対峙
側近はそのまま一階に下りると、地下へ入っていく。ここ数日間で幾度となく下りて行った地下だがこの雰囲気の中ではより一層重苦しい空気を感じる。
側近はそのまま奥へと進んでいく。そして、一つの扉の前で立ち止まった。そこは今まで一度も入ったことのなかった部屋だ。部屋の外からでもそれなりに広いことが分かるが、何に使われているのかは聞いたこともない。
だからこそ、候補の一つとして考えていた場所でもある。
『リプリー様がなぜおまえのような者を生かしているかは分からない。あのお方の考えは我々には容易に測ることなどできないからな。だが、我らは皆あのお方の研究を手助けしたいと考えている』
振り返り、じっとカイルの眼を見てくる側近の言葉には本気の色が見て取れた。どういう理由であろうとも、彼らがリプリーにある種の敬意を持ち、役に立ちたいと考えていることは確かなようだ。
だが、支配され眷属となることで魔の者としての本能とあり方を歪められているためか、彼らの言動には人にもよく見られる醜い側面もまた見受けられる。
自分の意志に関係なく縛られ、意に沿わないことであろうと従わなければならない。そうしたことによって積み重なった鬱憤を自分達にとって気に喰わない存在にぶつけることで解消しようとしている。
別にそれ自体は実害さえなければどうでもいいのだが、リプリー不在の今は脅威となるだろう。人ならば不在時だろうと手を出せばどうなるのか計算できようものだが、それを自らの心に正直な魔の者に求めるのは不可能ということだろうか。
「そうですか。では、これもその手伝いの一環だと?」
側近はにやりと笑うと部屋の中にカイルを導く。そこは廊下のように照明が付けられているわけではなく薄暗い。それでもシェイドの加護とクロとの契約によって夜目のきくカイルにはその部屋の概要を見渡すことが出来た。
「これは……」
そこにあったのは魔方陣。それも半径十mはあろうかというもの。床に深く刻まれ、薄く青い燐光を発している。
『初めて見るだろう? これは人界と魔界を繋ぐもの。最もこれを利用するのはあの半端者の娘だけだがな』
嘲りを隠しもしない口調、その表情にもナンシーを見下していることが分かる。なまじリプリーを尊崇しているからだろうか。リプリーの血を引きながら、人の血をも引くナンシーの存在は許しがたいのだろう。
それにしても、なぜ突然これを見せようなどと思ったのだろうか。確かにカイルはリプリーの実験に色々と付き合わされている。それでも未だに核心に迫るような技術や部屋に入れてもらったことはない。
側近達の独断だとしても、ここだってリプリーの領域になるのではないか。そう考えたのだが、この部屋の中は廊下や地下にある他の部屋と違ってリプリーの息吹を感じられない。
なるほど、この部屋であればリプリーの目や耳が届かず、さらには他の屋敷の使用人達の目にも触れない。他の使用人達はここへの出入りを許されていないし、例え入ったとしてもすぐにリプリーに気付かれるだろう。
だが、分かっているのだろうか。いくらこの部屋の中であればリプリーの監視を免れるとはいえ、ここに来るまでの道中はすでにリプリーの領域の中なのだ。
その先で何かがあれば気付かないはずもないし、それをしたのが誰か分からないはずもないだろう。それなのになぜここにカイルを連れ込んだのか。訳が分からない。それとも、魔の者に言動の整合性を求める方が間違っているのか。
「なるほど、貴重なものを見せていただいて感謝します。それで、どのようなお手伝いをしたらよろしいのでしょうか?」
カイルがそう尋ねるのと、常に警戒を払っていた意識に敵意ある反応を感じるのは同時だった。すぐさまその場を飛び退り攻撃を仕掛けてきた者を見る。
それはリプリーについている側近の一人。普段は隠しているだろう爪を光らせ、牙を剥いている。元の種族は違うのだろうが、吸血鬼に眷属にされた影響か犬歯が異常なほどに伸びている。その様子からカイルに咬みつこうとしたのだろう意図が読み取れた。
「……なるほど? 俺の血を吸って支配下に置こうってことか……」
