魔界樹
胸の高鳴りを押さえるように、魔王は静かに目を閉じる。これから先、長い付き合いになるかもしれない異端の人間を思い浮かべながら。
あれこそが、長年待ち続けた存在なのだろうかと、期待と疑念を浮かべて。
だが、未だ羽の生えそろわない雛鳥。判定を下すのはまだ先でいいだろう。ならば、楽しめばいい。魔の者として、魔王として。
夢を見ていたような気がする。けれど意識がはっきりする頃にはその夢も朧で、形が残っていない。うっすらと眼を開けると広がるのは魔界の空。けれど、感覚的にそれが外ではなく作り出された空間の中であると分かる。
「……どれくらい寝てた?」
『丸一日、と言ったところか。完全に魔力が枯渇しておったからな、それくらいが妥当だろう』
誰に言うともなく口に出した問いに答えてくれたのはクロだ。
<ご主人様、痛いところない?>
カイルの体を登ってやってきたクリアが体ごと傾けるようにして聞いてくる。その仕草に微笑みながらカイルは体を起こす。
まだ違和感が残るが、痛みはない。魔力の回復に伴い、体の方も回復したようだ。とりあえず継続の指輪に魔力を補給すると背筋を伸ばす。
『出るか? まあ、出たところでまた仕事を押し付けられるであろうが』
クロは不満げな声を出す。いかにそれが効率的であろうと、カイルと引き離されて行動するのは不安も不満もたまるというものだ。特に自分がいない時にカイルが討伐に向かわされたりすると気が気ではない。
今のカイルの実力であればそうそう遅れは取らないと分かっていても、万一を考えてしまう。それだけ魔界という場所は何が起こるか分からないのだ。
「容赦ねぇよな。まあ、色々手加減はしてくれてるんだろうけど……」
成果を出さなければ道はないのかもしれないが、出したら出したでさらに上を求められる。その分、信じられない速さで進歩しているのだろうが気が休まる暇がない。
カイルが立ち上がったところで、何も言わなくても空間から押し出されるのを感じた。荒野のような光景が瞬時に魔王城の謁見の間に代わる。相変わらず魔王はだらけた感じで座り、周囲には四天王の姿もある。
『眼が覚めたか。ならば、仕事だ。クロ、お前はルアースと共に増えすぎた魔物の間引き、クリアはいつものように掃除だ』
顔を合わせても挨拶より先に指示が飛ぶ。もうこんなことには慣れたもので、ため息をつきつつクロはルアースと共に部屋を出ていく。クリアはカイルを気にしつつもぴょこぴょこと移動していった。
『お前はダミアンと書類の整理、それが終わったらいいところへ連れて行ってやる』
「いいところ?」
魔王が言ういいところなど不安要素しかない。一体どこに連れて行こうというのか。
警戒心たっぷりのカイルの視線を、魔王は悠然と受け流す。待っていてもそれ以上の情報は得られそうにない。カイルはため息をつくとダミアンについて行った。
前を歩くダミアンだったが、今日はいつもとどこか違う。これまでダミアンはカイルに対して一定の距離を置いていた。強い興味を示しもしなければ、個人的に接触もしてこない。ただの使える駒としてしか見ていなかったように思う。
だが、今のダミアンはどこか聞きたいことを抑え込んでいるかのような気配を感じられた。最近では瘴気を通じてそういったことが感じられるようになっていた。これも瘴気を糧とする特性ゆえなのだろうか。
『……あなたは、あなたは自分がどういう存在だと思っていますか?』
ある程度進んだところで、独り言のようにダミアンがつぶやく。その問いに対して、カイルは少し考え込む。それはカイルにとって難しいようで、けれど簡単なことだ。
「俺か? 俺は、人だよ。何の変哲もないっていうと嘘になるけど、でも俺は人間だ」
能力的にも本質的にも人とは大きくかけ離れているのかもしれない。それでも断言する、自分は人であると。
