過去編99-2
「おお、イライセン卿、よう来られた。十年前に一別してより、このような形で再会を果たせたこと、オレ自身は心より嬉しく思うぞ。十年前と同じ言葉を繰り返すつもりでいるが、あの時と違った返事をもらえると期待して良いか?」
鋭い視線、威厳のある風貌、張りはあるが重い声質は、支配者として振る舞うには最適であったが、親しげに話しかけるには不向きなものであった。
魔法帝国アーク・ルーンの帝都、その皇宮にある大宰相の執務室に置かれたソファーで、ネドイルとイラ
イセンは今、約十年ぶりの再会を果たしている。
言うまでもなく、十年前とはイライセンの立場も事情も異なり、
「それは私を軍務大臣として招きたいというものでしょうか?」
「なっ……」
父親の隣に座するイリアッシュが、思わず驚きの声をもらすのも当然だろう。
閣僚の首座たる国務大臣だった父親を一閣僚の軍務大臣として迎えるというのは、冷遇を意味するものではない。アーク・ルーン帝国とワイズ王国では、国の規模が違いすぎる。そもそも、降伏して間もないイライセンを大臣の一人として迎えるなど、厚遇以前に非常識ですらある。
だが、史上、類を見ない大帝国を築いた男は、
「おっと、すまんすまん。報告書に目を通したというのに、貴殿の功績を失念していた。これでは十年前と同じ待遇では失礼であるな。この度の恩賞も加味し、領地二万戸と金貨二十万枚を用意させよう。無論、これはイライセン卿個人へのものであり、手柄を立てた貴殿の部下らには、別途、恩賞を用意する」
「…………」
娘が絶句するほど、破格などというレベルで父親が高く評価されたが、
「ネドイル閣下、無理を承知でお願い致します。地位も富も領地も、何もいりません。私が伏して願うは、ワイズの民に害が無き処置のみでございます。それをかなえてもらえれば、その恩義にこの一身、持てる全てを以て報いる所存です」
イライセンの全身全霊を賭した懇請に、ネドイルの表情は困惑したものとなる。
「現地の情勢を聞き知る限り、それは難しい、いや、ハッキリと言えば、不可能だ。誤解してもらいたくないが、イライセン卿の才幹を軽視し、貴殿の要請をはねのけているわけではない。だが、貴殿の要請に応じるには、我が軍の作戦を大きく変えねばならん。何年もかけて立てた作戦を、だ。現地にいた貴殿の方が、ワイズの情勢がいかに危ういか、承知しているだろう」
「アーク・ルーン軍が民を害さずにいる点、深くお礼を申し上げます。が、ワイズの民はワイズという国を失われていく現実に混乱し、少なくない者が暴挙に走るのは明白。それを見越して、一時的に撤退すると共に、戻って来たワイズ王らに暴政を行わせ、国と民との信頼関係を壊してから、再度の侵攻で土地と共に民の心も得ようとする策、充分に承知しております。しかし、その策が行われた場合、ワイズ王らの重税と労役に民が苦しんだ挙げ句、暴政に反抗する民が出るのは必定。ワイズの竜騎士にワイズの民が殺される、悲しむべき光景がなされるでしょう」
「ワイズの民が反抗して殺されるのは、我が軍が留まっても同じだろう。あるいは、バディンなどに煽動される分、より悲しむべき光景がなされるかも知れん」
いかにアーク・ルーン軍が紳士的に振る舞おうが、所詮は侵略者、ワイズの民に良く思われるわけがない。
そうした悪感情に対して、バディンなりが工作員かワイズの貴族を使って煽動して回れば、ワイズの民はアーク・ルーン軍に襲いかかるようになり、ヅガートらも力ずくでその反抗を排除するようになれば、際限のない泥沼の闘争となっていくだろう。
「いえ、ワイズ王らは民衆をただ武力で抑えようとするだけでしょうが、貴国は力ではなく、政治的に民衆を鎮めようとするでしょう。ならば、同じ血が流れるとしても、どちらがワイズの民にとって良いかは明白です」
「我らを高く評価してくれるのはありがたいが、ヅガートらだけでは、ワイズの民を敵に回してうまく立ち回るのは無理だ。煽動されていきり立った民衆の鎮撫はそうカンタンなものではない」
とにかく、感情的になって暴走した民衆というのは始末に悪い。
何人かを見せしめに殺しておとなしくしてくれる内はいいが、そうして蓄積した恐怖が怒りで弾けると、民衆は濁流より危険な存在になる。
十万の軍勢など、ワイズの民に比べれば大した数ではない。人の力で大河の流れをせき止められないように、ヅガートやクロックらがいかに優れていようが、一度、怒りに我を忘れた民衆の勢いを止めるのは至難の業だ。
無理にせき止めようと虐殺に走れば、何年、いや、何十年にも渡ってワイズの民を力ずくで抑えねばならなくなり、さらに東に兵を進めるのが難しくなる。
反抗的な民衆を最低限の流血で抑えつつ、民心を得ていく。ワイズの民を牽制するだけなら、兵員を大幅に増強するだけでいいが、問題は対七竜連合への切り札として用意しているマジカル・ウィルス『ドラゴン・スレイヤー』の使用時期と効能だ。
