逃げる選択の必要性
五感をいくつも潰されたランドグリズリーは怒りのままに周囲に破壊をまき散らす。その破壊音に紛れるようにして五人がクルト達に合流してくる。
「子供がこんな場所で何をしているんだっ! しかもあんな魔物相手に攻撃を仕掛けるなんて。とりあえず今のうちに逃げるぞ! なんか知らんが、天の助けだ」
「あ……いや、あれは……」
「わたし達の、仲間が……」
「仲間? そんなの、どこに……」
モニカの言葉に男性が聞き返そうとしたところで、木の上から小さな影が飛び降りてくる。あの後必死に二人を追い、ギリギリのところでどうにか魔物の気をそらすことに成功したカイルだった。
「カイル……」
「とりあえず目と鼻は潰した。今のうちに逃げるぞ」
今度こそ有無を言わせない調子に、クルトとモニカも魔物に背を向ける。建前でもあった救うべき五人はここにいる。魔物を倒せないという事実を知った上で、これ以上ここに留まる意味はなかった。
「また子供……しかもこんな小さな子があれだけのことを……」
「今は話す時間も惜しい。急げっ!」
急き立てるカイルの言葉に全員が走り出す。ランドグリズリーの狂乱もすぐに落ち着くだろう。追ってくる時に厄介になる視覚と嗅覚を奪ったことで有利にはなっただろうが絶対ではない。何よりカイルが警戒しているのは魔法だった。
ランドグリズリーの恐るべきはその強靭さや戦闘能力、何でも食べる凶悪さばかりにあるわけではない。基本的には視界に映った獲物を狙うのだが、より離れた獲物を探す場合土属性を使って地面の振動から位置を割り出せるのだ。
人には難しい、魔物ならではの魔法といえる。人では処理能力が足りなかったり構築が難しかったりする魔法でも、種族特性としてそれを持っている魔物は手足と同じ感覚で使える。感覚を潰したからと安心できる相手ではないのだ。
走りながらのため、カイルは魔物のいる方向だけに探知を向けることができず、いつものように周囲に展開する。これでも探知範囲に入ればすぐに分かる。ただし、その場合逃げきれないということでもある。
人と魔物では足の速さや持久力に大きな隔たりがある。どれだけ距離を稼いでいても追いつかれる可能性はある。特に高位の魔物になるほどに身体能力に秀でている。また、距離を問題なくしてくるような相手もいる。今回のランドグリズリーもその類だ。
「君が、あれだけのことを、したのか? 何か、食わせてたが……あれは?」
隣を走る三十代くらいに見える男性が息継ぎの合間に聞いてくる。森の中でもあるため全力疾走はできないが、それなりの速さで進んでいる。みんなばらけないようにある程度まとまっている。
「毒とか、麻痺とか、色々。魔物には、単品じゃ、効きにくいけど、混ぜたら効果が上がる」
カイルが移動しながら採取して集めていた毒草や毒茸、毒の実などの混合物を一つの袋にまとめて呑み込ませた。魔物には全般的に毒が効きづらい。人なら死んでしまうような毒でも、動きを鈍らせるくらいしかできない。だが、カイルがこれまで培ってきた経験上、数種類の毒を混ぜた場合劇的に効果が上がることが分かっている。
どの毒を主体とするかで配合比や効果が違ってくるが、相手の行動を阻害することが出来る。今回は麻痺を主体としたため、毒が効けば体が痺れてうまく動かせなくなるはずだ。そうした旨をとぎれとぎれに伝えると、ベテランであろう彼らもまた初耳の新事実に驚きを隠せないでいた。
魔物に毒はほとんど効かず、それゆえに連携と実力が重要になるというのが常識だった。もし毒が効くならば実力以上の相手であっても倒したり、先ほどのように足止めしたりすることが出来るようになる。
