過去編105-4
発言を封じられた形で、異母兄の前から去ったフレオールは、皇宮の廊下を共に歩むトイラックの横で、物言いたげな表情をずっと維持したままだったので、
「どうかされましたか、フレオール様?」
頃合いと周りに人気がないのをさりげなく確認してから、不満の聞き役を務めようとする。
身内が振り回す世界情勢に、どんな感想を持っているか、だいたい察していながら、わざとらしく水を差し向けてくることにため息をつきながら、
「トイ兄に問うまでもないけど、大兄の世界征服事業が正しいのか、と思ってね」
「たしかに、わかりきっていることですね。ネドイルの閣下のなされようが間違っているなど。ワイズの一事を見ても、平穏に暮らしている国に攻め入り、彼らの生活をかき乱したのですから、向こうからすればたまったものじゃないでしょう」
平然と自らの正義を否定する。
ミベルティン帝国のように、腐敗と混迷の果て、半ば自壊していくように、アーク・ルーンに攻め滅ぼされた国もある。だが、ワイズ、否、七竜連合は多少の不公平ややや税が重めだが、きちんとした政治が行われ、民は平穏に暮らしている。
七竜連合の側からすれば、アーク・ルーン帝国の軍事行動は無用の戦乱と流血をもたらすだけのものでしかない。しかも、統治に問題がないがゆえ、謀略で国と民が対立するようにもっていこうとしているのだから、かなり悪質な侵略者と言えるだろう。
「単純に、ワイズの地で失われた命の数は六万を越えるそうです。その結果、私の大先輩がた数人が役職付きに昇進し、大恩人たるネドイル閣下が満足された。得たものはそれだけではありませんが、流血の量に見合う成果をあったかなど、明白でしょう。フレオール様が気にしているのは、死んだ六万ではなく、生きている二人でしょうが」
トイラックの指摘と洞察は不愉快だが、フレオールもその正しさを認めるより他ない。
自分の余計な発言が引き金になったとはいえ、イライセン父娘の不幸の根本的な原因は、祖国アーク・ルーンの、否、異母兄ネドイルが主導する理不尽な侵略行為にある。
ムカつくだの何だの、そんな一個人の身勝手な理由で一国が滅び、数多の不幸が生まれた。その一つが間違いなく、一組の父娘の関係と心の破綻した姿だ。
何より、フレオールが腹立たしく、理解不能なのは、異母兄がイライセンが可哀想と思いこそすれ、まったく自責の念を抱いていない点だ。
おそらく、ネドイルはイライセン父娘の壊れた姿を、またワイズの地で自らの侵略や謀略によって苦しむ人々の姿を見ても、悔いる色は見せることはないだろう。近年、大宰相が激しい後悔の念に苛まれたのは、サリッサ手製のパジャマを破った時くらいのものだ。
フレオールからすれば、同じ父親の血が流れているどころか、怪物の血でも引いているのか、と思いたくなるほど、異母兄の考え方と価値観が理解できないが、そうした独特の思考の持ち主ゆえ、まだ言葉や常識が通じない点、理解できないことを理解できないのは納得できる部分もある。
それに比して、ちゃんとしたマトモな価値観があるにも関わらず、イライセン父娘の不幸や、ネドイルの異常性を割り切れるトイラックの方が、フレオールにはその心の動きが理解できなかった。
「トイ兄の言うとおり、イライセン卿らの姿を見て、大兄が間違っている、今まで目をそらしていたことに、少し目を向けるようになった。オレ自身、罪悪感で、大兄を非難して自らの呵責を軽くしようとしているのかも知れない。ただ、トイ兄はイライセン卿らの姿を見て同情もしていれば、ネドイルの大兄が間違っていることを改めて認識しているはずだ。なのに、今の間違いを、どうして肯定できるんだっ?」
「ネドイル閣下がゴハンを食べさせてくれたからですよ」
熱が帯びた声に、対照的なまでに静かな声があっさりと応じる。
が、フレオールの問いが表層の熱した程度に思えるほど、
「私は大した人間ではありませんから、手を握っている相手を守ろうとするくらいしかできません」
静かすぎる返答の芯には、妙な迫力さえ感じさせた。