七竜連合がドラゴン族の援軍を得た場合は『ドラゴン・スレイヤー』を用いねば勝てないのだが、これを使用した場合の効果が問題だ。
あくまでドラゴンを狂わす魔道兵器であって、操れるわけではない。狂ったドラゴンは七竜連合にも襲いかかれば、アーク・ルーン軍にも襲いかかるだろう。
当然、狂ったドラゴンはワイズの民も例外としない。そして、狂ったドラゴンからワイズの民を守るには、タスタルとフリカとの国境全線に兵を配さねばならない。それも、不意のドラゴンの来襲を見逃さず、防げるであろう精兵だ。
ざっと試算したネドイルは、それには最低限、五個軍団を必要とする解答を脳内で弾き出してうんざりした。
東部戦線には、他に第九、第十軍団がいる。この二つの軍団は南東方面に進軍する予定だが、まだそちらの国々と戦端を開いていない。
第九、第十軍団をワイズへと転進させるならば、南東方面の作戦を白紙にすることになり、それはそれで痛いが、それよりもネドイルにとって頭が痛いのは、三人の軍団長の人間関係である。
第十軍団の長であり、ネドイルやフレオールの父親であるロストゥルのことを、ヅガートは嫌っている。もっとも、その理由は貴族だからというものであり、ネドイルやフレオールと同じく嫌っているというもので、深刻な憎悪を抱いているわけではない。ヅガートに関しては、ワイズの駐留継続という不利な作戦を納得させる方が難しいだろう。
第九軍団の長であるフィアナートはヅガートのことを嫌っている。正確には、会う度に口説いてくるわ、やらせろと迫ってくるわ、先っぽだけでいいからと拝み倒してくるわなので、とことんウザがっているという方が正しいが。
もっとも、個人的な反目は、ネドイルが間に入ってなだめれば、まだ何とかなりはする。だが、この上に二個軍団を都合するとなると、他の戦線にどれだけ悪影響を与えるか。
西部戦線は動かせない。こちらには二個軍団しかいない上、大陸の中央部を横断させることになるので移動距離が長くなりすぎる。
北部戦線に展開させている第二、第四、第五軍団の内、第二軍団のシャムシール侯爵夫人は指揮官の能力的に竜騎士に対処できるか、難しい。第四軍団のサムは能力面では問題ないが、ワイズの民に酷い略奪は働くだろうから、論外。第五軍団のスラックスも能力面は問題はなく、非道なマネをする人物ではないからこそ、サムと組ませたと言える。
過去に、サムの命令で略奪を働こうとする第四軍団の前に、スラックスは第五軍団を展開させて民を守ったことがある。シャムシール侯爵夫人ではサムを押さえることができない以上、スラックスを北部戦線から外すと、サムの略奪で北の民が苦しむことになる。
南部戦線で展開しつつある四個軍団の内、第六軍団のレミネイラは作戦的に絶対に外せない。第三、第八軍団の長はシャムシール侯爵夫人と同じ理由で、ヘタに派遣するとヅガートらの足を引っ張りかねない。だが、そんな第三、第八軍団ゆえ、リムディーヌの第十二軍団のフォローがないと、どれだけ精霊戦士たち相手に犠牲を出すか。
だが、そうして無理を重ねてもまだ足りず、
「ともあれ、敵は早ければ春には連合軍を再び組み、ドラゴン族の助勢を得て攻め込んで来るかも知れんのだ。それまでに我が軍は兵を増強するのみならず、ワイズの民をおとなしくさせ、かの地を治めねば、我らは内と外を同時に対処せねばならん。しかし、クロックでも、ワイズの混乱を察するに、民衆を鎮めるのに一年は時を必要としよう。イライセン卿はタイミング的に混乱を拡大させることになりかねんし、オレ自身が出向ければいいが、何かとうるさいことを言われ、止められかねんのだ」
クロックは文官としても有能だが、春までにワイズの民を服させるとなると、さすがにその力量でもかなり厳しい。そして、クロック以上に軍事に精通し、文官として上回る才幹の持ち主となると、かなり限られて来る。
イライセンではクロック以上に混乱を長引かせる危険性がある。これは能力の問題ではなく、祖国を裏切った点がネックとなるのだ。なまじ、ワイズの民は国務大臣を強く慕っていただけに、裏切られたという想いが、どれだけの反発を招くか予想がつかない。混乱を鎮めようとして、新たな混乱を起こしたのでは本末転倒である。
ネドイルは腐敗と混迷の果てに滅亡したミベルティン帝国に乗り込み、たちまち治安を回復させ、民政を安定させた実績と能力があるが、その頃とは立場というよりも、そもそも人材の充実度が違う。
ミベルティンを征服した際は、ネドイルぐらいしか大規模な復興策を企画、実行できる人材がいなかったが、今はその時より人材がずっと充実している。そして、人材が増えた分、口うるさい側近も増えたので、彼らは大宰相がワイズに赴こうとするのを口を揃えて止めるだろう。
