果たされた悲願
カイルは無言でリプリーに歩み寄る。身動きもできないのか、リプリーは大分風通しのよくなった屋敷の天井を見上げていた。
その眼にはもはや戦う意思は見られない。今までに見たことがないほどに穏やかな色をしていた。カイルが来たことに気付くと、ちらりと視線を向けてくる。
『無様なものだ。見下し、劣ると信じて疑わなかった人に、貴様に負けてこうして這いつくばることになろうとはな』
カイルはその言葉に一つため息をつくと、リプリーの頭の側で胡坐をかいて座る。膝に肘をついて少し呆れたようにリプリーを見る。
「はぁ、闘志はあっても殺意のない攻撃をしてきた奴がよく言うぜ。本当はどこかでこうなることを望んでたんじゃないのか?」
そう、あのがむしゃらな攻撃の後、落ち着いたリプリーの攻撃からは一切殺意というものが感じられなかった。だからこそカイルは真正面から向き合えた。自分の今の力を試すように、真っ直ぐに向かって行けたのだ。
もしリプリーが本気でカイルを殺す気で攻撃してきていたなら、カイルは邪道と言われようとあの手この手のからめ手を使っていたに違いない。
戦いの余波で大部分が破壊されたとは言っても、そのための仕込みはそれなりにしていたのだから。この建物や亜空間倉庫、空間の中には様々な事態を想定して備えはしていた。
だが、リプリーは身一つで、そして真正面からカイルにぶつかってきた。だから、カイルもそれに答えたのだ。それが自分の過ちに気付いたリプリーの願いのように思えたから。
『望んで……。ああ、確かにわたしは望んでいたのかもしれない。あれが、アメリアがこの手の中から消えた時から、自らも消えることを……』
リプリーはどこか遠くを見るような眼をする。彼には見えているのかもしれない、在りし日の愛しい人の姿が。
核となる魔石が残っていても、魔力回路が破壊されたことで肉体を保てなくなっているのだろう。残った体も徐々に灰に変わり始めている。
『……あれは、ナンシーは貴様が?』
リプリーは今更ながらナンシーの姿がないことに気付いた様だった。カイルはうなずくと空間からナンシーを出す。
ナンシーは最初変わり果てた屋敷の様子に状況がつかめていないようだったが、床に座り込むカイルと、その前に仰向けに倒れ伏すリプリーの姿を見て息を飲んだ。
『カイル? これは、一体……』
「悪いな、急に空間の中に押し込んで」
『いえ、それはこの状況をみればそれが安全だと判断したからだと分かるのですが……』
ナンシーが問いたいのは今現在の状況よりは、なぜリプリーがこの姿になっているのかということだろうか。その眼の中には長年の悲願が果たされようとしていることへの喜びはなく、むしろ戸惑いのほうが強いようだ。
『見ての通りだ。わたしは戦いを挑み、そして負けた。後は散りゆくのみだ』
リプリーの他人事のように思える言葉と、まるで緊迫感も悲壮感もない口調にナンシーの表情が歪む。それは怒りではなく悲痛さを感じさせた。
『何を、何を言っているんですかっ! あの、あなたが。魔界で敵なしとも言われたあなたが負けた? このまま、このまま消えるというのですかっ!!』
『何を怒っている? わたしの破滅、それが貴様の悲願でもあっただろう?』
『っ!?』
リプリーの言葉にナンシーは喉を詰まらせる。そう、確かにナンシーはリプリーの死を望んでいた。そのためなら自分の命さえも惜しくないと思えるほどに。毎日呪うように、祈る様にそれを望み続けたはずだった。
だが、いざ目の前でそれが実現されようとしているのを見るとひどく心がざわついた。望んでいたはずなのに、願っていたはずなのに、心の底から喜べないのはなぜなのだろう。
忘れたと思っていた、失ったと思っていた心の奥底が痛む。胸が苦しくなり、眼の奥が熱くなる。そして、気付いた時には頬を涙が伝っていた。
『なぜ泣く? わたしは、お前を愛さなかった。娘として見ることさえしなかった。そして、わたしはお前を利用して、お前の母を殺した。お前を使って、お前の母の故郷を混乱に陥れようとした。憎んでも憎み切れないだろう? そのわたしが滅ぶのだ、ようやくわたしの支配から逃れられるのだ。喜ぶのではないのか?』
リプリーの言葉にナンシーは泣きながら首を振った。そしてリプリーの頭の横に幼子がするようにぺたりと座り込む。
『確かにっ、そうです。あなたは、わたしを愛さなかった。分かっていました、あなたが母を見る目とわたしを見る目がまるで違っていたことはっ。時にわたしを邪魔者だと思っていたことは。それでもっ、わたしは……わたしは、あなたに愛されたかった。わたしを、みて……欲しかったのです』
たとえどのような扱いを受けていても、どのように見られていても、子供が親を求め、親の愛を欲する心が消えうせることはない。裏切られても、絶望しても、どうしても捨てきれない。それが、ナンシーの自分でも意識していなかった、あるいは心の奥深くに沈めて忘れようとしたもう一つの願い。
ただ、愛されたい、必要とされたい。見てもらいたいという思いが、願いが、リプリーの死を喜ぶことを許さない。