主人であるリプリーはつまらないからという理由でカイルを自由にしている。だが、側近達にとっては行動の一切を縛れないカイルをこの地下に出入りさせることなど到底許せないことだった。
特に自分達などは支配下に置かれてから初めてここの立ち入りを許されたという背景もあるのだから。眷属となった吸血鬼であっても他者を吸血することで自身の支配下に置くことが出来る。
それは間接的にではあるが、リプリーの支配下に置けるということでもある。究極的には全ての眷属の頂点にいるリプリーがすべての眷属達の支配者として君臨することが出来るのだ。
本当であればカイルという存在など消してしまいたいところだったが、それはリプリーからの命令によってできない。ならば危険を排除し、何より自分達の下に置くためにカイルの血を吸おうとしているのだ。
これはリプリーがいる時では実行できないし、仮に後日そのことで咎められたとしても不安要素が摘めるのであれば厳しく叱責されることもあるまいという思惑による。
実際のところは、リプリーはカイルにかつての妻の幻影を見ているのであり、そのためにこういった手段をとってこなかったので、彼らの判断は的外れと言える。
それでも、歪んだ忠誠心と魔の者としての本能でカイルを襲うということを思いとどまることができなかった。
『伊達にリプリー様に気に入られたわけではないということか。だが、この人数を相手にどこまでやれる?』
カイルをこの部屋に導いた魔人の背後、闇の中から次々に魔人達が姿を現す。それはリプリーの側近であり、現在この屋敷に残っている者達すべてだった。
「歓迎されていないとは思ってたけど、嫌われたものだな」
元々仲良くできるとは思っていなかった。カイルは魔王からここに派遣された間者であり敵だ。ナンシーのような例外を除いて深く関わるつもりはなかった。だが、ほとんど話したことがないような者にまで殺意に似た敵意を向けられるとは思っていなかった。
それほどまでに彼らの中でリプリーは絶対の存在であり、カイルは気に喰わない者であるらしい。元の素性を考えれば無理からぬことでもあるので慌てはしない。
カイルは彼らの立ち位置を確認すると同時に彼らの実力をも探っていた。魔界に来てからもこういった荒事に幾度となく駆り出されたおかげか、あるいは自分よりも圧倒的な強者との戦いに慣れてしまったためか、どのような状況かに置かれても冷静さと思考を失うことはない。
<カイル、いけるか?>
<おそらく、彼らだけなら問題ないと思う。クロやクリアのことは出来る限り秘密にしておきたい。ここではリプリーの眼はないけど、この先何があるか分からない>
今ここで彼らと敵対した以上、あまり長居するのも得策ではない。それにまたとないチャンスでもある。ここでこの屋敷にいる側近達すべての無力化に成功すれば大胆な手口も実行に移せる。
いつリプリーが戻ってくるか分からない以上、情報の精査はあとだ。根こそぎ持って行ってしまえばその中から必要な情報を得ることもできるだろう。
そして、それを元にリプリーを排除するために動くことができる。現に今目の前にリプリーが許可なく人界と繋がっている証拠である魔法陣があるのだから。
カイルはクロの補助を受けながら、今まで立ち入ったことのない部屋にある一切合切を影を通じて空間の中に納めていく。
おそらくそのことでリプリーに何かを感づかれただろうが、これから側近達と交戦し少々大きな魔法を使うのであれば同じことだ。
魔力感知ができない魔人達だったが、囲まれてなお焦りを見せず、魔力と集中力を高めていくカイルに余裕だった表情を引き締めつつも動くことが出来ない。
そしてカイルがほぼすべての資料などを影の中に納めた頃、焦れた一人の魔人が飛びかかった。魔人らしい、小細工も何もない自らの能力に任せた突撃。
それでも人を圧倒的に上回る身体能力と、魔力によって無意識のレベルで強化された肉体。半端な防具など容易く切り裂く強靭な爪は生意気な新入りを切り裂くことが出来るはずだった。
だが、多彩な魔法と洗練された体術を誇る四天王や、全てにおいて超越した実力を持つ魔王と日夜戦い続けてきたカイルにとって、そんな攻撃など視線を向ける必要さえないものだった。
