過去編105-2
はい、壊れました。
「父様、これでワイズの民は救われますね」
目を輝かせ、明るい未来を信じて疑っていない娘に、イライセンは力ない笑みを浮かべるしかなかった。
昨夜、娘に起こされ、トイラックに引き合わされ、そのまま夜を徹して語り合った時は決して無駄なものではない。
相手は内務大臣、アーク・ルーン帝国の内政を司る立場にある。遅かれ早かれワイズ王国はアーク・ルーンの一部になる点を思えば、新領土ワイズについて話し合うことそのものは有益だ。
だが、それがイライセンの望む作戦の変更において有利に働くことにはならない。無論、不利に働くこともなく、トイラックの今回の行動は、ネドイルの提示した譲歩のそれに近い。
「そちらの望みに応じませんが、後でさらにフォローするからカンベンしてね」
ヅガートらが撤退した後、帰還したワイズ王らによってワイズの地は荒れ果てる。そして、ワイズ王国が真に滅びた後、トイラックはその復興に格別な配慮、新たな譲歩を示すことで、変更案が否決されても恨まないでね、とイライセンをなだめているのだ。
つまり、このままでは作戦の続行の公算か高く、ワイズの民が苦しむ点は変わりないのだが、
「トイラック様がわかってくれる方で本当に良かった。あの方の助けがなければ、どうなっていたことか。あっ、もちろん、まだ気が早いのはわかっています、父様。まだ閣議が終わってないのですから」
声を弾ませるイリアッシュは、相変わらず手詰まりな事態をすっかり楽観視していた。
いや、父親として見るところ、それだけではない。娘は舞い上がっているのに加え、トイラックの名前を口にする度に、その声に熱が帯びているのは、親でなくとも第三者なら誰でもわかるだろう。気づいていないのは当人と、よほどそういうことに鈍いのか、もう一方の当事者のみ。
ワイズを守るためと、バディンの第三王子ゲオルグとの婚約を決めた際、娘が将来の伴侶の名を口にする口調は、自分を抑えるようなもので、楽しげな響きとは無縁であった。イライセンの知る限り、幼い頃はともかく、大きくなってからは、男の名を喜色で染めて呼んでいるのは、これが初めてのはずだ。
苦しいところをというより、父親の苦悩を何とかしようと、精神的に切羽詰まっていたところを助けてもらえた。それが好意を抱くきっかけとなったのは明白だが、イリアッシュの認識は現実とトイラックのそれとは完全に異なるものだ。
そもそも、トイラックの行動は協力よりも牽制に近い。より正確には、イライセンの変更案が通ろうが通るまいが、どちらにも対応できるスタンスを築いているにすぎない。
作戦が変更された場合、元より親密な間柄のヅガートをなだめるのにトイラックは打ってつけであり、作戦が続行された場合も、こうしてイライセンと親密になった内務大臣は、新任の軍務大臣をなだめるのに適任となる。
そして、トイラックが何とかしてくれるという幻想を抱いている娘と違い、現実と現状を正確に把握している父親の方は、上の姪と同い年の若僧に言いくるめられる公算の方がずっと高いのがわかっていた。
ネドイルやトイラックはことさら意地の悪い判定をしているわけではない。イライセンの要求が元より無茶なものであり、それをくつがえすだけの交渉や説得の材料がないのだから、否決されるのが公正な判定となるのだ。
だが、不公平であろうが、不正なものであろうが、ワイズの民を助けたいというのが、イライセンの偽りのない心情だ。だから、娘の無思慮な行動を察しながらも、一人の父親として間違っているのを承知でそれを放置したが、それで知り得たのはトイラックがゲオルグの万倍も才はもちろん、公人として正しさで上回るい点に加え、ある意味でネドイル以上に説得が難しいことだ。
清廉な者が多いアーク・ルーンの高官の中で、トイラックはさらに滅私奉公という点で抜きん出てている。
作戦が変更されれば、トイラックは代国官としてワイズに派遣されることになり、形式的に左遷、降格という処置を受け、次の大宰相を狙うのに不利となる、なんてバカバカしいこと、当人にとっては心底、どうでもいい。トイラックにとって重要なのは、自己の利益ではなく、アーク・ルーンというよりも、ネドイルの利益なのだ。
仮に、イライセンへの同情なりなんなりで、ネドイルが判断を歪め、不利益な作戦の変更を認めようとすれば、トイラックは全力で、それこそ命がけで反対するだろう。
何より、トイラックが厄介なのは、強情一徹にノーを言い続ける一方で、現実的・政治的な妥協や決着を整えるだけの手腕とバランス感覚がある点だ。
現状で閣議に臨めば、ネドイルとトイラックから引き出した譲歩を盛り込んだ、作戦の続行を前提とする修正案ということでまとまるのは明白であり、それはワイズの民にとってよりマシな結果ではあるが、決してイライセンが思い描く最善の結果ではなかった。
目に見えぬ力量というものを評価し、圧倒的に立場の弱いイライセンに、ネドイルもトイラックも譲歩している。つまりは、イライセンの将来性をも加味した上での結論であり、その才幹を質入れした限度額が今回の譲歩だが、それは満額回答ではないから、イライセンとしてはネドイルからさらに譲歩を引き出さねばならないのだが、もはや彼の手元に質入れするべきものは残っていない。ネドイルの査定が甘い方であり、評価に文句をつけようもなかった。