『? 見る? 何を、見てほしかったと、いうのだ?』
リプリーの肉体の崩壊は止まらない。その限られた時を使って、リプリーは初めてナンシーと真正面から向き合おうとしていた。
『っ何も、何も特別なことはっ……。ただ、有るがままのわたしを。役に立たなくても、失敗しても、わたしを見て、わたしの存在を認めてほしかった』
生まれてきたことを後悔しないように、自分の生を罪だと思わないように。誕生を祝福してほしかった、命を慈しんでほしかった。ただ、それだけだ。
例え種族が違っても、寿命が違ったとしても。父と母と自分、三人だけの世界であったとしても。一緒にいられるなら、一緒に生きていけるなら、他には何も望まなかった。
自分を見る父の眼が、時として背筋が凍るほどに恐ろしかったとしても。母を見る父の眼を見ていれば、何かの勘違いではないかとも思えた。
偶然見てしまった、父と母の恐ろしくも妖しげな吸血行為を見ても、それが二人の愛情の証であると感じられた。
だから、あの日、父に呼ばれて嬉しかったのだ。その時の父の自分を見る目がとても優しく見えたから。自分を呼ぶ声がとても暖かく感じられたから。
だから、初めて抱き上げられて父の体温を感じ、何の疑いもなく抱き着いた。母にそうするように。けれど、そんな喜びは首筋に走った鋭い痛みと共に、全てが闇の中に沈んでいった。
やめてと叫びたかった、こんなことは嫌だと自分を殺したくなった。けれど、父に命じられるままに母を切り裂き……殺した。こと切れた母を前に、幼い精神は限界を迎え、気を失ったのだ。
『……わたしは、認めることが、恐ろしかった。たかが、人間の小娘に……心を奪われてしまったことを。生まれてきた、子供に……女の愛情が、奪われることを』
だから、魔の者らしくすべてを蹂躙してそんな己の弱さをかき消そうとした。最も残忍で、最も残酷な方法で。愛しい娘に愛する母親を殺させ、その後で娘も殺すつもりだった。
だが、血の海に沈む母親の側で、泣きながら気を失った子供をどうしても殺すことができなかった。だから、実験だなどと称して子供を魔界に連れて帰った。だから未練がましく、女が流したすべての血を結晶化し凝縮して石にして身に付けた。
結局魔界に帰ってきても呪縛から解き放たれることはなかった。人の血を引き、人としての肉体を持ちながらも魔の者としての力を宿し、寿命を持つ娘。
彼女を見て、叶わない妄想を抱いた。あるいは失って初めてその大きさを実感したからだろうか。いつしかリプリーは人為的に魔人を生み出す研究を始めた。それだけではない、血や肉体の一部から、それらの持つ生命の情報を引き出し新たな生命体を作り出す研究も。
そういう意味でも、デリウスとの取引には意味があった。魔人化や魔物召喚はリプリーが与えた技術だ。だが、その代わりにリプリーは彼らから失われた命を取り戻せる可能性を見出した。
互いに求めるところは違ったが、やろうとしていたことは同じ。双方の技術提携により、研究は加速度的に進んでいった。
でも、それでも、最後の一手が足りなかった。どれだけ姿形を似せた肉体を生み出せても、そこに魔の者としての力と寿命を植え付けることが出来たとしても、魂がなかった。
リプリーが惹かれたのは姿形ではない。その魂と心の在り方そのもの。それがなければ、ただの肉塊と同じ。何の意味も、価値も見いだせない。
それでも研究を続けたのは意地だったのか。今思えば愚かな行いだったと思う。なぜそうするのか、何を目指しているのか。
研究者として有るべき目的も目標も定かではないまま、結果だけを求めた。そうすれば疑問が解消されるとでも思っていたのだろうか。そうすれば許されるとでも思っていたのか。
自分が手放してしまった生活が、自分が壊してしまった幸せが、今更戻ってくるはずなどなかったというのに。
『わたしは、アメリアを……お前の母親を…………愛していた。そうだ、愛していたんだ』
『……知って、います』
ナンシーの短い肯定に、リプリーは目を向けてから自嘲するように笑った。
『そう、か……。分かっていなかったのは、わたしだけ、か。お前と、アメリアにしたこと、わたしは……あれが、正しいと思って、いた』
魔の者として、鮮血の貴公子と呼ばれ誰よりも冷血な吸血鬼として相応しい行いだと思っていた。だが、間違っていた。今ははっきりとそう思う。長い自分の生からすれば瞬き程度の短い間の逢瀬。
思い返してみれば、あの日々ほど鮮烈に記憶に残っているものもない。驚きの連続だった、戸惑い困惑することの方が多い日々だった。それでも、確かに幸せだった。魔の者としてはあり得ないほどに穏やかで眩しい生活。
『わたしは、あなたを恨みました、憎みました。あなたは母を裏切ったっ! あなたはわたしを利用した! あなたはわたし達を踏みにじったっ! だから、だからわたしは、いつかこの手であなたを殺そうと……殺される可能性の方が多かったとしても、いつか必ず。そうっ、思って』
