
いまいち締まらないクロの挨拶だ。確かに時間拡張空間に長くとどまっていたこともあって、体感時間としてはかなり長かったが、実質的な時間で言えば長いような短いような七か月だった。
色々と、本当に色々とあったが、人界で同じ時を過ごしていたならば、あり得ないほどの実力を身に付けられたように思う。それを思えば不幸中の幸いだったのだろうか。
魔界に来たおかげで冥王様から魔人と化した人への対抗策が見つかった。自ら魔人化してしまうハプニングはあったが、それも新たな力として取り込めた。四天王のしごきと魔王様の気まぐれによって対人、対多数、格上との戦いの経験を相当積むこともできた。
そして、人界に魔界の技術と知識を持ち込んでいた者の摘発と始末が付けられた。その上で魔界という領域においてトップに立つ者達との面識と繋がりを得られたのだ。
魔界に落とされるという不運はあったが、それを補って余りある成果と成長はあった。あまりに出来すぎていて、運命などというものの存在を疑ってしまいたくなるほどだ。
だが、それで片付けてしまう気はない。確かに世界の意志によって導かれているのかもしれない。だが、選択し行動したのは自分自身の意志によるものだ。成し遂げられたのは自らと協力してくれた者達の力によるもの。生きている者達によって形作られた結果だ。
『あ~あ、寂しくなっちゃうな~。ほんとに残らないの~?』
部屋を出た途端、リリスが目の前に現れる。本当にいつだって唐突で、いつだって一番大切なことを問うてくる。そして真っ直ぐに自分の感情をぶつけることを厭わない。こういう部分は特に魔の者らしいと感じる。
人ならば呑み込んでしまうだろう言葉も感情も、余さず素直に真正面から相手にぶつけてくるのだ。それだけにごまかすことも、適当にあしらうこともできない。
「ああ、世話になったな。自分の意志でここに来たわけじゃなかったけど、今ではここにきてよかったと思える。後のことは任せていいんだろ? それに、ナンシーのことも」
ナンシーの父であるリプリーを送った後、彼女は魔王城で働くことになった。実力的にいえば不十分だったが、魔の者の中にあっては珍しい事務能力に長けていたため、宰相であるダミアンの一存によって決定した。
また、リプリーの腹心ともいえる側近であったため彼のやってきたことや資料に関しても詳しかった。さらには人界との窓口でもあったため、ナンシーから得る情報も多い。
そんなわけもあって、リプリーという後ろ盾を失ったナンシーだったが、代わりに魔王城で償いと成長のためにも働くことになったというわけだ。
カイルとしても魔王城の面々や四天王とは気心の知れた相手であるだけに、魔界に残していくナンシーを預けるには最適な相手だと安心できる。
『まっかしといて~。あの子は磨けば光りそうだからね~。バシバシ鍛えるよ~』
「……その辺は手加減してやってくれ。あんたらに寄ってたかって鍛えられたら常識が崩壊しそうだ」
事実、これくらいなら誰でもできるなどと言って仕込まれた技が魔界の実力者でも指折り数えるほどしかできないものであったり、この程度の知識など常識だと言われたものが知る人ぞ知る失われた知識だったり。
確かに役には立つ、勉強にもなった。だが、それらのことごとくが軽々しく使えたり知っていてはならないものだと知った時の脱力感と言ったらなかった。
一体彼らは自分を何に育てようとしているのか本気で聞きたくなったくらいだ。人界にいた時も周囲の人間は自重知らずに、妥協することなく仕込んでくれたものだが、それは領域が変わっても変わらないのかと遠い眼になった。
カイルの持つ空気や人柄がそうさせるのか、あるいはそういった人とばかり巡り合っているのか。ともかくカイルと同じようなペースと内容で行けば、ある意味無垢なナンシーが常識知らずのまま尋常ではない存在になり得る。
誰にも支配されず生きていくにはいいのかもしれないが、いつか人界に来た時にその調子で動かれたのでは困ったことになりそうだ。
『あはは~。大丈夫、大丈夫~』
こんなに信用ならない大丈夫もないと内心でため息をつく。本当に頼りにはなるのだが、信用はならない者達ばかりだ。
「みんなはもう先に行っているのか?」
『そうだよ~。迎えに来てあげたんだ~』
魔界から獣界へのゲートは魔王城の中でも特殊な場所にあるらしい。そのため普通にはいけないとかでリリスが送り迎えをしてくれるのだという。
リリスの眼が魔力を帯びて光ったと思った瞬間には目の前の光景が一変していた。地下なのだろうか。窓もなく、暗い部屋の中央に浮かんでいるのがゲートだろうか。質感もなく、けれど確かにここではない空間と繋がっているのだと実感できる。
