格の違い
夕方に近くなるまでエリザベートや子供達と共に勉強をしたカイルは、クロと共に騎士団本部に向かっていた。ヒルダはまだエリザベートと話があるということで離宮に残っている。
「……クロには退屈だったか?」
『そうでもない。我としても知らぬことを知るのはなかなかに面白い』
「そういや人界めぐりって言ってこっち来てたんだったな。悪いな、しばらくは旅に出られそうもない」
『気にすることはない。我らの時間は長い。必要な力を身に付ける間くらい瞬きのようなものよ』
人の、ましてや王族や公式の場における所作やしきたりなどクロにとっては興味も起こらないのではないかと思っていたが、そのあたり変わり者のガルムの名の通りいらない心配だったようだ。そもそも罠にかかってそのまま町に入ってくるような存在だ。人の営みにも興味があるのだろう。
「これから俺はクロエさんの手伝いと料理教えてもらうけど、クロは前みたいに影に入っているか?」
『……いや、我は表にいよう。その方が網を張れるのでな』
「ん、仕掛けてくると思うか?」
『来るだろうな。糧を得られぬ時に感じる飢餓と死の気配は、千年を生きた我でさえ思わず理性を飛ばすほどの代物よ。たかが生まれて百年も経たぬ下位の魔人に耐えきれるものではあるまい。元々我ら魔の者は己の欲求を我慢するようにはできておらぬしな』
「王子に見張りがついて……二十日弱、か? クロはどれくらいであんなふうになったんだ?」
『元々満足に糧を得られぬ状況であったからな。我で三月、といったところか』
「……三か月もよく糧を忘れるほど夢中になっていられたな。そんなに人の町は珍しかったか?」
『ふ、む。そもそも、我は魔界においても町など入ったことはなかったからな』
「冥界の門の守護、か。クロも大変だったんだな」
『そうでもない。冥界の門をくぐる者達を見るのは面白かったし、その者達が住まう世界に興味も沸いた。それに、あふれ出る亡者や冥界に立ち入ろうとする者達の撃退もなかなかにやりがいはあったわ』
ニィと好戦的な笑みを浮かべるクロ。元々は戦闘に特化した種族でもある。戦い、守ることに己の意義を見出し喜びを感じる存在なのだ。種としての特性はあっても、好き勝手に生きる魔物達の中にあって、代々門を守り続けてきた一族ならではの魂に刻み込まれた本能といえるだろう。
「そういや、気になってたんだけど…………クロ」
『ふむ、早いな。やはり若いか、我慢ができなかったと見える。カイル、分かっているな?』
「ん、任せていいんだな?」
『無論だ。今の我を縛るものはない。文字通り、格の違いを見せつけてやろう』
王宮内であろうと、常時発動していた探知に引っかかるものがあり、カイルはクロに短く呼びかける。クロはかねてからの打ち合わせ通りに、カイルに目配せをする。魔人の処分はクロに任せる、そしてカイルはその間自身の守りに専念するというものだ。
カイルの魔法制御の全てをアミル仕込みの守護に回せば魔人であろうと容易に手出しできない。さらに、そこに聖剣の守護の力を合わせれば鉄壁の防御を築けるだろう。そして、攻撃はクロに一任する。カイルが無意識にかけていた制限や抑制から放たれたクロは、魔界にあった頃と同じだけの実力を発揮できる。しかも自身とカイル、その二人の魔力が続く限りだ。
カイルは自身と融合している聖剣の守護の力を引き出すと体にまとわせる。これだけで魔法による干渉であろうとはねのけられる。それから重力を操作して自身の体を持ち上げると、周囲一mくらいの範囲に時の壁を張る。時属性中級下位第四階級『時間停止』。指定範囲や物の時の流れを止める魔法だ。これによって物理的な干渉も防ぐことができる。
さらにその周囲を光の壁で覆う。光属性は闇に属する魔の者にとって最大の弱点であり、触れるだけでダメージがある。また、影を操ることが分かっているため、カイル自身の影をさらさないためでもある。