ずっとそれだけを支えに生きてきた。だが、思いがけずそれが実現しようとしている今、どうすればいいか分からない。
これからどうすればいいのか、どこに向かって進めばいいのか、今どんな態度を取ればいいかさえも分からない。
そんなこと考える必要などないと思っていた。悲願が叶うにせよ叶わないにせよ、死ぬつもりだったから。殺されるか、殺せたとしても死ぬつもりだった。そうすることでしか、自分の手で殺した母親に報いる方法がないと思っていた。
今もそう思っているのに、動くことが出来ない。ただ泣きじゃくるばかりで、消えていく父親を見てることしかできない。
『…………残り少ない命だが、殺したくばそうするがいい。もはや、抵抗することも、できない』
だが、ナンシーはそんなリプリーの言葉に首を振る。あれほど憎いと思っていたのに、そのためだけに密かに腕を磨いてきたのに。カイルに頼んでまで慣れない魔法を使いこなそうとしていたのに、今はそんな気持ちになれなかった。
破壊された結界と屋敷内に魔王軍が入ってくる気配を感じられた。待ちわびたようにクロと魔王の魔力もこちらに向かってくる。
だが、近くまで来てリプリーやナンシーの様子、そしてこの場の空気を読んでか遠巻きにしてくれているようだ。
「……あー、家族の問題に他人が口出すってのもおかしいけど、一応俺も当事者っつうか元凶だからな。リプリー、消える前に、あんたに聞いておきたい。あんたは、ナンシーをどう思ってる? これからどうしてほしい?」
このままではらちが明かず、決着がつく前にタイムリミットが来てしまいそうだと考えたカイルは二人の会話に割り込む。お互いに思うところも言いたいところもあるだろうが、それらすべてを分かち合うには時間が足りない。
そうしてしまった元凶であるカイルが口をはさむのもお門違いかもしれないが、このままリプリーを死なせてしまえば、それはナンシーの未来を閉ざすことにもなる。
目的も目標も生きる意味も見失ってしまった彼女は、見知らぬ土地で迷子になった子供のように途方に暮れ行くべき場所を見失っている。
『わたしが? わたしは……』
「あえて考えないようにしてきたんだろうから、すぐに出てこないか? なら、あんたが愛した人はどう思ってた? その人ならどう言うと思う?」
あえて自分の娘であることを意識してこないようにしてきたリプリー。あるいはそれが彼の愛情の裏返しなのかもしれない。無関心を装うこともできず、無関係でいることもできず、手放すこともできなかった。
吸血鬼はその気になれば眷属を解放することもできる。もし仮にリプリーがナンシーに対して一切何の感情もなかったとすれば、人界においてくることも放逐することもできたはずなのだ。
だが、それができなかった。研究という名目で、役に立つからという理由で、自分の手元にそばに置き続けた。
そして、ナンシーの母への愛に気付けた彼ならば、彼女の思いも理解できるだろう。そして、もし彼女なら何を望むであろうかということも。リプリーもそれに気づいたのか一度目を閉じた。それからナンシーを見る。
その眼は今まで一度も見たことがなかったもの、けれどカイルにとってはどこか懐かしい、見覚えのあるものだった。紛れもなく、父のするであろう目だ。
『そう、だな。あれなら、誰よりも深く……ナンシーを愛して、いただろう。そして……生きて、幸せになれと、いうだろう……な』
眼を閉じれば今でも瞼の裏に浮かぶ。穏やかに、けれど強い意志を秘めた目で笑う彼女の姿が。どのような命であろうとも慈しみ、心の本質を見抜き、姿形に関係なく愛おしんでくれた。殺すこと、支配することしか知らなかったリプリーに愛を教えてくれた人の女。
『生きて? わたしが……幸せに? そんな、そんなのっ、できないっ! 母さんを殺したわたしが許されるはずないっ! 幸せになんて、なれるわけ……ないっ……』
幸せになってはいけない。許されるわけがない。ずっとそう思って、ずっとそう考えてきた。母の最期の表情が忘れられない。聞き取ることのできなかった最期の言葉は、きっと自分に対する恨み言に違いない。
確かに母はとても優しかった、温かかった。母以外の母親を見たことがないから比べようはないが、それでも誇りに思える母親であったことに違いはない。
そんな母を自分は殺したのだ。自分の意志ではなかったとしても、自分のせいで母が死んだことに違いはないのだから。
「許す許さないを決めるのはナンシーじゃないだろ? 俺はナンシーの母親と会ったことはない。でもリプリーやナンシーの話から分かることもある。そこから考えるに、ナンシーの母親はナンシーを恨んじゃいないと思うぜ? 逆に、どっかで覚悟してたと思う」
『あなたに何がっ……、それに、何を覚悟していたというんですか?! わたしに殺されることをですかっ!』
ナンシーがカイルに突っかかってくる。だが、カイルは苦笑するだけだ。ナンシーの母親がカイルの母と同じ紫眼の巫女であったというなら、その心の在り方がカイルに似ているというなら、この推測に間違いはないはずだ。
 