クルトとモニカは自分達が馬鹿にして、非難したカイルの行動がこうした場合を想定してのものだったと初めて理解した。使わないで済むならそれに越したことはないといった意味も。自分達は無謀にも敵わない魔物に挑み、全く相手にならなかった。それなのに、自分達より弱いと思っていたカイルはその魔物に痛手を負わせ、こうして逃げる隙を作ってくれた。
あのまま逃げることもできたはずなのに、危険を冒しても自分達のために戦ってくれたのだ。カイルが来なければクルトやモニカは死んでいただろうし、今隣を走る五人もどうなっていたか分からない。
救援が来るまで持ちこたえることは出来ても、目の前で子供が殺されて冷静に戦い抜けるとは思えなかった。出会ったばかりの自分達であっても気遣ってくれるようなメンバーだったから。今もさりげなくカイル達を囲んで守るような位置取りで、息を切らせる子供達に気を配ってくれている。
カイル達が森に入った経路とは違ったが、アルミラのある町の方に向けて逃走を続ける。カイル達は森の周囲を迂回するような形で中に入った。そうすることであまり他の人に取られていない上、森の浅い場所での採取と狩りができる。
しかし、ランドグリズリーから距離を取りつつ町を目指すには一直線に森を抜けるのが一番早い。昼中であるため森の外にまで出てくる可能性は低いのだが、確実ではない。特に視界を失って怒り狂っているならどこまでも追いかけてくる可能性がある。
一kmほど先に森の切れ目が見えたところで、森中に響き渡るのではと思えるほどの遠吠えと、地面の震えを感じて一同は足を止める。魔物についての知識と少なからぬ経験があるカイルと五人は言葉を交わさずとも同じ対応を取る。
ランドグリズリーが初見殺しと恐れられる種族固有魔法、その発動を察知したためだ。今動いてしまえばこちらの位置を悟られる。それだけではなく、万が一察知されたらせっかく稼いだ距離を無駄にされてしまう。
「な、何で、止まるんだ」
みんなが止まるのにつられて止まったクルトだったが、身動き一つとろうとしない大人達やカイルに疑問の声を投げかける。近づこうとする動きを周囲の必死な制止によって止められ、さらに困惑が深まった。
「……あいつは、魔法で離れた相手の場所を探ることが出来る」
「探知、みたいなもの? でも、それなら早く逃げた方が……」
「何も知らないであれに挑んだのか? ランドグリズリーは土に伝わる振動で相手の場所を特定する。それに土がある場所なら地中を高速で移動できるんだ! 場所を知られたらすぐに追いつかれる!」
遭遇すれば逃げることも難しく、例え逃げられたとしても場所を知られた時点で距離を潰される。厄介で凶悪なハンター、それがランドグリズリーなのだ。目の前に標的がいる場合その魔法を使うことは滅多にないが、獲物を追うための感覚がつぶされた今ならその魔法に頼るだろう。
自分から遠ざかる様に移動する八人の存在を感じ取ってしまったならすぐにでも追い付かれてしまう。あと少しで森を抜けて魔物の嫌う光の満ちる場所に出られる。そこから町まではそう遠くない、ここで捕まるわけにはいかない。
「そんなっ! じゃあ、逃げても無駄なんじゃ……」
「別の獲物に引っかかってくれればいいが……。目や鼻を潰していればこちらを特定するのは難しいはずだ」
「一度地中を移動すればこの魔法も解かれる。それまでは我慢しろ!」
クルトやモニカは背後から感じる恐怖に体が震え、それが伝わってしまうのではないかと余計に体を固くする。魔物との戦いで、しかも逃走しているというのにこんな緊張感を感じるとは思わなかった。こうなって初めて、カイルがどれほど気を使って自分達を危険から遠ざけてきたのか理解できた。
動くことも、息をすることもままならず、時間の流れがひどくゆっくりに感じられる。町の外での活動に慣れた者でも緊迫した雰囲気に汗を流す。聞こえないだろうと思っていても、かわす言葉も小さな声だ。