光を混ぜ込んだような妙な色合いが微妙に不安を誘うが、あれをくぐらなくては魔界から出ることは出来ない。
『おうっ、来たか! 準備はできてるぜ』
部屋全体に響き渡るかのような声で呼びかけてくるのは四天王の一人、ディルク。カイルが最初に出会った四天王であり、一番拳をぶつけ合った相手でもある。
彼のおかげで魔人としての体の使い方や自分の肉体を使った戦い方というものを学ぶことが出来た。難点があると言えば戦闘狂で顔を合わせるたびに喧嘩を吹っかけてきたことだろうか。
『そちらの準備もできたようだね』
ちらりと視線を向けてくるのはルアース。魔の者特有の特殊な戦い方について色々と教えてくれた。古き血筋であることに誇りを持っており、語りだしたら止まらないが、リプリーの件では感謝の言葉を伝えてきた。
古き血筋の者として道を誤り、半ば暴走する彼を止め間違いに気づかせたことに対する礼だという。本来であれば同じ古き血筋を引く自分がやらなければならないことであったと。
リプリーとルアースは同期と言っていいほどに同じくらいの時を生き、一時期は競い合うようにして切磋琢磨した仲だったという。
その後ルアースは魔界の秩序を保つ役割を果たす魔王城へ、リプリーは混沌を求めて暗躍をと別々の道を歩くことになった。こんなことになる前に、かつての友として一度向き合うべきだったと語っていた。
今ではもう乗り越えたのか、いつものようにすました顔をしている。今の彼はかつての友の娘であるナンシーに古き血筋の何たるかを仕込むのが楽しみだとか。
『もう行ってしまうのですね。あなたがいなくなればまた仕事が滞ってしまいそうですね。本当に残りませんか?』
ダミアンはリリスとは別の意味でカイルの魔界残留を望んでいる。まあ、最初に見せられた未処理のまま山積みになった資料の山を見ればその気持ちも分からなくはない。
特にカイルの魔法を使えばそうした処理が短時間で効率よく終わるのだから。それでも、本気で止めないのは彼が自分の役目を理解しているように、カイル自身にも果たすべき役割があることを知っているからだろう。
彼のある意味スパルタ教育のおかげで魔界文字や魔界の技術についてはかなり深く理解することもできたし、魔界の現在の情勢に関しても知ることが出来た。
ただ人界にいただけでは知ることのなかった知識だろう。そして、いつも先手を取られたり裏をかかれてばかりだったデリウスに対抗できる知識と力も手に入れることが出来た。
何より彼から学んだのは他者の使い方だろうか。自分一人ではできないことであっても、協力してくれる者の能力を把握してふさわしい仕事を割り振る。
今までカイルは使い魔としてクロやクリアがいても彼らの能力を十全に生かしきることが出来ていなかった。それをより実感した。
使い魔であっても彼らは独立した思考と行動が可能な一つの戦力でもある。そんな彼らの能力を生かしきる使い方と活躍の場、それを考えることが出来るようになったのも大きい。
これから先、カイルは多くの者の先頭に立って戦うことになるだろう。そういう意味で指揮能力を磨くことが出来たのは得難い経験だった。
『つまらなくなるな。だが、まあ面白くはなりそうだ。分かっているな? これ以上好きにさせるな』
「ああ、そのつもりだ。そっちでも動くんだろ? しばらく退屈はしないだろうさ」
『くくっ、違いない。また暇があれば遊びに来い』
「……気軽に遊びに来れる場所じゃないだろ。でも、覚えておくよ。それに、あれも、助かった」
『あれは俺からじゃない。お前が世話をした魔界樹の精霊からの預かりものだ』
カイルが胸を押さえて礼を言うが、魔王は手を振って否定する。あれ、というのは魔界樹の種のことだ。
カイルが魔界を離れるにあたって問題が一つあった。それが魔人化したことによる糧の問題だ。魔人としての力も自由に制御できるカイルにとって必ずしも糧は必要であるとはいえない。だがなければ魔人としての力は弱まっていくだろう。
糧は瘴気なので魔物を倒したり、その魔物が残す魔石があれば補充できなくはないのだが、魔物が残す瘴気は新たな魔物を召喚するために必要だし、魔石だって有限だ。それに、人々の生活に欠かせないものでもある。
そこで魔王から受け取ったのが魔界樹の種だった。千年に一度実をつけるそうだが、その種も膨大な魔力を注がない限り育たないという代物で、普段は魔界樹のある空間で保管されていたのだという。その種の一つを授けてくれたのだ。
