朔
サークルに提出できない悲しみの全てをここに。テスト期間だから更新は割と不定期です。自分のやりたいことをやります。妖怪! 日常! 共生! 月の光にふらふらと誘われてだらだらと人外と戯れべらべらと喋るだけの深夜徘徊奇譚。短編ごとにお話を完結させながら長編を作るという形でやっていくいつものスタイルですので、どうぞ気長によろしくお願いします。あ、あとタイトルの読みは(やこうえんききたん)です。やこうえんききタンはぁはぁじゃないよ!
夜を眠らなくなったのはいつからだろう。
うるさいのは嫌いだ。ざわついているものも嫌だ。静かに落ち着いているのが身の丈に合っている。燦々と癪に障るくらい眩しく輝いている太陽の光を、深海の底に横たわりながらひっそりと眺めるような、そんな感覚に浸っていたい。潮の流れに揺られきらきらと光る太陽の線に見惚れながらぼうっとしているのがきっと私の願望だ。
人の集まっているところが苦手。集まっている人も嫌い。集まっていない人も嫌い。とにかく誰にも会いたくない。
昼間が活気に溢れる生の時間なら、夜は静謐な、死の時間なのだろう。ならば、私が住むべきは、私が住めるのは、私の居場所は、夜の海の深い底だけ。そこから見上げる太陽は息を飲むほど綺麗なのに、どうして海から顔を出して仰ぎ見ると心がざわつくのだろう。離れたい一心で離れたのにいざ遠のくと美しく、憧れて近づけばやはり嫌悪感が湧いてくる。そうしていつしか、私の時間は夜が大半を占めるようになった。
深夜勤務を続けているせいか、仕事がない日も癖で日付が変わる前に目が覚める。家族はみんな寝静まっていて、五階だからと無防備に開けてある網戸から夜の空気だけが流れ込んでくる。無音は何も、音がないわけじゃない。耳を澄ませば静かな気配が聞こえてくる。息を潜め動きを止めた気配は、形も実態もないし見えも聞こえもしないけれど、確か存在感だけはそこにある。虚無がぎゅっと詰まって世界を埋め尽くしているような感覚。夜は昼にはない、何もないということがたくさん詰まっている。
空から降る月明かりと、地上の街灯から届く仄かな光に透かされて、窓の外はぼんやりと明るかった。ベッドから抜け出してテレビをつける。古いブラウン管テレビ。長い時間をかけて、中心から画面が白く光り出す。映し出されたのは銀色の砂嵐だった。チューナーの関係で、リビングにある親機の電源が切られるとこちらのテレビは使い物にならない。できることは、ビデオを繋ぐくらいだ。
見るとはなしに砂嵐を見つめる。部屋が白く照らされる。何もない。寝て起きて古い映画を観るか、寝て起きて誰も来ないレンタルビデオ店に出勤するか、寝て起きて寝るだけの毎日。今働いているところは、化粧をしなくていいと言うから応募した。長くて煩わしい髪はいつも後ろで括るだけ。着飾るのは疲れた。どうせ日の下で生活しないのだから、してもしなくても同じだろう。
ベッドに寄り掛かったまま砂嵐に見惚れていた私は、いつしか微睡みに飲まれていった。
その鈴の音に、私は水底から掬い上げられるようにして目を覚ました。テレビを消して、耳を澄ます。気がつけば二時半を回っており、夜空は深い藍色に包まれていた。吸い込まれるような青さに、思わず網戸を開けてベランダに出る。生温い空気が纏わりついたが、風はおおむね心地よい。
聞こえる。
ちりん、ちりんと、おそらく一つの鈴が等間隔で鳴っている。
こんな夜更けにどうして、と思った。普段なら気にも留めなかったはずだ。ただ、その夜はどうにかなってしまいそうなほどに静かで美しくて、鈴の音は私の心の奥底にまで染みわたっていって、私は誘われるように夜の世界へ足を踏み入れた。
どの階の踊り場の蛍光灯にも、それぞれ蛾が数匹ずつ集まっていて、なんだか蛾の集合住宅みたいだなと思った。それぞれの階に一世帯住んでいる様は、人間のそれと似通っている。