幾重にも張り巡らせた障壁の中からクロを見ると、かつての屈辱や苦痛を思い出したのか体を震えさせていた。感覚を共有する故に、クロがかつてないほど好戦的になっていることに気付いたカイルはむしろ魔人に同情しそうになる。
しかし、王子の側付きのメイドとして今まで多くの人々を苦しめてきただろう存在だと思えば容赦などできない。クロの足元から周囲に広がっていく影の海を見ながら、カイルもまた戦いへの覚悟を決めた。
魔人は夕食にかこつけて王子の側を離れると、すぐに影に潜った。王宮内であれば魔力の流れを音で感じることのできる魔人であれば、誰がどこにいるのか探ることは簡単だった。だからこそ、使い魔と二人だけで歩いている獲物の存在を感じ取ると、矢も楯もたまらずに飛び込んでいった。そこに、何が待ち構えているのかも知らずに。
影から出て最初に見えたのは、不思議な光の繭。だが、あの中に獲物がいることはすぐに分かった。しかし、一歩を踏み出すことさえできず、いつの間にか足元まで広がっていた広大な影の海の中に呑み込まれていた。
自分が生み出したものとはちがう、深くて質量のある影に溺れそうになる。もがき、必死になって抜け出した先にあったのは、よく知る王宮の敷地内などではなかった。影の中に生み出された、影によって形作られた世界。現実とは切り離された、別の空間。
「こ、こは……」
『我によって生み出されし、影なる空間よ。初めて見えるな、魔人よ』
魔人はすぐ真後ろで聞こえた声に、慌てふためいて振り返ると距離を取ろうと後ずさる。しかし、すぐに何かに当たって足が止まった。
再び振り返った先に見えたのは捕えられた影よりも黒い漆黒の体毛。壁のように思えたそれは、前足の一本に過ぎない。悲鳴を上げることさえできず、見上げると、はるか上空に自身を睨み付けている目が見えた。金の輝きを放つ、二つの鋭いまなざしにとらえられ、身動きすら取れなくなる。
「あ、あぁあ」
『我の姿を見ただけで、声も出ぬか? 仕方なかろう、貴様は生まれたばかりであろう? 百年も生きておらぬ、せいぜいが数十年といったところか?』
その通りだった。魔物や魔人、妖魔といった存在は生まれた時からある程度定まった自我があり、また成長も早い。その後の寿命を思えば考えられないほどに早熟なのだ。どんな種でも一年以内には成体になる。その後数千年生きる存在であろうとだ。
魔人も生まれて数年で人界に興味を持って、魔界に時折現れる人界へのゲートを通ってこの国に来た。最初は闇に潜み、影に潜って時折人を驚かせたり怖がらせたりするくらいで満足していた。しかし、そうやって力を蓄えていくうち、それでは足らなくなった。
魔界に生まれる者特有の能力がある。それが、進化。例え生まれは弱い種であったとしても、上質な糧を得て、一定以上に力を蓄えると上位種へと進化することができる。進化すれば持ちうる能力はもちろんの事、知性も理性も確かなものとなり、魔界唯一の都、魔都に住むことも許される。
しかし、魔界にいたのではその糧を得ることはできない。魔界の瘴気は魔物や魔人を生かしはするが、成長させるものではないのだ。また、同じ魔界の生き物から得られる糧は少ない。下位種であればなおの事だ。
だからこそ、糧を得られねば死につながると分かっていても人界へと足を向ける魔物が後を絶たない。活動を制限されても、魔界に帰ろうとはしない。下位の魔人として生まれた女も同じだった。人に紛れるため、ダリアという名を付けられたがそんなことはどうでもよかった。
入り込んだ王宮は欲望渦巻く権力の坩堝。なかでも、王族でありながら堕落した生き方をする第一王子に取り入り、思うがままに糧を得てきた。飼っていたブライアンも、魔人好みの糧を用意してくれた。このまま、ともすれば高位の魔人にまで至れるのではと思っていた。あの糧を得られれば、さらにその上まで。
だが、事ここに至り、格上である妖魔に捕らわれ、さらにその声を聞き、その目で見られた今、全てが夢にもならぬ妄想であったことを悟った。魔の者として生まれた本能が叫んでいた。敵わない、と。
