王子の夢と魔人の誤算
アレクシス→魔人サイド
豪奢で広い部屋の中、苛立たし気に歩く影があった。王族特有の金色の髪に緑の目をした少年だ。ふかふかとした絨毯のせいで足音が響かないことが余計に腹立たしい。
「くそっ、父様も母様も、いつもいつも僕を怒ってばかり。僕が何をしたって言うんだ!」
いつもなら一緒に貴族街や王都に繰り出す護衛代わりの遊び仲間であるエゴール達はそろって王都の外に視察に出ている。これでは安心して遊べない、アレクシスは自身が高貴な身の上であり他者から羨まれる立場であることは理解していた。そのため、常に護衛が付いているということも。
「あ、あの、アレクシス様。落ち着いてください、わ、わたし達が付いておりますので……」
「うるさいっ! 僕が何かすると、すぐに父様に告げ口する癖にっ! なんでみんな僕のことを悪く言うんだ! 僕はいずれこの国の王になるんだぞ! それなのに、責任がどうとか勉強とかしきたりとか、うんざりだ!! 今のうちに自由に生きて何が悪いって言うんだ! そうだ、僕は王様になって、王妃にはレイチェルを迎えて……」
アレクシスの脳裏には玉座で王冠をかぶって座る自分と、その隣に寄り添うレイチェルの姿が浮かんでいた。初めて見た時から、ずっとレイチェルのことが好きだった。ハーフエルフということだったが、エルフに劣らない美貌にすらりとした体。口調は男のようだったが、その声は鈴のように美しい。
騎士団長である父親について剣の修行を始めたせいで、アレクシスとは遊ぶ時間も少なくなった。アレクシスも剣を学ぶようになると、少しは一緒にいられる時間も増えた。けれど、元々始めるきっかけも、剣にかける思いも違う。直ぐに実力が開き始め、アレクシスは真面目に剣の修行をすることをやめた。
この国の歴史だの、世界の他の領域についての話だの興味も持てない。アレクシスにとって重要なのはこの国の王になることだ。他国のこともどうだっていい。王になってレイチェルを王妃にすることだけがアレクシスにとっての夢だった。
それなのに、視察から帰って以来レイチェルは前よりもアレクシスに冷たくなった。前はそっけない態度も照れているだけだと思っていた。
けれど、アレクシスはレイチェルの顔に一瞬だが浮かんだ感情を見逃さなかった。あれは紛れも無い、嫌悪。アレクシスが、過ぎたいたずらをした者達が浮かべるものと同じだった。
今まで、アレクシスが何をしようとレイチェルがあんな顔をすることはなかった。呆れたり怒ったりはしても、アレクシスそのものを否定するかのような言動はしなかった。
だから安心していられた。レイチェルもまた、自分と同じようにアレクシスを好いてくれているのだと思っていたから。
それなのに、今宮中を騒がせている噂がアレクシスの心を逆なでする。あのレイチェルが、恋をしていると。しかも相手は視察で見出してきた、元流れ者の孤児だという。
あっという間に、父や宰相ばかりではなく騎士団団長や副団長、それに母や兄弟達まで虜にしたという。エゴールやメイドから話を聞いた時には嘘だと叫んだ。
そんな事があるわけがないのだ。レイチェルはアレクシスのことが好きなはずなのだから。魔力がないからと落ち込んでいたレイチェルに、必死になって練習した魔法を見せてあげた時には泣くほど喜んでくれたのだから。最近構ってあげられなくて、アレクシスを試しているだけなのだ。
だから、エゴールがレイチェルを惑わす男を成敗する計画には一も二もなく飛びついた。何かあっても、王子としての権力と立場を使ってどうにかなると思っていた。しかし、失敗してエゴールは王都を離れることになった。おまけにその男もレイチェルと共に王都を離れて、帰ってきたかと思えばあの騎士団長をあわやというところまで追いつめて一本とったのだという。
剣の腕は未熟だが、幼い頃からレイチェルについて回って騎士達の訓練を見てきたからわかる。騎士団団長であるレナードがどれほど強いかということが。それが、模擬戦であっても負けたという事実はアレクシスを打ちのめした。よく冗談交じりにレイチェルに恋愛話を振っても、自分や父に勝てないようでは無理だと言われていた。
そのため、アレクシスがレイチェルを妻にするためには王になるしかないと思っていた。勝つことなんて不可能だと、魔力がないのに魔力がある者達でさえ圧倒するあの父親から勝ちを拾うなど無理だと考えていたから。それなのに、その男はそれを成し遂げたという。しかも、聞いてみれば自分と同い年だというのだ。
王都を離れたのも、過去のトラウマに向き合うために父や宰相達が手配したもの。普通なら廃人になるか、闇に堕ちてしまうかという仕打ちを受けても立ち上がり、立ち直って帰ってきた。その上、たった一人でこの国の中枢を脅かすことまでして見せた。
