気の制御
トーマ→カイルサイド
絶え間ない振動やかすかに感じる気によって生み出された風を感じ、トーマは焦燥にかられる。これ程までに大きな、周囲に影響を与えるほどの気の持ち主など一人しか思い浮かばない。いくらトーマが気や気功の理論に疎くても知っていることはある。
気というものは無理矢理に目覚めさせた時ほど反動が強く、暴走しやすいということを。そのための方法があまりにも危険に過ぎる、強引なものであることを。それをカイルに施せるのは一人しかおらず、同時に暴走した者の標的に真っ先になるだろうことも想像がついた。
自身を引き取り育ててくれた義父であり尊敬する師範と、一生を通じて付き合っていきたいと考えられる仲間であり大切な友人である者が戦っているなどと考えたくもなかった。しかも、障壁を張っているだろうに感じられる力から、ともすれば戦いにならない一方的な蹂躙が行われているかもしれないなどとは思いたくなかった。
もし、もしも正気を失っていたとはいえ、カイルに義父を殺されてしまったとすれば、トーマはどうするだろうか。恐らく、それさえも考慮に入れて何も知らないカイルに死にも等しい恐怖を味わわせたのだとしても、自業自得といっても、きっと今までと同じように接することはできなくなる。今のようにお気楽に生きることなどできなくなる。
間に合ってくれと、願う。せめて、自分が行くまでどちらも手遅れであってくれるなと。普段の様子からは想像もできないほど深刻で真面目な顔をして、二人がいるだろう部屋にたどり着いた。障壁が張られているせいで中に入ることはできなかったが、中の様子を見ることは出来た。
だからこそ、愕然とする。かろうじて障壁により壁際の棚や武具は無事だが、床はある一点を中心に陥没してひび割れている。天井もまた、ズタズタに切り裂かれていた。そんな中、陥没した床に埋め込まれている人物と、それをなしただろう存在を見て、トーマは驚きに目を見開く。
「か……カイル?」
覚醒した気の影響か、髪が伸びていたが体格や服装から間違うはずはない。しかし、同一人物だとはとても思えなかった。障壁越しでも肌が焼け付くような、心が凍り付くような怒りを全身からほとばしらせ、間違いようもない殺意をデニスに向けている。
大きくなったクロもカイルのそばにいるが、その声はカイルに届いていないようだった。だが、トーマ達に気付いたのかカイルはデニスの体を片手で床から引き抜くと、入り口付近の障壁めがけて投げつける。
まるで物のように無造作に、それでいてあり得ないほどの速さで飛んだデニスの体は障壁にぶつかって、双方に軋みを上げながら床にずり落ちていく。血を吐き、力なく障壁に背を預けて座り込む義父の姿が信じられない。
二つ名を持つに至った今日でさえ、トーマはデニスに一歩及ばない。今までにも他流試合や魔物との戦闘などで義父が戦う姿を見たことがあった。それでも、こんなこれほどまでの重傷を負ったところは見たことがなかった。
だが、デニスの姿を追うようにこちらに顔を向けたカイルを見てその理由を理解した。偽装の魔法がかかったままのため、伸びた髪も眼も茶色のままだ。だが、その眼が違う。いつもの強い意思を秘めながらも穏やかな眼差しではない。
獣の中でも高位の魔獣やドラゴン、そして龍種が本気になった時、理性を断ち切るほどに感情が高ぶった時にだけ見せる眼。光彩が縦に細長く割れ、そこから発せられる威圧に体がすくみそうになる。特に獣人であった兄弟達は本能に刻み込まれた恐怖に呑み込まれそうになる。
あの眼をした者に、存在に逆らうことが……立ち向かうことがどれほど無謀で無茶なことなのか、止まらない体の震えが教えてくれる。キリルやダリルであっても、その眼に見られた瞬間に硬直してしまう。あれは、駄目だと、経験と実力に裏打ちされた警鐘が全力で訴えかけてくる。
「ぐっ、何をしに……早く、逃げろ……あれは、手に、負えない」
