紅い石
ただ一つ、理解できないのはこの状況においてもカイルが余裕を失わないこと。むしろ、時間稼ぎをしているかのように話を引き延ばしているようにも思えることだ。
そこまで思考して、リプリーは初めて焦りを見せた。リプリーがこの屋敷の中にある影で、干渉できないのは今現在対峙している幼い魔人、いや人間の下にある影だけだ。だが、だからこそそれは不確定要素をはらんでいる。
『貴様、何を待っている?』
「俺が魔王様の犬だって分かってるなら、待ってる相手が誰だか想像が付くだろう? ああ、それと回収した資料はもう俺の手の中にはない」
『何っ! この屋敷には許可した者以外の出入りを封じた。むろん、魔法だろうと外には届かない。それを、どうやって……』
「簡単な話だ、俺の使い魔は一体だけじゃない。回収してすぐ、あんたが帰ってくる直前にこの屋敷を脱出してたってだけだ。もう今頃、全部魔王城に届いてる頃だろうぜ?」
クリアの分身体と違って、クロはカイルの影の中から出ることはなかった。予想以上に屋敷の警備が厳重なこともあって、常にカイルに張り付いている状態だったのだ。だからこそリプリーも見逃した。
カイルは証拠と側近達を回収するや否やそれらを全てクロに託し、魔王城へと向かわせた。その直後に屋敷に特殊な結界が張られ、ナンシーとリプリーの存在を感じ取った。
今までリプリーが何をしようとそれが表に出なかったのは表に出さない方法があるからではないか、そういう予測が立てられていたからこその行動だ。こういう場合に備えて、クロと何度も打ち合わせをしていた。
危険な時にカイルの側から離れることをクロはかなり嫌がっていたが、カイルが助かるためにもそれが一番いい方法だと説得することでどうにか納得してくれたのだ。空間の中の物の受け渡しを何度も練習を重ねてきた。そして、今出来る最速を持って行動したのだが、それでもギリギリだった。
『ククククク、ハハハハハハ! なるほど、確かにこの結界は四天王の攻撃だろうと防ぐだろう。だが、魔王が来るとなれば別だ。それでも、分かっているか? 魔王相手でも時間稼ぎくらいはできることを。逃げるには十分だ』
カイルは無言でリプリーを見る。そう、この屋敷は結界によって完全に外と遮断されている。それは魔力だけではない。気もクロとのパスでさえ外と繋がらない。
クロが今どこにいるのか、どういう行動をとっているのか、カイルに知る術がないということだ。それでも余裕を崩さないのは弱気を見せた途端、リプリーの威圧に呑み込まれることを感じ取っているから。
確かに魔王には及ばない。それでも、四天王と同等、あるいはそれ以上の威圧が飛んでくる。冷たい汗が頬を伝い落ちていく。
リプリーを追い詰めることは出来た、そして、それは同時に自分自身も追い詰められているということでもある。この状況下でリプリーが取る最善の手は何だろうか。
考えるまでもない。側近達という戦力を失った今、魔王に対抗できる一番の戦力となり得る存在、それはカイルだ。ここでカイルを眷属として支配下に置き、魔王軍と戦わせて時間を稼ぐことができれば、そうすれば魔都から撤退するくらいの時間は稼げるかもしれない。
何より、魔王軍はカイルを止めるために戦ったとしてもカイルを殺すことは出来ない。まさに時間稼ぎに最適な存在だと言える。
結界によって容易に外からの侵入もできない今、この場にカイルの味方は使い魔のクリアだけ。例え魔都での拠点と活動を封じられたとしても、生きていれば再起は測れる。リプリーにとっても正念場だ。
「分かっているさ。それで? ナンシーを殺されたくなければ抵抗するなっていうつもりか? そりゃそうだよな、あんたにとっては側近達が倒されたことも想定外だったんだろ? 俺としては我慢比べになるかと思ってたが、我慢できなくなったのか?」
カイルの言葉にリプリーがわずかに目を見張る。同時に余裕の笑みが消えていく。
『なぜ分かった? わたしはあいつらに命令はしていない。あくまであいつらが勝手にやったことだ。わたしが屋敷を空ければあいつらか貴様が動くだろうとそう予測してはいたが……』
「地下のあの部屋に行くまで、側近達がやられるまであんたが動かなかったからだ。確かにあんたは俺やクロよりも影の扱いには長けてるかもしれない。それでも、俺の方があんたよりも長けている部分だってあるんだぜ? あんたが俺の居場所を把握してたように、俺もあんたの居場所を把握してた。だからこそ、いないって分かっててもあんたの部屋に行ったんだ」
そうすれば、屋敷に不穏な気配をばらまいているだろう側近達に接触できる可能性が高かったから。その上で側近達やリプリーがどう動くか、それで相手の狙いを探ろうとしていたのだ。
