崩れゆく日常
カイルはいつも修行に使っているのとは違う、新たに作った空間の中若干苦笑いを浮かべながら彼女が悪戦苦闘する様子を見ていた。
カイルがリプリーの屋敷に使用人として採用されてから三日が経とうとしていた。今は本日分の仕事を終え、ナンシーの魔法指導を行っていた。これも三回目だ。
いつも彼女の魔力が尽きるくらいまで修行に付き合うことになっている。それでも実際に現実でかかる時間は数分程度。中では半日くらいだろうか。その間ずっと彼女に基本属性の魔法の使い方を教えていた。
全くの基礎からならともかく、彼女にはそれまで他属性を使ってきたことによる魔力操作と魔法制御の経験がある。そのため属性を乗せるコツを教えるだけであとは彼女自身の研鑽にほとんどの時間を割くことになる。
しかし、思っていた以上に難航していた。というのも彼女は今までほとんど感覚的に魔法を使ってきたことでそれが癖になっていたというか、意識して属性を乗せるということをしてこなかった。
そのため、理屈は分かっても実際にやってみようとするとなかなかうまくいかない。属性を乗せようとしてもベースとなる闇の魔力に呑み込まれてしまったり反発してしまったりとうまく魔力を染められず魔法の型にはめられないのだ。
何度も繰り返してきたことで最初に比べて大分ましになった。だが、未だに生活魔法でさえ三回に一回は失敗する。
母から受け継いだ血統属性の恩恵からか魔力や魔法の応用でそこまで苦労したことのなかったカイルもある意味で難航していた。
ナンシーは半魔だが、ベースとなる魔力は魔界の生き物と同じ闇の魔力だった。ただし人の血を引いているためか人界など無属性の魔力が満ちる場所でも魔力の自然回復が行えるようで、そのためリプリーの使いをやらされていたのだろう。
それらしいことを遠回しに聞いた。最もその内容に関してはさすがにナンシーも口にできなかったようだが、裏事情を知るカイルからすればそれは大した問題ではない。
問題なのはいまだに決定的な証拠を見つけられていないということ、そして、時折突発的に生じるリプリーの研究への協力という名の実験に付き合うことだろうか。
カイルを死なせたり、普段の生活に支障をきたすようなことまではしないのだが、いつ純粋な魔人ではないことを知られるかと気が気ではない。
今のところ他の魔の者との違いも特異体ゆえのことだと思われているので何とかなっているが、もしカイルが人間でしかも魔王の間者と知られたら命はないだろう。あるいは今までやってこなかった実験を強制させられるか、どちらにせよまともな未来はない。
それまでに何とか証拠をつかみたいところだが、向こうも警戒しているのは同じなようだ。一朝一夕で入り込めるような場所にはおいていないようで、それらがある可能性のある場所というのは常にだれか側近が一人二人いるので下手な動きはできそうにない。
そうした事情を表向きの手紙とは別の手紙や屋敷の外に出た時にクロが影移動を使って連絡を取り合っていた。
ダミアンも使用人として入り込めるだろうことは確信していたようだが、側付きになるとまでは思っていなかったようだった。だが、逆にそれを知るとぜひとも証拠を手に入れるように押してきた。
しかも、よその屋敷に働きに来ているというのに魔王城でやっていた事務仕事というお土産と共に。使える者はとことん使うというところはどこかリプリーと似た部分がある。だからこそだろうか、ダミアンはかなりリプリーを毛嫌いしているようだ。
この屋敷での仕事も似たような事務処理をやっているのでついでと言えばついでなのだろうが、危険を推してまで仕事を回してくるのはどうなのだろうか。なんだかカイルがいなくなって一手に事務処理を引き受けなければならなくなったダミアンの八つ当たりのように思えなくもない。
だが、何の成果もないかと言えばそうではない。リプリーが自分でも言っていたようにカイルが知りたいと思った技術に関してはそれなりに融通してくれた。
特に衣服や身の回りの道具などに特殊な効果を付与できるのは助かった。その分高品質の魔石を使用することになるがその点に関してはそれまでの蓄えもあるので問題ない。それにいざとなればクロが外で狩ってきてくれるので普段の食事に回す分も足りている。
さらにクリアの分身体もあちこちに配置し終えたことで、クリアを通じて屋敷内の監視も可能になっている。そのおかげでリプリーや側近達の普段の行動などもある程度把握できてきた。隙を見つけることが出来たなら少し大胆に証拠集めをしてもいいかもしれない。
魔力感知と魔法を使った探知、さらには気功を使った把握能力で屋敷内の構造や間取りはおおよそ把握できた。地下への立ち入りを許可されても、未だ立ち入ったことのない場所がいくつかある。ならば狙うべきはそこだろう。
ただし、今はそこに立ち入れるほどの信頼も得ていなければ、やたらとカイルを敵視する側近達の目があるので近づくことも難しい。どうすべきだろうか。