障壁をはさんですぐ背後に、守りたかった、守らなければならない存在達がいることを知ってデニスは苦し気にあえぎながらも言葉を紡ぐ。平常時ならともかく、今のカイルが自分だけではなく彼らにも危害を加えないとは断言できない。
「なんで、なんでこんなことになってんだよ!」
「不安定なままより、いっそ、目覚めさせればと……だが、あれは、俺の予想を超えて……」
部屋の中ほどでたたずんでいたカイルの体が揺れたかと思えばすぐ目の前に現れる。一瞬であの距離を詰めた速さと、薄く笑みを浮かべながらも冷淡にデニスを見下ろす様子に背筋が凍り付く。
鍛えて力がついても太さの変わらない、男にしては細い腕が片手で軽々とデニスを持ち上げる。首を絞められて、苦悶の表情を浮かべながらもデニスは精一杯の抵抗をしようとする。しかし、行動に移す前に、凝縮され可視化するほどに集約した気がデニスの全身を縛り付ける。自分がされたのと同じように身動きを封じるために。
「そんな……気の集約と形状変化、なんで……」
「義父さん、お義父さん!」
ヨハンが呻き、アニータは障壁を何度もたたく。かつて無力ゆえに父と母が死ぬところを見ているしかできなかった。今度もまた、そうなってしまうのかと思えば耐えらえない。
「この障壁は外から解除できないのか?」
「無理だ……中からしか操作できない」
「声は聞こえるんだろう? カイル! カイル、止めろ! やめるんだ!」
ダリルも同じように障壁を殴りつけて問いかけるが、トーマは混乱気味に答える。どうすればいいのか分からない。キリルの必死の呼びかけにも反応しようとしない。もしどうにかできるとすれば同じ室内にいるクロだ。
最高位の妖魔であるなら、嵐のような気の奔流の中にあってもどうにかカイルを止められるのではないかと期待を寄せる。クロ自身もその自覚があり、気を抜けば吹き飛ばされそうな流れに逆らってカイルに近付く。
気と魔力は相反する力なのか、闇や影でカイルを拘束しようにも打ち消され喰属性でも吸収できない。なるほど、確かにこれならば気功を極めたという者がドラゴンを圧倒できるという話もうなずける。空間属性で両者を引き離そうにも、この空間そのものがカイルによって支配されているかのような有様でうまくいかない。
『カイル、目を覚ませ。このままでは主が後悔しよう』
カイルのすぐそばまで来たクロにカイルは左手を差し出して何度か撫でる。その様子に、若干の安堵を覚えた一同だったが、次の瞬間には困惑と驚きの声を上げていた。軽く左手を添えたたまま、カイルは伏せをさせるようにクロの体を床に押し付けた。強引だが、傷つけないようにしているあたりクロを敵認定はしていないのだろう。
『ぐっ、カイルっ!!』
叫ぶも、すさまじい力で押さえつけられなかなか体を起こせないクロから、カイルはデニスに視線を向ける。傷つき、虫の息になったデニスを見てもカイルは何の感慨も浮かばない。命を脅かす相手に遠慮なんてしない、手を緩めたりしない。
「……カイルっ! 頼む、止めてくれっ! 師範を……義父さんを、殺さないでくれっ!!」
「義父さんっ、嫌だ。離せよっ!」
「お義父さん、お義父さんっ!!」
グレヴィル兄弟の叫ぶ声が聞こえてくる。ちらりと視線を向けると、兄弟達はみな涙を流していた。キリルとダリルは必死な顔で止めようとしている。それらを見た時、カイルの中で何かが動いた。
父の死を知ってから何度、見たこともない死の瞬間を夢に見ただろうか。なぜ死んだのかは、どうやって死んだのかは聞いた。だからだろうか、驚くほど鮮明にその時の様子を夢に見る。その時のカイルはいつも、透明な壁一つ挟んで近づくことも声を届けることもできない。
どれだけ叫んでも、どれだけ泣いても目の前で父は力尽き、そして消えていく。それを見るたびに、夢の中で崩れ落ち、目が覚めても泣き崩れる。いるはずのない父の姿を探して家の中を、森の中をさ迷い歩く。