コンクリート打ちっぱなしの階段を降りきり、駐車場に出る。私の住んでいるマンションは高台の上にあり、東側からマンションの裏手にかけて森と工事現場が広がっている。近年高速道路を通すとかで辛うじて住宅街の近くは整地が為されているが、少し離れればそこにはもう手つかずの森が広がっている。西側に降りると住宅街。さらにその向こうには線路が横断しており、線路の反対側はビルの立ち並ぶ商業地区になっている。私の家からだと歩いて二時間弱、車で十五分はかかる距離だ。
この時間に散歩に出るのは久しぶりだなと思った。大体部屋に籠っているか、店に籠っているかのどちらかで、夜更けにこうして夜空を見上げることなんて滅多にない。
すぐ近くに森があるせいか、星空はテレビで見るそれよりもはるかに綺麗だった。新月なのか、月の姿は見当たらない。その代わり、普段は身を潜めている小さな星たちが精一杯ちらついている。大きく息を吸い込むと、初夏の生暖かい空気が肺一杯に広がった。じんわりと汗が出る。
いい気持ちだった。人の営みの音がしない、真っ新で無垢な世界。私の居場所はここなのだと強く感じる。例えば昼間の私が世界の端のぎりぎりの淵に立っていて、俗世から一歩身を引いて途端に崖から滑り落ちるのだとしても、その先が深い海の底なのなら私は喜んで身を投じる。そうして深海でひっそりと波に揺られるのだ。
ちりん、とまた鈴の音が聞こえてきた。私はじっと耳を澄ます。ちりん、ちりんと、それはまるで動き回っているようだった。遠いようにも、すぐ側のようにも思える。私はマンション裏手の駐輪場に自転車を取ってくることにした。何はともあれ足は必要だ。
駐輪場と敷地外の境にはフェンスが設けられており、向こう側は緩やかな坂となっている。森の開発工事は数年前からだらだらと続けられており、放置されたユンボは週に一度動くか動かないかというくらいだ。コンテナや仮設トイレ、その他もろもろの資材が転がっている空地の先に森が広がっている。マンションの裏手には何もないので、駐輪場に近づくにつれてその様子ははっきりと見て取れるようになる。
駐輪場に入ろうとした瞬間、それまで一定の拍子を刻んでいた鈴が突然ちりりん、と焦ったように鳴った。何事か、と一旦その場で足を止めた私は、改めて進行方向を見て激しい寒気に襲われた。
森は静かだった。静かすぎるほどに、静かだった。夜を構成しているはずの無音の鳥の囀りも、風のさざめきも、木々の揺れも、何もない。寝ているのではない。押しつぶされ、消えている。彼ら以外の、得体のしれない何かがあそこに覆いかぶさっている。いつもと変わらない森の暗さがやけに薄ら寒く感じられ、足がそれ以上進むことを拒んでいる。嫌だ。あそこだけ暗い。逃げないと。夜が深い。というよりも、夜が失われて、ぽっかりと穴を開けているようだ。深淵がそこにあると私は思った。頭は目まぐるしく働いている。足だけが動かない。
ちりん、と鈴がそれまでの調子を取り戻して再度鳴り始めた。今度は後ろから聞こえたような気がした。きっとこっちにはない。私はそう理由づけて、森から逃げるように踵を返した。
最初は歩いて。そして徐々に歩調は速くなり、いつの間にか私は全速力で走りだしていた。一刻も早く逃げなきゃ。そう無意識が警告している。
マンションから続く坂を一気に駆け下りて、住宅街を抜けていく。まばらに設置された街頭が恨めしい。自動販売機があるところまで走ると、私は一息ついた。おそらく百メートルも走っていないはずだが息が上がっている。日頃の運動不足が祟った。じぃ、と唸る自動販売機に寄り掛かり、体中を満たさんとばかりに光を浴びる。寒気は薄らいでいたが、あの強烈な印象が頭から離れない。夜は虚無だと思っていた。だけどあそこには、異質な塊が存在している。そんな気がする。空気がどこか、淀んでいる。
息を整えている間も、耳は鈴の音を追っていた。相変わらず、鈴は私の周りをぐるぐる回るように聞こえている。そんな速さで動かれたのでは方向の検討もつけようがない。自転車のない私の移動可能距離は知れているし、いっそのこと帰ってしまおうかと思った。
鈴はぐるぐるぐるぐる鳴っている。
そうか、と私ははたと気づいた。回っているのではなくて、反響しているんだ。他に音がないから、鈴の音は空気を伝って壁にぶつかり、反響を繰り返して私に届いている。それに気づいたからといってどうということはなかった。むしろ手がかりは減っている。