『……私は人を直接見たことはありません。ですが、あなたが普通の人ではないことは分かります』
「ま、そうだろうな。魔界で生きているってだけで普通じゃない」
それに魔人化する以前であっても純粋な人とは言えなかったかもしれない。父と同じように龍の血を引き、母と同じように人には過ぎた属性を有していた。けれど、姿形や能力がどう変化しようとカイルの根本を支えるものは変わらない。
『私は魔人です。魔王様を支える使命を与えられています。それを疑問に思ったことも、自分の存在が揺らいだこともありません』
「そういうものらしいな」
同じ使命を持つ種でも、やはりクロの方が異端なのだ。それまでの在り方を、自らの存在意義を大きく変えることの方が。
『ですが、あなたやクロ達を見ていると……いえ、忘れてください』
「ん。……自分がどういう存在なのか、本当のところは誰にも分からないんだと思う。ただ、どういう存在でありたいのか、それが重要なんじゃないか?」
『どういう存在でありたいか?』
「どんな姿になっても俺は人でありたい。仲間と一緒に夢を叶えて、相棒と一緒に約束を果たして、家族を作って一緒に生きていきたい。だから、俺は力を蓄えて人界に戻る」
そのために出来ることは何でもやる。無茶をしようとも、前に進み続ける。待ってくれているだろう人がいるから。会いたい人達がいるから。
『なるほど。人はうつろいやすい、だからこそ己で己の在り方を決めるということですか……。よく分かりました。では、仕事と行きましょう』
ダミアンはどこか納得したように頷き、そして立ち止まると扉を開く。中を確認したカイルは頬が引きつるのを感じた。
部屋の中には例によって例のごとく、書類の山が乱立していた。一体どれだけ何年、何十年ため込んできたのだろうか。がっくりと項垂れながら、山の踏破に向けて足を踏み出した。
どうにか部屋の中の書類の山を一つ片付け、帰ってきたルアースと一戦を終えた後、カイルは魔王の元に向かっていた。基本的に魔王は謁見の間の玉座にいることが多い。今ではカイル一人でも例の扉が反応して入れてくれるようになっていた。
『ああ、来たのか。じゃあ、約束通り連れて行ってやる』
魔王はカイルの姿を確認すると玉座から立ち上がる。そのままカイルの返事を聞くことなく背を向けて歩いていく。どこに行くのか、何を見せてくれるというのか聞くこともできず後を追いかける。
魔王は玉座の後ろにあった扉を抜け、薄暗い通路を進んでいく。不意に視界が開けると、そこには予想だにしなかった光景があった。
まるでそこだけ別空間であるかのような、いや、確実に周囲とは隔絶された広大な空間を埋め尽くすように巨大な樹があった。人界では見たこともない紫色の幹に、生い茂る葉は漆黒。一枚一枚が人の顔よりも大きい。
『これは、ある意味魔の者全てにとって母とも呼べる存在。魔界の瘴気を生み出している魔界樹と呼ばれる樹だな』
数多く読んだ魔界の書物の中でも半ばおとぎ話のような扱いをされていた。魔界にあると言われるが、誰も見たこともある場所も知らない幻の樹。魔界を支え、あらゆる生き物の根本となる瘴気を生み出す樹だ。
「これが……。なんで、俺に?」
これが本当に魔界樹であるというならば、魔界にとって最重要な存在ではないか。それを、なぜ人であるカイルに見せるのか。
『一度は見ておきたいだろうと思ってな。それに……人界に戻るのなら、この樹とも無縁ではいられない。お前、魔界を出たら糧はどうする気だ?』
魔王の問いにカイルは即答できない。正直どうなるか分からないというとが正直なところだ。
瘴気の結晶でもある魔石でしのげるのか、魔物そのものを喰らわなければならなくなるのか。
『今のお前は二つの魔力源を持つ。そして、それらは深く魂に根付き、互いに均衡することで保たれている。分かるだろ?』