種の状態であっても常に瘴気を発しており、さらに魔力を注げばその瘴気の量も増し、さらには成長していくのだという。また、魔界樹には瘴気を操る能力もあるようで、今現在異常な召喚によって瘴気の濃度が増えつつある人界の瘴気の調整もできるのだとか。
いくらカイルが瘴気を吸収できると言っても限度があるし、実際にその場に行かなければならないことを思えば、そこにあるだけで人界全体の瘴気を調整できる魔界樹があれば助かることは間違いない。これで魔物達の異常発生なども抑えることが出来るだろう。
デリウスが使っていた魔法陣による魔物召喚に対しては魔界の方で手を打っておくようだ。元々は魔界で生まれた技術。そのあたりは任せておいて大丈夫だろう。
今後は魔物召喚を使えば使うほどに自分達の首を絞めていく結果になるはずだ。それでもまだ行うというのであれば魔界の怒りを買うことになる。
天の三界による地の三界への過干渉は避けるべきだが限度もある。理を歪めるような事を行えば、相応の対処を取ることが出来るのだ。
彼らも知るべきだろう。自分達が手を出そうとしているのが一体何なのかということを。カイルは魔界に来てそれを知った。冥王と出会って彼らの行いが世界そのものを歪める行為であることも知った。
だからこそ、これ以上彼らに好き勝手にさせる気はない。そして、そのために必要な力を身に付けるために全力を尽くしてきた。それでもまだ不十分だ。自分の力を十二分に使いこなせていないと感じる。
ならばこれから行く獣界で足りない力を使いこなすための努力をしよう。そうしながら人界を目指す。そうすれば人界に戻った時、脅威に対抗できる力が身についているだろう。
『カイル、わたしのことはあまり心配しないでください。今までできなかった分、しっかり学び、しっかりと自分の眼で見て自分の意志で道を歩んでいきます。そして、再会できる日を楽しみにしています。だから……それまで死なないでください』
ナンシーは着慣れているということでメイド服を着て綺麗なお辞儀をする。そうされると、格好のことも相まってなんだか不思議な気持ちになってくる。
「ああ、俺も楽しみにしてる。お互い頑張ろうぜ? 生きる領域は違っても、俺達は同じ世界に住む友達だ、そうだろ?」
『はい』
顔を上げて返事をしたナンシーは、ぎこちなく、それでも確かに笑みを浮かべていた。きっとこれからもっとたくさんの表情ができるようになるのだろう。少しずつでも変わろうとしている。それを思えば、あの時ナンシーを助けた判断に間違いはなかったのだと実感できる。
『若いっていいよね~。でもさ~、人界に残してきたいい人がいるんじゃないの~?』
リリスが下世話な顔をして脇腹をぐりぐりつついてくる。確かにカイルがナンシーに向ける情は友情というよりはもう少し深い、けれど異性に対するというには少し違うものだ。
どういえばいいのだろうか、言うならば父性、父が子に対して抱く愛情に近いだろうか。見かけも実際の年齢もそう変わりないのだろう。けれど、見かけ以上にナンシーの精神は幼い。
体が大きくなっても心はまだ小さい子供のまま。そう感じられたからこそ、小さい子供に対するような扱いになっているのだろう。彼女もまた、カイルが助けたいと願う理不尽に寄って幸せな日常を失った子供なのだから。
「そうだな。会いたい人も、帰る場所もある。だから、俺は行く。みんな、本当にお世話になりました」
カイルはそう言って全員に頭を下げる。苦労することもあった、世話をしてもらったがそれ以上に面倒をかけられたりもした。だが、それでも楽しい日々だったと思う。
魔界に来た当初に感じていた不安や恐怖、戻れるかどうかも分からない絶望を思えば、多くの者達に囲まれて過ごした日常はかけがえのない思い出になったと思う。
遠回りだったのかもしれない。けれど、決して無駄な時間ではなかった。彼らと過ごした日々があったから、魔界に来てよかったと思えた。彼らから学んだことがあるから、それを活かしていくことが出来る。
顔を上げると、それぞれに笑みを浮かべていた。永い時を生きる彼らだからこそ、出会いの大切さと別れの必要性を知っているのだろう。
誰も引き留めるようなことはしない。そして、誰もが別離の言葉を口にしたりもしない。また会える日のことを思い、ただ笑顔で見送ってくれる。だからこそ、カイルも最後に彼らに伝える言葉は決まっている。
「また会おう!」
きっとまた会える。その日を楽しみに、今は前を向いて旅立とう。大切な仲間が待つ場所を目指し、新たな力を身に付けるために。
そんなカイルを歓迎するかのように、ゲートは温かくカイルを迎え入れ、そしてカイルは魔界からの脱出を果たした。
 