頭の中でそんなことを考えながら魔力感知を使ってナンシーの魔力操作と魔法の発動を見守る。最初の頃に比べて大分魔力の流れや属性を乗せていく作業は上達してきた。
魔力量が多くても荒々しい川のようだった魔力の流れが整然と研ぎ澄まされていき、より無駄なく巡らせることが出来るようになっている。まだまだ粗は目立つが着実な進歩だ。
さらに修行をしていくうちに気付いたのだが、彼女は人の血を引いているためか魔の者にはできない魔力感知ができた。
それまでも無意識に使っていたのだろう。彼女がカイルに眼を付けたのも魔力感知によってカイルが普通の魔人とは違うことを感じ取ったからだ。
それまではほとんど無意識で使っていたそれを意識的に使えるように誘導した。魔力感知に関しては魔界の生き物には使えないものであるため説明や誘導には気を使った。あまり詳しいことを教えすぎたり上達しすぎるとカイルが生来の魔人ではないことに気付かれてしまうだろうから。
『……ふう。やっぱり難しいですね。あなたに言われたように体内や周囲の魔力に意識を向けるようにすると魔力操作や魔法制御が楽になりますが、その分集中力が必要になってきます。これは繰り返し練習して慣れていく以外にありませんね』
「そうだな。それができるようになったら相手が使ってくる魔法の予測ができる。やるだけの価値はあるさ」
カイルの言葉にナンシーは無言でうなずく。魔界の生き物にはできない魔力感知。それが使えば相手の使ってくる魔法の先読みができる。それを研ぎ澄ませればかつてカイルがやったように眼を閉じている状態であっても戦闘が可能になる。
彼女が望む魔力操作と魔法制御にはまだまだ到達していないし、魔法を失敗することも多いがこれを続けていれば自然と魔力感知の練度も上がっていくだろう。
リプリーの屋敷に雇われた使用人の内、屋敷のことを受け持つのは数人程度。それ以外の者はリプリーの研究のための素材や魔石集めなどに駆り出されているようだ。
入れ替わり立ち代わり屋敷や魔都の外に出て行っている。長く生きて暇を持て余すか、あるいは高貴な血筋に生まれて幼少から英才教育を受けるか。そういう者でない限り魔界文字の読み書きができないというのでそれも妥当な役割分担だろう。
初日に読み書きができることを伝えたおかげでカイルは屋敷の中の仕事が振られているということだ。魔界にいる限り魔の者は飢えることはないので衣と住の保証だけで、それぞれの糧に関しては自己負担・自己責任で得るようになっているようだ。
魔界では進化できるほどの糧を得ようと思えば膨大な時間と犠牲が必要になってくるため、これと言って制限はされていない。
例えどれだけ糧を得ようと、毎日のように糧となる人の血を飲んでいるリプリーに追い付くことはないと考えているためでもあるだろう。
まさかカイルが瘴気を糧として、日々、生きているだけで成長し続けていることには気付いていないようだ。
その上で毎日クロやクリア達と修行を積んでいるのだが、まだリプリーには追いつけない。側近程度ならそれなりにやり合えるくらいになったとは思うのだが、その辺も情報を集めている最中だ。いずれ敵として戦う可能性がある以上、相手の能力を調べることは無駄にはならない。
「近々人界に渡る予定はあるのか?」
『……ごめんなさい。それについては話せません。それに、それを決めるのはリプリー様。いつもわたしは直前までそれを知らされませんし……』
リプリーによって制限をかけられていることに関してはこうやって黙秘を貫くようになるらしい。それでも出来得る限りの情報を伝えてくれようとしている。
数日だが、空間の中でそれなりに長い時間を過ごしたことで一定の信頼を得ることはできたようだ。それにナンシーはカイルを懐かしむような眼で見てくることが多くなってきた。
ナンシーから母親について聞いてその理由を知った。どうやらナンシーの母親は神殿都市に囚われることを良しとせず、人里離れ孤独に生きる紫眼の巫女の力を持った女性だったようだ。
そこで偶然クロのように死にかけたリプリーと出会い、ナンシーが生まれた。そんな強い女性だったためか、カイルの母親と同じようにナンシーが生まれても紫眼の巫女としての力を失っていなかったようだ。
紫眼の巫女は血というよりは魂によって選ばれる。そのため、その女性とカイルは魂の部分において似通ったところがあるのだろう。
それがリプリーやナンシーに懐かしさや親近感をもたらしているようだ。道理でやたらとリプリーが絡んでくると思った。特異体であるということ以上に、かつて愛したのだろう女性の面影をどこかで追いかけているのだろう。
それを娘ではなく同じ紫眼の巫女の力を持つカイルに見出したのは、彼の歪んだ愛情ゆえだろうか。
ナンシーにもそれが分かったようで、最近は嫉妬や怒りというよりは不安や心配をしてくるようになってきた。どうやら母親の二の舞になるのではと心配しているようだ。