思えば、母があれほどの形相で父を怒るところなど見たことがなかった。しかも、自分の子供でもない他人の子供のことで。それが、なぜかひどくアレクシスにとっては悔しくて気に入らなかった。もし自分が同じ目に合っても、母はあれほど怒ってくれるのだろうか。父はあれほどに憔悴した様子を見せるのだろうか、それを考えるとどうしようもなく苦しくなった。
自分の行動が他人に褒められるものではないらしいと、なんとなく分かってはいた。けれど、それ以外の生き方を知らなかった。生まれてすぐ母が体調を崩し、侍女や乳母達に育てられた。その頃、父はまだ国王ではなかったが、成人していたこともあり祖父について忙しく国政に関わっていたためアレクシスに構う暇もあまりなかった。
母親の体調が落ち着いた頃、次の子供がお腹にいることが分かった上、祖父が突然の急逝をして父が玉座に着いた。おまけに人界大戦が始まり、子供にかまけることもできなくなっていた。幸いにも半年程度で終息した大戦だったが、その被害は大きく復興のためやはり日夜忙しくしていた。
最初から母の手で育てられた兄弟達とはどこかそりが合わず、母にも素直に甘えられないアレクシスは次第に悪戯をすることで周囲に自身をアピールし始めた。そのたびに父や母は仕事そっちのけで自分に構ってくれることが分かったからだ。
だが、回数を重ねるごとに徐々に叱られる回数が少なくなり、やがて顔を見るだけでため息をつかれるようになってきた。何が悪かったのか考えてみても分からず、聞いてみても答えは返ってこなかった。イライラして、むしゃくしゃして人や物に当たると、また怒られる。
とうとう我慢の限界が来て一人で王宮を抜け出して、レイチェルに会いに行こうとした。十歳の頃からギルドや騎士団見習いとして忙しくしていたレイチェルだが、彼女なら自分の気持ちを分かってもらえるような気がしていたから。
だが、初めて訪れる貴族街で迷い、途方に暮れていたところで侍女や護衛騎士に見つかった。怒られると思っていたのに、ひどく安心したような顔を向けられた。王宮に戻っても、父や母も叱りはしたが、それ以上に心配した顔を向けてきた。それを見て、自分が愛されていることが分かり安堵した。
普段何を言われていたとしても、何をしていたとしても、自分はこの国にとって、家族にとって必要な存在なのだと。この国の王になるべき存在なのだと、確認できた。それからは、自分の行動に自信が持てた。何を言われても気にならない。なぜなら、自分は愛されている、必要とされているのだから。
父に、そんなことでは国を任せられないと言われても、アレクシス以外に誰が王になれるというのか。そういう意味で、アレクシスにとって敵ともいえるのは、弟であるクリストフだけだった。もしアレクシスに何かあればクリストフが王になる。だから、父や母にばれないようにしてクリストフに言い聞かせていた。
王になるのは自分で、クリストフは自分の予備に過ぎない。王宮の中しか知らないクリストフに国を治めることなんてできないと。どちらが大切なのか両親に選ばせたなら、必ずアレクシスが選ばれるのだということを。
始めは口答えをしていたクリストフだったが、だんだんと自信を無くしていき、涙を浮かべる様を見ていると、胸がすくような思いだった。あんな気の弱い子供に国を導けるわけがない。アレクシスこそが、王に相応しいのだと。
「レイチェル……なぜなんだ、なぜ、そいつを選ぶ? 僕じゃなくて、そいつを……もし、もし父様がそいつを王になんて考えたりしたら……僕は…………」
エゴールからの話では嘘だと言ってしまえたが、こっそりのぞきに行った騎士団本部で見たレイチェルの顔が忘れられない。今までアレクシスが一度として見ることのなかった笑顔や、女としての顔。隣にいた、男か女か分からないような顔だが整った容姿をして細いが均整の取れた体格の男が例の噂の人物だと見当がついた。
二人が並んで歩いているさまが、一瞬お伽噺の一場面のように見えてアレクシスは悔しさをかみしめながら王宮に戻った。お似合いだと、美しいと思ってしまった自分が許せなかった。レイチェルの笑顔にドキリとして、あの男の微笑みにゾクリとしたものを感じて動悸がおさまらなかった。
恋心を抱くレイチェルの笑顔に胸が高鳴ったのは分かる、けれど、なぜか男であるはずのあいつに欲情をしてしまった自分が信じられなかった。今まで何度かしてきたように、無理やり組み敷いて滅茶苦茶にしてやりたくなった。そんな自分がおぞましかった。
また、まるで自分にとって代わる様に家族の中に入ってきていることにも危機感や焦燥感を抱いていた。このままでは、居場所を奪われるのではないかという思いが抑えられない。父が話しかけてこようとするたび、その話をされるのではないかとおびえて逃げることしかできない。母が悲しそうな顔で見てくるたびに、捨てられるような気がして胸が痛む。
それもこれも、全部あいつのせいだった。人を狂わせ、おかしくする妙な力を持ったあいつ。あいつが、自分だけではない。レイチェルも家族もおかしくした。この国を乗っ取ろうと考えているのかもしれない。そう思えて、アレクシスの怒りと焦りは募るばかりだった。