考えていたよりも側近達が単純明快で、逆に罠なのではと疑いもした。だからこそリプリーの動きには常に気を配っていたのだ。リプリーが動き出して屋敷に結界を張られる前にクロを脱出させられたのは、カイルもリプリーの動きを追っていたからに他ならない。
カイルがリプリーよりも先手を取れたのは、カイルは向こうに監視されていることを知っていても、向こうはカイルに監視されていることを知らなかったから。クロが言っていたように、リプリーほどの存在でも人の用いるさかしい小細工を全て見抜くことはできなかったようだ。
『……このわたしが、まんまと乗せられたということか』
「こういうのは人の領分だからな。力だけじゃ勝てそうにない相手には技術と小細工でその差を埋める。あんたも色々やってたみたいだけど、やられると嫌なもんだろう?」
会話を続けながら意識と魔力、体を戦闘態勢へとシフトさせていく。こうした切り替えは戦い続けていくうちに自然と身についてきた。見た目はほとんど変わらないにもかかわらず、人を越えるほどの力を得たからこそ、それは日常生活に影響を与えるようになってくる。
だから、普段の生活ではその力を極限まで抑えなければならない。四天王や魔王など、魔王城で働く中でも上位の力を持つ者達が行っていることでもある。そうでなければ身の回りにあるものを見境なしに破壊してしまいかねないから。
カイルだってそれを身に付けるまでは苦労した。魔人化したこと、そして常に瘴気を取り入れて糧とし増大し続ける能力と魔力。それらを制御するためにこそ時間拡張空間が必要だったと言える。そうでなければ、たとえ人界に戻れたとしても誰とも触れ合うことなどできない。
握手をすれば相手の手を握りつぶし、肩を叩けばよくて脱臼、悪ければ千切れ飛ぶ。そんな化け物をどうやって受け入れろというのか。
寿命が人外になったことは受け入れた。体内に魔石が生じて魔人化してしまったこともどうにか受け止めた。それでも、予想外に得てしまった強大な力と向き合うことは難しかった。
自分の体の異常に気付いた時には混乱し、うまく制御できないことに苦悩し、暴発させるたびにクロやクリアを傷つけてしまったりもした。だからこそ、死に物狂いでそれを制御する方法を探して身に付けた。
魔王城に来て、最初に魔王と戦った時も封じたままだった。自分自身でさえ制御しきれない力は殺されるかもしれないという恐怖よりも恐ろしかったから。
だが、誰よりそれを分かってくれる存在がいた。そして、そんな力でさえも笑って受け止めてくれる存在がいた。それが魔王、魔界を統べる存在。圧倒的強者の前では、カイルが恐れた力でさえ児戯に等しいものだった。
彼の前では力を振るうことを恐れる必要などなかった。そしてまた、彼に続く四天王達も。教えられたのだ、それは一定以上の水準に達した魔の者であれば誰もが通る道であり、そしてさらなる強さを得るために必要なことでもあるのだと。
そこで力に溺れ、力に呑み込まれてしまえば終わりだと。自ら持つ力を制御し、支配し、自在に操れるようになって初めて一人前だと。
そのために戦い続けた。彼らとの戦いの中でその力を自分のものにするために。そのために鍛え続けた。もう二度とこの力で自分にとって大切な存在を傷つけてしまわないように。
不安を感じる暇さえないほどにこきつかわれ、それでも初心を忘れないようにリリスが忠告してくれる。半分以上は彼らの実益のためだったようだが、それでもカイルのためになる行動だったことも確かだ。
だから、人界のためだけではない。魔界で出会い、そしてカイルを助け救ってくれた者達のためにも、ここでリプリーに負けて利用されるわけにはいかないのだ。
『お前とあれはよく似ている。だが、お前はあれとは違うのだな。己の目的のために、犠牲をも厭わない、か。いかにも人間らしい』
「ああ、俺は万能でもなけりゃ、聖人君子でもない。相手を殺してでも生きようとするし、目的のために誰かを切り捨てることだってする。今この場において、ナンシーに人質としての価値はない。それとも、それだけの力を持っていても未知の相手と戦うのは怖いか? 怖いだろうな? 自分の中にある未知の感情を受け入れられず、全てを壊すことでしか解決できなかったんだから。いや、それでも消えない感情に、今も囚われ引きずられている。違うか?」
人であろうと魔の者であろうと、未知の存在を恐れる気持ちに変わりはない。そして、それは自分の中に生じた未知の感情に関してもそうだ。
人ならばその感情の名前も意味も知っている。だが、それを知る機会などなかったリプリーは違う。自分の中に生まれた感情に混乱し、翻弄され、呑み込まれてしまうかもしれない恐怖からすべてをぶち壊した。
愛すべき存在に愛しいものを殺させ、全てなかったことにしようとした。その後も、愛すべき存在を人形のように扱い、自分の中に未知の感情が生まれることを阻止しようとした。