『我を誰だと思っている? 貴様は誰のものに手を出したと思っているのだ? 我こそは、魔界に名をとどろかせておった冥界の門の守護者。最高位の妖魔にして、異端なるガルム。仮にも魔界に生まれたならば、知っておろう?』
「あ、あぁぁ、ま、まさか……きょ、狂血の暴食者。…………せ、千年に渡り、い、一度も脱走者も侵入者も許さなかった…………鉄壁の……守護者」
『今ではその名も堕ちたものよ。貴様のような者に、我の守りし宝を傷つけられるなど。分かっておろうな? 我の守護せし存在に手を出した貴様がどうなるか』
「そんな、なぜ、なぜ、あなたが人界に……しゅ、守護者は皆……」
『守護者は皆冥王様の元に参ずる。だが、知っておろう? 我は異端のガルム、任を終えた後自由に生きることを許された。そして、我は見つけたのだ。我が自ら望んで守るべき宝を、それを傷つけた貴様を許すわけがなかろう?』
魔界にいた頃に聞いた噂。魔界では決して手を出してはならない者がいくつか存在している。その者達の禁忌に触れたなら、決して生きてはいられないと。その中の一人、それが冥界の門の守護をしているガルム一族に生まれた、異端なる守護者。
最高位の妖魔であり、同時に最強のガルム。噂を聞きつけた最高位の妖魔や魔人が束になってかかろうと打ち倒し、食らいつくした魔界における実力でもトップに位置する者。それがまさか人界にいて、人の子供の使い魔をしているなど誰が思うだろう。誰が信じられるだろう。
だが、この姿を見て信じられないわけがない。まるで自分が小さな虫になったかのような錯覚さえ覚えるほどの巨体。体毛一本でさえ、己を殺す凶器に思えるほどの力強さと強大さ。理性を保った会話をしながら、その目に宿る憤怒はそれだけで魂まで凍り付かせてしまうようだった。
『貴様を嬲り殺すことなど容易だ。だが、弱い者いじめなど好むところではない。故に……』
まさか見逃してくれるのかと考えた魔人は、目の前に迫ってきたそれを見て勘違いであると悟った。同時に、抗えない死の予感に目を閉じた。
足の裏に感じた、虫でも踏み潰したかのような感触にクロは忌々しげな顔をする。カイルにも言われたし、己でも一撃で殺すことを決めたが、何ともあっけないというか物足りない。
下位の魔人なら当然なのだろうが、自分達の苦悩や苦痛を思うと、これで済ませてやることにどこか納得がいかない。
だが、これで一つ懸念が減ったなら良しとしようかと自身を納得させ、魔人のいた場所に残っていた魔石と素材を持って影の空間を出た。
カイルは決着がついたことを見届けると魔法を解いて地に足をつける。だが、感覚の狂いからよろめいてクロに支えられた。
『カイル? どうしたのだ? 魔力はまだ余裕があろう』
「ん、クロの目を通して俺も見てたから。ちょっと感覚が狂っただけ」
『見、見ていたというのはその……先程の戦いか?』
クロとしては普段は口に出さない、カイルを宝と断言したことを知られ動揺するが、カイルが指摘したのはそこではなかった。
「クロだけの問題じゃないだろ? にしても、クロにもあったんだな。二つ名ってやつが」
『な、な、な、そ、それはわ、我が望んだものではない! 周りが勝手にそう呼んでおったのだ!』
千年の間にいつの間にか付いていた二つ名だが、そう呼ばれなくなり意識してみると宝云々よりも恥ずかしくなってくる。まさか、それを見越してかと思うが、いまいちカイルの意図が読めない。
「二つ名なんてそんなもんだろ? 俺だって別にほしくないけど、いずれは付けられるって話だし」
『いざ、改めて聞いてみると、その……なにやらむずむずするものだな』
「だよな。……それが、あの魔人の?」
『うむ、下位とはいえ魔人だ。人界ではそれなりに貴重な代物ではないか?』
通常、人界にいるような魔物を倒しても、得られる魔石というのは大きさも形もバラバラで、より色が黒くて均一であるほど高品質とされている。だが、魔人から得られた魔石というのは綺麗な球形をしており、全体的に薄闇色をしている。かなりの高値で引き取られるだろうと思われた。
