野外学習編5-6
「いやあ、この度は当方の手際が悪く、ナターシャ殿下には色々とご不快な思いをさせて申し訳ございません。何しろ、急な話であったもので、行き届かぬ点、どうかご容赦ください」
ほんの一時間ほど前、順番待ちと前言撤回をせねば、三十万の兵を以て攻めると言った高圧的な態度から一転、自らの執務室にタスタルの王女を招いたトイラックは、へりくだった態度で愛想笑いを浮かべさえしていた。
本来なら、タニムの村長の丁重な礼を受けた後、夕刻までいくつかの案件を片づける予定だったが、さすがにお姫様を予定の時刻まで待たすわけにはいかず、緊急の案件以外は後回しにして、捕虜の返還交渉をトイラックを前倒しにしたので、その執務室のソファーには緊張した面持ちのナターシャと、つまらない芝居を眺めるような表情のフレオールが座している。
その高貴な生まれと美しい容貌ゆえ、ナターシャにとってへりくだった態度や愛想笑いはうんざりするほど見飽きたものだ。
口に蜜あり、腹に剣ありと言われる貴族社会である。相手の笑顔をそのまま信じるなど愚かにすぎる。笑顔の裏に、どんな思惑があるか知れたものではない。特に、呼び出しを受ける直前まで、トイラックの怪物じみたエピソードを、ナターシャは耳にしていたのだから。
だが、それでもタスタルの王女は厳しい表情を作り、厳しい視線を対面に座るトイラックに向け、精一杯に厳しい口調で、
「ええ、不愉快です。今日だけのことだけではなく、貴国が無道な侵略により、盟友ワイズを滅ぼし、そして我が国にもたらした災禍。それを思えば、どうして上機嫌になれましょうか」
「いや、そうおっしゃられては、こちらとしては、凝縮するより他ありません。ですが、天下万民に魔法の恩恵をもたらす聖戦は、我が国の使命。貴国との不理解による悲劇には胸を痛めますが、こればかりは避けて通れません」
魔法のマの字も使えない元浮浪児がのたまう。
「あなたの、貴国の掲げる身勝手な大義は、我が国の兵を少なからず殺し、その家族たちに悲哀をもたらしました。それだけの罪に飽き足らず、貴国は我が国の兵を不当に連れ去りました。彼らにも家族があり、今、異国にある身をどれだけ心配していることか。タスタル王国は正式に通達します。捕虜の即時解放と、我が国に及ぼした戦禍の賠償と、盟友ワイズよりの撤退を」
「なるほどなるほど。殿下のおっしゃられること、ごもっともかも知れません。殿下の、いえ、貴国の主張と要求、これを皇帝陛下に伝え、判断をあおぐこととします」
「なっ!」
ナターシャが内心でマズイと思ったのも、トイラックの対処からすれば当然だろう。
皇帝の判断というのが建前で、ネドイルに一応は使者を出すだろうが、帝都までの距離を思えば、片道で普通なら十日以上かかる。
トイラックは三十万の兵で攻めると口にした。それがハッタリであるとしても、実際に第五軍団に攻められた側としては、早急に国防を整えねばならず、二万五千の捕虜を取り戻して兵力の回復を計るのが急務であるので、のらりくらりと回答を引き延ばされるのが最も困る。
七竜連合の密偵が集めてきた情報から、交渉相手であるトイラックが、善良で心優しい人物であると判断したナターシャは、アーク・ルーンの非を鳴らし、その非道に怒って見せ、非現実的な要求を突きつけた。
罪悪感を攻め、怒りの矛先をぶつけ、強気な態度で臨み、相手が冷静さを欠いたところで、ワイズからの撤退やタスタルへの賠償を引っ込め、代わりに捕虜の身代金の提示額を大きく下回るもので合意させる。
心理的なトリックによる、いかに相手を錯覚させるかが重要な、ある意味でマトモな交渉ではないが、立場も弱く、交渉材料に乏しいナターシャには、これくらいしか打てる手立てがないのだ。
だが、そんな二流の駆け引きに引っかかるトイラックではない。彼は捕虜たちが換金できない状況に備えて、二万五千人を強制労働させて自らの身代金を払う準備も並行して行っているので、別段、今日の交渉を無理にまとめる必要はない。
もちろん、二万五千人を強制労働させる手間はいるが、それを惜しまなかったからこそ、ただでさえ有利な立場をより有利なものにできているのだ。