一度試しに意識して魔石の活動を停止に近い状態にしてみたことがある。結果は目も当てられないものだった。いきなり半身を失ったかのような虚脱感と喪失感、何より体内の魔石そのものが拒絶反応を起こし肉体を攻撃し始めた。
やはり魔石というものは本来人の肉体にとって異物以外の何物でもないということだろう。魔界という特殊な環境と、人というにはあまりにも適応能力の高い肉体がもたらした奇跡。今や、なくてはならないものになってしまっている。
一度活性化し定着した魔石の活動を停止させたり排除させようとすればかなりの負担と反動があるということがよく分かった。冥王から授かった鎌でどうにかできないかと思ったのだが、それをするにはあまりにも魔石とカイルの魂は深く結びついてしまっていた。
後天的に魔石を得たとしても、それが外部から埋め込まれたものであれば魔人化した後であっても魔石の分離が可能だろう。よほど手遅れでなければ相手の魂ごと還元しなくても済むはずだ。
だが、カイルは違う。後天的に魔石を得ながら、その発生は自然に行われた。ただ単に体に瘴気が蓄積されたというのではない。魔石を食べることで少しずつ、少しずつ魂に結びつく形で蓄積され続けていった。
そうして一定値を超えて魔石として体を為した。魔石を食べるたびに感じていた痛みと違和感。あれは少しずつ魂の一部が変質していく痛みだったのだろう。生きるため、空腹を癒すための行為の代償は安くはなかったということだ。
それは同時にこれから先、魔人としての自分とも向き合わなければならないということだ。瘴気のない領域に行けば必然的に得ることが難しくなるだろう。何せ魔界以外の世界で瘴気が存在しているのは人界のみ。それも、魔物を倒した後わずかに放出されるものか瘴気の結晶である魔石以外にない。
前者は新たな魔物を魔界から招くために必要であろうし、魔石として変質した瘴気が果たして糧として成り立つのかも分からない。
仮にそれができなかった場合、確実に日常生活に支障をきたすことは間違いない。それもあって戦闘技能を高めることや事務仕事と同じくらいの時間、魔界の書籍を読み漁っている。魔石の活動を抑えていても支障をきたさない方法があるのか。あるいは、瘴気以外を糧とすることが出来るか否か。
高位の生き物になるほど誕生した時から死ぬまで糧が変わることはないという。糧というのは、いわばその魔の者にとって存在意義や個としてのアイデンティティに関わる。例え進化したとしても元々の糧が大きく変わるということはない。
現にクリアなど最下位の魔物から上位の魔物と言えるほどに進化したが、未だに糧は水と魔力。これから先どれほど進化しても、この二つがなくなることはないだろう。
カイルとしても、日々絶え間なく瘴気を取り込んでいることで能力の底上げは行われているのだろうが魔都に入る前、魔人としては最高位になったようだが瘴気以外糧になったような感覚はない。
魔人化を繰り返し、その体にもなじんできたためか、あるいは魔人化した後も魔石を食べ続けたためか、クロが言っていた魔の者特有の感覚というものもなんとなくだが分かるようになってきた。
カイルが意識しなくても翼や尻尾を手足のように使えるようになったのもその恩恵といえる。いくらなんでも、獣人でもないのにそれまでなかった部位を使いこなせるわけがない。まして魔界の生き物と同じような使い方などできなかっただろう。
それが今や羽の一枚一枚、毛の一本一本でも制御下における。普通の生き物とも違う。瘴気で構成されている部位だからこそできる変化と精密操作だ。だからこそ余計に分かってしまう。今の自分が何を力の源にしているのかということが。
「どうにかしないといけないけど、今のところはあてがないっていうべきかな」
『だろうな。お前の糧は魔界以外で得ることは難しい、ってより魔界以外では得るべきじゃない』
