野外学習編5-5
おどおどするタニムの村長の緊張をほぐすかのように、トイラックは親しげに声をかけながら、自らが案内してその執務室へと共に向かい、一国の王女に背を見せ、待ち合い室から立ち去ると、
「フレオール、あの民は大事な件があり、トイラック卿と会談なさるのですか?」
「いや、単に礼を言いに来ただけの村人だ。それを優先した理由も、先約というだけのことにすぎない」
密かに小声で問いかけてきたタスタルの王女に、魔法戦士はやはり小声で答える。
「あの男の村は、たしか三年ほど前だったかの大雨で壊れた用水路を、うちの軍に直してもらい、さらに補強工事もしてもらったんで、その礼を言いにわざわざ来たらしい」
「三年前なら、ワイズはあの者の村の苦境を放置していたということですか?」
ナターシャがにわかに信じられないという反応を見せるのも当然だろう。
ワイズ王国は七竜連合の中で最も民政に力を尽くしており、民が不満を持っていると言われても納得できるものではないし、フレオールもワイズの政治を批判も否定もしなかった。
「当事者には気の毒だが、しょせんは小さな村の話だからな。予算にも人員にも限りがある以上、後回しにされてしまったのだろう。大変だが、遠くまで水を汲みに行けば何とかなるというものだから、死活問題とまではいかないしな」
高い視点から全体を見れば、小さなほころびに気づかないというのは、別段、旧ワイズ王国に限ったことではない。アーク・ルーンとて、隅の隅にまで手が行き届かないことはいくらでもあろう。
いかに善政を敷こうが、人のやることには自ずと限界があるし、何より予算や人員には限りというものがある。
「加えて、時期が悪かったのもあるな。その当時、イライセン殿は西の国境にいることが多かったから、国内に目が行き届かなかったんだろう」
イリアッシュの父、ワイズ王国の最後の国務大臣イライセンは、閣僚の首座として行政と軍事の双方を監督する立場にあるが、元来、西の国境、対アーク・ルーンへの防衛強化は軍務大臣の管轄である。
だが、去年、宣戦布告を受けるまで、ワイズ王を初めとする大半の者が、アーク・ルーンの演出した偽りの平和にだまされており、軍務大臣も親アーク・ルーン派の一人だった。
ゆえに、ワイズの国務大臣は越権行為に走り、西の国境の防備を独断で強化した。
その結果、ヅガート率いる第十一軍団が侵攻するや、西に築いた陣地にアーシェア率いる五万の兵が即座に集結でき、二十日以上に渡ってアーク・ルーン軍の進軍を防げた。
ヅガートが西の防衛線を突破したのは、イライセンがいなくなった後である。イライセンが西の国境にいる間は、防衛線を突破できなかったのに加え、ヅガートは一度だけだが手痛い空襲を経験をさせられている。
ナターシャもイライセンとは面識がある。イリアッシュの父親だけあって、優美な外見をしているが、それ以上に印象深いのが、剛直な性格ゆえに、アーシェアやウィルトニアどころか、クラウディアやナターシャといった、他国の王族でも構わず、悪いことをしたら叱りつけていたので、腹に響くような怒声の方が記憶に残っているほどだ。
「トイ兄がワイズを早期に安定させられたのも、イライセン殿のおかげでもあるな。タニムの村のような小さな問題をいくつも解決したり、民が抱いている不満や不便に感じている点をコツコツと是正して、トイ兄は民の信用を得たわけだが、そうした諸問題の情報源は全てイライセン殿だ」
国務大臣として、ワイズの行政と軍事を統括していた身ゆえ、イライセンは誰よりも祖国の内情と問題に精通していたわけではない。誰よりも祖国のために職務に精励し、民にために国をより良くするために働いてきたからこそ、ほとんどの王侯貴族が気づかないような不平不満を知り得たのだ。
裏切るまで、イライセンは能力的にも人格的にも高い評価を得ていた。堅物すぎて面白味がないので、敬遠する者も少なくなかったが、貴族たちから信頼のできる人物と思われ、ワイズの民の信望も王をはるかにしのぐほどだった。同じ堅物なクラウディアなどは、家臣に「イライセン卿の爪のアカでも飲め」と思わず口走ったことがあるくらいだ。
祖国を売り渡して寝返った醜業に対する憎悪で、全員が過去にしていた高い評価を忘れていたが、淡々とした魔法戦士のレクチャーは、ナターシャに恐るべき事実を認識させた。
七竜姫の誰よりも強いイリアッシュだが、そんな彼女も父親に比べれば単なる小娘にすぎない。一方、イライセンもアーシェアもいない今の七竜連合で、自分たち小娘に勝る人材が思い当たらないのだ。
「さっき、トイ兄を呼びつけたのは、悪くなかった。事前に交渉相手を知っておくのは必須だ。また、強引に割り込まないことで、姫は一応は考える時間を得られるしな」
自分の意図を見抜かれ、顔を強張らせるナターシャ。
フレオールの話を聞くにつれ、自分の目算の甘さを感じたナターシャは、自分の目でトイラックという人物を確かめようと、家臣たちの騒ぎに乗じて、彼をこの場に呼びつけ、難敵であるのが事前に確認できた。そして、今の待ち時間をその難敵への対処を考えるのに当てている。その部分だけはナターシャの企みは成功している。
問題は、いくら考えても、トイラックとの交渉を成功させる方策が思いつかないことだ。
元々、大敗して純軍事的に極めて不利な状勢で、相手は人質になりえる二万五千人もの捕虜を保有しており、一方でタスタル側は身代金の用意もできないほど、軍事のみならず、経済的にも劣勢にある。
これだけ不利な立場での交渉ゆえ、相手をよほど譲歩させねばうまくいくものではない。
ナターシャもバカではないから、祖国の支払い能力くらいは確認しているだろう。そこまでトイラックを値引きさせるだけの方策も用意しているはずだ。が、この時点で慌てて思考を巡らしているということは、交渉相手を見て、自分の値引き交渉がうまくいく自信が揺らいでいるからである。
「とっととバンザイした方が楽なんだけどねえ」
口に出さないが、タスタルの王女が懸命に無駄な努力に頑張る姿に、ネドイルやトイラックをよく知るフレオールは、そう思わずにいられない。
「トイ兄のことが知りたいなら、別段、話してもいいが?」
「え、ええ、お願いします」
フレオールが差し出した個人情報にナターシャは飛びつく。
当人はトイラックのことを少しでも知ることで、そこから突破口を見つけようとしているのだが、フレオールの思惑は異なる。
トイラックの生い立ちやら半生やらは、すでにウィルトニアに語っている。それを聞いてわかるのは、トイラックがネドイルとは異なる難物であるくらいだが、それを知るのにナターシャは時間を割かねばならない。
どれだけ必死に頭を悩ませても、精神が疲弊するだけなのだ。なら、聞く時間を増やし、悩む時間を減らしてやるしか、フレオールに配慮できることはない。
長く苦しむより、短い道のりで生き地獄に至る方がマシであると考えるゆえ。