その中でも、大宰相に最も反対意見を述べるのは、意外にもトイラックであったりする。司法大臣はネドイルを嫌い抜いているだけに、必要最低限しか口をきこうとしないので、不仲ゆえに口論が少なくすんでいる。
対して、ネドイルへの真情や忠心にもあふれているトイラックは、
「自分の命ひとつでネドイル閣下の誤りが直るなら安いもの」
そういう姿勢で諫言するので、さすがにアーク・ルーンの最高権力者も改めるしかないのだ。
何より、ネドイルが自ら立てた策略や政策を見て、補足点や改善点に気づけるのは、主にトイラックしかいないという理由もある。
「無論、ネドイル閣下のご出馬など、無理な話なのは理解しております。それなら、トイラック閣下にワイズの地の内政を見てもらうわけにはまいりませんか?」
イライセンの出した人名に、ネドイルの困惑の色は深くなる。
たしかに、トイラックならば能力的な問題はクリアしているが、ネドイルは深々と嘆息しながら、
「イライセン卿、あまり自分の都合ばかりを言われても困る。トイラックは内務大臣であり、代国官としてワイズに派遣するとなれば、左遷、降格となる。そのような処分を受けるだけの失策をおかしたならともかく、トイラックはこの国の内政に確実に業績を挙げ、民と国に貢献しているのだ。功に罰で報いては、あやつ個人の不幸に留まらず、我が国は都合によって正当な評価を無視し、不当な人事を行うという誤解の元になりかねん。それで官吏らの不信を招き、やる気を削ぐことになったら、結局は民の迷惑となろう」
もちろん、大宰相の口にする不安材料は不正直なもので、この一事だけでそのような大事にはならないだろうが、別の大事になる可能性がないわけではない。
次の大宰相の候補と目されているのは、内務大臣のトイラックと財務大臣のヴァンフォールだが、両者は極めて仲が良く、ネドイルの後継者にならんと派閥争いをしているわけではない。だが、二人の部下たちはそこまで互いを理解し、友情を育んでいないので、それぞれの上司は内輪もめを起こさないように気を配っている。
そんなところにトイラックを左遷や降格にしたように思われる処置を取ればどうなるか。トイラックの部下たちを刺激して要らぬ騒動が起こるかも知れないだけではなく、周りからヴァンフォールが後継者に選ばれたと早合点されて、面倒な事態に発展するかも知れないのだ。
特に、ネドイルの台頭で没落したり、不遇を囲っている皇族や貴族が、見苦しく躍り狂って、どれだけ目障りなことをしてくれるか、わかったものではない。
「トイラック閣下に不名誉を負わせる点、一生をかけて償わせてもらいます。他の問題も、全て私が対処します。どうか、作戦の変更をお願い致します」
「何度、頼まれようが、頭を下げられようが、無理なものは無理だ。とはいえ、イライセン卿の同胞を想う気持ちは伝わった。そこで、特別に、ワイズの民に生じた損害、このネドイルの名を以て、全て保障しよう。これで納得してくれぬか?」
ネドイルの出した譲歩に、しかしイライセンは引き下がらず、
「物はまだ失っても代わりが用意できますが、失われた命の代わりはどこにもありません。どうか、ワイズの民をお守りください」
「そうか。ならば、仕方ないな」
一途な嘆願を繰り返された大宰相は、未来の軍務大臣についに根負けする。
困り果てたネドイルは、
「では、イライセン卿の申される内容については、閣議にて検討しよう。何人かスタッフをつけるゆえ、イライセン卿には閣議に計るための新たな作戦案を提出してもらいたい。もちろん、貴殿には軍事機密に接する権限も与える。東部戦線の作戦の維持か変更かは、その閣議で可否を決める」
「お待ちください、そのようなこと……」
「貴殿の心配はわかるが、どのみち、オレがここでうなずこうと、作戦の変更案が無ければ、現地のヅガートらに指示も出せん。また、変更案の内容がお粗末なものなら、オレが強権を振るおうが、周りから反対されて撤回することになる。何より、オレ自身、具体的な変更案を見なければ、ちゃんと賛成も反対もできん」
「……わかりました。そのような機会をいただき、お礼を申し上げます」
不合理かつ不利益な点の多いイライセンの申し出をやんわりと断るための方便であるのは明白だが、完全に突っぱねられるよりはマシな落とし所ゆえ、この場はこれで引き下がるしかなかった。
承認ありきの変更案であるより、変更案を検討しての承認である方が、組織としての筋道が立っている。また、既存の作戦案に代わる新たな作戦案が無ければ、実際にヅガートらに指示を出すことも、現場サイドを納得させる根拠も示せない。
新参であるイライセンがどう喚こうが、ネドイルはそれをいくらでも無視できるのだ。それを思えば、チャンスらしきものをもらえただけでも、破格の待遇と言うべきであろう。
実現の芽が乏しいチャンスであったとしても。