カイルは呼吸を整えながらもランドグリズリーの方向に探知を向ける。しかし、距離が離れすぎたためか、あるいは地中に潜ってしまったためか反応が返ってこない。風を使っての索敵のため土の中まではさすがに探れない。
命のかかった緊迫感が少し前にいるクルトやモニカの精神力を削っているのが分かる。膝は今にも崩れ落ちてしまいそうなほど震えている。このままでは長く持たないだろう。それはカイルだけではなく、一緒に逃げてきた五人の大人達も感じ取っていた。
そんな時、小さな地響きと共にカイルの使い続けていた探知に反応がある。地中を移動したためか元いた場所よりかなり近づいてはいるが、こちらにはまだ気付かれていないようだった。カイルの目配せと合図でそろそろと動き出した一同だったが、固まっていた体が災いし、モニカが木の根に躓いた。
思わず手を伸ばしたカイルだったが、走りやすくするために適度な距離をあけていたことが仇になった。モニカはろくに受け身を取ることもできず地面に倒れこんだ。慌ててクルトが助け起こしたのだが、その急激な動きもまたそれ以外のメンバーの顔をひきつらせた。
「ちっ! 走るぞ!」
それまでの慎重な足取りをかなぐり捨て、向こうのパーティのリーダーが指示を出す。クルトとモニカは訳が分からないまま、一人ずつ腕をとられてその場を駆けだす。カイルは焦燥にかられたまま後に続いた。走り出す直前、探知に届いたランドグリズリーがこちらに向かってきていることに気付いたからだ。
「なっ、なにが……」
「あいつが外に出れば魔法は解ける。だが、体が完全に外に出るまではまだ感知が可能なんだ。だから、出た兆候があっても最初はなるべく静かに動く。それで大丈夫なら走れる。だが、あのタイミングだとおそらく気付かれた!」
クルトとモニカは互いを支え合うようにして走りながら、少し後ろを走るカイルを横目で見る。カイルは難しい顔をしたままうなずく。このままでは森を出る前に追い付かれる公算が高い。走りながら必死で頭を働かせて、精霊からの情報と探知で切り抜ける方法を探る。
どうすればいい、どうすれば時間を稼げる。周囲の状況と、敵であるランドグリズリーの状態、そこから導き出される最善は?
「そこを右に曲がれ!」
カイルは先頭を行くリーダーに声をかける。リーダーは疑問の声を投げかける前に指示に従う。これまでのことで、カイルがただの子供ではないと分かったのだろう。ランドグリズリーを相手に時間稼ぎをして、その後の対処の仕方も知っていた。ならば、何の意味もなくこんなことを言い出すわけがない。
「どうするんだ!」
「ちょっと待って、この先って」
続けて方向転換しながらメンバーが声を上げる。だが、そのうちの一人が何かに気付いたように顔を青ざめさせる。
「どうするの! この先に道なんてないわよ!」
「どういうことだ!」
「忘れたの、この先は崖になっていて行き止まりよ!」
言われてメンバーは思い出す。獲物を追い詰めたり、こうして逃げる際に注意を払っておかなければならないポイント。町の外を歩くならそうしたポイントのチェックは必須だ。冷静さを失っていたせいで普段なら忘れるはずのないことが頭から抜けていた。
「なっ! それじゃあ、どうするんだよ!」
「あいつをおびき寄せて、崖から落とす。それで、時間が、稼げる」
高いところから落としたくらいでは倒すことは難しいだろう。それほどやわな耐久力ではないはずだ。だが、無傷でもいられないはずだ。痛みは魔法を使うための集中力を阻害する。先ほどのように怒り狂って理性を失えばなおの事魔法を使っての追撃を逃れられる。
「そうか、目と、鼻が利かなければ、あとは音や気配くらいか」
正確な狙いは付けられないし、周囲の状況を把握することもできない。問題はどうやって落とすかだ。こうして逃げている間にも後ろから迫ってくる足音や進路にあったのだろう木々をなぎ倒す音が聞こえてくる。