だけど。
どうしても気になる。
それに、なんとなく森の方向には行きたくなかった。
とりあえず、大通りを目指して歩いていくことにした。
どん、と重い物がぶつかる音がした。聞こえる度に思わず体を竦めてしまうような、鈍い衝撃音が何回も、不規則に響いてくる。鈴の音と違って、決まった方向、私の行く先の方から聞こえてくるようだった。次いで車の音。何かを弾く音。鈍い衝撃音。ブレーキ音。人工の音に、私は咄嗟に耳を塞いだ。人の出す音は苦手だ。なにより、大声やクラクションや車の走行音など、大きい音は大の苦手だった。
束の間の静寂の後、また重い物の落ちる音がした。硬いものと硬いものがぶつかる音。コンクリートに、何かを投げているのだろうか。音は次第に大きくなって、発信源に近づいているのだと実感する。街灯を一つ、二つ過ぎる度に、心臓の鼓動が早くなっていくのが分かる。私が今いる細い路地と、目の前を横切る国道が作る交差点。きっとあの角を曲がったところからだ。私は角まで来ると、そっと身を出して音のする方を覗き込んだ。
石だ。石と言うより岩に近い。誰かが大きな石塊を道路に投げ込んでいる。見れば道路にはいくつかの石が散乱していて、所々ほうき星が流れたかのように、白い擦り跡がついていた。
何をしているのだろう、と私はもっと前のめりになる。
投げているのは女性のようだった。腰まで伸びた長髪と、同じくらい伸びたひとつ結びの髪。袖口と裾が大きく広がっている、白いツーピースを着ている彼女は、見るからに細い腕をいっぱいに回し、下からぶん、と石を放り投げている。その度に綺麗な髪がさらさらと揺れている。
「何か用か?」
不意に彼女がこちらを振り返った。
まずい、とは思わなかった。むしろ、彼女がここにいることは自然で、地球が回転しているように、ここにいてそうしていることが正しいと言った風で、私も特に警戒することなく、ままに彼女を受け入れた。
森を見たときのノイズに比べたらましだ。あれに比べたら、彼女は何十倍も澄んでいる。とても夜に合っている。そう思った。
「いえ、なにをしているのかなーって」
「道を塞いでいる」
「道?」
「ああ。ここを渡りたいのだが、こうも車に通られては仕方がない。だからこうして足止めを試みているのだが、なかなかうまくいかない」
「車、速いですもんね」
「速い上に、力強い。私たちの世界には、あんな破壊力を持つ物は滅多にない」
「私たちの世界?」
私は首を傾げる。私の言葉に、彼女が目を大きく見開いた。そしてそれから、思案気に頷いた。一瞬垣間見えた翡翠色の瞳がとても綺麗だなと思った。確かあの子も、翡翠とか、緑色が好きだったっけ。
「そうか、君はこちらの世界の者か」
「こちらも何も、私はあっちの家から来ただけで」
「あっち?」彼女が私の後ろを指差す。「こっち」私は小さく頷く。「そっちの世界の者が、私と邂逅するとはな」「だからどっち」「こっちの話だ」「ここはこっちの世界なんでしょ?」
彼女は上品に笑った。
「可笑しな女子だ」
「夜更けに道路に向かって一心不乱に石を投げている女の人も、十分変だと思いますけれど」
「手伝ってくれないか?」
「話を聞いてくれないかな」
「案が欲しい」彼女はお構いなしに続ける。「この道を塞ぐにはどうしたらいいと思う?」
「ええ……もっと大きな岩で塞ぐとか? 車が弾けないくらいの、熊くらいの大きさの岩」
「では、その岩を運ぶので手伝ってくれ」
「嫌だよ。ていうか岩なんてすぐ近くにあるわけないじゃん。よしんばあったとしても絶対に嫌だけど」
ビデオより重い物なんて、持てるわけがない。引きこもりのレンタルビデオ店員など非力なものだ。非力の代名詞だ。
「作ればいい」
そう言って彼女は足元の道路を指差した。見ると、アスファルトの歩道が深く抉れていて、地中に埋まっているはずの水道管がむき出しになっている。
「ええっ!」