人型をしている魔人だったためか、残された素材は一つだけだ。人を呼び出すときに使う小さな呼び鈴のような鈴が残されている。残される素材は、その魔物に深く関係する部位や属性によるというので、あの魔人は音か鈴に関係する存在だったのだろう。あるいは、メイドの格好をしていたのでそういった部分でも影響されたのか。
「これは、報告して預けておいた方がいいよな?」
『ふむ、魔人とはいえ王宮の人間が一人消えることになったわけだからな。事情を知る者には伝えた方がよかろう』
「この後騎士団本部に行くから、レナードさんあたりに預けておくか……」
『それがよかろう。我は念のため、外で警戒しておる。食事が終わった頃に行ったのでいいのではないか?』
「そうだな。……にしても、抵抗一つなかったな」
拍子抜けするほどあっけなかった。本来、それほどの実力差があったのだろう。自分のせいで、クロが今までその力を発揮できなかったことを思うと申し訳なくなってくる。
『格の違う相手との勝負などあんなものよ、魔界ではな。そもそもにおける基本スペックが違いすぎるのだ。あやつは若い上に、飢餓で狂い長く人の中にいたせいで、我の格を見誤ったのであろう。己より上だと分かっても、最高位とまでは思わなんだようだな』
「魔界は人界以上にシビアだな」
『基本的に実力主義の世界ゆえにな。格が上がるほど無益な殺生はしなくなるが、同時に常に戦いに飢えてもおる。故に、我に戦いを挑む者も少なくはなかったのだ』
格が高い者ほど長く生きる。そのため、退屈して戦う相手を求めてしまうのだ。クロも役目がなければ強者を求めて渡り歩いていたかもしれない。
「で、付いた二つ名が狂血の暴食者、ねぇ。あ、鉄壁の守護者ってのもそうか?」
『蒸し返すでないわ! 主が二つ名を得た暁には一晩中ささやいてくれようか!』
「あー、それはさすがにきついな……。悪かった、クロ。ただ、クロも複数の二つ名を持っていると思うと、なんか同族意識って言うか、一人じゃなくてよかったというか……」
『う、む。分からんでもないな……励めよ、カイル。いずれ主は我を上回る二つ名を得よう』
「クロっ! ……そういうことなら、俺の相棒であるクロにもぜひ付けてもらおうな?」
『何っ! そ、そのようなことが……使い魔に二つ名など、前例がなかろう』
「俺自体が前例のない存在なんだ。その使い魔であるクロも異例の使い魔だし、案外いけるんじゃないかと思ってるんだけどな?」
『ぬ、ぐ……不毛だな……』
「……だよな。魔人にされたこと考えるのも同じくらい不毛だと思う。宮中に巣食ってた魔人を仕返しついでに返り討ちにした。それでいいんじゃないか? よく考えてみると、結構な戦果だぞ? 労力の割にはな?」
『なるほど、そうも考えられるか……。全く、主は我を御するのがさらにうまくなったな』
「御してるつもりなんてないさ。どうせならすっきりするように考えたいのが人ってやつだからな」
カイルとて思うところはある。だが、当人がいなくなった以上いつまでもそれに囚われることに意味がないと考えているだけだ。それに、これで確実に一つ懸念が消えたことは確かなのだから、それを喜ぶべきであり、誇るべきだろうと考えた方が気が楽になる。
魔人がいなくなったことで動きがあれば、それが魔人に関わっていた可能性がある者達だと分かるので、トレバース達の助けにもなるだろう。これで少しは王子の更生に役立てたらとも思う。相変わらず、トレバースやエリザベートと話すことを避けているようなので余計だ。
ちなみに、その日の夕食後、レイチェルをつれて団長室を訪ねたカイルの報告に、三人とも驚くと同時に安堵を浮かべることになった。魔人の囮になったカイルや、その防御法もさることながら、下位といえど魔人を歯牙にもかけず討伐したクロに改めて感謝と畏怖が寄せられる。本当に味方でよかったと。
 




