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暴竜編90-1

「はうううんっ」


 タスタル王宮の廊下にて、執事服を着た初老の男性が、短剣を振り上げ、間の抜けた気合いを声を発しながら、ナターシャの前に立ちふさがった。


 タスタル王国に仕えること二十年、ナターシャの生まれる前よりこの王宮で先日まで忠実に働いてきた人物までもが王族に刃を向ける、それがタスタル王国の現状であった。


 もちろん、タスタル王国に刃を向けているのは、この執事だけではない。他の使用人も、何よりタスタル兵の大半が暴徒の側に与してしまい、現在のタスタル王宮は裏切り者と、裏切り者の手引きで引き入れられた暴徒が、王宮のあちこちで貴族や騎士、そして忠実な兵士を数の力で圧倒し、血祭りに上げていた。


 何万もの暴徒に対してタスタル兵の数は少ない。その少ない兵を王宮の守りに集中させたがゆえ、とても他の所まで兵が回らず、治安と守りに不安を抱いた貴族たちは家族を王宮に避難させたため、現在のタスタル王宮は収容数を越える人間がいる。


 つまりは、兵士の家族を収容するゆとりは一人とてタスタル王宮にはなく、それが現状の苦境の原因となった。


 兵士の家族は市街地で暮らしている。暴徒にとって彼らは敵の身内であり、人質とすれば、敵の守りが薄くなる上、自分たちの戦力増強につながる。


 いかに竜騎士の力が強大とはいえ、わずか六騎では王宮全体を守れるものではない。しかも、タスタル兵の大半に加え、王宮の使用人ら家族を人質にされ、暴徒に協力するようになった今、ナターシャも他の竜騎士らも、王宮の外で乗竜を駆っていられる戦況ではなかった。


 ライトニングクロスの背中より飛び降りたナターシャは、矛を振るい、雷撃を放ち、全身を返り血で染め上げるほど、王宮を駆けながらもはやためらいなどなく、タスタル兵や暴徒をとなく薙ぎ払ってきたが、子供の頃より親しく接してきた執事と相対すると、さすがにためらわずにはいられなかったが、それも数瞬のこと。


「ハッ」


 相手は所詮、身の回りのお世話に長ける素人。ナターシャは軽く矛の柄で後頭部を打ち、気絶させて、王族の私室がある一角、家族の元へと再び走る。


 ナターシャにとって不幸中の幸いは、王宮に踏み込んで来たのが、正規軍ではなく、暴徒の群れであった点だろう。


 タスタル王宮に攻め入ったのなら、まず何を置いてもタスタル王の元に向かい、その身柄を確保するのが常道である。もちろん、王妃や王太子、王女など、身分の高い者をなるべく多く捕らえるように動くべきであるのも言うまでもない。


 暴徒らは皆、平民であり、王宮に入るのは誰もが初めてだ。その絢爛豪華な様に圧倒されていた暴徒たちだったが、彼らが立ち尽くしたのもわずかな間で、すぐにこれまで押し入った商人や貴族の館と同様、手当たり次第に略奪を始めただけではない。


 タスタル王宮には避難した貴族たちであふれ返っている。金品を手にしていない暴徒らは彼らに襲いかかり、手当たり次第に男は殺し、女は犯すことにも熱中した。


 そうした規律も秩序もあったものではない行動が遅滞を招き、ナターシャが暴徒が押し寄せるより早く、父王の部屋の前まで来た時には、護衛である五人のタスタル騎士が、二十人ばかりのタスタル兵と戦っていた。


 多勢に無勢ながら、王の護衛に選ばれるだけあって、騎士たちは裏切り者たちの凶刃に傷だらけになりこそすら、懸命に踏ん張っているところに、ナターシャは矛を振るって斬り込んでいく。


「ハアアアッ!」


 家族を人質に取られ、やむを得ない裏切りかも知れないが、己の家族を案じる王女にそれをおもんばかる余裕はなく、二十人のタスタル兵に次々と矛を叩きつけ、あっという間に血まみれの骸にしてのける。