「さすがにこの管を破壊したらまずいと思ってな。だが岩を作るなら、もっと深く掘る必要がある。そのためには、破壊もやむを得ないな」
「やむ得るよ! ていうか、掘るのも既に駄目だよ!」
「なぜだ。あとで埋め直せばいいだろう?」
「元通りに出来るの?」
「いや、岩を詰め込み直すだけだ」
「分かったよ。私も協力するからさ、道路掘るのはやめよう?」私は肩を落とした。「鈴の音探しに来ただけなのに、どうしてこんなことになるのかなあ」
「鈴の音?」
彼女は顎に手を当てて考え込むような素振りをした。細く白い指は、アスファルトを易々と抉ったとは到底思えないほど綺麗で、この人は多分人ではないのだろうなと思った。
きっと夜の住人だ。
だけど気持ち悪くはない。
むしろ清々しくて、落ち着く。海の底に、一緒にいるみたいだった。
「ふむ、その鈴の音、知っているかもしれぬな」
「本当? この音、なんなの?」
「それは私の仕事が終わってからだ」
「結構強かなんだね」
「人だってそうだろう?」
彼女はあっさりと、自分が人外であることを認めた。
「そうかもね」
私は笑う。笑えたことに、少し驚いた。その強かさに、私は何度も傷ついてきたはずだ。
「私らと同じだよ。ただ少し、時間の流れが違うだけさ」
「私とあなたで、この道路の真ん中に立って車を止める」
「駄目だ。普通の者に私の姿は見えない。それに、この道路は広いだろう? きっと避けられてしまう。それでは駄目だ」
深夜、女二人の拙い作戦会議。方や世間知らずのひきこもりで、方やこの世の者ではない。現実的な案が浮かぶとは到底思えなかった。
「完全に通行止めしたいの?」
「長時間とは言わない。ほんの数分でいい。ただ、その間一切の通行を禁止したい。安全に渡したいんだ」
誰か他にいるのかな、と思った。しかし、周りを見回しても電気の消えた家や少し抉れた道路、ちかちかと明滅する街灯があるだけで何かの気配などない。あとは時々地平線が明るくなったかと思うと、ものすごい爆音と速さで車が走り抜けていくくらいだった。やかましい風が通り過ぎて行った後に、私は小さくため息を吐く。
「うるさいなあ。もっと静かに走れないのかな」
「同意だ。自分たちだけの道路ではないと、なぜ気づかない」
「もういいよ、いっそのこと道路破壊しちゃおう」
「いいのか?」
「駄目だけど、この際仕方ないよ。たまには人間も叱られた方がいいんだよ。叱られなかった人間は駄目になるだけなんだから」
「一理あるが、私も事を荒立てる気はないのでな。それは最終手段にしておこう」
「スカッとするよ?」
「君はよっぽど俗世が嫌いと見える」
嫌いなわけじゃない、と心の中で呟いた。ただ、私には関係のない世界で、それなのに時々私の世界をかき乱してくるから煩わしいだけだ。
「そうだな。車に乗る者が絶対に止まらなくては、と思うようなことはないのか?」
「うーん、パトカーがいたり、普通に通行止めの看板が見えたら止まると思うけど」
なるほど、と彼女は頷いた。
「看板はどこにある?」
「うーん、すぐには思いつかないけど……あ、例えば、え、うーん、いや……あそこは、なあ」
「どうした?」
思いついたには思いついたのだが、口にするのははばかれた。言ったら確実に取りに行くことになる。またあそこに戻るのは、正直気が進まない。
ちりん、と鈴の音が聞こえた。しばらく集中していなかったか意識して聞いていなかった。そうだ、私はこの鈴の音の正体が知りたいのだ。
意を決して、口を開く。
「工事現場。高台の森の近くの。でも、あまり近寄りたくないなあ」
「それはまた、どうして」
「なんだか嫌な感じがするんだ。こう、空気が淀んでいる、みたいな」
「ふむ」
また、彼女は考え込んだ。物思いに耽っている彼女の顔は、彫刻のような美しさと、冷たさを孕んでいる。下を向く翡翠の瞳が透き通るように綺麗で、私は生唾を飲みこむ。
「行こう。私が先行する。君は場所を案内してくれるだけでいい」
「行くの? 本当に?」
「なんなら、その淀み、私が散らしてやろう」
彼女は自慢げに胸を張った。美人が行うと、子供じみた行為でも様になるから何かとずるい。