カイルの体に触れる直前に、すさまじい負荷によって床に叩き付けられ、魔人の力を持ってしても引きちぎることが出来ない黒い金属に拘束され身動きが取れなくなる。
ならばと魔法を使おうとした瞬間、体の下から湧き出た黒い闇に触れられた瞬間、全ての魔力を抜き取られ、意識を闇に落とした。
あまりにもあっけなく、あまりにも瞬間的に無力化された仲間を見て側近達に動揺が走る。それを見過ごすカイルではない。
瞬間的に発動された魔法が彼らの影から飛び出し、同じようにして拘束し魔力を抜き取って気絶させる。それだけで十数人いた側近の十人が床に崩れ落ちる。
本能的な危機感から宙に飛び上がった者だけがその襲撃を回避していた。
『な、んだ? これは……なんなんだこれは!』
圧倒的に優位だったはずだ。味方もなく、生まれて日が浅いために経験も少ない魔人。それを制することなどそれこそ文字通り赤子の手をひねるくらいのことだろうと考えていた。
それでも側近全員を集めたのは保険のためと、常日頃から不満を抱えていた側近達の憂さ晴らしのため。それが蓋を開けてみればどうだろう。
たった一人の幼い魔人になすすべもなく、訳も分からないままに囚われる。何が起きているのか、何をされたのかさえ想像することもできない。
魔の者の中では珍しい、青い眼が宙に浮く残された魔人達に向けられる。その瞬間、魔の者としての本能が逃走を選択させ、考える間もなく身を翻そうとした。
だが、気付いた時には指先一本動かすこともできず、声も出せない。そして床の上で倒れ伏す同僚と同じように拘束され、意識を失った。
カイルは無力化させた者達を新たに作り出した空間の中に入れる。そこではそれまで活用していた時間拡張した空間ではない。むしろその逆だ。空間の中における時間経過を限りなく遅くしたもの。
亜空間収納に施しているように、外でいくら時間が経とうと中の時間はほとんど経過しないようにした空間だ。これで引き渡すまでに彼らが眼を覚ますということはないだろう。
念のため魔力を限界まで奪ったうえで睡眠の強力な魔法をかけている。魔法を解除するまでは眠り続けることになるだろう。結果的にリプリーの戦力を削ることもできた。
だが、あまり時間はない。自分の眷属の状態は離れていても察知できるということなのでもうこちらに戻ろうとしているかもしれない。
カイルは魔方陣が刻まれている周囲の床を切り取るとそれごと空間の中に納める。とりあえずこれで証拠の回収はすんだ。後は脱出だけ、そう考えて魔王城の近くに空間を繋げようとしたカイルだったが、眉を顰めると行き先を変更して中に入る。
出た場所は、最初にリプリーと顔合わせをしたエントランスホール。そして、あの時と同じように階段の踊り場にリプリーがおり、そのそばにナンシーもたたずんでいた。
非常に愉快気に笑みを浮かべるリプリーとは相反して、普段の無表情が崩れるほどにナンシーは焦りと恐怖を浮かべていた。
『……ただものではないと思っていた。貴様の背後にいる者にも常々会いたいと考えていた。今、それは叶うのか?』
「何のことだ? 俺は襲われそうになったから反撃しただけだ。誰も殺していない」
一応とぼけてみるも、リプリーの笑みは深まるばかりだ。逃げようと思えばできるのかもしれない。だが、身動きできないナンシーと、魔力感知によってその全身に絡みつくような魔力を見て、それを断念する。
カイルがこの場から逃げれば、リプリーは即座にナンシーを殺すだろう。ナンシーの身動きを封じている魔力には明らかな殺意が込められていたのだから。
『ククク、わたしが知らないとでも思ったか? 魔王の犬めが、毎晩の文通はさぞ楽しかっただろうな?』
カイルはその言葉に眉を顰める。リリスとのやり取りは極力人目に付かないように行っていた。常に周囲を確認してから行っていたはずだ。それなのになぜ知っているのか。
『分からないか? わたしほど影の扱いに長ければ、例え魔力の網を張っておらずとも、その影に記憶された事柄を読み取ることも可能なのだ』