カイルは探知範囲に入ったことを確認すると鋭く声を上げる。
「止まれ!」
転びそうになりながらも急停止した面々は、何を言い出すのかとカイルを振り返る。しかし、その前に発動した魔法に声を失った。止まったはずの自分達のすぐ横を、同じ姿形・人数の人影が走り抜けていく。
幻であるはずなのに、そうは思えない。気配も足音でさえも再現されている。幻が地面をけるのに合わせて相応の振動と土埃が起こり、例え目が見えていたとしても騙されるのではと思えるほどの出来だった。
言葉を発することもできず向かおうとしていた崖に走っていく幻を見ながら、自分達が何かに覆われているかのような感覚を覚える面々。カイルが同時発動できる魔法は三つまで。それを最大限に使った偽装工作だった。
幻は闇属性で、幻では再現できない地面への干渉は土属性、そして自分達を覆い隠すのもまた闇属性。『幻惑』は普通ならこれほどの現実味はない。質量や気配さえ再現できるほどの完成度を出そうと思えば相当な研鑽が必要になる。そして、その幻に合わせるようにして地面を操作することもまた並の集中力では不可能だ。
『偽装』は極めると見た目だけではなく触れても分からないほどの効果を持つ。闇属性は総じて相手の感覚を惑わせることに長けている。五感の内の二つを潰し、頭に血が上っている相手をごまかすことは難しくないだろう。
微動だにせず、瞬きさえも忘れて集中するカイルの様子に誰も動くことも声を出すこともできなかった。そうすることだけがランドグリズリーから生きて逃げられる可能性がある方法だと、言われなくても分かった。
だんだん近づいてきた破壊音の発生源がついに視界に入る。興奮して猛り狂っているのとは別に、壮絶な有様に息を飲む。
全身の毛が逆立つほど殺気をほとばしらせ、血を流す右目と形の崩れた鼻。左目は顔全体に広がる水ぶくれで潰れ、裂けた皮膚から血が滲んでいる。
ズラッと生えそろった牙を剥き出しにしながら、一心不乱に幻の向かった方向に駆け抜けて行く。しかし、その動きも負傷のせいばかりではなくどこかぎこちない。毒が効いているのだ。
息を止めて身を潜める一同の前を通り過ぎ、崖に行き詰まって逃げ場を失った幻に迫った。こちらに気づいた様子はなく、崖に沿って逃げようとする幻に突撃して行く。
幻であっても本物のように混乱してバラバラに逃げようとする中、ランドグリズリーは一人に狙いを定める。
理性を失い本能に支配されていても、だからこそ分かるのか。先ほど対峙していた七人以外の気配。自身に痛手を負わせ、獲物を逃した相手を。目や鼻が使えなくても、魔物の本能や魂で感じる至高の糧の存在を。
八人の中で最も小さく、しかして最も脅威と言える獲物。他の獲物には脇目も振らず、ランドグリズリーはカイルの幻に突撃した。体当たりを受けてかき消えた幻に困惑の声を上げる間も無く、大地を踏みしめる感覚を失い浮遊感と下から突き上げるような風を感じランドグリズリーは崖を落ちていった。
幻だからできること、目が見えないから分からなかった。カイルの幻が崖の淵から中空に移動していたことに。
断末魔のような魔物の叫びと間も無く聞こえた重い地響きでカイルは魔法を解除する。短い間と言えど繊細で集中力を擁する魔法の同時発動に軽い頭痛と目眩がする。魔力的には問題がないが、今の魔法制御能力のギリギリだった。思い出したように息を吐き、踵を返す。
「……急ごう。たぶん、死んでない。次に魔法を使われたら逃げられないかもしれない」
「あ、ああ」
リーダーはもちろん、パーティの中で魔法に長けた者もカイルがやったことを信じられない面持ちだった。最初の奇襲から姿を隠す術があると分かっていても、驚きだった。何をどう使えばあれほどのことが出来るのか。見た目に見合わぬほどの腕と自分達に匹敵するほどの経験を感じずにはいられない。