これで文句を言ったところで、クレーム処理されるだけである。
ネドイルから貸し与えられた臨時の執務室で、秘かに浮かれる娘の傍らで、イライセンの思考が出口のない迷路、いや、もはや奈落の底へと沈みかけている時、
「イライセン卿、すいません。フレオール卿がおたずねになられていますが、どういたしましょう」
ネドイルから貸し与えられたスタッフの一人が、大宰相の末弟の来訪を告げる。
ちなみに、そのスタッフがイライセンとフレオールにつける敬称が卿なのは、両者が貴族だからだ。これが、イライセンが軍務大臣に就任していれば、あるいはフレオールが東方軍司令官から解任されていなければ、両者への敬称に閣下を用いていただろう。
「わざわざ、足を運ばれたのか」
イライセンが少し意外そうな顔をするのも当然だろう。
フレオールは自分の娘より年下だが、大宰相の一族である。異母兄の権威を思えば、呼びつけられるのが当然の立場であった。実際、イライセンはワイズで王族に何度も呼びつけられている。
もっとも、フレオールが異母兄の権威を借り、そのような傲慢な振る舞いをしようものなら、その異母兄から怒りの鉄拳や飛び蹴り、時に間接技を食らっただろう。大宰相の一族の中には、横柄にも司法大臣やメドリオーを呼びつけた結果、大宰相の怒りとフェイバリットを食らい、両腕をねじ折られたり、全身六ヶ所を粉砕された者もいる。
フレオールが訪ねて来たのは、そう大した話ではない。司令官職から解任されたとないえ、それに関する業務が解放されたわけではなく、帝都に戻って来てからその類の書類仕事をしていて、イライセンに確認しておく内容が出てきた、それだけであり、それ自体は短くすんだが、
「……何を迷っておられるのです、イライセン卿」
幼い頃から異母兄を筆頭に、一流の人材やドラゴンと接してきた若者は、生まれた時から共にいた娘よりかは、その苦悩の深さが正確に理解できてしまい、少しためらった挙げ句、思考の底なし沼に腰まで浸かった男に手を差し伸べた、つもりとなる。
「イライセン卿の悩み、僭越ながら察したところ、選択肢は二つに一つ。そこから這い出るより他にないで……」
フレオールの言葉が途中で途切れたのは、立ち上がったイライセンに両肩をつかまれ、
「他に、もう一つ、方策があるのかっ! 教えてくれ、頼むっ」
常の平静や重厚さをかなぐり捨て、目を血走らせ、若僧に必死になって教えを乞う。
取り乱したイライセンの姿に、フレオールやイリアッシュのみならず、室内にいたスタッフらも目を丸くするが、
「頼むっ、頼むっ、頼むっ、頼むっ、頼むっ、頼むっ頼むっ、頼むっ、頼むっ、頼むっ! ワイズの民を救う手立てがあるなら、教えてくれっ! どうすれば良いのだ! 守るとの約束を果たすには、私は何をすればいいっ!」
「……どんな高価な品も、ゴミがついていては価値が落ちる……がっ」
その変わり様と鬼気迫る勢いに押され、もらしてはいけない言葉をつぶやいた途端、険しかったイライセンの顔に至福の喜びが満ちる。
「おおっ、おおっ、ありがとうございます、ありがとうございますっ! 捨てましょう、捨てましょう、ゴミなぞ、もういりません!」
「なっ、わかっているのか、それは……あんたは今、オレを怒るところなんだぞっ!」
「それは人の正しさであり、人の弱さ。だから、私には関係ない。ゴミを、娘を捨てるのですから。ありがとうございまする、フレオール」
狂気で全身を満たし、人間性を捨てて怪物性へと変容した男は、迷いも葛藤もない顔と心で礼を述べると、足早にこの場より立ち去る。
「イ、イライセン卿……」
「あはっ、あはははっ、ゴミ、ゴミ、ゴミ、ゴミ、ゴミ……私はゴミ、父様にとってゴミ……ああ、父様、ごめんなさい……そして、ありがとう、ゴミを、私を捨ててくれて」
呼び止めようとしたフレオールだが、イリアッシュの狂笑と狂態がそれを阻む。
敬愛する父親に捨てられ、心が壊れた、壊れるしかなかった娘は、それでも残骸となった孝の精神に動かされ、フレオールの手をつかんで、イライセンの後を追わせんとする。
「ありがとうございます、ありがとうございます。私はこれで父様の邪魔にならずにすむ。私が、ゴミが、父様の迷惑とならずにすみます」
晴れ晴れとした、哀しいまでに美しき笑顔で、不用品となった娘は、
「本当にありがとうございます。何か、お礼をさせてください。何でもします、何でもしますから、ゴミを拾ってください」
つかんでいた手を自分の胸に押し当て、目をむくフレオールの顔に自分の顔を近づけ、イリアッシュは自分のファーストキスを手付けとする。
合わせた唇からぎこちなく舌を潜り込ませ、やはりぎこちない動きで舌を何度か絡ませ合ってから、唾液を引きながら離れると、
「あれっ……」
大粒の涙をとめどとなく流す自分に、不思議そうに小首を傾げる。
さらに、震え出した細身の体を支え切れなくなったかのように折れ、
「……助けて、父様、アーシェ姉様……トイラック様……誰か助けて……」
自然と泣き崩れる姿勢となったイリアッシュの傍らに、フレオールは片膝を突いて寄り添うが、ただ沈痛な表情を浮かべるだけで、無言で己の無力さと軽率さを噛み締めることしかできなかった。
壊れてしまったものと、壊してしまったもの、どちらも戻す術がないがゆえ。