平凡な好青年。そんなありきたりの外装の下には、ネドイルやイライセンにひけを取らない怪物が棲んでいるのだ。その内面が浮き彫りになると、十年に渡って接してきたフレオールでさえ、違う生き物に思っていた先日までの感想は、変わるところはない。
ただ、イライセン父娘、いや、イライセンの壊れた姿を見た今では、
「もっとも、十年前、ネドイル閣下が助けてくだされねば、妹ひとりを守ることもできなかった人間ですがね。でも、ネドイル閣下が差しのべてくれた手を取った以上、そのお役に立たねばならない、いえ、立ちたいと思った以上、無力だ、非才だ、などと言っていられません」
異母兄ネドイルとは別の意味で、そして、むしろイライセンに近い意味で、壊れているのにようやく気づく。
そんなフレオールの心中にかまわず、
「とはいえ、私がネドイル閣下にできることは、せいぜいベターな生き方をしてもらう、お手伝い程度のことですがね」
自嘲の色はまったくなく、淡々と事実のみを述べる風に己の可能な点をそう評する。
「そのベターな生き方とやらの犠牲の一つが、イライセン卿らの、あのありさまというのが……」
あくまでその点にこだわるフレオールであったが、
「そうですか? スラックス将軍のようなケースもありますよ。もっと大きな視点で見れば、ミベルティンのようなケースもあります」
その点を指摘されれば、反論の言葉はない。
アーク・ルーン帝国が攻め込まねば、イライセン父娘はワイズの地で、平穏な日々をすごしていただろう。また、ワイズの民も戦火に苦しむこともなかったはずだ。
一方、アーク・ルーン帝国に攻め込まれねば、スラックスはネドイルに見出だされず、母や妹弟と共に辛い日々から抜け出せなかっただろう。また、ミベルティンの民は重税と内乱に苦しみ続けたはずだ。
「ネドイル閣下が台頭するより以前、誰もが幸福な席にいたわけではありません。また、ネドイル閣下が台頭して以降、誰もが不幸な席に座ることになったわけではありません。幸福な席にいる者もいれば、不幸の席にいる者もいる。そんな世の在り方は、ネドイル閣下に関係なく変わっていません。ただ、その席に座る顔ぶれが変わっただけです。それとも、ネドイル閣下は全ての人間に、幸福の席を用意せねばならないと言うのですか?」
かつて、妹と共に不幸の席に座っていた青年は、皮肉っぽい笑みを浮かべる。
フレオールとて子供ではないので、誰もが幸福な世というものが絵空事であるくらい理解している。そして、トイラックがスラックスと同じか、それ以上の不幸な席に座っていたのも、聞き知ってはいる。
家族を養うために男を捨て、それゆえに家族に辛い思いさせることになり、家族思いのスラックスが味わった苦しみは、フレオールの想像の及ぶところではない。
それでもスラックスは、家族に肩身の狭い思いはさせはしたが、飢えさせることはなかった。生まれ育った屋敷も手放すことなく暮らせ、妹や弟にちゃんとした教育を受けさせてさえいる。
対して、トイラックとサリッサは教育なんて上等なものとは縁遠い暮らしをしてきた。生まれ育った小さな家は、父親の死後、すぐに維持できなくなり、路上生活を余儀なくされた。飢えで目がかすみ、倒れたことは数え切れない。
家族を、妹を思う気持ちは、トイラックとてスラックスに劣るものではない。それゆえに、妹を飢えや寒さで失いかけた恐怖や無力感を何度も何度も味わった苦しみも、フレオールの想像の及ぶものではなかった。
フレオールの想像が及ぶのは、そんな恐怖や無力感から解放された今でも、大事な存在を守るために、己の全てを費やし、他の全てを割り切る、必死に生きてきた頃の姿勢をいささかも失っていない点ぐらいだ。
妹の元気な姿やネドイルへの感謝の前では、イライセン父娘の不幸など、表層的に同情を見せるだけで、トイラックの芯に小揺れすら起こすものではない。
否、イライセン父娘の件のみならず、
「フレオール様のお気持ちはわからなくはありませんが、この場合は仕方ないことですよ。他に、この世界以外にないのですから、どうしようないじゃありませんか。ネドイル閣下にとって、手頃なサンドバックとなるものが、それのみなのですから」