「……で、殿下。陛下と王妃様たちは、ご無事にございます」



「ああ、よく守ってくれました。礼を言います。あなた方は休んでいてください」


 傷だらけの騎士の一人が荒い呼吸でそう告げると、ナターシャは心から五人の忠義に礼を述べ、労ってから、父王の私室の扉を開ける。


「姉様っ」


 部屋に入るや否や、まだ幼い弟と異母妹がナターシャに飛びつくように抱きつき、震えていた父王と二人の母親、王妃と第二夫人は安堵の息をもらす。


 返り血で染まるナターシャは、開いたままの扉から見える廊下の惨状が弟妹に見えぬよう、身体の位置を微妙に動かしつつ、


「父上。残念ながら、王宮は留まれぬほど危険な状況となりました。わたくしのライトニングクロスでまずはここより脱し、身を落ち着けてから、次のことを考えましょう」


「……そうか、そうなってしまったか。いや、この期に及んで、グチをもらしても詮ないことか。もはや、何の意味もない地位かも知れぬが、それでもタスタルの最後の王として、その役割を全うする……いや、正直に言えば、妻や子には無事でいてほしい。そのためには、何とそしられようが、この場より脱するしかないか」


 まだ四十代の父王が、十は老け込んだ声と仕草で嘆息する姿に、娘は胸を痛めながらも、もはや彼女にも父王の心痛を和らげる術はなかった。


 彼女にできるのはただ一つ、


「ハアアアッ!」


 矛を振るい、窓の一つを破壊し、念話で壊れた窓のすぐ前に乗竜を移動させる。


「さあ、早く乗ってください」


 いつ裏切ったタスタル兵や暴徒が現れるかわからない。ナターシャは強い口調で促し、おっかなびっくりの家族を何とか乗竜の背に乗せると、


「さあ、あなた方も来てください」


 次に部屋の外に座り込む五人のタスタル騎士らも脱出させようとする。


 が、騎士らは皆、首を力なく左右に振り、


「今の我らでは同行しても足手まといとなります。それに、陛下らが無事に脱することができるのならば、勝手ながら我らは家族の元に向かいたいと思います。どうか、そのご許可をくださいませ」


 最後に頭を下げる彼らの心情は、今のナターシャには痛いほど理解できた。


 ナターシャは乗竜の背から降り、ここに来るまで、暴徒やタスタル兵を数十人と倒したが、王宮に侵入した敵を皆殺しにしたわけではない。


 当然、ナターシャが倒していない敵は何百、何千とおり、王宮に侵入した暴徒は略奪に走るか、貴族たちに襲いかかるかしている。


 そして、後者の被害者たちの上げる悲鳴や助けを求める声を、ナターシャはいくつも耳にしたが、それらに応じることなく家族の元へと走り続けた。


 五人のタスタル騎士が家族の元へと向かいたい心情は、ナターシャにはよくわかる。むしろ、とっとと家族の元に向かわず、自分の家族を守ってくれたことに、タスタルの王女は頭の下がる思いだ。


 おそらく、今から家族の元に向かおうとしても、途中で暴徒の群れと出くわすだろう。傷だらけの彼らが圧倒的な数を斬り抜けられる公算は無に等しい。


 仮に、家族の元にたどり着けたとしても、すでに暴徒がなだれ込んでいる状況だ。無事な家族の姿を見ることができるかどうか。


 当の騎士たちもその点を理解しているだろう。だが、ここまで祈りながら駆けて来たナターシャには、わずかな望みがある限り、足を動かさずにいられない心境も理解できるのだ。


「……わかりました。父たちを守ってくれた点に、心からお礼を言わせてもらいます。そして、その忠義に何も報いることができぬ点に、心より申し訳なく思います。今、わたくしたちにできるのは、あなた方の望む点に応じることだけです。ナターシャの名において許します。今よりあなた方の剣はあなた方だけのものです」


「ありがとうございます。それでは、陛下と共にご壮健であってください」


 五人のタスタル騎士は一礼するや、やや頼りない足取りで去って行く。


 ナターシャは遠ざかる背中に頭を下げてから、乗竜の背で待つ家族の元へと向かう。


 生まれ育ったタスタル王宮から逃げ出すために。


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