反対に、捕虜を早期に返還してもらわねば国防に関わるナターシャの側は、返事を先延ばししようとするトイラックの態度に、どうしても焦らずにいられないというもの。
「トイラック卿、先ほど、あなたは我が国の主張にうなずきました。つまり、貴国はその非を認めたということです。自らの過ちに気づいたなら、それを正す姿勢を見せるべきではありませんか」
「なるほどなるほど。つまり、ワイズからの撤退や貴国への賠償は後の話として、まず捕虜をタダで返せと言いたいわけですね。自らの誤りを認めた証として」
「そのとおりです。わかっているなら、ただちに実行してください」
「わかりました。では、ただちに使者を出し、スラックス将軍に貴国の主張と要求を伝え、捕虜に関する判断をあおぎたいと思います」
「ですから! なぜ、そのような話になるのです!」
どんっと思わず机を叩くほど激情をあらわにするタスタルの王女とは対照的に、
「いえいえ、私の職務は捕虜の管理でありまして、捕虜の無料解放となりますと、司令官たるスラックス将軍に無断に行えるものではありません。私の権限を越える事案となれば、上司の許可は必須となるのは、いずこの国も同じというものですよ」
アーク・ルーン帝国東方軍後方総監は愛想笑いを浮かべたまま、動じる色を見せずに答え、そのやり取りを相変わらずつまらなそうに眺めるフレオール。
「トイ兄はイイ人ではあるが、イイ性格もしているからなあ」
小娘が手玉に取られる、交渉になっていない交渉を眺めながら、フレオールが内心でやれやれと言わんばかりにつぶやく。
別にトイラックが相手だからではない。この状況下では、一介の外交官であろうが、タスタルに有利な交渉などできるものではないのだ。
もし、直前にフレオールから交渉相手の情報を仕入れていなければ、ナターシャはトイラックのたらい回しにパニックを起こしていただろう。
うまくいかないことが想定できたゆえ、タスタルの王女は一時の激情に流されず、
「先ほども申し上げましたが、捕虜となった兵たちは故郷に帰りたいでしょうし、その故郷では帰りを待つ家族がいます。彼らのためにも、わたくしは、いえ、我がタスタルは捕虜の返還に応じてもらわねばならないのです」
「さて、貴国にとうに使者を出し、捕虜をお返しする意向は伝えてありますが? 去年と同様、お代をいただけば、捕虜の方々は故郷で家族の方々に無事な姿を見せられるよう手配いたしますよ」
「その費用が金貨五万枚というわけですかっ!」
「今回は数が数ですからねえ。ただ、数を思えばそう高くないと思いますが?」
「…………」
一人頭金貨二枚。それで人の命が買えるなら、高くはない。だが、それが二万五千人分となると、にわかに支払える額ではなくなる。
それでも、タスタルは決して貧しい国ではないので、無理をすれば金貨五万枚を用意できたのは去年までの話。先の大敗によって、軍事面だけではなく、経済的にも大打撃を受けたタスタルは、それに関する支出と今後の戦費をまかなうには、臨時の徴税を行わねばならないだろう。
民の財布と信用を軽くして、捕虜返還の費用を得るか否か。タスタルの国庫と財政はそこまできているのだ。
「と、ともかく、それほどの大金、すぐに用意できるものではありません。貴国のような大国を基準に考えないでください。五年、いえ、三年をお待ちいただければ、必ず支払いましょう。どうか、猶予をいただけませんか?」
「はて? 使者からまず第一の条件が伝わっておりましょう。現金一括払い以外は認めない、と」
「それが無理と、そちらもわかっていましょう。難題をふっかけ、結局、兵を返さぬように画策しているなら、ハッキリとおっしゃってください」
「誤解ならさならいでください。我が方は虚言で貴国を困らせるような意図はありません。ただ、貴国との関係を思えば、現金一括払いはどうしても外せね要件となるのです」
「それほど、タスタルを信用していただけないわけですか」
「いえ、信用はしています。が、我が国は貴国を滅ぼそうとしているのですよ。だから、タスタルは近年の内になくなることが、交渉の前提となるのです。タスタルがいかに信に厚くあっても、国そのものがなくては、約束を履行してもらえなくなるじゃありませんか」