それは今まで誰にも学んだことも聞いたこともない魔法だった。それがあれば相手に悟られることなく、相手の情報を仕入れることもできるだろう。この屋敷そのものがリプリーの腹の中だったというわけだ。
さらには重要と思われる場所をあえて自らの魔力と影で満たすことでそちらを警戒させ、身の回りに出来る当たり前の影には注意を向けさせないようにもしていたということか。
ならばクリアの存在も知られている可能性がある。床や壁に同化していても存在している以上、影を消すことなどできないのだから。
『高位の存在になれば下位の魔の者を使役することも可能になる。わたしのように支配し、眷属とすることも……。だが、貴様のそれはどちらとも違うな? わたしはそうした関係に一つだけ思い当たることがある。脆弱な人のみが行える、他の存在と契約を結ぶことで意思の疎通と共闘を可能にした技。……使い魔契約、と言ったか?』
リプリーの言葉に驚いたのはナンシーだけだった。初めに魔王の犬と呼んだことで、カイルの立場を知り、さらには人にしかできない使い魔契約をしたということに。
『少し前、魔界に少々揺らぎが生じた。何がしかの存在が魔界に訪れたと判断していたが、よもや人が魔界に来ていたとはな。ククク、その上生きて、魔人となったなどと……これほど研究意欲をそそる者もない。確信がないゆえに今までは様子見をしていたが、わたしの資料を根こそぎ奪ったということは、間違いないとみていいのだろう?』
やはりカイルがごっそりと資料を奪ったことは知っているらしい。ここまで来てとぼける意味はない。それに、時間稼ぎをするならば会話に応じるのが一番だろう。
「そうだな。確かに、俺は人界から来た人間だ。んでもって、俺がここに来たのは間接的にあんたにも責任がある。あんたがデリウスに与えた技術、それによって俺が住んでた場所が襲撃されて、結果として魔界に送られることになったんだからな」
遅かれ早かれ魔界に来ることはあったかもしれないが、こんな形で何の覚悟も準備もなく魔界に送られたのはデリウスとそれにそそのかされた王子、デリウスさえも利用したブライアンの執念によるものだ。
『やはりか。その姿はどうした? 貴様もデリウスに改造された者か?』
「いや? 食べるものがなくて魔石を食べてたらこうなっただけだ。だから、人の姿にも戻れる」
カイルの言葉にリプリーは目を細める。人為的な魔人化の技術を開発したリプリーだったが、ナンシーのような半魔を除き、自然とそうなった例など聞いたことも見たこともなかった。だが、それだけに興味深い素体であることに違いはなさそうだ。
『なるほどな。それであれと似たようなものを感じたというわけか。あれと同じ人だったからこそ』
「……それだけでもないと思うけどな。で、どうするんだ? 俺が根こそぎとってった資料って、あんたにとっても知られるとまずいものなんじゃないのか?」
『その通りだ。だからこそ貴様をこの屋敷から出すわけにはいかない。貴様が人であるなら、こうした手段は有効だろう? 仲良くなっていたようだしな』
ナンシーを覆う魔力がひときわ強くなると彼女の全身を締め上げる。小さなうめき声を上げながら、ナンシーの眼はカイルに語り掛けていた。逃げろ、と。逃げてその資料を魔王に渡し、リプリーを破滅させろ、と。
ナンシーにとってみればあるかなきか、いやおそらくは欠片ほども存在しなかったリプリーに一矢報いるチャンス。面倒をみるつもりで、様々な魔法を教わりともすればリプリーよりも親しみを感じていたかもしれないカイル。
それが魔王の間者であったことには驚いたが、ならばなおの事生き延び、彼女と母の無念を晴らしてほしかった。元々それが叶うならば自らの命など惜しくはないと思っていた。捨てるつもりだった命が、リプリーの破滅への一助になるかもしれない。
それだけで満足だった、それさえ叶えば他に何もいらないと、そう考えていた。だが、そんなナンシーの思惑を外れ、カイルは動かなかった。そして、それはナンシーよりも人を良く知るリプリーにとっては予想通りのことだった。
有象無象の人ならばともかく、かつて自分を幾度となく驚かせた人間の女によく似たカイル。ならばこの行動をとるだろうことは予測できたのだ。