魔王の言葉にカイルは唇をかむ。それは分かっていたことだ。魔界から魔物が送られる理由や、魔物が死んだあとの瘴気が果たしている役割を思えば、カイルが人界に戻ることでさらに人界と魔界のバランスを崩してしまうことにもなりかねない。
だからこそ、このところは血眼になって魔界に満ちる瘴気がどのようにして生み出されているのかを探っていた。そこへ思わぬ形で答えがもたらされた。
冥界の門に匹敵するほどの高さを誇る巨大な樹。魔都に匹敵するほどの広大な空間を埋め尽くすほどの存在感。その樹全体から瘴気に適応した体であってもピリピリするほどの濃厚な瘴気が絶えず放出されていることが分かる。
『まあ、その辺も含めてここに連れてきたってわけだ。冥王はお前に死神の鎌を授けたんだろ? なら俺も手土産くらいはやらないとな。お前が聖剣持ちなんかじゃなかったら、何と言おうと魔界から出さないんだけどなぁ。その方が管理が楽だし、手間がないし』
魔界の理と人界にある瘴気などを鑑みれば、カイルのようなイレギュラーは出さないに限る。だが、下手にあちこち足を突っ込んでしまっているだけにそういうわけにもいかない。さらには、冥王がカイルに与えた力。
本来であればあり得ない。例え鎌だけであろうと、死神の力を授けるなどということは。しかし、今人界で起きていることを思えば冥王の処置は適切だ。そして、それは魔界も無縁のことではない。
魔王のものである魔界の生き物達を不正に連れ出し、あまつさえいびつなまがい物を量産する。そのようなことは魔界の王としても魔王個人としても許せるものではなかった。
とはいえ、魔王が人界に出張るわけにはいかず、配下を派遣することもままならない。ならば冥王と同じようにまたとない機会を生かすしかないだろう。
いざとなれば神界とも連携をとってどうにか対処するが、それは最終手段だ。強大過ぎる存在が人界に直接的に干渉した場合、与える影響はあまりにも大きい。
人界の生態系や地形、思想云々ではない。領域そのものが揺らいでしまうのだ。人と同じように人界も基盤の世界にして可能性の世界。あらゆる領域との交流や干渉によって変化してしまう領域なのだから。
「でも、この樹は魔界になくてはならないものだろ? 何を土産にくれるんだ?」
見たところ落ちている葉っぱ一枚でも相当量の瘴気を含んでいるようだが、掃除ついでにこれをくれたりするのだろうか。
『魔界樹はこれで一種の魔物のようなものでもある。魔力を糧に瘴気を生み出す、俺の役割の一つは日々こいつに魔力を与えること。俺のおかげで魔界は保たれているということだな』
少し自慢げに話す魔王だったが、話の流れ的にこれから何を言い出すのか分かった。分かってしまっただけにぎこちない動きで魔王と視線を合わせる。
『と、いうことでこれから魔界を出るまで、お前が魔界樹の面倒を見ること。心配しなくても、この部屋にいる間外ではほとんど時間が経ってない。どれだけ魔力補充に時間をかけようと問題ないってことだな。そいつ、結構大喰らいだからな、しっかりやることだ』
「あ~、それってやっぱ拒否権は……」
『ないに決まってるだろ? まあ、最後までやり遂げたらこいつの種をやる。種でもお前の糧にするには十分すぎるくらい瘴気を生み出してくれる。こいつは千年に一度しか実を付けないんだ。これでも大サービスだろ?』
土産とは言いながら、ポンとくれる気はないようだ。あの慈悲深い冥王でも試練を与えてから力を授けてくれたように、何かしらの制約があるのかもしれない。あるいは魔王の場合はただの嫌がらせか。
「……分かった。やるよ」
カイルは自分よりも大きな根に触れて了承を示す。これで懸念が一つ減るなら望むところだ。そう前向きに思いなおし、魔界樹を見上げた。残り半月、短くも長い付き合いになりそうだ。
 