最後にはいつも母の墓にたどり着き、新しく作った父の墓を見て、その死を実感させられた。母は顔も知らない。父もだんだんおぼろげになっていく。それが悲しくて、悔しくて、寂しくて……。二人の間に自分の墓を作って心を慰めていた。ジェーンはその様子をずっと見守ってくれていた。
どれだけ助けたくても、助けられない命があった。そのたびに無力さに泣いた、理不尽を強いた相手を恨み、それをばねに立ち上がった。今、自分は何をしているだろうか。
目の前が真っ赤になるような、頭の中が真っ白になるような怒りと生存本能に突き動かされていても、どこかで自分の行動を把握していた。手に残る人の体を破壊した感触、そして今自分の手の中で失われようとしている命。
それを自覚した瞬間、命を脅かされたのとは別の恐怖が沸き起こりデニスの首をつかんでいた手から力が抜ける。クロを押さえつけていた手もどけると、自分が今まで行ってきた行動が信じられずに頭を抱える。
「うっ、あぁぁ、くっ……」
自分を取り戻すと同時に、デニスに流し込まれたものとは別の、自分の中から放出されているらしい気に翻弄される。気の放出を止められない。栓が抜けたかのように荒れ狂う力を止められない。
理性が飛んでいた時には感覚的に操れたそれが、今度は自分自身に牙をむいている。体力がガリガリと削られているのを感じる。
体がよろめき、眩暈と頭痛がして、体がひび割れそうな痛みが走る。自身でさえ制御しきれない力に内側から食い潰されているようだ。
だが、歪む視界に映ったデニスを見て、刹那の間異常を抑え込むと無詠唱で『超回復』を発動させる。重症だった体が瞬く間に癒え、呼吸も安定する。
ホッとしたのもつかの間で、体力が尽きたのか膝から力が抜けて倒れこむ。かろうじてクロが間に入ってくれて顔面からひび割れた床に突っ込むことは避けられた。
だが、どうすれば気の放出を止められるか分からない。最初より勢いは衰えたが、逆にそれが危機感を煽る。
気を完全に封じることが死に繋がるなら、気を放出し尽くすこともまた、死を意味するのではないか。そうは思うのだが、意識が朦朧としてくる。
「カイルっ! 大きく息をしろ。鼻から吸って、口から吐く。それに合わせての気の流れを操れ! 放出したやつは体にまとわせるように、中のは循環させるように気を巡らせろ!」
義父を殺しかけたというのに、力強い仲間の声に意識せずに体が動く。息を吸い、息を吐く。それに合わせて流れを感じ取る。
逃げていこうとする力を留め、魔力で覆うのと同じ要領で体にまとわせる。体の中に蠢めく力は血や魔力と同じように循環させる。
そうすると、命を削るように放出されていた流れが止まり、内側から食われているような苦痛も消える。
恐怖と苦痛で強張っていた体を弛緩させ、クロの暖かな体に身を寄せる。今は一歩も動けそうになかった。このまま寝てしまいたい気分だが、そうもいかないだろう。
どうしてこう、休日なのにその度に死ぬような思いをしないといけないのか。
障壁が解除されたのか、ボロボロになった部屋にトーマ達が入ってくる。兄弟はデニスの元に、キリルとダリルはカイル達に近付く。
「カイル、大丈夫か?」
「あー、ちょっと無理だな。体動かねぇ……デニスさんは?」
「あの人は……」
「俺なら生きている。……助かった、礼を言わせてほしい」
「いいよ、俺が……負わせた怪我だ」
例え、理性がブチ切れていてもカイルがやったことに変わりはない。むしろ、自分の中にあれほど凶暴な野生があったのだと驚きを感じる。
あの時、カイルは人ではなく獣になっていたという自覚がある。命を脅かす存在を、それが誰であろうと排除する意識が働いた。
「そうだ、貴方が義父さんを殺そうとした。なぜ? 何でっ!」
涙の跡が残るヨハンがカイルの側に歩み寄ると、クロにもたれて座り込むカイルの胸倉をつかみ、脱力した体を引き起こして揺さぶる。
許せなかった、今一度、父を……親を目の前で亡くすかと思った。また、何もできずに見ているだけなのかと。
