南方編26
切り刻まれる者にとって唯一の救いは、切り刻む者たちが素人である点だろう。
旧ミベルティン帝国の記録によれば、二日に渡って三千回以上、刃を入れてから死に至らしめた、という例もある。だが、熟練の処刑人でない以上、刃を百と入れる前に死に至らしめてしまう。
こればかりは仕方ない。素人の手による処刑は一日どころか、小一時間も保つこともできなかったが、レミネイラにとっては計算の内というより、そのようなことはどうでもいいこと。
重要なのは苦しめて殺すことではなく、死に行く者を切り刻むことで、生き残った者たちの心に教訓を刻むことなのだ。
逆らえばどうなるかを実演し、アーク・ルーンに絶対服従というよりも、都合のいい道具へと調教する。
このような手法の有効性は竜騎士たちによって証明されている。この場にいるフォーリス、シィルエール、ミリアーナも、祖国を滅ぼしたアーク・ルーンに対する憎しみは、もはや恐怖によって完全に塗り潰されている。シィルエールとミリアーナはフレオールに依存することで精神の崩壊を回避し、フォーリスは虚勢を張って現実から目をそらすのに終始しているありさまだ。
元王女の主導による残虐な処刑を目にし、顔を青ざめさせる三人の元王女に、
「……オレには原理の方はわからんが、レミネイラ将軍の元にいるクマぞう、ブタきち、サルべえは、かつてカンデンチというものがなくなり、動かなくなったそうだ。そして、これもオレにはわからぬ心情だが、レミネイラ将軍にとってクマぞうたちは失ってはならないものであるらしい」
フレオールは現実から目を背けた三人に、現在から目を背けなかった元王女について語り出す。
「失ってはならないものを失い、狂気を己の支えにしている点では、レミネイラ将軍とサム将軍は同じといえるだろう。ただ、サム将軍の大事な存在はどうやっても戻らないのに対して、レミネイラ将軍の大事な存在は取り戻すことができた」
死者は生き返ることはない。大事な人間を失った者は、失ってはならないものを失った喪失を、何かで埋める、否、誤魔化さねば生きていけない。
サムは妻子を失った哀しみを、故郷の復興、かつての幸せを形だけでも取り戻すことで、それを誤魔化している。
ゾランガも家族を理不尽に殺された哀しみを、復讐に狂うことで誤魔化していると言えるだろう。
対して、レミネイラは己を誤魔化さずにすんだ。彼女は大切な存在を、失ってはならぬものを取り戻すことができたからだ。
だが、失ってはならないものを失った経験は、サムと同様、レミネイラを狂わせ、サムと異なり、彼女を強く、最凶の存在とした。
「失ったものを取り戻すことができ、そこで安堵するようだったならば、ネドイルの大兄も失ってはならないものを取り戻すのに尽力しなかっただろう。だが、レミネイラ将軍は失ってはならないものを二度と失わないよう、狂うほどに努めている。だから、大兄は多額の費用を投じ、先史文明の遺跡を採掘している。カンデンチとやらを確保するために、な」
レミネイラは何よりも大切な存在を取り戻したいと願い、そこに救いの手を差しのべたのはネドイルだが、それは無償のものではなく、取引に近いものだ。
元々、レミネイラの祖国は親アーク・ルーンというより、ネドイルにおもねることで国を保とうとし、最低でも国の首脳部は自らの安泰を計り、その方策はレミネイラの存在が浮上するまではうまくいっていた。
世界征服を目論むアーク・ルーンからすれば、他国の存続などありえない話だが、おとなしく降った元支配者たちにある程度の配慮をするくらいの柔軟さは持ち合わせている。レミネイラの家族・親類の側にしても、祖国を少しでも高値で買い取ってもらうために、ネドイルがレミネイラに興味を示すと、あっさりと彼女を差し出した。
ネドイルからすれば、レミネイラはいくら大枚をはたこうが惜しくない逸材だ。その点では、レミネイラの家族・親類の目論見は正鵠を射ていた。想定外であったのは、レミネイラが利益を総取りしたというより、クマぞうたちと遊ぶのに邪魔な存在を全て排除した点であったといえよう。
レミネイラは遺跡よりカンデンチを発掘させ、クマぞうたちを再稼働させただけではない。家族・親類を全て、自らの夫や子供さえも排除して、かつてのように遺跡の中のみを遊び場としなくてよい、誰にの目もはばかる必要のない環境を整えた。
もちろん、その環境もネドイルの後援あってのものであり、その後援が哀れな元王女に対するものではなく、不敗の名将に対するものであるのを、レミネイラは正確に理解している。
「負けることをレミネイラ将軍は自らに許していない。敗北が、不敗という価値を失うことが、失ってはならないものを再び失うことを理解し、何よりも恐れているからだ。だから、どんな手段を用いても勝とうとし、実際に勝利する」
勝つために手段を選ばないというのは、その言葉の通りに単純で簡単なことではない。
メドリオーやリムディーヌは言うに及ばず、ヅガートでさえ自らを律して兵を用い、手段を整えて勝つように努めている。
一見、卑劣な手段を用いぬよりも卑劣な手段を用いた方が勝ち易いように思えるが、そうではない。
卑劣な策を用いて勝った例はいくらでもある。が、そうして勝利した者は得てして、勝利のために卑劣な策を用いるのでなはく、卑劣な策を用いれば勝利できると混同してしまい、自ら卑劣さという隙を作ってしまう。
戦に限らないが、高潔だから勝てるわけでなくとも、冷静さ、冷徹さを欠けばおしまいなのだ。
卑劣さ、外道さを必要なだけ用いるという一事で、レミネイラがいかに優れた、あるいは人間性の壊れた存在か明白というもの。
「レミネイラ将軍はカンデンチ一本のためなら、一万人でも一億人でも平然と踏みにじれる。その点を肝に命じて、まっ、関わらぬようにすることだな」
レミネイラの危険性と怪物性はサムを上回る。
サムに不用意に近づけばどうなるか。それは、フォーリスが、シャーウ王家が証明している。が、そうなる前にフレオールは何度も警句を発していた。
レミネイラに不用意に近づけば、サムの時よりも凄惨な結末が待ってているかも知れない。それを未然に防ぐため、フレオールはこうして面識を得る機会を設けたのだ。
アーク・ルーンで生きていくということがどういうことか、再び学ばせるために。
今回はエピローグとプロローグはない方が後々いいと判断して、次から東征編を始めます。