マンションの裏手に着くと、彼女は腰巾着から小さなけん玉のようなものを取り出した。球体に十センチくらいの紐がついていて、その紐は持ち手だろうか、細長い棒に繋がっている。彼女は棒を持つと、ぷらりと球体を垂らした。その形でぴんときた。提灯だ。
私が閃くのと同時に、それはぽうっと光を灯した。柔らかな、彼女の瞳と同じ、翡翠色の朧朧たる光。淡く優しい光は私の眼を釘付けにし、心に安らぎをもたらしてくれている。
「綺麗」
「だろう? 大切な光なのだ」
言って彼女は、駐輪場に足を踏み入れた。私は最初こそ眩暈と寒気に襲われたが、光を見ているうちにそれも和らいで、なんとか彼女の後ろをついて行けるようにまでなった。まるで光が私を包み込んで、夜の淀みから私を守ってくれているかのようだった。
「こっち、そっち、次はこっちであっちまで」
「どっちよ」
「光の導くままさ。それで、看板はどこに?」
私は周囲を見渡す。仮設トイレの近くに、ちょうどよさ気な三角表示板や看板が転がっている。
「あそこ」
「ふむ。ついでに森にも近づこうか」
「え」と私は固まる。「さすがにやめておこうよ」
「案ずるな。この提灯がある限り、君に危険はないよ」
彼女はにこやかに笑った。
そのまま彼女に突き従って森の手前まで向かう。それまで更地だったところは森に近づくにつれ背の高い草が群生するようになり、今私たちのいるところはススキが一面に生えている。
風が吹く。さらさらとススキが音を鳴らす。一様に揺れるそれは、まるで水面の様だった。
「すごいな、ここは」
彼女が息を吐いた。
「一時的かもしれないが、しないよりはましだろう」
「そんなにすごいの、この淀み」
「基本的に近づかない方が吉だと思うぞ?」
だから工事が進まないのかなあ、と私は一人思案する。
彼女はおもむろに提灯に指を入れた。私がじっとその様子を見ていると、彼女はにやりと笑って、それから光の粒を摘まみとった。
「蛍みたい」
「その通り。夜蛍光と呼ばれている」
「ヤケイコウ?」
その光の粒子は、まるで生きているかのように、明るくなったり暗くなったりを繰り返している。呼吸しているようにも見えた。
「これをこう放ると」
言って彼女は、ぴっ、と夜蛍光の粒を指で弾き飛ばした。光は一直線に森に向かっていく。残光が線のようになって、鋭く森へと伸びていく。夜蛍光が森に入ると思った瞬間、ぱっと光が弾けて涼風が辺り一面を吹き抜けた。風の後を追うように、澄んだ空気が流れ込んでくるのが分かる。淀みが散ったのだ。
「しばらくは大丈夫だろうが、近づかないに越したことはない。さあ、看板を運ぼう」
私はしばらく呆然としてしまった。何が起こったのか、結果は分かるが頭の理解が追いつかない。本当に別の世界に来てしまったのだろうか。それとも、これは夜の見せる夢なのか。どちらにせよ、私の物語には違いない。
昼の世界では日陰者でも、夜の世界では月明かりの主人公だ。夜は私の、いるべき場所だ。
「何してる、早く行こう」
「うん」
私は森をじっと見据えながら、彼女に続いた。
鈴の音はいつしか遠くなっていて、今やもう聞こえているのかどうかも分からないほどだった。
例のヘルメットを被ってお辞儀をしている『ご迷惑をおかけします君』の看板を数個と赤色灯、ついでに反射板も拝借して元来た道を行く。ちなみに荷物はほとんどを彼女が担いでいる。私は三角表示灯を右手に引っ提げているだけだ。
「助かった。礼を言う」
「いえいえ、私は道案内をしただけだし。それに、森を淀み? を払ってもらったみたいだし。ていうか、あれなんなの?」
「強いて言うなら、夜の濁りだ」
「濁り?」
「夜は静かだろう? だが昼間は驚くほどに騒がしい。では、昼間のそれらは夜にはどこに行く?」
「どこって」
私は考え込む。ただ消えるだけではないのか。
「この世に一度生まれたものは、決して虚無に帰ることはない。何かしらの痕跡を現世に残す。あれらは昼の、残り滓だ」
よく分かったような、分からないような。
「濁りは集まって淀む。淀んだ場所にはさらに濁りが集まる。そうして肥大化した濁りはよくないものを生み出す」