ウロウロと部屋を歩き回る王子を見ながら、魔人でもある女は王子以上の怒りを募らせていた。今の王子は自分の言葉を聞く余裕などない。魔人は相手に言葉を伝えられなければ、相手の感情を誘導することができない。
下位の魔人であった女は闇と影、そして音という属性を持っていた。音によって人を操り、誘導し、誘惑できる。そのため、ブライアンの手助けもあって第一王子の側付きのメイドにまで昇格できた。王子を止めるそぶりをしながら、背中を押してきた。
魔人の意のままになるまでもう少しだった。一国の王子を、未来の王を操れればどれ程魔の者にとって喜ばしい世界になるだろうか。
その為に人にかしずくことまでしてきたのだから。魔人を嫌な目で見てきた女狐もいなくなり、大きな獲物が飛び込んできたと喜んでいたというのに。
ここにきて、初めて魔人はブライアンの気持ちが理解できた。自身の意のままにならず、予想外の方法で自身の道を阻み、何をされても堕ちない存在がこれほど厄介だとは思わなかった。
あの妖魔が騎士の影に細工しようとしたのを弾けたのは偶然にも近い幸運だった。直接影に宿っていた自身の方が影響力が強かったのと、向こうが弱っていたから。
そうでなければ格の違う相手に力負けするのが道理だ。だが、あれでこちらの存在も知られてしまった。
王子には監視の目が付けられ、同時に自身も見張られているのを感じていた。王子に干渉もし辛くなり、身動きも制限される。隙を見て影に潜り、ブライアンと連絡を取り合うので精一杯になってしまった。
最近では糧も得られていない。他者の上げる苦痛の声こそが糧であった魔人にとって、監視の目をかいくぐって糧を得るのは難しい。結界を越えられるほど魔の者としての気配を極力抑える代わり、能力も著しく制限される今の姿では人とそう変わりはない。
今では抑えるまでもなく、弱ってきているのを感じる。生きるためなら、この狩場を放棄すればいい。だが、何年もかけ築いた地位を投げ出すことも、目の前にある大きな獲物を逃すことも、魔の者の本能がさせてくれそうにない。
そう、起死回生の手はある。あの獲物だ、あの至高の贄を、最上の糧を得られれば、格さえあげられるだろう。一度は虜にしたのだ。もう一度位捉えてみせる。
そして、心ゆくまで味わうのだ。空腹である分、より一層美味であるに違いない。これから先王子を操り、どれだけの享楽にふけようと、あれ程の存在には出会えないに違いない。
ならば、本能の赴くままに、魔の者の性に従って生きよう。もう、ブライアンなど知ったことではない。何かやりたければ好きにすればいい。
興味本位で使い魔契約など結んだが、所詮は血の契約。しかも魔人優位の六対四の主従だ。暇つぶしと利害の一致で飼ってやっていたに過ぎない。
裏社会で隆盛を誇っていた過去ならともかく、今のブライアンにさしたる魅力など感じない。糧もろくに用意できない下僕に用はないのだ。
魔の者として生を受けて以来、初めて感じた飢餓が魔の者の思考を狂わせていく。好き勝手に生きてきたのに、今までにも少なからず不自由を強いられてきたのに、一気に増えた制限が理性を打ち破っていく。
表面上では王子の行動に暗い顔をするメイドだが、その顔の下には暗い本能がうごめき始めていた。かつてブライアン相手に見せた余裕などまるでない。かの少年の素性を探るのもやめだ。
あの夜に、あわよくば聞き出そうと考えていたが予想外の反撃と逃走、さらには傀儡にしきれなかった男の暴走によって危うく失ってしまうところだった。影を通じてかろうじて急所を外せたからよかったものの、簡単に殺してしまうなどあり得ない。
やはり人を使ってどうこうしようとしたのがまずかったのか。人相手には有効だと学んでいたためにそうしたのだが、本来の魔の者の性分としてはまどろっこしい。格上相手に挑むには必要なのだろうが、所詮は使い魔などに身を落とした存在。しかも魔人のように飼うのではなく飼われている様子。
ならば何を恐れることがあるだろうか。偶然とはいえ、影をはねのけられた。能力に制限をかけられているのか、本来の力を発揮できていないようだった。ならば、直接仕掛けたとしてもあるいは行けるのではないか。
体は決められた行動を行いながら、心の中ではどうやって糧を得ようかという妄想に憑りつかれていた。
魔人は忘れていた。いや、もはや冷静に考えることなどできなくなっていたのか。自身がつけ狙う少年に関わったことにより、その関係者達によって下僕と呼んでいた男が破滅したことを。
魔の者において、格とは決して超えることのできない壁を意味しているということを。魔人の存在を知ってより、その格上の相手が最大限の警戒を払いながら、その身を囮としてさらしながら彼らが王宮に出入りしているということを。
彼女の思い描く未来など、決して実現などしないのだということを。飢餓と死の影にさらされた魔人は、最後まで気付くことなく、踏み出してはならない一歩を踏み出した。




