過去編103-2
「父に頼まれ、大宰相閣下の元に書類を届けに来ました」
「そうでございますか。それはそれは、遅くにご苦労様でございますな」
書類を抱えるイリアッシュに、サクロスの甲高い声に不審な響きが混じるのは、時刻が時刻ゆえ、当然の反応であろう。
広大な魔法帝国アーク・ルーンの中枢部である皇宮では、膨大な政務をこなすため、どの部署でも時おり深夜残業に勤しむ光景が目につく。その中でも行政と軍事の最高責任者たるネドイルは夜が更けた今の時分も、仕事をしていることが多く、今日も大宰相の執務室から明かりがもれている。
ただ、各部署からの連絡なり届け物なりは日中にすませるのが基本で、緊急の案件以外は翌日に回すのが慣例となっている。
ネドイルの世話係である官宦のサクロスがいぶかしげな顔をするも、
「父に、この時間に、ネドイル閣下の元に行くように言われたので……」
頬を赤くして、うつむくイリアッシュの言葉に、一転して得心する。
書類うんぬんは口実で、大宰相に娘を抱かせて取り入ろうとする。別段、珍しくない話であり、サクロスはこのような場合、相手を通して、判断をネドイルに任せるのだが、
「わかりました。ただ、規則なので、失礼します」
断りを入れてから、懐から小さな水晶球を取り出す。
敵意や害意を感知する『マジカル・エネミィ』という魔法がある。サクロスの手にする水晶球には、その魔法の効能が秘められており、イリアッシュにネドイルを害する気持ちがあれば、半透明の水晶球は黒く染まる。
ネドイルはイライセンと十年ぶりの再会を果たす際、娘の同席を許しただけで余人を交えなかった。
たしなみ程度の父親と違い、イリアッシュの強さは言うまでもない。その気になれば、イライセンはネドイルを娘に殺させることができたか、実は微妙なところだ。
イリアッシュに及ばないまでも、ネドイルはフレオールよりはわずかに強い。圧倒的な実力差があり、数合でカタがつくならともかく、そうでないなら騒ぎを聞きつけて衛兵なりが駆けつけてくれば、たちまちネドイルとの間に人の壁ができ、その首に届かなくなるだろう。
無論、うまく不意を打てば、大宰相が討つことも不可能ではない。ただ、それもイリアッシュの攻撃が届けばの話だ。
相手は魔法帝国アーク・ルーンの実質的な最高権力者である。その身に護身用のマジック・アイテムを着けていてもおかしくない。そして、シィルエールくらいの知識がないと、ネドイルの格好を見て、どれがマジック・アイテムであるか判別できるものではなかった。
何より、イライセンはネドイルの暗殺を下策と考えている。それは成功してもワイズの民の血が大量に流れるからだ。
今、ネドイルが急死すれば、アーク・ルーン帝国は混乱の極みに陥り、七竜連合は滅亡の危機を回避でき、ワイズ王国も復興の時を得られるだろう。
だが、その混乱の中でワイズから速やかに撤退することになるヅガートが、アーク・ルーン兵らにワイズの民を大量虐殺させるのは明白だ。
イライセンがネドイルを殺した報復を計る、わけではない。大宰相の死で、兵が不安を抱き、動揺するであろうから、ワイズの民を殺させることで、兵を血に酔わせて動揺を鎮めさせる。つまりは、老若男女を問わず、ワイズの民の命を鎮静剤代わりに使うだけの話だ。
味方と風俗嬢の命以外、ヅガートにとってはどうでもいいものだ。味方のプラスになるなら、ためらわずに何万何十万の命を奪うであろうし、王都タランドを色街を除いて灰塵に帰すことも辞さないだろう。
そのような暴挙、普段なら止めるクロックも、ネドイルを心酔しているだけに、下手人がイライセンやイリアッシュと伝われば、ヅガートよりも過激な意見を出し、より多くの血を求めかねない。
そうした懸念を父より説かれているためか、イリアッシュにかざされた水晶球は黒く変わることはなかったので、サクロスは深く一礼して彼女を通す。
サクロスに軽く一礼し、大宰相の執務室に向かうイリアッシュの表情は硬い。深夜、男性の部屋に単身で赴き、嘆願する。それがどういう意味かを考えれば、婚約者はいたが、男を知らぬ身である以上、顔が、いや、全身が強張るが、その歩みを止めることはしなかった。
敬愛する父の苦悩する姿を思えば、体と心がどれだけ震えようと、進むより他にないのだから。
サクロスに止められた地点から目的の場所、ネドイルのいる所まで大した距離ではない。当人がどれだけ長く感じようが、実際にはわずかな時で、このような時刻に扉の隙間から明かりのもれる部屋の前にイリアッシュは立つ。
「イライセンの娘の……」
「用事があるなら、入れ」
軽くノックをするイリアッシュの言葉をさえぎり、ネドイルから簡潔かつ簡単に入室許可が出る。
ネドイルの声音に愛想は無いが、このような時刻にたずねてきたことへの不機嫌さは感じられない点に、極度の緊張状態にあるイリアッシュに気づく余裕はない。
心にゆとりがまったくない今の彼女には、入室の許可を得られた点しか理解できなかったが、
「……失礼します」
それのみがわかれば、覚悟を決めたイリアッシュは、震える足と心を抑え、扉を開けてネドイルへの前へと進み出る。
決心が鈍らぬよう、これから自分の身に起こることを想像しないように努めながら。
次の更新は、話的に二話連続でいこうと思っています。