「よくないもの?」
「汚いものや不要なものが集まり、それらが更に濾されて出来るものだ。いいものなわけがないだろう」
「確かに」
「普通は地脈に乗って方々を流れるうちに浄化されるのだが、近頃は地脈もぼろぼろだからな」
「人のせい?」
「人だけのせいではないさ」
「なあんだ」
どうせなら全部私たちのせいだったらいいのに。そうすればいっそのこと、清々しい。
「さあ、着いた。始めよう」
彼女が言った。
私たちは見えやすいところに看板や照明を並べた。正味十五分で道路の封鎖は完了した。それからしばらく様子を見ていたが、爆走してきた車は看板を照らしだすや否やスピードを落とし、ことごとく、不服そうに転回していった。正に、我が意を得たりと言う感じである。
「すごいな、私の石よりもはるかに効果的だ」
「人間は自分で作ったものに縛られるからね」
「それで秩序が保たれるのならいいじゃないか」
「そうかな。不便で馬鹿なだけだと思うけど」
「自分を律しているうちはまだ利口だよ。さあ、今度こそ本当に礼を言おう。ありがとう。おかげで彼らを通すことができる。本当に感謝している」
彼女が恭しく頭を下げたので、私は慌てて手を振る。一つ結びが前に垂れて、地面に着きそうだった。
「や、ちょっと、そうやって改められても困るというか、私何もしてないし」
「礼には礼を持って尽くすのが我々だ。気持ちよく受け取ってはくれぬか」
「くれぬかと言われまして……も……えっ?」
にやり、と彼女の翡翠の瞳が怪しげに光ったような気がした。しかし、私はそれを確かめる余裕もなく、ただただ目の前の光景を、阿呆のように口を開けて茫然と眺めるばかりであった。
大きな夜蛍光の塊の群れが、優雅に、のんびりと、まるで川を流れるかのように道路を渡っていた。目の前は翡翠色に光り輝き、ゆらゆら、ゆらゆらと無数の光が揺蕩っている。互い違いに明暗を繰り返していくそれは一つの繋がった命の様で、ぽう、ぽう、と鼓動しながら対岸へと進んでいく。川を流れるようだと思っていたものはいつしか数を増し、それ自身が光の流れとなって漂いだした。その上を、群れからはぐれた、蛍のように小さな光が儚げに舞う。天の川が降りてきたようだった。彼女が横に立つ。私と彼女は、夜蛍光の群れに囲まれていて、星に包まれているようで、宇宙を漂っているようで。
「これを君に」
彼女が提灯を取り出した。
「この光は君を導き、君を守る。この提灯が灯ったとき、また夜を歩くといい。きっと、君の探し物が見つかるはずだ」
おずおずと手を伸ばし、私は提灯を受け取った。仄かに温かいのは、夜蛍光のせいか、それとも彼女の思いが込められているからなのか。
「ねえ、名前は? あなたの名前」
「朔。今宵と同じ。いいや、私が、今夜そのものさ」
「私は琴音」
「琴音。ハープか。ふむ、月とハープは惹かれあうもの。月が琴音を呼んだのだろうな」
「月が?」
「また縁があったら、会うかもしれぬな。そのときは」
ふっ、と朔が口元を緩めた。
さよならを言う間もなく、さながらそれは流れ星のように、朔と夜蛍光の群れは姿を消してしまった。後に残されたのは私と、明かりの灯っていない小さな提灯だけ。
ふと東の空を見れば、地平線に紫色のベールがかかっている。もうすぐ朝が来る。夜が終わり、私の世界も終わりを告げる。
私はくるりと反転して、家路を急いだ。道中、瞬きをする度に、最後の瞬間の朔の笑顔が瞼の裏に浮かんだ。
その笑みは、夜蛍光の淡い光の中で一等に儚く、物憂げに見えた。まるで太陽の光の中に隠れ姿を消してしまう、新月のように。
次回予告! 琴音に目覚める新たな力。夜行を共にする新たな仲間たち。明かされる琴音の悲しい過去。それは新たな冒険の始まりに過ぎなかった。友情、努力、勝利。そして立ちはだかる敵。かつて琴音の故郷を業火に沈めた闇の帝王ノーライフキング、伝説の吸血鬼アルカードがついに琴音たちの前に現れる! 琴音は夜の世界を守れるのか。そして故郷の仲間たちの仇を取れるのか。全部嘘! お楽しみに!(予定は未定)