けれど、一度生まれてしまったものがそう簡単に消えるはずがない。人とは行動原理も感情も違う魔の者であっても、誰かを大切に思う気持ちに変わりなどないのだから。
だが、リプリーはその感情への向き合い方を間違えた。それによって生まれた愛情の示し方を誤った。それが故の悲劇、それが故の罪。
カイルがリプリーの研究を知っていく中でぼんやりと見えてきたリプリーの目指すもの。常日頃から肌身離さず身に付ける紅い石。
だからこそカイルはリプリーにある種の憐れみを抱く。叶わぬ夢を実現させようとし、届かない存在に手を伸ばし続ける彼の有様。それがかつての自分に重なるから、そしてそれは決して手に入れられないものだと分かっているから。
『何を言っている? わたしはただ研究を……』
「どんなに研究しようが、死んだ人間は生き返らない。例え器を作れても、そこに魂はない。自分の手で愛する人を殺したあんたは、二度と愛する人には会えない」
カイルの言葉に、リプリーはいつになく焦った様子を見せる。わなわなと体を震わせ、小さく首を振る。認めたくないというように。
『愛……だと? なにを馬鹿な……』
「それがあんたの中の疑問の答えだ。あんたはナンシーの母親を愛してた。でも、それが認められずに、それが理解できずに、それが怖くて殺した。だから、もう二度と会えない。人はそれを知っているから、大切な人との時間は大事にする。命を慈しむ。その機会があったのに、それを捨てたのはあんただ」
奇跡のような確率で巡り合えた相手。立場も境遇も種族も寿命も超えて認め合い、慈しみ合うことが出来る存在。それがどれほど貴重で、希少なことなのか。
カイルにはよく分かる。だが、リプリーにはそれを理解することができなかった。心の奥底では分かっていたのかもしれない。だが、認めることができなかった。それが故の過ち。
「その紅い石はその人の血でできてるんだろ? 確かにそれを使えば、血の持つ情報から姿形はそっくりの人が生み出せるかもしれない。でも、そこに魂は宿らない。魔石を加工して、疑似的な命を与えても、その人じゃない」
『黙れっ! 黙れ、黙れ黙れっ!! わたしはそんな、そんな下らぬことなどっ……』
「あんたが人工的な魔人化の研究を始めたのはその人の死後だろう? デリウスに眷属化の延長で魔物の使役を教えたのはそれ以前だろうけど。じゃないと人界大戦でまがい物の魔人が出てこないわけがない。特異体や変異種を研究するのもそのためだろ? 特殊な進化、あるいは発生をするそれらの仕組みが分かれば、彼女を取り戻せるかもしれないと思ったから」
『違うっ! わたしは、ただ研究のためにっ!』
「そうか。なら、これをもらっても問題ないよな」
カイルは動揺している隙をついて空間魔法でリプリーの胸元から紅い石を奪い取る。カイルの手の中にある紅い石を見たリプリーは、すぐさま自分の胸元を見る。だが、そこにはもう紅い石は存在しない。
『貴様ぁぁ、それを、返せぇぇぇぇ!』
それまでの余裕などかなぐり捨て、目を血走らせたリプリーが地面をける。ただそれだけで十メートル以上あった間合いが一瞬で詰まった。
振り切られる腕を魔法で防ぎながら、茫然としたような表情でたたずむナンシーを影の中に引き入れる。逆上したリプリーはそれにさえ気づかないようで、ただひたすらに、がむしゃらにカイルに攻撃を仕掛けてくる。
これ程愛していたのに、狂おしいほどに思っていたはずなのに。
今、カイルの目の前にいるのは魔界にその名をとどろかせ、見る者を震え上がらせる恐るべき吸血鬼などではない。
愛に溺れ、愛に狂い、そして愛に気付かず愛を殺した者。攻撃しながらも、自分が涙を流していることさえ気づかない、愚かで憐れな、一人の魔人だった。
この姿を眼に焼き付ける。この嘆きを心に刻み込む。この罪を魂に染み込ませる。一歩間違えば自分がこうなっていたかもしれない。あるいは将来道を間違えればこうなるかもしれない。それを忘れてはならない、忘れたくない。
誰かを愛することは冷血な吸血鬼に涙を流させるほどに素晴らしく、魔の者の本能を狂わせるほどに重いものであることを。
だからこそ、生涯貫かなければらなない。覚悟をしなければならない。ただ楽しく温かいばかりが愛ではない。時に人を狂わせ、道を踏み外させる。
自分の心に向き合えず、自分の感情を受け入れられない者の末路。こうなってはいけないのだと強く強く自分を戒める。ただ与えるだけでも、与えられるだけでも駄目だ。互いに支え合い、互いに認め合い、共に育む。
どれだけ離れていようとも、預けられた心が胸の奥にある。預けた心が彼女の元にある。ならば戻らなければならない。死ねない、再び彼女の隣に立つためにも。
そして、互いに誓った夢を叶えるためにも、ここで死ぬわけにはいかないのだ。