カイルは急激に体を起こされ、揺らされたことで改めて自身の状態に気付いた。自分の体より脅威の排除を優先したためか麻痺していた。
体の感覚を無くしていた時、暗闇の中鎖を引きちぎる時に負った怪我は痛みだけが各部位に残っている。無理矢理主導権を奪い返した体はどこか違和感が残る。
普段は無意識で行っている体の働きを、自分自身で一つ一つ動かしていくのは斬新であり、どこをどうすれば動くのか認識できた。
それだけに、今自身が負っている損傷というものも細かに分かる。デニスを傷つけた以上に、自身の力によって自分もまた傷ついているということに。
魔力と同じで、気も限りある力であり、時に諸刃の剣となって己に襲いかかるのだということに。
この状態ではまともに話もできないと考えたカイルは、口元を手で覆って咳をしながら魔法を使うため集中する。何だか、死にそうな痛みの中集中するのに慣れてきた自分が嫌になりそうだ。
「お、おい、ヨハン。やめろって」
「兄さんは黙ってて」
「兄さんの仲間でも許さない。答えてっ!」
トーマがヨハンを止めようとするが、ピシャリと返され、アニータも咳をするばかりで答えないカイルに業を煮やしたのか両手で突き飛ばす。
幼くても獣人で、拙くても気功が使える二人は体格で勝るも細身であるカイルを掴み上げたり突き飛ばしたりするに十分な力があった。
体が動かず脱力してされるがままのカイルをクロが受け止める。
「かはっ……ごほっ、ごほ…………」
カイルはそんな子供の癇癪にも耐えきれず血を吐いて、クロにもたれかかったままへたり込む。ヨハンやアニータもまさかあの程度で吐血するなどと思わず、戸惑いから追及の手も止まる。
「カイルっ……やっぱり、そう、だよな」
トーマはカイルの側に膝をついて容体を確かめる。何も心情的なものばかりでヨハンを止めたわけではない。カイルの体がこうなっていることを予感していた。
「なんで……」
「気の覚醒ってやつは、徐々に行うもんだろ? 無理にやろうとすると反動が大きい。暴走するようなことになれば、相手だけじゃなくて当人もボロボロになるんだ。習ったろ?」
「で、も、お義父さんを……」
「義父さんが、カイルの気の覚醒を促した。何をしたか想像がつくだろ?」
ヨハンとアニータは兄の言葉にデニスを見る。デニスは無言でうなずいた。そもそもの暴走の原因を作ったのはデニス。それにより、標的になったとするならば自業自得ともいえる。だが、どこかやりきれない感情が渦巻く。
カイルはカイルで、痛みと吐血で途切れた集中をやり直し、どうにか自分にも回復魔法を作用させる。痛みが引いていき、違和感が残っていた体もどうにか正常な状態を取り戻す。しかし、まだ気の操作に関しては意識しつつ行わなければならない。
一呼吸ごとにまとわせた気も徐々に体内に戻って行くようだが、油断すると穴の開いた袋のように漏れ出してしまいそうだ。荒々しさはなくなったものの、自分のものとは思えないような壮大な力であることがなんとなく分かる。使いこなせれば、魔法ではできないことも起こせるだろう。
暴走している最中、どこか世界とつながったような感覚があった。大地になり空になり、水や風や火といった、自然そのものと同調したような感覚だ。世界が自分で、自分が世界であるかのような一体感というか、全能感があった。あれが龍の気の特性というものなのだろうか。
今も意識してみれば、身近にある大地の胎動が聞こえてきそうな気がした。心配して寄ってくる精霊達の息吹も、前よりもはっきりと感じ取れる。目で見なくても、呼吸や空気の流れから誰がどこにいるのか分かる。魔法による探知とも違う。気配感知ををさらに鋭敏にさせたような感覚だった。
「……ここでは休めないだろう。上にあがるとしようか」
デニスが部屋を出て、ヨハンとアニータが続く。トーマがカイルを背負い、キリルやダリルに付き添われ、長い階段を上って道場に出た。