その可能性もゼロではないので、リプリーの執着があまり強くなりすぎる前に決着をつけたいと考えている。幸いにしてこちらが合図を出せばすぐに駆け付けられるよう魔王も四天王も待機してもらっているらしい。
思っている以上にリプリーに接近したため魔王城でも警戒態勢を敷いているようだ。少々強引に送り込んだ手前、フォローはしてくれるようでその辺は責任者らしい行動だと言えるだろうか。
もっとも、カイルからの報告を面白おかしく聞いていたというのだから案外それ以外の仕事をさぼる口実にされているのかもしれないが。
それからさらに数時間続けた後解散となった。カイルは自分に与えられた部屋に戻るとベッドに腰かけて小さくため息をつく。
証拠集めに関してもそうだが、ナンシーに関してもどうすべきか考えあぐねている。最近は大分態度が柔らかくなってきたとはいえ、彼女の基本的な目的は変わっていない。
自分の身と相打ってでもリプリーを倒そうとしているところは。そしてまた、倒せなくても自分の命を捨てる気でいる。何度か遠回しにそれ以外の道はないのかと問いかけてみたのだが彼女の意思は頑なだった。
もはやそのためだけに生きていると言っても過言ではない。千、万の言葉を尽そうと、幼い頃に刻まれた罪がすべてを否定する。
彼女自身、心のどこかで望んでいてもそれ以上に強い罪悪感が希望も可能性も塗りつぶしてしまっているのだ。
カイルは目を閉じてもう一度ため息をつくと、今度はクロやクリアがいる空間へ入っていった。自分一人でいい案が浮かばないのなら彼らの意見を聞きたいと思った。また、一度頭が空っぽになるくらい別のことに集中すればまた別の考えも浮かんでくるのではという期待もあった。
だからこそ、気付かなかった。気付けなかった。事態はすでに進んでしまっていたことに。リプリーの狂気と歪みはすでに取り返しのつかないところまで迫ってきていたのだということを。
あまりにも無関心であったがゆえに、ナンシーと親しくなるということがリプリーに何をもたらし、そしてどんな行動を引き起こすのか。
例え支配されていても全く自由がないわけではない眷属たちがどのような行動に出るのか。これが最後の平穏になるなどと、その時のカイルには予想だにしなかったのだ。
次の仕事時間になるまでの長い間拡張空間で過ごしたカイルは、戻ってきて少しだけ違和感を覚える。十時間にも満たないような短い時間、それなのに屋敷の中に漂う空気というか雰囲気がまるで違っていたのだ。
それまでは保たれていた均衡が崩れたというのだろうか。あるいはそれまで表に出ることのなかった狂気が牙を向いたというのか。今まで感じることのなかったピリピリとした緊張感やひそやかな敵意に包まれていた。
確か今日はリプリーが出かけると言っていた日だった。側近が二人ほどついて行くだけで、ナンシーは残るはずだった。そのため部屋を出ると今までと同じようにナンシーの部屋を訪ねた。
しかしナンシーは不在なのか部屋には鍵がかかっている。探ってみても中にナンシーの魔力が感じられない。これは初めてのことだった。
ナンシーは時間に几帳面で生活パターンも決まっていた。だからこの時間にいないということはある意味異常な事態だった。まさか突然リプリーに何か用事を言いつけられたのだろうか。
カイルは何度か足を運んだことのあるリプリーの自室に向かう。だが、部屋の前に立っていた人物によって追い返された。やはり今日リプリーは出かけているようだ。
どうにも不穏なものを感じて廊下を歩いていると、幾度も敵意を向けてきた側近の一人が歩いてくるのが見えた。カイルは小さく頭を下げて廊下の端による。これが使用人としてリプリーや側近に出会った時の正しい対処法らしい。
これまではそれで問題がなかった。だが、今日はカイルの前でその側近が足を止める。
『貴様か、今日は仕事はどうした?』
「……ナンシーが見当たらず、リプリー様も不在のため探しています」
彼はリプリーに対してカイルが敬語を使わないことをひどく立腹していた。だから普段は敬語を使うようにしていたのだが、鼻で笑われる。
『ふん、どうやって取り入ったか知らんが、身の程を弁えることだ』
「俺は命じられた仕事をやっているだけです」
『そういうところが生意気だというのだ。若造のくせに……ああ、そうだな。貴様に相応しい仕事がある。ついてこい』
側近はそういうと踵を返して歩いていく。ここで無視すると面倒なことになりそうだったため仕方なしについて行く。それに少し期待もあった。リプリーが不在、さらにはカイルに敵意を持つ側近。
この条件がそろえば、もしかすると今まで立ち入ることができなかった場所に入れる可能性がある。それがどういう目的であろうと、向こうから招き入れてくれるなら好都合だ。
最大の警戒と準備を整えながら側近の後について行った。
 