「なんたる暴言! 我がタスタルが滅びるなど! あまりに無礼千万ではありませんか!」
温厚なナターシャとて、激怒するのは当然だろう。国を滅ぼすと明言されたのだから。
が、美しき姫に睨みつけられても、トイラックは愛想笑いを浮かべたまま、
「ナターシャ殿下が祖国の永久不滅を信じられるのを否定したいわけではありません。これは我が国のタスタルに対する姿勢の話をしているだけです。我が国の貴国への、いえ、七竜連合への対応は、今さら、述べる必要はないでしょう。ですから、分割払いなどは認められないのです」
祖国の滅亡を前提されるなど、正に国辱ものの言動だが、怒りに任せて席を立てば二万五千の同胞を助けることはできない。二万五千人をタコ部屋に送ればいいだけのアーク・ルーン側とは、前提条件が違いすぎるというもの。
だから、ナターシャは席を立つのだけはこらえたが、さすがに冷静さを保つのは無理だったか、
「貴国は、我がタスタルのみならず、盟友らも滅ぼすとおっしゃられる。いえ、貴国は大義という方便で、いくつもの国を滅ぼしてきた。トイラック卿個人に問いますが、あなたは自国の、否! ネドイルの進む道が正しいと思っているのですかっ!」
「正しいわけないじゃないですか。何を言っておられるのですか、ナターシャ殿下」
激情のままに発した、アーク・ルーンの、ネドイルの正否などという無益な問いかけを全肯定され、高ぶった感情が弾けて、頭の中が真っ白になる。
すぐに自分の非難を相手が認めたのを理解できずにいるところに、薄っぺらい愛想笑いを消したトイラックは、一転して真摯な表情となると、
「人を殺す金があるなら、人を助けるのに使うべき。我が国の司法大臣閣下のお言葉ですが、まったくそのとおりだと思います。世には貧しき者、飢えている者がいくらでもいる。あれは本当に辛い。自分が飢えるだけなら、耐えればいい。が、身内が飢えているのに、何もしてやれず、何も与えてやれないのが、何よりも辛かった」
静かだが、妙に迫力のある声音で淡々と告げる。
その妙な迫力に気圧されつつも、
「な、なら。ならば、あなたが正しいと思うことをすればいいではないですか。間違っているとわかっていて、なぜ、ネドイルに従うのです!」
「ネドイル閣下がごはんを食べさせてくれたからです」
キッパリと、単純明快な理由を口にする元浮浪児。
そして、生まれてきてから一度も飢えたことのないお姫様に、
「ネドイル閣下は間違い続けた先にあるものを求められています。である以上、私は共に間違い続けるだけですし、殿下のおっしゃる正しさが勝利する際は、ネドイル閣下の間違いに殉じるだけです。いずれにせよ、私はネドイル閣下の下、その間違いがマシなものとなるよう努めるより、拾われた日より食わせてもらったご恩に報いる方法を知りません」
ここまで決意と覚悟を示されては、ナターシャも悟らざる得ない。
いくら感情面を攻めようが、トイラックに一片の同情も慈悲も期待できないことに。
「まあ、私はさもしい人間ですからね。ネドイル閣下が食わせてくれた、パン一個が一国を滅ぼす理由になるんですよ」
アーク・ルーン一、リーズナブルな男がのたまう。
もちろん、パン一個を理由に滅ぼされる方はたまらないし、物理的に食べさせてもらったパンの数からすれば、この世界だけではとうてい足りない。異世界の百や二百は最低でも征服せねばならないだろう。
「私にはネドイル閣下に返し切れぬご恩がある。食べさせてもらったことはもちろん、こうしてお役人なんて安定した職業につけたのも、ネドイル閣下のおかげです」
大宰相代理、内務大臣、代国官、後方総監といった大帝国の要職を歴任する、アーク・ルーンの実質的支配者の後継者筆頭という、波乱万丈な半生を送っている若者の言葉に、ナターシャはやや呆れた表情となる。
「ましてや、ネドイル閣下の下、仕事を頑張ったおかげで、私は幼き日より抱いていた夢をかなえることができた」
「夢をかなえた……いったい、どのようなものなのですか?」
思わず問いかけるタスタルの王女に、トイラックは真面目くさった表情と口調で、
「子供の頃、残飯を漁っていた定食屋で、腹一杯、食べること」




