帝都編8
「姉さまぁっ!」
二つの涙声が重なり、少年と少女が突進するような勢いで、しゃがみ込むナターシャに抱きつく。
「……ノースリス、ニネア……」
自分の胸に飛び込んできた愛しい存在、弟と妹を抱き締めるタスタルの元第一王女も、約一年ぶりの再会に感極まり、あふれ出る涙を止めることができなかった。
大宰相の執務室から退出した一同は、皇宮の一角、人質たちを監禁している区画に足を踏み入れた。
ここでアーシェアはイリアッシュに先導されて別れ、ナターシャはフレオールの案内と計らいで、こうして弟妹との再会を果たすことができた。
ちなみに、シィルエールとミリアーナは言うまでもなく、ティリエラン、クラウディア、フォーリスも感動の再会シーンに立ち合っている。
泣きじゃくる弟と妹を抱き締める感触は暖かく、これが夢ではないことをナターシャは強く感じる一方、
妹の指が数本、歪な形となっていることに、涙で歪んだ視界で気づくと、悪夢がまだ終わっていないことを認識せずにいられなかった。
「……うぐっうぐっ、姉さま、ボクたち帰れるんだよね?」
「…………」
涙と希望の混じった声で、弟の、タスタルの元王太子ノースリスの問いに、姉はしかし何とも答えられず、唇を噛み締めて二人をより強く抱き締めた。
一応、ノースリスに関しては解放の方向で話が進んでいるが、まだ正式な決定が下されていない。そして、妹のニネアの方は、解放の目処が立っていないのが実状だ。
さらに妹に関しては解放以前の不安要素があり、
「それよりも、ニネア、体の方は大丈夫ですか?」
「……はい。指はもう大丈夫です。痛みはありません」
ぎこちなく指を動かしながら、ニネアはぎこちない笑みを浮かべる。
もちろん、ナターシャが心配しているのは、妹がアーク・ルーンの総参謀長に気に入られたことである。
有力者の不興を買えばどこまでも理不尽な目にあう反面、有力者の歓心を得られればそうした理不尽を回避でき、その一例が旧タスタル王家であった。
去年の今頃、第九軍団とザゴンの嗜好によって、ノースリスとニネアは連れ去られただけではない。金貨六十一万枚などという途方もない要求を突きつけられた。
疲弊と混乱の極みにあったタスタル王国に支払える額ではないが、未払いとなればニネアは殺され、ノースリスは手足を切り落とされていく。だが、やはりどうにかなる金額でなかったそれは、総参謀長の一声であっさりとチャラになった。
さらに総参謀長の意向を汲み、タスタル王国にはリムディーヌの第十二軍団が派遣されたので、ザゴンはタスタルから手を引っ込め、こうして弟や妹と生きて再会できたからといって、万事がめでたしめでたしというわけではない。
だが、タスタル王家がザゴンのオモチャとして、完全に壊れるまでもてあそばれずにすんだのは、ニネアが総参謀長の嗜好と合致したからであり、まだ幼い妹がどのようにもてあそばれたかと思うと、ナターシャは妹の体も心配だが、精神面もより心配せずにいられないというもの。
親友を初め、心の壊れた王女の実例を何人も見ており、タスタルの元第二王女があのようになっていないか気が気でない姉に、
「ナターシャ殿。ちょっとちょっと」
手招きをするフレオール。
無論、相手が何やら内緒話があると言ってきているのは、考えるまでもない。そして、この中でアーク・ルーンの総参謀長について、最もよく知っているのはフレオールなので、その内緒話の内容が妹の身に起きたことであるのは、想像に難くない。
妹をどう慰め、今後、どう配慮するかを考える上で知っておかねばならないことであろうから、ナターシャは二人に「少し待っていなさい」と言い、フレオールの手招きに応じる。
総参謀長の性癖は公然の秘密のようなものだが、ニネア当人はもちろん、可能な限り内密にしておくべきことなので、フレオールは少し離れた場所に移動し、シィルエールとミリアーナに耳をふさがせてから、ナターシャに耳打ちをする。
「まあ、理解できない話だろうが、総参謀長殿は、幼女の肉体そのものには興味がない。その、何というか、小便をまあ、こよなく愛しているそうだ。愛飲するほどに」
正直、聞きたくも知りたくもない内容と性癖だが、妹のことを思えば理解しておかねばならないことである。
「つまりは、妹は、その、何といいますか……」
「結論から言えば、指一本とて触れられていないから、安心しろ。まあ、一滴、残らず飲み干しているかも知れんがな」
実質的には実害がないとはいえ、その特殊な性癖は受け入れ難く、ナターシャは複雑な表情となる。
「あと、何でも、ナチュラルな味わいにならんとかで、本人にわからないように尿を採取しているそうだ」
「……わかりました」
そう答えるものの、ちゃんと理解してのものではない。ただ、彼女が理解すべきは、忌まわしい総参謀長の性癖は水面下で行われ、当のニネアは体はもちろん、心にも別段、爪痕が残っていないという点だ。
何も知らない、何もなかったと振る舞うべきというフレオールの忠告が伝わり、ティリエランに面倒を見てもらっている弟と妹の元にナターシャは戻る。
「どうしたの、姉さま?」
無邪気なノースリスの問いに、姉は何とごまかすべきか考えていると、
「なに、弟と妹を先に帰すこともできるって話をしていただけだ」
フレオールが真相を闇に葬るのに舌を動かす。
「えっ! 帰るなら、姉さまと一緒に帰りたい!」
「私も姉さまと一緒の方がいい!」
即座に弟と妹は声を上げ、姉の体にぎゅっとしがみつく。
無論、ナターシャも両親の元に三人で帰りたいが、
「わかったわかった。時間はかかるが、そうなるように手配しよう」
「大丈夫なのですか?」
フレオールの口約束にそう問いたかったが、喜ぶ弟妹の前で口にできるものではない。
また、フレオールが何の目算もなしにいい加減なことを言わないくらいは、これまでのつき合いで理解している。
「……では、フレオール卿。ぜひ、お願いします」
「お願いします」
姉が頭を下げると、ノースリスとニネアもそれに倣う。
「了解した。それと、今夜からの宿だが、皆にはオレの実家に来てもらうつもりだが、ただ、そこの二人は皇宮から出せない」
二人とは当然、ノースリスとニネアのことである。
元タスタル王国の王太子と第二王女は人質ゆえ、皇宮どころか部屋から出ることも許されない。
「が、ナターシャ殿がこの部屋に泊まるようには計らうことはできる」
「ぜひ、そうしてください」
ノースリスとニネアがいた部屋は、上等だが古びたベッドが一つと、最低限の家具があるだけで、狭くはないが、それも余計な物がないせいであろう。
元々、皇族か貴族が使っていた一人部屋が内戦の際に空き部屋となり、人質部屋として流用した一室が、ノースリスとニネアのいる部屋である。
元が一人で使っていた部屋であるが、一人用にしては大きめなベッドであるので、女ひとりと子供ふたりで何とか寝れないこともない。
もっとも、ベッドどころか、弟と妹がいるのが牢屋であっても、ナターシャは判断を変えることはないだろうが。
「では、この部屋に運ばせる料理を一人分、増やすように手配しよう。急に三人分、一人は病人だが、二人分は少なくなるはずだから、材料に余裕はあるはずだしな」




